魔王を倒した翌朝、勇者が坊主で聖剣がモップだった
勇者レオン・アルヴェインは、世界を救った翌朝、己の頭に手を置いた。
なかった。
髪が。
「……」
もう一度、触る。
やはり、なかった。
魔王との死闘でも、最後の禁呪の余波でも守り抜いた勇者の金髪が、王都の高級宿の白い寝台の上で、ひとかけらも残っていなかった。
「……セシル」
レオンは、隣の寝台を見た。
僧侶セシル・ラーフェルトがいた。彼女は片手で顔を覆ったまま座っていた。
その首から下がる聖印は、欠けていた。
勇者の頭髪も大問題だが、僧侶の聖印が欠けるのは本来なら笑い事ではない。
ただ、今のレオンには笑い事ではないものが多すぎた。
「セシル」
「はい」
「俺の髪は」
「ありません」
「なぜ」
「知りたいのは私もです」
声が優しかった。
優しいのに、目が氷のように冷たかった。
レオンは、ゆっくりと布団をめくった。
剣がない。
国王に献上するはずの聖剣がない。
魔王を斬り、世界を夜から引き戻し、今日の正午に王城の大広間で掲げられる予定の剣がない。
代わりに、寝台の横へ一本のモップが立てかけてあった。
柄の先に、雑に布が巻かれている。
「……セシル」
「はい」
「これは」
「モップです」
「聖剣では」
「モップです」
「似ている可能性は」
「ありません」
レオンはモップを持ち上げた。
軽い。
聖剣はもっと重い。
持ち手に吸い付くような、あの感触がない。
これは軽い。
あと、少しくさい。
「魔王を倒した翌朝に、聖剣がモップになることはあるか?」
「普通はありません」
「普通じゃなければ?」
「勇者が坊主になることも普通はありません」
反論できなかった。
レオンは、そっとモップを戻した。
その時、部屋の奥から野太い悲鳴が上がった。
「なんだこの身体ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
レオンとセシルは、同時に振り向いた。
隣室との扉が勢いよく開く。
飛び出してきたのは、見知らぬ美少女だった。
銀色に近い髪。整いすぎた顔。細い肩。白い肌。寝間着の襟元を片手で押さえ、もう片方の手で自分の腰を触っている。
完璧な美少女だった。
ただし、目が血走っていた。
あと声がガルドだった。
「レオン! セシル! 俺が縮んだ!」
戦士ガルド・バーノンだった。
昨日まで身長は扉より少し低い程度だった。肩幅は扉より少し狭い程度だった。大剣を片手で振り回し、魔王軍の重装兵を三人まとめて壁にした男だった。
今は、どう見ても王都の貴族が肖像画に残したがる美少女だった。
「ガルド……なのか?」
「俺以外の誰に見える!」
「いや、誰に見えるかで言えば、かなり高位貴族の令嬢に見える」
「殺すぞ!」
セシルがそっと視線を逸らした。
「ガルドさん、落ち着いてください。まず服を」
「服が合わねぇんだよ! なんだこれ! 腕が細い! 胸がある! 腰が変だ! あと髪が邪魔だ!」
「髪があるだけいいだろ」
レオンが低く言った。
ガルドの動きが止まった。
視線が、レオンの頭に向いた。
・・・・・・・。
・・・・・・・。
ガルドは震えた。
肩が震えた。
口元が歪む。
「ぶっ」
「笑ったな」
「いや、違う」
「今、笑ったな」
「違う。これは、あれだ。衝撃で呼吸が」
「笑ったな」
「はっはっはっはっはっはっは!」
「完全に笑っている!」
ガルドは腹を抱えようとして、自分の細い腹に触り、さらに混乱した。
「待て! 俺の腹筋どこ行った!?」
「俺の髪もどこへ行ったと思う?」
「知らねぇよ! 俺の胸板も柔らかくなった!」
「二人とも」
セシルの声が落ちた。
レオンとガルドは黙った。
僧侶の声は優しい。
優しい時ほど、まずい。
セシルは欠けた聖印を握りしめ、ゆっくりと息を吸った。
「現状を整理します」
