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旅人  作者: 西中凛呉


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旅人

 スピードを出しすぎると、道が崩れて渓底へ落ちる。

 今朝から鼻水と低気圧頭痛に苦しんでいるので、もう体力の限界だ。

 だが、それ故に私はハイになって山道を猛スピードで飛ばしているのだろう。

 前方に「海女木沈下橋(あまきちんかばし)」という看板が見える。

 すぐに、左手に意外に広い下りのヘアピンカーブが現れた。

 ほっとするが、舗装はされていない。

 大丈夫だろうか。

 高速を降りてから立派な標識に騙されて、ここまでひどい獣道を走ってきたのである。


 いざとなったら

「愛着があって手放せないんですよね。

 燃費は悪いし、メンテナンスにお金はかかるし、いいことないんですけどね」

と見栄を張ろうと思っている、SUVとは口ばかりの二十年物のランクルは走行距離十四万キロで百十万円だった。

 明日、私は助手席のベンジャミンと一緒にペット専用の露天風呂の付いた一泊十二万七千円のオーベルジュで泊まる。

 運転ほど嫌いなことはなくて客商売と車の運転だけはしたくないと思っている私が、どれほどの思いでここまで漕ぎつけたか、威張り散らしているベンジャミンにはわからない。

 初めての車に乗って、いつもの横柄さはどこへやらきょろきょろして窓の外の景色に興奮していたが、助手席は寝心地がいいらしく、今日は落ち着いて丸まって眠っていた。

 思ったより体が大きくなって体力が有り余る彼に、アウトドアを考えたことがあった。

 だが、初めて行った五つ星取得の秋のキャンプ場は、サイトにある大きな桜の木から毛虫が降ってきた。

 グランドシートの上には払っても払っても大きなアリが這い上ってくる。

 これは私には無理だ、とあっさり諦めた。

 それでも、キャンプに行って二人掛けのアウトドアチェアで並んで写真を撮るのが夢で、車中泊のできる車を探し始めた。

 バンで高速道路を走るのは怖いし、中古のキャンピングカーを買おうかと思ったがそれで仕事に行くのには勇気がいる。

 維持費も馬鹿にならない。

 ワンボックスカーを買ってDIYしようと思ったが、鋸なんて本棚づくりの授業で持っただけである。

 そんな時、中古車センターでかっこいい車だなあと思って見ていたら、イケメンの店員にどんと値段を下げて勧められて、訳も分からずに決めてしまったのがこの車だ。

 みんなに「かっこいいねえ、走り屋さんなの」と言われた。

 いやいや、文系の代名詞だ。

 卒論は、京極派の美意識がテーマだったのだから。


 坂は見た目より緩やかで道幅があり、ゆっくりと沈下橋の元に着く。

 対向車がないので、橋の途中に車を停めて窓を開けた。

 重力式コンクリートダムが空を半ばまで遮っている。

 ベンジャミンが立ち上がる。

 小太りの後ろ姿は、いつ見ても幼子のようで愛くるしい。

 雨模様の空はすでに上流で降り始めているらしく、水かさが増していた。

 ごうごうと音を立てる。

 水面に近い低い沈下橋は静かで優しい佇まいだが、水音が荒い。

 今朝からの頭痛が、すっきりする。

 水音が高いのでそこそこに引き上げて、橋を渡った住宅の手前の公園に車を止めた。

 丈の低い草が一面に生えている。

 川の水位が少し上がれば、浸水しそうだ。

 滑り台が一つ、座板のない錆びた鎖が二本ぶら下がったブランコの支柱、丸太のシーソー。

