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01.迫る新生活

 夢もなく、野心もなく、やりがいもなく。

 昼過ぎのリビング。カーテン越しに淡い光が差し込む中、私はソファに沈み込んでいた。

 ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通に大学を卒業し、一般企業に就職。

 数年働いた末、社会とはこういうものかと分かった気になって――いや、正直に言えば、ただドロップアウトしただけだ。

「普通」と呼ばれる生活から。

 お料理教室に着付け、ヨガ。陶芸で土を捏ね、ボルダリングで腕を震わせ、週末の一日講座にもあちこち顔を出した。

 やってみたいと思えば、片っ端から試した一年。

 企業戦士として走り続ける友人たちには、「なにやってんの?」と冷ややかに笑われたけれど、同じように働いては休み、また働く――そんな生活を送る人達も確かにいた。



 とはいえ、習い事のお月謝はじわじわと貯金を削る。五年は遊べるはずだった残高は、気づけば雀の涙だ。


「意外と短かったなぁ」

「線は引かなきゃダメよ、この生活の」


 エプロン姿で包丁を握ったまま、料理教室で仲良くなった美香が笑った。

 そう、そろそろ線を引く時かもしれない。


「あー……働きたくない」

「働くにしたってすぐに決まるとは限らないし、とりあえず、短期で入れるバイトしながら、体を慣らしたら? いいとこ紹介しよっか?」


 冗談半分に笑う美香に、私は苦笑いを返す。

 ――動かないと、貯金は更に減るだけ。

 ため息を一つ吐き、美香が勧める人材派遣会社の応募画面をタップした。



 応募してから数時間もしないうちに、派遣会社から連絡が来た。

 電話口の担当者は簡潔に要件を告げ「明日、面接に来られますか?」と畳み掛けてくる。


 翌日、面談は驚くほどあっさり終わった。

 即採用。そのまま研修へ。客先での立ち居振る舞いも一通り学んだ後――


「明日から入れますか?」


 その一言に、軽く目眩がする。

 ――……そうだった。これが一般社会の時間の流れだ。

 毎日、寝てばかりいたわけじゃない。けれど自分のペースで過ごした一年と比べれば、歯車が一気に回り始める感覚に戸惑う。

 了承を伝えると、面接官がにかっと笑う。

「渡会さんみたいな人が来てくれてよかった。就職活動が終わるまでで構わないので、できるだけ入ってもらえると嬉しいです」

 おそらくはリップサービス。ぎこちないビジネススマイルを返すと、机の上に資料が置かれた。

 それが明日からの派遣先の説明だった。



 翌朝。

 派遣会社で渡された住所を頼りに、駅から少し離れた静かな住宅街を歩く。

 目的地は外見だけ見ればごく普通の分譲マンション――五階建て、グレーの外壁にガラスのバルコニー。

 だが、入口に立った瞬間、空気が変わった。


 エントランスはホテルのように静かで、無人なのに磨きあげられたガラス扉が圧を放っている。

 オートロックのパネル周りには部屋番号を示すものが何も無い。

 ――そういえば、この建物は一棟丸ごと倉持家の所有だと説明を受けていた。


「えーっと、確か……」

 呼び出しボタンを押し、画面に映る自分の姿に気づいて慌てて髪を整える。


 カチッという接続音のあと、落ち着いた女性の声が響いた。

「はい、どうぞ」


 ロックが開くと同時に、エントランスの奥でエレベーターのドアが静かに開く。

 中に入るとすでに「5」のボタンが点灯していた。

 ――遠隔操作? 最上階に行くには、解除ボタンを押してもらわないといけないはずなのに。

 ふと、天井隅の監視カメラが目に入り、ごくりと喉が鳴った。やましい事は何も無い。それでもこのセキュリティに圧倒される。見られているかと思うと、否が応でも背筋が伸びる。


 エレベーターが止まり、柔らかな電子音と共に扉が開いた。

 目の前にはホテルのように幅のある共用廊下が広がっていた。

 右手には、証明に照らされた絵画と、白い家具の上に飾られた赤い花。

 左手には、非常階段の扉が目立たないよう壁と同じ色で仕上げられている。

 正面には、普通のマンションの倍はあろうかという両開きの大きな扉が二つ並び、シックなダークブラウンが重厚感を放っていた。

 ――ここ、まだ、廊下なんだよね?

 目に入る全てが高級感に溢れ、胸の鼓動が早まる。


 その右側の扉が、内側から音もなく開く。

 姿を見せたのは、淡い色のワンピースに身を包んだ女性だった。お腹が大きく、ゆったりとした所作で微笑む。


「渡会さんですね。お待ちしていました」


 柔らかな声と共に、美沙子さんが一歩下がり、扉を大きく開ける。

 促されるまま玄関へ足を踏み入れる。

 ――玄関が、私のベッドの二倍以上ある……!

 左手の壁には一面のシューズクローゼット。来客用のスリッパが差し出された。


 靴を脱ぎ、揃えて端に置く。

 足を入れたスリッパはふかりと沈み、まるで絨毯のような感触が広がった。


「こちらへどうぞ」


 美沙子さんは私の靴をさりげなく収納し、家の奥へ案内する。

 いくつかの部屋の前を通り、正面のガラス扉を抜けた先――そこがリビングだった。

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