01
冷房の効いた部屋で少年が机に向かっている。その背中に柔和な声がかけられた。
「伊織、まだ寝ていなかったの? あまり根を詰めては駄目よ」
「うん、もう少しだけ……」
夜も遅く、既に日付は変更している。
「そうね、受験までもう少しだものね……無理をしない範囲で頑張ってね、伊織」
「うん、わかってる……お休み、母さん」
日付は7月末。まだ夏休みに入ったばかりだが、冬の受験までもうあまり時間が無い。
受験生である白石 伊織には、夏休みだからといって浮かれている余裕は無かった。
部屋は締め切っているが、外から虫の音が聞こえてくる。そんなものは勉強の邪魔だと苛立つ者が大半かもしれないが、伊織はむしろ親近感のようなものを覚えていた。
昼に大音量で鳴く蝉も、夜に静かに鳴くこの虫も、共感こそすれど不快とは感じない。子孫を残すために相手を求めて鳴く彼らと、家族の期待に応えようと努力する自分。何も変わりはしない。
――――白石家は医者の家系だ。だから、伊織。お前も将来は医者になるんだぞ。
両親や祖父母から事あるごとにそう言われていた。尊敬する父や母の言葉に従い、その期待に応えたいと思う。しかし問題は自分がそこまで優秀ではない事だ。
教科書の内容は理解できる。暗記もそれなりに得意な方だ。だが、そこから新しい発想をする事がどうしようもなく苦手だった。
なので基本問題は楽に解けるのだが、応用問題になると途端に理解が追いつかなくなる。この弱点を夏休みの間にどうにかして克服しなければならない。そのためには睡眠時間など必要ない。今はひたすら問題を解き続けなくてはいけないのだ。
机に向かい問題に集中する伊織は気付かなかった。自分のすぐ背後に、立体の魔法陣のような球体が浮かび上がっている事に――――
鬱蒼と茂った密林の中、一人の少女が草木をかき分け歩を進める。
少女はゆったりとした修道士が着るようなローブに身を包んでいる。真紅の生地に金糸が編み込まれたそれは、非常に上等な物に見える。耳を隠す長さの髪も、苛烈な印象の鋭い瞳も、等しく真紅の色合いを帯びている。容貌は少し幼さが残るが、その立ち居振る舞いに隙は無い。
日の光を遮るほどに緑が茂っているというのに他に生き物の気配は無く、周囲は少女が立てる物音以外は静まり返っている。何かを察知したのか、草木をかき分ける手が止まった。
音も無く人間ほどの大きさの蜘蛛が樹上を伝い、少女に跳びかかった。
常識で考えれば有り得ない大きさだが、巨大な蜘蛛を目にしても少女は眉一つ動かさない。
「……二六」
ぽつりと呟くのと同時に巨大蜘蛛が炎に包まれた。激しく燃え上がるが、炎は延焼せず蜘蛛だけを精確に焼き尽くしていく。
頭上で蜘蛛が燃え上がった瞬間、少女の両側からも巨大蜘蛛が襲いかかった。
「……二七……二八」
だがその二匹の蜘蛛も少女に近付く事は出来なかった。ゆったりとしたローブの袖が膨らみ、そこから伸びた水の槍が蜘蛛を串刺し内側からバラバラにしていた。
「……二九……三〇……よし、これで演習は終了だ」
視界の先に微かに映る、木々の隙間に潜んでいた二匹の蜘蛛が燃え上がった。周囲に広がらず、特定の対象だけを焼くこの炎は自然のものではありえない。
小さく息を吐くと額の汗を拭い、少女は木々の隙間から覗く塔を見上げる。
そして、塔からは二人の男が少女の戦闘を見届けていた。
「さすがはイグニスレオの御令嬢、君の妹君といった所か。魔眼の力も見事に制御しているようだ。三〇体の戦闘用ホムンクルスを相手取り、まるで問題にしていない」
金髪碧眼だが褐色の肌をした長身の青年。ラフな服装からは活動的な印象を受ける。
「ああ、ご覧の通り、仕上げは万全だよ。後は……あの男の居場所を突き止めるだけだ」
こちらは仕立ての良いシャツを着た青年。少女と同じ、真紅の髪と瞳をしている。
「ミネルヴァ=ウォルンタース=ニゲルセプス……追放された五芒天道士。ああ、早く会いたいぜ……」
褐色の肌の青年が口元を歪ませゴキリと拳を鳴らす。真紅の髪の青年は、それを苦笑まじりだが頼もしそうに見ている。
「あの男なら、君が相手でも不足は無いだろうね……なに、遠慮はいらない。十年前に奪われた至宝さえ取り戻せたなら、後は君の好きにしてくれて構わないよ」
言葉遣いこそ丁寧だが、真紅の髪の青年の瞳はここにはいない誰かへの敵意に満ちていた。
彼らが見下ろす密林は塔の周囲数キロ程度に展開され、その外側には広大な都市が広がっている。不可思議なのは、都市は円形になっており、その縁には雲がかかっている事だ。そして、雲の隙間からはミニチュアのような山々が見え隠れしている。
そう、それこそまるで。
この都市が遥か上空を浮遊しているかの如く――――