 夜になれば、誰もいないのにギーコーギーコー言ってそうだ。

 動画を撮りながら、ゆっくり沈下橋の向こうまで歩いて帰ってくる。 


 今日はこれから山を越える。

 そして、兆銭(ちょうせん)温泉のRVパークに泊まる。

 途中でベンジャミンの散歩をしてフードを食べさせて、八時ごろに着いて温泉へ入って寝るだけである。

 昼に行った食べログ星3.5のラーメン屋は、遠くから田んぼの向こうに人の列が見えた。

 川沿いには延々と車が止まっていた。 

 生ニンニクが乗っていたので、ベンジャミンは締め切った車の中で今夜臭うだろう。

 ショーケースに紫蘇チャーシューお握りを売っていたので、それを二個と餃子をテイクアウトした。

 お茶を沸かせば十分である。

 私は酒は飲めないので、缶ビールもいらない。

 お握りは少し温めると美味しいだろう。

 温泉を出て、ベンジャミンに凭れ掛かられて食べる車中飯はどんなにおいしいだろう。

 これは、私の百点満点の幸せである。

 しかし、それは遠くまで運転を頑張った私へのご褒美であって、この旅の目的は助手席のベッドで鼾をかいているベンジャミンへの恩返しの旅なのである。

 十四年間、ありがとう。

 いつも私が帰ると飛び跳ねて喜んでくれる。

 一度も不機嫌な顔をしたことがない。

 どんなに寒い朝も熱帯夜にも、エアコンの効いた部屋から出てベランダへ洗濯物を干しに行くのに付いてくる。

 夜昼となく呼び出されて散歩も偶にしか行かない私に飼われて、真摯に務めてくれた愛犬へのお礼の旅なのであった。

 神仏に願い事をしたことすらない私が、パートになったのを機にご褒美の旅をしてあげようという殊勝な動機なのである。


 明日は、狂った宿泊料のペット同伴の旅館に泊まる。

 「The 犬」と言う性格のベンジャミンが喜ぶかどうかはわからないけれど、犬用の湯舟に入らせて、ステーキを食べさせて、私は彼に贅沢三昧をさせる。

 持ってきた白い襟の付いた王子様みたいな鮮やかな青い洋服を着せて、いっぱい写真を撮る。

 ベンジャミンは知らないけれど。

 もっとも私は、この旅に出てから

「そんなことしてたら、仲居さんに注意されるよ」

とか

「裸んぼうで走り回っていたら、笑われるよ」

とか

「温泉でそんなにバタバタしたら、お湯がこぼれるよ」

とか、何かと匂わせながら恩に着せていたのだけれど、彼はいつも通りの犬らしい犬である。

 まあ、きれいな若い仲居さんがお肉でも出してくれたら、彼は澄ましているに違いないけれど。


 車を出して、住宅の角を南へ曲がる。

 道が細い。

 二十五キロ一時間四十分という奇妙なナビの表示は、この道みたいなのが延々続くのだと気が付く。

 車一台でも、結構怖い道幅である。

 「大蛇の産屋(おろちのうぶや)」と言う看板があったので、左折する。

 何もない田んぼの中の一本道は、県道を横切って川に沿った雑木林へ入る。

 すぐに、両側の木が追いかぶさった薄暗い山道になる。

 左手の木の間に、白く泡立つ低い滝が何段にも見える。

 道はすぐに急な登りになって、流れは段々下の方になってやがて見えなくなる。

 すっかり山を登って、川からは随分離れた。

 どこまでいっても川音が聞こえない。

 いよいよこれは道を間違えたなと思った。

 少し広くなっているところでUターンするが、折り重なった落葉で滑る。

 おまけに、その下が地面だとは限らない。

 切り返し切り返し、ずるっ、と言う音にビビりながら向きを変える。