「頼む」
「レオンは坊主です」
「そこからか」
「戦士さんは美少女です」
「美少女って言うな!」
「聖剣はありません。あるのはモップです」
「はい」
「魔法使いユージンさんがいません」
レオンの背筋が伸びた。
ガルドの顔から笑いが消えた。
「ユージンが?」
「部屋を見ました。荷物の一部がありません。本人もいません」
「まさか、禁呪の反動か」
レオンは立ち上がろうとして、寝台の脚に足をぶつけた。
痛い。
世界を救った勇者でも、寝起きに寝台へ足をぶつけると普通に痛い。
「くっ……」
「威厳を出す場面で足をぶつけないでください」
「出したかったわけじゃない」
「ユージンさんは昨日、禁呪を使っています」
セシルの声が、少しだけ低くなった。
「反動で倒れている可能性もあります」
レオンは言葉を飲んだ。
《終末反転》。
あれがなければ、世界は昨日で終わっていた。
だから今日、正午に表彰式がある。
そして、その表彰式には聖剣がいる。
「それから」
セシルは、少しだけ言いにくそうにガルドを見た。
「ガルドさんの左手に、指輪があります」
「は?」
ガルドが自分の左手を見た。
薬指。
そこに、赤い石のついた細い指輪がはまっていた。
見た目は美しい。
ただ、光り方が不穏だった。
なんというか、逃がさない感じの光り方だった。
「……なんだこれ」
ガルドが低く言った。
レオンは首を傾げた。
「装飾品では?」
「俺は指輪なんかつけねぇ」
「だが似合っている」
「殺すぞ」
「すまん」
セシルが指輪を覗き込む。
「これ、誓約系ですね」
「誓約?」
「はい。婚約誓約に近いです」
部屋が静かになった。
ガルドの美少女顔が、ゆっくりと引きつった。
「誰と?」
「それは、分かりません」
「外せ」
「無理です」
「外せ!」
「だから無理です」
「力でいけるだろ!」
ガルドは指輪を引っ張った。
抜けない。
さらに引っ張った。
抜けない。
美少女の細い指が赤くなるだけだった。
「ぬおおおおおおお!」
「やめてください。指が取れます」
「指輪を取れって言ってんだ!」
「指を取る話になっています」
レオンは、部屋の隅にある姿見を見た。
坊主の自分が映っていた。
本当に坊主だった。
思っていたより似合っていない。
いや、似合う似合わないの問題ではない。
正午の表彰式では、王都中の前で聖剣を掲げる。
その勇者が、今は坊主で、剣の代わりにモップを持っている。
「……待て」
レオンは額に手を当てた。
手のひらに直接頭皮の感触が返ってきた。
考えたくない。
「昨日、俺たちは魔王を倒した」
「はい」
「魔王城から王都へ帰還した」
「はい」
「国王から、今夜は宿で休めと言われた」
「はい」
「それから?」
セシルが黙った。
ガルドも黙った。
三人の視線が、宙でぶつかった。
何も出てこない。
昨日の夜の記憶が、そこだけ霧がかかったように抜けている。
魔王との最後の戦いは覚えている。
世界が裂けるような黒い光。
ユージンの禁呪。
セシルの祈り。
ガルドの大剣。
レオンの聖剣。
それから、勝利。
王都の歓声。
宿の豪華な夕食。
乾杯。
二杯目。
三杯目。
誰かが「世界救ったんだから今日くらい」と言った。
誰だ。
自分かもしれない。
嫌な汗が出た。
「……まさか」
セシルが言った。
「昨夜、何かしましたね」
「それは見れば分かる」
レオンは坊主頭を押さえた。
「問題は、何をしたかだ」
その時、窓の外から轟音がした。
宿全体が揺れた。
棚の花瓶が落ちそうになり、ガルドが反射的に受け止める。
美少女の身体なのに、動きだけは戦士だった。
「なんだ!?」
「外です!」
三人は窓へ駆け寄った。
王都最高級宿《白銀の鹿亭》には、貴族も泊まる広い中庭がある。
噴水があり、花壇があり、朝食用の白い卓が並ぶ、上品な空間だ。
そこに、ドラゴンがいた。
