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大日本帝国は勝利した。だが、玉座の奥にいるものには誰も逆らえない

作者: キサイ
掲載日:2026/06/25

『玉座の奥』


ジャンル


架空戦記 / ディストピア / 歴史IF / 政治サスペンス


コンセプト


太平洋戦争の最中、日本は“無敵の存在”を手にしてアメリカと中国を崩壊させ、世界帝国となる。

だが本当に世界を支配しているのは、天皇でも軍部でもなく、玉座の奥に座る気まぐれな終末存在だった――。

# 玉座の奥


## 一 勝利の玉音


昭和十七年六月二十日、正午。


東京の空は、奇妙なほど晴れていた。


人々はラジオの前に集まっていた。家々の茶の間、工場の片隅、駅の待合所、学校の講堂、病院の廊下。誰もが息を潜めていた。


やがて、雑音の向こうから、低く静かな声が流れた。


「朕は、帝国臣民に告ぐ。皇軍は、米国本土に対する大攻勢を完遂し、敵国の戦争継続能力を完全に喪失せしめたり」


一瞬、誰も動かなかった。


次の瞬間、街が爆発した。


「勝ったぞ!」


「アメリカに勝った!」


「皇軍万歳!」


男たちは万歳を叫び、女たちは泣き崩れ、子どもたちは意味も分からず飛び跳ねた。号外が撒かれ、鐘が鳴り、酒瓶が開けられた。


新聞の見出しは、どれも同じだった。


皇軍、米本土制圧。


米国、抗戦不能。


大日本帝国、未曾有の大勝利。


国民は信じた。


天皇陛下が、直々にそう告げたのだ。信じない理由などなかった。


放送映像には、昭和天皇の後方で、大本営の軍首脳たちが直立し、厳粛に敬礼する姿が映っていた。東條英機、山本五十六、参謀本部の高官たち。誰一人として口を開かず、ただ天皇の言葉を支えるように立っていた。


