05
「――――え!? ウォルター様はその申し出を受け入れたの!?」
「え、うん。詳しく話を聞きたいって言ってたけど」
「そんな……」
特に口止めもされていなかったので、市場へ向かいながらさっきの会話をメモリアに伝えたのだが、それを聞いたメモリアはショックを受けているようだ。
「何かまずいの? せっかく支援するって言ってくれてるんだし、ありがたく助けてもらえば良いんじゃ……」
「いえ、そんな単純な話じゃなくて……それは、フィードゥキアさんのお屋敷を出て、フィルマ商会さんのお世話になる、という話なの……」
「え!? そうなの!? それってまずいんじゃ……って言うか、まずいよね!?」
「……お二人とウォルター様がどういう契約を結んでいるのか聞かされていないけど、この話はお二人に伝えないようにしようね……きっと、取り越し苦労だと思うし……」
「……メモリアはウォルターさんを信じてるの?」
「当たり前です! ウォルター様はそんな不義理な事をする方じゃないもの!」
思わず声を上げたメモリアに、イオリが驚き一歩距離を取った。
「ご、ごめんなさい……! イオリくんが悪い訳じゃないのに……」
「……メモリアはウォルターさんの事をとても大切に想ってるんだね。僕がこっちの世界に連れて来られてから、まだ大した時間が経ってないけど……それくらいはわかるよ」
「ウォルター様は私の全てなの……信じなきゃいけないのに、ウォルター様が何を考えてるのかわからなくて……今日だって、初めて外出されたと思ったらこんな事になって……」
「初めて、って……今までウォルターさんは外出してなかったって事? 冗談だよね?」
しかしメモリアは力なく首を振った。
「ううん、ここに居を移してから今日まで、ウォルター様は頑なに外出を避けられていたの。それどころか、ご自身がフィードゥキアさんのお屋敷に身を寄せている事すら、外部に漏れないように注意されてた……なのに、昨日はお客様の前に突然姿を現すし、今日は大手の商会のお誘いを受けてしまうし……でも、私には何も言って下さらない……」
伏せた桜色の瞳からは今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。
しかし伊織は慌てず、メモリアの手をとり優しく握りしめた。
「大丈夫だよ。ウォルターさんもメモリアの事を大切に想ってるから」
「でも……でも、ウォルター様は私がいなくなっても構わないと仰ってたし……」
昨日の展示会の後の一件と、先程の馬車での一件だ。
「あ、あれは……! う、うん、あれはウォルターさんなりの愛情表現だよ、きっと!」
あの言葉に突き放すような物を感じたのは伊織も同じだったが、それに頷くのは不味い。
「ほら、夜に検診してるけど、あの時のウォルターさんって凄く優しい目をしてるんだよ? メモリアの事が大事じゃなかったら、あんな目は出来ないよ! うん!」
「検診、って? もしかして、夜のメンテナンスの事? あれは、ホムンクルスの機能を維持する為のものなので、別にそういった意味合いは……」
「そんな事ないよ。だって、やってる事が人間相手の検診と同じだったもの。少なくとも、フラスコに入れられて無理やり撹拌されたりしないでしょ?」
「え、それはもちろん、そうなのだけど……」
実際にされる事を想像したのか、メモリアが表情を曇らせ顔色を白くした。実は伊織はそれを毎晩されているのだが、ややこしくなりそうなのでそれは伏せておく。
「あの時のウォルターさんは――――……うん、そうだね。僕が身体を悪くした時に診てくれた父さんと同じ顔をしてたんだ。だから、メモリアも大事にされてるんだと僕は思うよ」
「イオリくん……」
少し驚いた表情だったが、伊織の言葉を飲みこむように、胸に手をあて頷いた。
「うん……イオリくんがそう言うなら……私も信じる」
「あはは……そんなに大した事は言ってないけどね」
「……ううん、そんな事ない……ありがとう、イオリくん。本当は、今までずっと『友達』に憧れていたんだけど……やっぱり、相談できる人がいるのは……すごく温かいね」
「仕事で役に立つのは正直ちょっと難しいかもだけど……愚痴ぐらいなら聞いてあげられるから……メモリアはそういうのを口にできる人がいなさそうだし、あまり溜めこまずに吐き出した方が良いと思うよ。僕で良かったら何でも聞くから」
「うん……ありがとう」
伊織の手をぎゅっと握り、メモリアは温もりをかみしめるように頷いた。