巨大な黒いドラゴンだった。
漆黒の鱗。
金色の目。
馬車くらいなら噛まずに飲めそうな口。
鎖で繋がれてはいるが、その鎖は中庭の太い石柱に巻き付けられている。
石柱には、すでに細いひびが入っていた。
中庭の端では、宿の従業員が全員、壁に張り付いていた。
料理長らしき男が、銀の蓋を盾のように構えている。
ドラゴンは、のそのそと首を下げた。
そして、庭に干してあった白いシーツをくわえた。
むしゃ。
食べた。
次の瞬間、鼻から漏れた火の粉で噴水の水面がじゅっと白く曇った。
「……」
「……」
「……」
ガルドがぽつりと言った。
「あれ、うちのか?」
「うちのドラゴンという概念を俺は受け入れたくない」
「でも鎖に札がついています」
セシルが窓を開け、目を細めた。
鎖の根元に、金色の札がぶら下がっている。
文字が見えた。
落札品。
S級竜種グラニス。
引取済。
レオンは窓枠をつかんだ。
指に力が入りすぎて、木枠がみしりと鳴った。
「落札品……?」
ガルドが震える声で言った。
「誰が」
三人は黙った。
中庭のドラゴンが、ふいに顔を上げた。
金色の目が、窓辺の三人を見た。
そしてガルドを見つけた。
ドラゴンの尻尾が、ぱたん、と揺れた。
犬みたいに。
「……ガルド」
レオンは、ゆっくりと隣を見た。
「お前、懐かれてないか?」
「懐かれてねぇ」
ドラゴンがもう一度、尻尾を揺らした。
ぱたん。
花壇が半分消えた。
「懐かれているように見える」
「見間違いだ」
「ガルドさん」
セシルが静かに言った。
「昨夜、何か契約しました?」
「してねぇ!」
左手の指輪が、きらりと光った。
ガルドは自分の指輪を見た。
ドラゴンを見た。
もう一度、指輪を見た。
「……してねぇよな?」
自信が消えていた。
その時、扉が叩かれた。
三人は同時に跳ねた。
「勇者レオン様」
宿の支配人の声だった。
非常に丁寧で、非常に震えている。
「お目覚めでございましょうか」
レオンは咳払いした。
「起きている」
「王城より、使者の方がお見えです」
「……もうか」
「はい。正午の大表彰式について、最終確認をしたいとのことで」
レオンは窓の外を見た。
ドラゴンがシーツをもう一枚食べていた。
部屋の中を見た。
ガルドが美少女。
セシルの聖印が欠けている。
聖剣はない。
モップはある。
自分は坊主。
「少し待ってくれ」
「どのくらいでしょうか」
「世界をもう一度救うくらいはかかる」
扉の向こうが沈黙した。
セシルがレオンの袖を引いた。
「レオン」
「なんだ」
「使者の方にその返答はよくありません」
「ではどう言えばいい」
「五分ください、と」
「五分で足りると思うか?」
「足りません」
「では」
「でも世界をもう一度救うよりは自然です」
確かにそうだった。
レオンは扉に向かって言った。
「五分待ってくれ!」
支配人は明らかにほっとした声で答えた。
「かしこまりました!」
足音が遠ざかる。
レオンは深く息を吐いた。
その瞬間、セシルは寝台へ戻ると、敷かれていたシーツを一気に引き抜いた。
「レオン、頭を」
「何をする」
「隠します」
「これでか?」
「他に何がありますか」
「モップ」
「余計に悪いです」
セシルは白いシーツを細く折り、レオンの頭に巻いた。
手際が良すぎた。
出血した腕に包帯を巻く時と、ほとんど同じ顔をしている。
「痛い」
「我慢してください」
「強くないか?」
「緩いとずれます」
「俺は負傷者か?」
「社会的には重傷です」
ガルドが笑いかけて、自分の指輪を見て黙った。
セシルは最後に結び目を作り、レオンを正面から見た。
「よし」
「どうだ」
「神聖な浄化中の人に見えます」
「勇者には?」
「少し見えません」
「少しどころか全然見えねぇよ」
ガルドが言った。
レオンは無言でモップを持ち上げた。