その姿は、国民にとって国家そのものだった。


天皇が語り、軍が敬礼する。


ならば、それは真実だった。


だが、その映像の中で敬礼していた者たちは、誰一人として勝者の顔をしていなかった。


山本五十六の額には、冷たい汗が浮かんでいた。


東條英機の指先は、わずかに震えていた。


昭和天皇は、原稿から目を離さず、淡々と勝利を告げていた。


彼らは知っていた。


ロサンゼルスに皇軍は上陸していない。


ワシントンを占領した歩兵部隊もいない。


ニューヨークに日の丸を立てた兵士もいない。


アメリカは制圧されたのではない。


消えたのだ。


都市も、軍港も、飛行場も、政府も、兵士も、民も、毛一本残らず消えた。


ただし、その事実を知る者は少ない。


そして知った者は、二度と口を開けなかった。


天皇の放送が終わると、東京は祝祭に包まれた。


だが、宮城の奥だけは静かだった。


そこでは、誰も万歳を叫ばなかった。


昭和天皇は放送を終え、深い廊下を進んだ。側近たちが無言で付き従う。灯りは落とされ、足音だけが冷たく響いた。


やがて、一行は宮城のさらに奥、公式には存在しない部屋の前に立った。


扉が開く。


そこには玉座があった。


だが、その玉座は天皇のためのものではなかった。


奥に、何かがいた。


姿ははっきり見えない。人の形をしているようでもあり、していないようでもある。だが、その場に立つ者すべてが、そこに「いる」とだけは分かった。


圧倒的な存在感。


息をすることさえ許可が必要に思えるほどの重圧。


天皇は、深く頭を垂れた。


「ご報告申し上げます。米国に対する勝利宣言を、ただいま終えました」


奥から声がした。


若いようでもあり、老いているようでもあり、男とも女ともつかない声だった。


「そう」


それだけだった。


世界最大級の国家を二日で消した存在は、退屈そうに答えただけだった。


天皇は続けた。


「今後の方針は、いかがいたしましょう」


沈黙。


長い沈黙だった。


東條は息を殺した。山本は目を伏せた。誰も動かなかった。


やがて、奥の存在は気怠げに言った。


「そうだな。まあ、いい感じにやっといて」


その言葉を聞いた瞬間、その場の全員が、勝利の重さを知った。


命令は曖昧だった。


だが、失敗は許されなかった。


## 二 大陸の空白


米国崩壊の半年前。


太平洋戦争が始まった日、中国戦線もまた、終わった。


公式にはそう記録された。


大陸方面において、皇軍は敵抵抗勢力を撃滅。長年にわたる支那事変は、皇軍の猛攻により終結せり。


国民は歓喜した。


泥沼だった戦争が終わった。中国の抗戦能力は砕かれた。東亜の秩序は回復された。


だが、軍内部では別の言葉が使われていた。


大陸の空白。


ある日を境に、中国戦線の一部が地図から消えた。


敵軍だけではない。


日本軍も消えた。


師団も、連隊も、補給部隊も、通信班も、軍医も、炊事兵も、馬も、車両も、砲も、旗も、遺骨も、血痕も、何も残らなかった。


ただ、そこに戦線があったという記録だけが残った。


報告を受けた参謀たちは、最初は敵の新兵器を疑った。だが、そんなものではなかった。


爆撃跡がない。


瓦礫がない。


焼け跡がない。


死体がない。


ただ更地だった。


まるで、地上にあったすべての存在が、世界から削り取られたかのようだった。


その報告書は、即座に回収された。


生き残った通信兵の一人は、軍法会議にかけられる前に失踪した。


いや、失踪ではない。


消えた。


彼の部屋には服も日記も残っていた。ただ本人だけが、最初からいなかったかのように消えていた。


その日以降、大陸の空白について語る者はいなくなった。


だが、軍上層部は理解していた。


あれは敵を倒したのではない。


味方を守ったのでもない。


玉座の奥の存在が、ただ面倒だから消したのだ。


敵と味方を選別することすら、面倒だったのだ。


中国軍も日本軍も、そいつにとっては同じだった。


蟻。


それだけだった。


この時、山本五十六は初めて悟った。


あれは日本の味方ではない。


日本という看板を使っているだけだ。


そして、日本兵を守る気など、少しもない。


## 三 半年の勝利


太平洋戦争の開戦直後、日本軍は勢いに乗った。


真珠湾、マレー、フィリピン、蘭印。各地から勝報が届いた。新聞は連日、皇軍の快進撃を報じた。


国民は熱狂した。


「やはり皇軍は強い」


「米英など恐るるに足らず」


「神国日本の力だ」


軍部もまた、勝利に酔った。


だが、玉座の奥の存在は、ただ眺めていた。


最初は興味もなかった。