 思ったよりずっと高くまで登ってきていた。

 すっかり暗くなっていたが、下り始めると下の方にまだ川が見える。

 登り口まで降りてきて、二段の滝のところで車を止めた。

 このあたりの景色は素晴らしい。

 スマホを出す。

 しなやかな細い楓が一本、高さのない滝が二段、絵になる景色だ。

 動画にとったが、見直すと実物の迫力はない。

 旅を終えてスマホの画像を見ても、どこを撮ったのか思い出せないことが多い。

 どこにでもありそうな日本の原風景と言った写真で、看板もなければ特徴的な物もない風景に感動するのが私の癖らしい。

 その原風景みたいな写真を見ても、自分が何に感激したのかよくわからない。

 風や光、湿度は、人間の感動に大きく影響すると思う。

 それでも、いいなあと思うと写真に残したくなる。

 プリントアウトして部屋に飾ったら、どんなに癒されるだろう。


 県道から入ってすぐの木立に「大蛇の産屋」と言う看板がある。

 白い板に黒の手書きだ。

 こういうことか、あるあるである。

 旅の途中で看板を見つけても「滝」と「ダム」と「展望台」の看板に釣られて行ってはいけない。

 ナビが間違えて、結局辿り着けない事が多い。

 立派な駐車場があって「ここから十分」と表示されていても、手すりが錆びて腐っていたり、草刈りをしていなかったり、崩れた崖路だったりする。

 熊と蝮の心配は常にある。

 こんなに整備されていないのに、どうして看板を出しているのだろうと思うのが常である。

 それから、千枚田も訪ねて行ってはいけない。

 過疎化で、荒れ野になっていることが多いからである。

 ここはなかなかの景勝地だが、雑木林に入って左後ろの草むらに小さな看板があるのに気付く人は少ないだろう。

 まあきれいだったからいいか、初夏の風情は十分に味わった。

 元の道へ戻って、目的地へ向かう。

 怖いような夕焼けが、川の上流の山を抱いていた。

 今からあの峠を越えるのはつらい。

 きっとナビはまた、途中で車の居場所を見失うだろう。

 これまでに何度も、現在地を示す青い三角の矢印が消えた。

 そんなことを思いながら、危なっかしい細い堤は視界が開けているので六十キロ近く出して走る。


 さっき渡った左へ緩やかに曲がっていく県道を、黒や赤のランドセルを背負った下校の子どもたちが歩いていた。

 この町の小学校では、ピンク色や宝石みたいなのが付いたランドセルは許可していないらしい。

 これから、右手の山の高い所に見える集落へ帰るのだろう。

 川沿いの開けた道でも薄暗いのに、あの集落へ着くころには、足元が見えなくなるだろう。


 子どもの声が、ひとしきり高くなった。

 ベンジャミンが、むっくりと起き上がる。 

 うぐっと喉を鳴らして窓に手を掛けたのと同時に、わあーっと声がして子どもたちが走り出した。

 さっきまでの固まって何か話しながら帰っていたのに、ばらばらになってそれぞれ一生懸命こちらへ走ってくる。

 スカートが膝下まで垂れ下がっている女の子が、転んですぐに立ち上がった。

 白い袋を引き摺ってずっと後ろを走ってくるのに、誰も助けてやらない。

「わんちゃーん」

と言う甘えた声がする。

 背の高い女の子を先頭に、口々に何か言う。

 気を取られていると、右の前輪が道から落ちて車が傾いて驚いて停まった。


 一番に着いた女の子が

「その子は男の子ですか、女の子ですか」

と言う。

 その子、と言うのはベンジャミンの事らしい。

 この犬が女の子に見えるものか。