ガルドは両手を上げた。
「悪かった」
セシルは欠けた聖印を手の中に隠し、背筋を伸ばした。
旅の間、王侯貴族の前で祈りを捧げてきた時の顔になっていた。
「宿の方には、勇者様は神聖な疲労による浄化中だと説明します」
「神聖な疲労とは何だ」
「今作りました」
「大丈夫なのか」
「坊主で出るよりは大丈夫です」
それはそうだった。
三人は急いで廊下に出た。
レオンは頭にシーツを巻き、ガルドは寝間着の上に外套を羽織り、セシルは欠けた聖印を手で隠していた。
廊下の向こうで、侍女が花瓶を抱えたまま固まった。
視線がレオンの頭の布に行く。
次にガルドに行く。
次にガルドの胸に行く。
最後にレオンの頭の布へ戻る。
「お、おはようございます、勇者様」
「おはよう」
「その、あの、ずいぶん……神聖な」
「浄化中です」
セシルが即答した。
声だけなら、完全に儀式の説明だった。
侍女は何かを理解した顔で頷いた。
絶対に理解していない。
「さ、さようでございましたか」
「王城の使者には、少し待つよう伝えてください」
「かしこまりました」
侍女は深く頭を下げた。
そして、去り際にガルドを二度見した。
「……あの、そちらのお嬢様は」
ガルドのこめかみが跳ねた。
レオンは一歩前に出た。
「親戚だ」
ガルドが小声で唸る。
「どこのだよ」
「遠い親戚だ」
「遠すぎるだろ」
「黙っていろ、令嬢」
「殺すぞ」
「お嬢様は旅の疲れで少々気が立っておられます」
セシルが穏やかに割り込んだ。
侍女は青ざめた笑みを浮かべて、逃げるように廊下を去った。
セシルが額を押さえる。
「今ので噂が一つ増えました」
「坊主よりはましだ」
「比較対象が低すぎます」
ユージンの部屋は、廊下の奥だった。
扉は半開き。
中は妙に整っていた。
本は背の高さ順に並び、インク瓶の蓋まで閉まっている。
逃げた人間の部屋というより、出かける前に机の角度まで直した人間の部屋だった。
机の上には、黒い手袋が片方だけ残っている。
床板には、焦げた円が薄く残っていた。
窓は内側から開けられていた。
そして机の上に、破れた紙が一枚。
レオンが手に取る。
ユージンの字だった。
細く、速く、読みにくい。
文字は途中で破れていた。
『正午までに聖剣を戻せ』
『でないと――全部終わる』
「……」
部屋が静かになった。
外から、ドラゴンのくしゃみが聞こえた。
窓が揺れた。
ガルドが小さく言う。
「全部って、何が全部だ」
セシルが欠けた聖印を握った。
レオンは紙を見つめた。
正午には、国王の前で聖剣を掲げなければならない。
だが聖剣はない。
部屋にあるのは、まだ少し水くさいモップだけだった。
レオンは紙を握った。
「聖剣を探す」
「どこを探すんですか」
セシルが聞く。
レオンは答えようとした。
答えられなかった。
その時、ガルドが床から何かを拾い上げた。
小さな赤い札片だった。
黒いインクで、派手な紋章が押されている。
ガルドは目を細めた。
「なんだこれ」
セシルの顔色が変わった。
「裏カジノの札です」
「裏カジノ?」
レオンの胸が嫌な音を立てた。
さらに、セシルがレオンの上着を見た。
昨夜の服が椅子に掛かっている。
ポケットから、半分破れた紙が覗いていた。
セシルが取り出す。
そこには、質札、と書かれていた。
担保品。
聖剣。
名義。
レオン・アルヴェイン。
三人は、同時にレオンを見た。
レオンは、シーツ巻きの頭で固まった。
ガルドがゆっくり口を開いた。
「お前」
セシルも静かに言った。
「レオン」
レオンは紙を見た。
自分の名前。
聖剣。
質札。
逃げ場はなかった。
世界を救った翌朝。
勇者レオン・アルヴェインは、己の失われた髪よりもずっと重大な事実を知った。
どうやら昨夜の自分は。
世界を救った聖剣を。
自分の名前で。
質に入れていた。