人間が海の上で船を動かし、空に鉄の鳥を飛ばし、島や港を奪い合っている。それは彼にとって、蟻が砂場で巣を広げているのと大差なかった。


だが、半年が過ぎても、日本軍はアメリカ本土に届かなかった。


届くはずがなかった。


燃料、兵站、輸送船、制海権、制空権。人間の戦争には、人間なりの限界があった。


しかし、玉座の奥の存在にとって、そんな事情は関係なかった。


ある夜、昭和天皇は奥の間に呼ばれた。


「まだ?」


声は不機嫌だった。


天皇は深く頭を垂れた。


「恐れながら、米本土への直接攻撃は、軍事上の準備を要し——」


「遠いから?」


「は」


「船が足りないから?」


天皇は答えなかった。


「外側で勝って喜んでるだけか」


声に温度はなかった。


だが、その場の空気が凍った。


「本丸を潰さないと、終わらないだろ」


誰も何も言えなかった。


東條は背筋に汗が流れるのを感じた。山本は、ついに来たかと思った。


奥の存在は、退屈そうに立ち上がった。


「もういい。俺がやる」


その二日後、アメリカ合衆国は崩壊した。


ハワイから先の海が、壁になった。


それは津波ではなかった。


津波というには、あまりにも意思があった。


海が持ち上がり、道になり、刃になり、盾になった。その中心を何かが進んだ。


米艦隊は迎撃を試みた。


砲弾は届く前に消えた。


魚雷は水ごと従えられた。


航空機は近づいた瞬間に消えた。


爆弾も、炎も、鉄も、音も、すべてが無意味だった。


ハワイは沈黙した。


次に西海岸が消えた。


ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル。


軍港も、工場も、住宅街も、人も、記録も、肉体も、毛一本残らなかった。


ただし、記憶は残った。


沖合の船から見ていた者たちは覚えていた。


そこに都市があったこと。


そこに人がいたこと。


そして次の瞬間、何もなくなったこと。


ワシントンが消えた時、米政府は終わった。


ニューヨークが消えた時、国家としてのアメリカは死んだ。


そのすべてに、二日もかからなかった。


日本軍は、その後から「制圧した」ことになった。


新聞にはこう載った。


皇軍、米本土に猛攻。敵中枢を完全破壊。


ワシントン陥落。ニューヨーク壊滅。


米国、抗戦能力を喪失。


写真は少なかった。


公開された写真には、更地しか写っていなかった。


説明文にはこうあった。


皇軍の猛攻により破壊された敵軍施設跡。


国民は信じた。


天皇が言ったから。


軍が敬礼していたから。


アメリカが実際に沈黙したから。


世界各国が日本に頭を下げ始めたから。


だが、真実を知る者たちは、勝利の宴に加われなかった。


彼らは知っていた。


日本軍はアメリカに勝ったのではない。


日本は、終末に選ばれただけだった。


## 四 帝国の完成


アメリカが消えた後、世界は変わった。


英国は講和を求めた。


ソ連は沈黙した。


欧州の国々は、次々に日本への承認を表明した。


アジアの諸地域では、抵抗の声が一度は上がった。だが、その声はすぐに小さくなった。


理由は単純だった。


反乱軍が、消えたからだ。


最初の例は、旧中国大陸の一地方だった。


帝国の新行政に反発した武装勢力が山岳地帯に集まり、独立を宣言した。周辺住民の一部も協力した。彼らは日本の支配に抵抗するつもりだった。


その報告を聞いた東條は、顔を青ざめさせた。


反乱の規模そのものは、軍で鎮圧できる程度だった。だが、問題はそこではなかった。


玉座の奥の存在が、それを「うるさい」と感じるかどうか。


東條は即座に討伐命令を出そうとした。


しかし、それより早かった。


翌朝、その山岳地帯は空白になっていた。


反乱軍の拠点も、武器も、旗も、寝泊まりしていた村も、支援者も、全て消えた。


ただ、周囲の村は残っていた。


従っていた者は残り、逆らった者は消えた。


それは民衆にとって、あまりにも分かりやすかった。


彼らは言った。


「天罰だ」


帝国政府は否定しなかった。


新聞はこう書いた。


反乱勢力、天威により壊滅。忠良なる民は平穏を保つ。


それ以降、反乱は減った。


いや、反乱そのものは消えなかった。


不満はあった。


怒りもあった。


憎しみもあった。


だが、それが組織される前に消えた。


集会が開かれた町が消えた。


密談をしていた屋敷が消えた。


国外から支援を受けた組織は、支援元の港ごと消えた。


やがて、人々は学んだ。


不満を持つだけなら生きられる。


だが、不満を形にすれば消える。


そして消えた者たちは、世界から忘れられるわけではなかった。