「――――思ってたより普通に買えるんだね」
「普通に?」
市場で買い物を終え帰路につく途中、伊織が荷物を抱えながら感想を述べていた。
「うん、ホムンクルスだし何か意地悪されるんじゃないかと不安だったんだけど……でも列の割り込みとかも無かったし、普通に買い物ができたなー、って」
「確かに……地上で生活していた時はそういう事もあったけど、空中都市に来てからはそんな事はなかったよ。だって、空中都市のホムンクルスには主人となる天上人がいる訳だから、ホムンクルスを蔑ろにすれば、それはその主人を侮辱することを意味するの」
伊織が歴史で学んだ、奴隷への差別的対応を心配する必要は無いようだ。ホムンクルスは労働を担わされているが、それは『奴隷』というより主人の『代理人』という扱いなのだろう。
「あ、そうだ……お屋敷に帰る前に少し寄り道しましょう」
「まだ買う物があるの?」
「ふふ、私のお気に入りの場所。イオリくんにだけ特別に教えてあげるね」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、メモリアは軽快な足取りで脇道へと誘った。
メモリアに案内されるまま奥まった路地を抜けると、そこは緑が茂る開けた広場だった。恐らく公園のような施設。しかし木々の手入れが疎かな所を見るに、どうやらこの辺りはあまり人が訪れる場所では無いようだ。
「――うわっ……すっごい……!」
木々を抜けた先に広がっていた光景に伊織が感嘆の声を上げた。
そこには突き抜けるような青空がどこまでも広がり、雲の海が流れるように背後へと過ぎ去っていく。この人気の無い空き地からは空中都市の外周を一望できた。
『空中都市は雲の高さに浮かんでいる』というウォルターの言葉は真実だったのだ。雲の海を切り開き空を行く空中都市は、さながら大空を航海する巨大な船のようだ。
「…………!」
伊織の丸い瞳が大きく広がり、口はぽかんと開いた状態になっている。この身体はウォルターの術により感情がそのまま表情に直結するようになっている。今の伊織は言葉も失う程に目の前の光景に圧倒されているのだ。
「……気に入ってもらえた?」
「――ッ。あ、うん! もちろんだよ!」
本当は聞かなくても答えはわかっているのだが、あえて尋ねたその表情はクスクスと笑い、小悪魔のような茶目っけを感じさせるものだった。
「でも夕方になるともっと凄いんだよ。沈む夕陽が雲をオレンジ色に染めて……空にはまばらに星が輝きだして……」
きっとそれは素晴らしく幻想的な光景なのだろう。少し想像しただけで胸が締め付けられるような興奮を覚える。
「今日はお仕事があるから無理だけど、いつかお仕事がお休みの日にでも……また一緒に来てくれる……?」
「うん! 僕もここからの夕焼けをメモリアと一緒に見てみたい!」
「じゃあ、約束だよ?」
「ああ、約束だ!」
それを聞いたメモリアは、安堵するように微笑んでいた。
――――その日の夜。
「やあ、ちょっと失礼。ウォルンタース殿は戻られているかな?」
珍しくフィードが三階の実験室に顔を出していた。暇を持て余していた伊織が出迎える。
「あ、フィードさん。ウォルターさんはまだ戻っていませんよ」
「そっかー。接待なら仕方ないけど、困ったなぁ……どうしようかな……」
「何か用事だったんですか? よかったら伝言ぐらいなら引き受けますけど」
「うーん、お願いしたい所だけど、仕事の話だからね。ちょっと難しいかな。新規の取引先が出来たから、売却用素材の精製をお願いしたかったんだけど……」
「わあ、凄いじゃないですか! 展示会でホムンクルスを買った人からですか?」
「いや、違うよ? 朝来てたフェルス商会さん。話しを聞いてる内に色々思う所があったみたいでね、ホムンクルスの精製素材の見直しからやり直したいって話になったんだ」
「え、あの人達と取引って……大丈夫なんですか? あんな事されたのに……」
彼らが空けた玄関の大穴はまだ塞がっていない。
「まあ、その辺はグラティアにも言われちゃったんだけどね……どうも商会の若手の天道士に仕事を取られつつあったみたいで……それで焦ってあんな事をしてしまったそうなんだ。彼らとしては、何とかあのアルマトゥラを改良して商会に良い所を見せたいんだろうね」
「はぁ、いわゆる派閥争いってやつですか……こっちの人達も大変なんですね」
「そりゃあね。商会を追い出されて下層行きなんて御免だろうし」
「下層行き? 何なんですか、それ」