 出たがりで、喧嘩っ早くて、その癖弱いのですぐに負ける。

 驚いて抱き上げると、尻尾を巻いてかわいい子犬のようにじっと抱かれている。

 散歩の途中で、よその家に繋がれている犬に喧嘩を売りに行く。

 勝手によその庭へ入っていくから

「もう知らないよ、おいて行くよ」

と言って私が走ると、驚いて走ってきて私のふくらはぎにぶつかった。

 私よりも、逃げ足が速いのだ。

 卑怯な奴だとおかしい。

 この犬種の体重は四.五キロのはずなのに、1歳になった時には七キロあった。

 大食いで、早食いで、私が落とした唐揚げを床へ着く前にキャッチする。

「男の子」

と答えると、

「かわいいー」

と声を潜めて、開けた窓からベンジャミンに顔を寄せた。

 狷介なおじさん犬は、固まった。

 女の子の可愛いふっくらした手が、ベンジャミンのあごの下を撫でる。

 きめの細かいきれいな鼻をベンジャミンの鼻にくっつけるようにして、もう一度

「かわいい」

と小さな声で言った。

 ベンジャミンはいつもの勢いはどこへやら、寄り目になってじっとしていた。

 班旗を持った男の子が来る。

「立派な犬じゃなあ」

と、古風なほめ方をする。

「うん、立派な犬じゃなあ」

と女の子が答える。

 かわいい顔をして、方言がすごい。

 いつものように喧嘩を売ろうとして、身を乗り出したベンジャミンは出鼻をくじかれて止まった。 

「うわあ、かわいい」

と、次に来た女の子が又いう。

「外国の」

と見上げて聞くと、班長は

「これはイギリスやな、ドイツかもしれん」

と、偉そうに答える。

 そういうことなのか。

 県境の山の中だから、ペット専門店や大型商店の中にペットショップがないのだろう。

 車は結構通るらしく、向こうの道沿いにおしゃれな瓶に入れた蜂蜜を売っている産直店があったが、子どもたちは素朴だ。

 がっしりした体格で可愛いという感じではないのに、子どもたちの有難がりようはすごい。

 次にきた女の子が

「きれいー」

と嘆息したように言う。

 後ろから、

「わんこー」「わんちゃんー」「かわいいー」

と、絶賛の嵐である。

 エンジンを停めて、子どもたちのしたいようにさせる。

 ここまで、可愛い可愛いと言ってもらえたことはなかった。

 小型犬にしては図体がでかいし、町の大型商店のペットショップではしょっちゅうセールをしているから、町には同じ犬種があふれている。

 公園へ行っても、雑種の犬を連れている人はほとんどいない。

 そんな町で暮らしているから、子どもとはそんなものなのかもしれないが、かわいいかわいいと褒めてもらえて嬉しい。

 デパートで店員に妙に丁重に扱われ、商品を勧められて

「それでは、一つ頂きます」

と答えてしまう時の「奥様スイッチ」が入った。

 子どもたちにあげるお菓子でもないかと思って、後部座席を振り帰って見たほどである。

 それぞれ、触っては

「ふわふわー」「柔かーい」「あったかいー」

と、うっとりとした顔をしてほめてくれる。

 何本もの手に体中を撫でられて、ベンジャミンは戸惑っていた。

「この犬は高いのですか」

と、小さい男の子が質問をする。

「高いよ、百万円くらい」

と、女の子が振り返って言う。

「百万円ではないわ。一億円くらいからやなあ」

と班旗を右肩に掛けて、班長が反り返って言う。

「ひゃあ」

低学年の男の子。

「一兆円くらいするかもしれんなあ。

 この犬はええ犬やから」

と女の子が言う。

「毛の艶がええ」

と、また班長が言った。

 