残された者たちは覚えていた。


「あの人たちはいた」


「あの町はあった」


「あの軍は存在した」


「だが、逆らったから消えた」


恐怖は、やがて信仰になった。


帝国の各地に、奇妙な祈りが広がった。


天皇陛下への忠誠。


皇軍への感謝。


そして、そのさらに奥にいる何かへの畏れ。


公式には、そんな存在はいなかった。


帝国政府は言った。


「全ては天皇陛下の御稜威である」


だが、民間ではささやかれた。


天皇の背後に、真の神がいる。


玉座の奥に、世界を消す者が座っている。


逆らう者は消える。


従う者は残る。


ならば、それは裁きの神ではないか。


そう考える者が増えていった。


## 五 勝者の檻


日本本土は、栄えた。


アメリカが消え、中国戦線が終わり、海上交通は帝国のものとなった。物資は流れ、軍需景気は続き、東京は世界帝国の中心として膨れ上がった。


国民は勝者だった。


植民地よりは遥かに扱いがよかった。


食料も、仕事も、教育も、地位も、他国より優先された。


だが、自由ではなかった。


誰もが口に出してはいけないことを知っていた。


アメリカ本土制圧は、本当に皇軍の猛攻だったのか。


中国戦線で消えた日本兵たちは、なぜ遺骨も戻らないのか。


反乱軍が消える時、なぜ瓦礫すら残らないのか。


天皇陛下の背後には、何がいるのか。


そうした疑問は、家庭の中でさえ語られなくなった。


子どもが不用意に口にすれば、親は慌てて黙らせた。


「そんなことを言ってはいけない」


「誰が聞いているか分からない」


「消されるぞ」


消される。


それは比喩ではなかった。


ある大学で、若い教授が講義中に疑問を口にした。


「米本土制圧作戦には、兵站上の説明が不足している」


その夜、教授は研究室ごと消えた。


翌日の新聞には何も載らなかった。


大学は沈黙した。


学生たちは、教授の名前を覚えていた。


だが、誰も語らなかった。


勝った国の国民は、敗者よりは豊かだった。


だが、誰もが薄々分かっていた。


自分たちは自由な勝者ではない。


玉座の奥の存在に、たまたま見逃されているだけだ。


出世は名誉であり、同時に呪いだった。


官僚は怯えながら統治した。


軍人は英雄として称えられながら、内心では震えていた。


政治家は「いい感じにやっといて」という曖昧な命令に人生を削った。


天皇は、最も高い場所にいた。


そして最も危険な場所にいた。


## 六 侍従、奥へ


宮中侍従局に勤める桐生直樹は、勝利宣言の日からずっと違和感を抱えていた。


彼はまだ若かった。


戦勝に沸く国民の姿を見れば、胸が熱くなることもあった。日本が勝った。世界が変わった。自分はその中心で働いている。


だが、宮中の空気は違った。


勝者の宮殿ではなかった。


まるで、巨大な獣の寝息を邪魔しないように、全員が息を殺しているようだった。


ある夜、桐生は上司に呼ばれた。


「今夜、お前は奥へ同行する」


「奥、でございますか」


上司は答えなかった。


ただ、顔が白かった。


深夜、桐生は初めてその廊下を歩いた。


宮城の奥。


さらに奥。


公式には存在しない場所。


廊下は長かった。灯りは少なく、窓もなかった。歩くたび、自分が地上から遠ざかっていくように感じた。


やがて扉の前に着いた。


中から声がした。


「入れ」


桐生の足が震えた。


扉が開いた。


部屋の奥には、玉座があった。


そこに、何かがいた。


桐生は最初、人間だと思った。


だが違った。


人の形をしているようで、形が定まらない。顔があるようで、目を合わせることができない。そこにいるだけで、桐生の中の何かが膝を折った。


天皇が頭を下げていた。


昭和天皇が。


世界の頂点として国民に崇められる存在が、その何かの前で頭を下げていた。


桐生は理解した。


噂は本当だった。


天皇の背後には、本当に何かがいた。


奥の存在は、天皇に言った。


「最近、うるさいのが増えたな」


天皇は静かに答えた。


「一部属領において、不穏な動きがございます。政府にて対処を進めております」


「遅い」


その一言で、部屋の温度が下がった。


東條の顔が強張った。


「申し訳ございません。ただちに——」


「別にいい」


奥の存在は、退屈そうに言った。


「面倒だから、今消した」


桐生は意味が分からなかった。


だが、数分後、通信が入った。


南方のある港町が消えた。


反乱勢力が潜んでいたとされる地区だけではない。支援者、倉庫、集会所、その周辺の住民も含めて、痕跡なく消えた。


奥の存在は、桐生の方を見た。