「あ、あー……あまり良い話じゃないんだけど……『下層』ってのはメルクリウスの地下都市部分でね、社会から外れてしまった人が身を寄せてるから、色々と問題を起こしてトラブルの種になりがちなんだよ」
「――――なんだ、興味があるなら行ってみるか? さらわれちまうかも知れんがな」
「い、嫌ですよ! そんな危ない所!」
声が漏れていたのか、扉を開けたウォルンタースがそのまま話に加わった。
「やあ、ウォルンタース殿、お待ちしておりました。さっそくで申し訳ないのですが、新規の顧客ができたので素材の精製をお願いできますか?」
「――――ん? ホムンクルスじゃなくて素材の精製で良いのか?」
「はい、実はあの後フェルス商会さんから依頼を受けまして――――」
「――――ほう、あれだけ虚仮にされてまだ諦めないか。技術や知識は三流でも、根性だけは一人前みたいだな……面白い。望み通り、純度の高い素材を精製してやろうじゃないか」
朝方絡まれた事は気にしていないようだ。もっとも、一方的にボコボコにしたのだから当然かもしれない。
「ちょうどホムンクルスを売り切って実験室も空いているしな。それで、相手は何体分必要だと言っているんだ?」
「彼らは『多ければ多いほどありがたい』なんて言ってましたけど……うーん、そうですね……あまり多過ぎても迷惑でしょうし、とりあえず五十体分で。足りないようならその都度追加発注を受け付ける、という事にしましょう」
「よし、良いだろう。その程度であれば明日の朝には用意できる」
「流石はウォルンタース殿! それでは、よろしくお願いします」
話をまとめると、満足そうな笑顔でフィードは去って行った。
「……ウォルターさん、ホムンクルスの材料って何なんですか? 純度がどうとか言ってましたけど」
「ああ、その事か。ホムンクルスに限らず、天道術を行使するにはマテリアルと呼ばれる原料が必要なんだが……そのマテリアルの質の良し悪しを測るのに純度という言葉を使っているんだ。まあ、もう少し詳しく話すと、マテリアルに含まれる『エーテル』の濃度を指して純度と呼んでいるんだがな」
「エーテル……?」
「そう、エーテルだ。この世の万物の根源と考えられているモノでな、加工する事であらゆる物質へと変化し、あらゆる事象を引き起こす事が出来るんだ。まあ、一言で言ってしまえば、天道術の『核』だな」
(エーテル……確か、古い物理学の用語だった筈だけど……この世界では一般的なのか……?)
「逆に言えば、天道術はエーテルを操り、自分の望みを叶える技術って事だ。もう少し砕いて言うなら……『全てはエーテルあってのもの』、だな。どうだ、わかりやすいだろう?」
(つまり、あっちの世界のエーテルとは名前が同じなだけで中身は完全に別物って事か……いや、でもそれくらい無茶なモノがないと、空中都市なんて実現できる訳ないな……)
「ま、とにかくだ。エーテル濃度の高いマテリアルを使えば良質のホムンクルスを精製できるって訳だ。だからそういった素材を精製できれば金になるんだよ」
自分達で用意せずにわざわざフィードに頼んだという事は、純度の高い素材の精製には専門的な技術が必要なのだろう。
「――――お帰りなさいませ、ウォルター様!」
突然メモリアが部屋に飛び込んできた。
ウォルターの戻りに気付いて急いで駆けてきたのだろう。微かに息を切らしている。慌てたせいか寝間着は乱れ、スカートのスリットからは太ももが露になっている。風呂上がりで上気した肌も相まって、非常に目のやり場に困る姿だ。
「別にそんなに急ぐ必要は――って、お前……風呂の後ちゃんと髪を拭かなかったな。風邪引くからしっかり乾かせっていつも言ってるだろうが、まったく……」
「え、あ……も、申し訳ありません! すぐに乾かしてきま――――」
「今から戻ったら往復する時間が無駄だろうが。ほら、拭いてやるからじっとしてろ」
部屋に置いてあるタオルを取り出すと、メモリアの濡れた髪を拭き始めた。口調こそぶっきらぼうだが、その手付きは優しく、髪が傷まないように注意を払っているように見える。
(……良かったね、メモリア。やっぱりウォルターさんはメモリアが大事なんだよ)
一人頷き、部屋から出るために席を立つ。流石に検診を覗き見するような真似は気が引ける。立ち去ろうとしたその時、メモリアの濡れた髪の隙間から、首筋の赤い『刻印』が目に入った。
(……やっぱりメモリアって……いや、そんな訳ないか。ウォルターさんがメモリアを大切に考えているなら、尚更そんな事をする意味が無いし……)