 助手席の窓の下で何か会議が始まっている。

「おばさんはいけないよ、お姉ちゃんだよ」

と女の子の声が言う。

「先生だよ」

「大学の先生かもしれんからな。フィールドワークと言うてな」

と言う、ひそひそ話が聞こえる。

「動物のお医者さんと違うかなあ、私はそう思う」

 一番最初に来た女の子のはきはきした声が言う。

 もう、私もベンジャミンも子どもたちの目の中にない。

 子どもたちはしゃがみこんで、地面をカリカリ言わせて何か書きながら、盛んにディベートを行っている。

 タイヤのすぐ近くに子どもがいるので車を動かせずに、私は待っていた。

 ベンジャミンは窓枠に手を掛けて、山を見ている。

 窓の外に班長の顔が現れて、続いてみんなの頭が出た。

「せぇのぉでえー」

 と一斉に言って、間がある。

「先生は、旅人さんですか」

と、みんなで声を揃えて言った。

 そして、口々に質問を浴びせる。

「先生は、どこから来たのですか」

「東京ですか」

「年に何回、家に帰りますか」

「インスタは、やっていますか」

「この車は、何キロ出ますか」

「先生は、不死身ですか」

 よくわからないが

「ええ、旅人です」

と、答えてしまった。

 みんな黙る。

「何百年くらい旅をしているのですか」

と、無茶苦茶を言う。

「さあ、もう長いことですね」

と、テレビでインタビューを受けているようなイメージで答える。

「わあ」「はあー」と感嘆の声が漏れた。

 かわりばんこに手を出して、ひっきりなしにシートのベンジャミンを触る。

 大人に質問をするのに、どう呼びかければよいのかというディベートだったようで「先生」と呼び掛けるのが礼儀に叶っているのではないかということになったらしい。


 子どもたちは、一向に動かない。

 太陽が山に入った。

「じゃあ、遅くなるから帰ろうか。

 私も今から、あの山の向こうの町へ行くから」

と言った。

 男の子が

「はいっ」

と答える。

 伸びあがって、窓から手を入れてベンジャミンに触りながら

「じゃあねー、わんちゃん」

と、小さい女の子が言う。

「じゃあ、気を付けて行ってください」

と班長が言った。

「お元気で」

と、上級生の女の子が言う。

「じゃあねー」

「バイバーイ」

「ワンちゃん、元気でねー」

「ワンちゃん、ありがとう。またねー」

 と、別れは意外にさっぱりしている。

 妙な扱いを受けて、私はいつもとは別の人格になった。

「それでは失礼します。

 皆さんとお会いできてよかったです。

 またお会いできる日を楽しみにしています」

と窓から体を乗り出して、校長先生みたいな挨拶をする。

 それから、子どもたちに手を振って車を出そうとした。

 

 その時、不意に子どもたちが口々に叫んだ。

「狗賓(ぐひん)さんの火が消える」

「本当や、幸子ちゃんの妹が帰らないよ」

 そう言って、バタバタと車の前を掛けだした。

 正面の小山の中腹にある鳥居の奥に、明かりが見える。

 狗賓さんと言うのはあの神社だな、と思いながら、そろそろと子どもたちの後について、向こう岸へ渡る橋まで車で付いていった。

 ところが、朱塗りの橋は傍まで行くと通行できないように白いロープを掛けてある。

 左の神社がある方へ曲がれば広い駐車場があるが、その向こうに道はない。

 暗くなっているのに、この道を引き返さなければならないことに気が付いてげんなりした。

 由緒がありそうな神社なので、私もお詣りしていこうと思った。


 百合亜ちゃん、と呼ばれた女の子が振り返って言った。

「三年生の幸子ちゃんとこの妹が病気なんよ。

 足がふにゃふにゃで、お耳が聞こえないから、狗賓さんが連れてったの。 

 それでお願いに行くの。

 旅人さんも行こう」

「うん。妹って何歳」

と聞くと

「二十一歳」

と答える。

 そんなはずはないだろうと思うが、百合亜ちゃんにはこの話はやや難しいのだと気が付く。

「そうなんだ。優しいねえ」

と言うと、真顔になって

「幸子ちゃんはおうちで御飯とか食べさせてあげるんよ。

 あと、おっぱしたりとか、教科書も上げるんよ」

と言う。


 石段は五十段ほどだが、びっくりするほど急な野面積みで隙間が空いて傾いている。

 子どもが上がるのは危ないと思われたが、どの子も一気に駆け上がった。

 最後に私が最上段に着くと、そこは鳥居の真ん中だった。

 鳥居に気を取られて、転げ落ちたら大変だ。


 班長は参道脇の手水舎で丁寧に手と口を清め、拝殿の入り口で一礼をした。

 後ろで上学年の女子がやはりきちんと手と口を清める。

 その時、霊力を感じるひどくカリカリに瘦せた黒い烏帽子を被った神官が、拝殿の扉の奥から出てきた。

 背が低いので、烏帽子が体の半分もあるように見える。

 こんな田舎の神社なので、あまり氏子はいないのだろう。

 何かに取り憑かれでもしたように窪んだ眼のあたりが黒ずんだ、年齢のわからない童顔の、しかし恐らくはかなり高齢の神官である。

 子どもたちは恭しく頭を下げて、神官に何か言って、順に板の間に上がる。

 左手に、前から班長、高学年の女子、続いて五人がきちんと座る。

 その間に、神官が太鼓を持ってきて座った。

 