見られた、と桐生は感じた。


「お前、誰」


桐生は声が出なかった。


上司が慌てて答えた。


「侍従局の者にございます。今後、記録補佐を——」


「ふうん」


興味はすぐに失われた。


桐生は、その時はっきりと分かった。


この存在にとって、自分は人間ではない。


名前も、地位も、感情も、人生も、意味がない。


ただ、そこにいる小さな虫だった。


## 七 亡国の記者


アメリカ人記者、エドワード・ヘイルはロンドンにいたため生き残った。


祖国が消えた日の朝、彼は英国外務省の廊下で報告を聞いた。


「ワシントンとの通信が途絶えました」


「ニューヨークもです」


「西海岸の主要都市が確認不能です」


最初、誰も信じなかった。


だが、数日後には疑いようがなかった。


アメリカは消えていた。


占領されたのではない。


降伏したのでもない。


消えたのだ。


ヘイルは日本の公式発表を読んだ。


皇軍の猛攻により米本土制圧。


彼は新聞を破り捨てた。


嘘だ。


そんな軍事作戦は存在しない。


いかなる猛攻であっても、都市が瓦礫も残さず消えることはない。


遺体も、鉄骨も、書類も、墓も、写真も、すべてが消えるなどあり得ない。


彼は真実を追い始めた。


だが、誰も話さなかった。


亡命者は泣くだけだった。


中立国の外交官は目を逸らした。


日本に近い者は沈黙した。


ただ一人、かつて大陸に派遣されていた日本兵の元通訳が、震えながら語った。


「大陸でも同じことがあった」


「同じ?」


「敵も味方も消えた。何も残らなかった。皇軍の勝利と発表されたが、違う。あれは……」


通訳はそれ以上言えなかった。


その夜、彼は消えた。


ロンドンの下宿の一室ごと、消えた。


ヘイルは初めて恐怖した。


日本の支配は、海の向こうだけの話ではなかった。


それは、世界のどこにでも届く。


そして、反抗する意思そのものを、障害として消す。


ヘイルはなおも書いた。


「日本の勝利は軍事的勝利ではない。天皇の背後に、人類の理解を超えた存在がいる」


その原稿は、印刷されなかった。


印刷所が消えたからだ。


## 八 神罰の国


十年が過ぎた。


世界は平和だった。


国家間の大規模戦争はなくなった。


国境紛争は起きる前に止められた。


内戦は組織される前に潰された。


革命は広がる前に消えた。


人々は言った。


「帝国の秩序のおかげだ」


「天皇陛下の御稜威だ」


「玉座の奥の御方が、世界を見守っている」


帝国政府は、玉座の奥の存在を公式には認めなかった。


だが、完全には否定しなくなった。


地方では、小さな祠が建てられるようになった。


名はなかった。


ただ「奥の御方」「裁きの主」「海を従える神」と呼ばれた。


反乱軍が消えた跡地には、参拝者が現れた。


何もない更地に、人々は花を置いた。


恐怖のためか。


崇拝のためか。


それは、もう誰にも区別できなかった。


日本国内でも、信仰は広がっていた。


天皇を崇める者。


皇軍を誇る者。


そして、天皇のさらに奥にいる存在を密かに拝む者。


帝国はそれを危険視した。


天皇の権威が揺らぐからだ。


だが、弾圧しすぎることもできなかった。


もしその信仰を弾圧したことを、玉座の奥の存在が「うるさい」と感じたらどうなるか。


誰にも分からなかった。


だから帝国は曖昧にした。


天皇の御稜威。


神国の奇跡。


世界秩序を守る不可視の力。


言葉をぼかし、意味を混ぜ、真実を霧の中に置いた。


その霧の中で、信仰は育った。


## 九 天皇の疲労


昭和天皇は老いていた。


世界皇帝としての権威は絶大だった。


各国の代表は東京に集まり、頭を下げた。帝国の旗は世界各地に掲げられ、学校では米国崩壊と大陸平定が皇軍の偉業として教えられた。


だが、天皇は知っていた。


それは虚構だった。


自分は世界の支配者ではない。


ただ、玉座の奥の存在に選ばれた看板だった。


ある夜、天皇は一人で奥の間に向かった。


老いた足取りは静かだった。


「今後の方針は、いかがいたしましょう」


何十年も繰り返してきた言葉だった。


奥の存在は、いつものように気怠げだった。


「特にない」


「属領において、信仰集団の拡大が問題となっております」


「俺の?」


「はい。陛下ではなく、あなた様を直接崇拝する者たちが増えております」


「どうでもいい」


「帝国秩序に影響が出る恐れがございます」


「じゃあ、いい感じにしといて」


天皇は沈黙した。


それが最も難しい命令だった。


奥の存在は、ふと思い出したように言った。


「失敗したら変えるから」


