第8話 風のささやきと静かな日々
魔法学校の中庭には、穏やかな午後の陽光が差し込んでいた。
枝葉を揺らす風は心地よく、いつもは訓練や試験で賑わう校舎の喧騒も、昼休みの今だけはまるで別世界のように静かだった。
「ねぇシノ、昼休み、予定空いてる?」
フレア=アストレアバーンが、いつもよりも柔らかな口調でシノに話しかけた。
赤髪をゆるく結んだその姿は、幼い頃のボーイッシュさをほんの少しだけ残しつつも、しっかりとした少女の輪郭を持っていた。
「特にはないけど……なんか用事?」
「一緒にご飯食べよ。ミアとリリィも呼んでるから」
強引でも照れでもなく、自然体な誘い方に、シノはほんの少しだけ目を細めた。
「……じゃあ、行こっか」
中庭の一角、芝の上には白い布が敷かれ、ピクニックのように軽食が並べられていた。
ミア=フェルマータが持ってきた手作りのサンドイッチや果物が、見た目にも美しく盛り付けられている。
「シノくん、こっちこっち。今日はレイさんとリリィちゃんも一緒なの」
ミアは変わらず穏やかな笑顔を浮かべていた。
「兄さまが、たまには……って……」
リリィ=ルナティクスは、日差しを避けるように大きめの帽子を被って座っていた。
その小さな声を拾いながら、レイは無言で頷いた。
「なんか、たまにはこういうのも悪くないと思ってな。妹の気分転換もかねて」
「そう言いながら、兄さまが一番楽しみにしてたんじゃないの?」
フレアの言葉に、レイが少しだけ顔を背けた。
シノはサンドイッチを手に取って一口食べる。
「……うまい。これ、ミアが作ったの?」
「うん。リリィちゃんがあまり濃い味は食べられないから、優しい味付けにしたの」
「さすがだなぁ……」
シノが感心して言うと、ミアは照れたように笑い、リリィも小さく頷いた。
「……ありがとう、ございます……」
レイはその様子を横目で見ながらも、どこか落ち着かない様子だった。
(……またシノのこと気にしてるのか?)と、フレアが内心で呟いたのを誰も気づいていない。
何気ない会話が続く中、風が一陣、さわやかに吹き抜ける。
「シノってさ、普段どんな練習してるの?」
突然フレアが尋ねた。
「うーん……風の流れを読むのと、圧力を変える練習。細かい制御が主かな」
「地味だね」
「うるさいな……」
ミアが笑い、リリィがくすっと笑い、レイはふっと息を吐いた。
それは、確かに――静かで、優しい時間だった。
だがそのとき。
「……楽しそうだな」
誰かの声が、その場の空気をわずかに変えた。
風に乗って、黒と銀の混じった制服姿の少年がゆっくりと歩いてきた。
長身で、整った顔立ち。だがどこか感情の読み取れない目をしている。
「ジーク=フリート……」
レイが低く呟く。
「誰?」
フレアが身構えるように聞き返す。
「今年から入った特待生。属性なし――自己強化系だ」
「自己強化?」
「ただの筋肉バカじゃない。魔力量が桁違いに少ないくせに、全ての魔力を肉体と神経に回してるって話だ」
ジーク=フリートは、無言のまま皆を見渡す。
誰とも目を合わせないようでいて、確実に空気を読む視線だった。
「……お前が、シノ=グリモワールか」
「そうだけど。何か用か?」
「別に。名前を知っておきたかっただけ。いつか、戦うかもしれないから」
敵意も挑発もなく、ただの事実として述べる口調に、逆に一同は一瞬静まり返った。
ジーク=フリートは何も言わずに踵を返す。
背を向けたその姿には、誇りでも孤独でもなく、ただ確信のような静けさがあった。
「……あいつ、なんか変な空気持ってる」
フレアがぼそっとつぶやく。
「でも、強い人って感じた」
リリィがそう呟くと、ミアも頷いた。
「魔力の流れが……違った。なんていうか、無駄が一切なかった」
シノは黙って空を見上げた。
確かに、あのジーク=フリートには、何か――特別な“静けさ”があった。
(風が……止まる感覚。あんなの、初めてだ)
それは、次の戦いがただの模擬戦では終わらないことを告げていた。
だが今は――
「なーんか変な雰囲気になっちゃったじゃん」
フレアが大きく伸びをしながら言った。
「サンドイッチ、もう一個食べる人?」
「俺、もらおうかな」
「わたしも……」
そんな何気ない会話が、さっきまでの空気をゆっくりと溶かしていった。
風が再び吹く。
今度は、どこか穏やかで、優しい風だった。