 神官は祝詞をあげて、太鼓を叩き始める。

 班長が立ち上がって、本殿へ続く長い板廊下を上がった。

 急な坂になった廊下を御扉の五メートルほど手前まで行くと、丁寧に二拝二柏手一拝をして帰ってくる。

 一人帰ってくると、次の子どもが廊下を登り始める。

 百合亜ちゃんが小さくくしゃみをした。

 神官の太鼓が止まる。

「あっ、太鼓が止まったら帰ってこれなくなっちゃうよ」

と、誰かが言った。

 次の瞬間、本殿の前にいた児童が神官の横にくたりと項を垂れて座っていた。

 七人の中の二人に、それが起こった。

 なぜだろうと考えていると、私の車は堤を走っている。

 

 薄暗い道が細いので、落ちないように気を付けて堤を走っている。

 ふとバックミラーを見ると神社が見えなくなっていた。

 一本道のはずなのにと思ったが、この道で振り返るのは怖いので、バックミラーを気にしながらゆっくり車を進めた。

 何度確認しても、神社はバックミラーに映らない。

 

 しばらく行って、右折して県道に出る。

 県道に沿って山に入ると、いきなり急な登りの山道になった。

 両側から被さるように枝を伸ばした木で、あたりは真っ暗になる。

「もうすぐだよ、ベンジャミン。

 今日は兆銭温泉のRVパークに泊まるからね。

 着いたらすぐに温泉に入るから待っててね。

 ベンジャミンもどこかでご飯を食べて、お散歩を済ませたらいいんだけれど、この山の中では怖いから着いてからにしようね。

 熊が出るよ。

 ベンジャミンなんか一口だよお。

 これは美味しそうな犬さんだ、って言うよお。

 先にお散歩をしてからお風呂に入った方がいいね。

 そしたらゆっくりできるからね。

 待ってね、待ってね、って言って、お母さん、いけないお母さんだねえ」

と言って助手席を見る。


 ベンジャミンがいない。

 どうしたのだろう。

 さっきの子どもたちに着いて行ってしまったのだろうか、と思ったら胸がぞわぞわしてきた。

 窓から落ちたわけでもないだろうにと思って、開いた窓を見たら車が揺れた。

 車は緩やかに沈んで行く。

 道路わきの溝が深いのだろうか、と思いながら何かに吸い込まれていった。

 右手でベンジャミンの尻尾をぎゅっと握って

「あっ、ハンドルを離したら危ないのに」

と思う。

 ぎゅっと引っ張ってぶら下がって、ああ助かったと思って気が付いた。

 夢だ。

 まだ、ベンジャミンの尻尾の感触が右手にある。

 鍵尻尾で残っていたのを買ったベンジャミンの尻尾を私はよく撫でた。

「この尻尾のおかげで、ベンジャミンは家へ来てくれたんだね。

 お母さんの幸せの鍵だね」

 私は年中、TシャツやトレーナーにGパンと言うラフな格好で、ベンジャミンを連れ歩いた。

 飼い主に不似合いな、血統書付きの彼を誇らしく思いながら。 

 

 「犬もいないのに、散歩にいかなくていいのに早起きすることもないのだけれど」

と思ったが、目をつぶっていたらろくなことがないので目を開く。

 いつものベッドの上だ。

 池ではもう、ただ朝になる嬉しさに雲雀が鳴き立てているだろう。


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