天皇の背筋に冷たいものが走った。


「私を、でございますか」


「うん。看板は別でもいいし」


軽い言葉だった。


天皇という存在の重みも、歴史も、血統も、信仰も、その声には何の意味も持たなかった。


使えれば残す。


使えなければ変える。


それだけだった。


天皇は深く頭を下げた。


「御意」


その夜、天皇は初めて、自分が日本で最も危険な人間であると心の底からわかった。


## 十 蜂起


事件は、帝国成立から十五年目に起きた。


発端は、旧欧州の一都市だった。


帝国統治に不満を持つ若者たちが、地下組織を作った。彼らは玉座の奥の存在を信じていなかった。


「消滅は帝国の新兵器だ」


「神などいない」


「恐怖で人類を縛る帝国を倒す」


彼らは国外の亡命者たちとつながり、武器を集め、放送局を占拠した。


そして、世界へ向けて声明を出した。


「天皇の背後に神などいない。帝国の支配は虚構である。人類は恐怖から解放されねばならない」


その声明は、わずか七分だけ流れた。


東京の大本営は混乱した。


東條はすでに老いていたが、まだ権力の中枢にいた。


「すぐに鎮圧しろ!」


だが、軍が動くより早く、奥の間に呼び出しがかかった。


天皇、東條、山本、桐生。


桐生は今や侍従長となっていた。若かった彼の髪にも白いものが混じっていた。


奥の存在は、不機嫌だった。


「うるさい」


それだけで、全員が凍りついた。


天皇が頭を下げる。


「直ちに対処いたします」


「もういい」


奥の存在は、玉座から立ち上がった。


「最近、多いな。面倒だ」


桐生は息を呑んだ。


立ち上がる。


それは、アメリカが消えた時以来のことだった。


東條が震える声で言った。


「恐れながら、該当地域のみの処置を——」


奥の存在は東條を見た。


その瞬間、東條の右腕が消えた。


血は出なかった。


痛みを叫ぶ間もなかった。


腕が、最初から存在しなかったように消えていた。


東條は床に崩れた。


「うるさい」


奥の存在は、そう言った。


天皇は顔を上げなかった。


山本は目を閉じた。


桐生は、その時初めて怒りを覚えた。


恐怖ではなかった。


怒りだった。


この存在は、世界を支配しているのに、世界に興味がない。


人を殺しているのに、殺したという意識もない。


日本を勝たせたのではない。


人類を平和にしたのでもない。


ただ、自分の周囲を静かにしたいだけなのだ。


奥の存在は言った。


「大きめに消すか」


その一言で、欧州の一都市が消えた。


反乱組織だけではない。


都市ごと消えた。


そこにいた帝国派も、反帝国派も、子どもも、病人も、祈っていた者も、全て消えた。


世界は沈黙した。


そして、その沈黙の中で、信仰はさらに深まった。


「神罰だ」


「逆らった都市が消えた」


「従う者は守られる」


だが、桐生は知っていた。


違う。


守られてなどいない。


たまたま消されなかっただけだ。


## 十一 天皇崩御


数年後、昭和天皇が崩御した。


公式には病死だった。


実際にも、病死だった。


玉座の奥の存在は、天皇の死に特に興味を示さなかった。


「じゃあ、次」


それだけだった。


皇位継承は、形式通りに行われた。


だが、宮中の者たちは知っていた。


形式など意味がない。


玉座の奥の存在が「次」と認めたから、次の天皇が成立したのだ。


不満は起きなかった。


起きる前に、皆が黙った。


新天皇は即位の日、奥の間に入った。


若い天皇は、深く頭を下げた。


「今後の方針は、いかがいたしましょう」


奥の存在は、いつものように答えた。


「まあ、いい感じに」


桐生は、その場にいた。


彼は老いていた。


何十年も、同じ言葉を聞き続けてきた。


いい感じに。


その曖昧な言葉のために、どれだけの人が消えたのか。


どれだけの国が沈黙したのか。


どれだけの歴史が塗り替えられたのか。


彼はもう、黙っていることに耐えられなかった。


## 十二 玉座の前で


その日、桐生は一冊の記録を持って奥の間に入った。


それは、彼が生涯をかけて集めた真実だった。


大陸の空白。


米国消滅。


反乱都市の消滅。


消えた教授。


消えた記者。


消えた兵士。


消えた子ども。


公式史に載らない全て。


新天皇と軍首脳たちが奥の間にそろっていた。


桐生は一歩前に出た。


周囲がざわめいた。


「桐生、下がれ」


上官が低く言った。


だが、桐生は下がらなかった。


玉座の奥の存在が、彼を見た。


「何」


桐生は震えていた。


それでも言った。


「あなたは、神ではありません」


空気が止まった。


誰も息をしなかった。


桐生は続けた。


「あなたは帝国を勝たせたのではない。世界を救ったのでもない。ただ、面倒なものを消してきただけです」


軍人の一人が叫んだ。


「不敬だ!」


その軍人の口が消えた。


声は途切れた。


奥の存在は退屈そうに言った。


「続けて」


桐生は理解した。


この存在は怒っていない。


ただ、珍しいものを見ているだけだ。


蟻が奇妙な動きをしているのを眺めている。


それだけだった。


桐生は記録を掲げた。


「世界はあなたを恐れています。恐怖を信仰に変えている。帝国はあなたを利用しているようで、実際にはあなたに支配されている。日本は勝者ではない。人類は平和になったのではない。ただ、怯えて黙っているだけです」


奥の存在は首を傾げた。


「それで?」


その一言に、桐生は詰まった。


それで。


それで、何になるのか。


この存在に倫理を説いても意味がない。


人間の苦しみを訴えても意味がない。


神ではないと言っても、本人は神になりたいわけではない。


帝国の支配者ではないと言っても、本人は政治をしたくないだけだ。


桐生は、その瞬間、絶望した。


この存在は悪意ある暴君ですらなかった。


悪魔でもなかった。


ただ、あまりにも上位の無関心だった。


桐生は小さく笑った。


「……そうか。あなたにとっては、本当にどうでもいいのですね」


「うん」


即答だった。


桐生は涙を流した。


「なら、なぜ日本を選んだのです」


奥の存在は少し考えた。


「近かったから」


それだけだった。


その場にいた全員が、言葉を失った。


日本は神国だったから選ばれたのではない。


天皇が尊かったからではない。


皇軍が強かったからではない。


正義があったからでもない。


近かったから。


それだけだった。


桐生は膝から崩れ落ちた。


帝国の神話が、音もなく壊れた気がした。


だが、壊れたのは桐生の中だけだった。


世界は何も変わらない。


国民は明日も天皇を拝む。


属国は明日も帝国に従う。


反乱は明日も起きず、起きれば消える。


公式史には、皇軍の勝利が刻まれ続ける。


玉座の奥の存在は、退屈そうに座り直した。


「もういい?」


桐生は顔を上げた。


「私を消しますか」


「邪魔なら」


「今は?」


「別に」


桐生は笑った。


消されもしない。


裁かれもしない。


ただ、どうでもいいものとして見逃された。


それが、彼にとって最も残酷だった。


彼は記録を床に置いた。


「なら、残します」


「好きにすれば」


奥の存在は興味を失った。


その日、桐生は処刑されなかった。


消されもしなかった。


ただし、彼の記録は封印された。


帝国最高機密として、宮城の地下に収められた。


桐生はその後、静かに職を退き、誰にも真実を語らずに死んだ。


だが、彼の記録は残った。


いつか、世界が再び声を出せる日が来るのか。


それは誰にも分からなかった。


## 十三 静寂の世界


世界は平和だった。


戦争はなかった。


大規模な反乱もなかった。


国家は秩序を守り、人々は生活し、学校では帝国の偉大な勝利が教えられた。


子どもたちはこう習った。


日本は皇軍の力で中国戦線を終結させた。


日本は皇軍の猛攻でアメリカ本土を制圧した。


天皇陛下の御稜威により、世界は平定された。


それは公式の真実だった。


一方で、夜になると別の話がささやかれた。


玉座の奥には、別の神がいる。


天皇すら頭を下げる存在がいる。


逆らえば消える。


従えば残る。


人々は恐れ、祈り、黙った。


ある者にとって、それは神だった。


ある者にとって、それは悪魔だった。


ある者にとって、それは秩序だった。


ある者にとって、それは世界最大の虚無だった。


玉座の奥の存在は、今日も座っていた。


政治には興味がなかった。


人類にも興味がなかった。


ただ、世界が静かならそれでよかった。


新しい天皇が、玉座の前に頭を下げる。


「今後の方針は、いかがいたしましょう」


奥の存在は、いつものように答えた。


「まあ、いい感じにやっといて」


世界は、その一言で回り続けた。


日本は戦争に勝った。


帝国は世界を支配した。


だが本当は、誰も勝ってなどいなかった。


人類はただ、玉座の奥にいるものの機嫌を損ねないよう、静かに息をしているだけだった。


そしてその静けさを、人々は平和と呼んだ。

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