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冷蔵庫で眠る女

作者: 霜條

※タグをよくご確認下さい。

  ある眠れないある日、その時思いついたのは冷蔵庫で眠る事だった。

  夏でもないのに、冷房をつけても暑くて眠れない。

  何かないかと冷蔵庫を開けると、冷気が足に落ちるのに気付いて思いついたことだった。

  空っぽで何もない冷蔵庫――――。いつ買ったか分からないカピカピのチーズやカラカラに干からびたつまみ、とっくの昔に切れた調味料も全部ゴミ箱へ。

  棚を外し床に置いて中に入ると、冷たい空気に包まれる。四角い枠に収まるように縮こめた身体に丁度いい温度だ。

  この時からアラームが鳴るまで、ぐっすり眠れた。




「おはようございますー」

 可愛いものが好きだ。────目を楽しませる可愛いもの。心を癒す可愛いもの。気分を上げてくれる可愛いもの。

 女の子らしすぎて、周りからバカにされる事も多いけど、そんな他人が気にならないくらい可愛いものが好きだ。

 アクセサリーにペン、カバンに手帳。一目で分かるくらいには可愛いもので揃えてる。スーツもライトグレーの地味ながらリボンがついており、フレアスカートのものしか選ばない。

 なかなか見つからない事も多いけれど、いいなと思ったらすぐ買うし、ネットや通販なら希望に添ったものが見つかりやすい。

 案外何かと欲しいものは世の中にあるのだ。

「おはよう菰田(こもだ)――……。あんた、頭に何付けてるのよ」

「何って……、リボンですけど?」

「そんなもんつけてどこ行くつもりなのよ。恥ずかしいから外してきなさい」

 美容院で染めるたび、明るすぎるだの色がおかしいと注意をしてくれる先輩は今日も指摘する。怒られないギリギリのオレンジ色に染めた髪を編み込み、リボンをつけただけのヘアアレンジだった。

 早起きしたから少しだけ頑張ったセットだった。

「昨日の帰りに見つけて買ったばかりなんですよ?」

「あのねぇ……。仕事舐めすぎでしょ。そんなんで営業先行ってみなさいよ」

「結構ウケがいいんですよ」

「若いアンタと話したがる相手はいるかもしれないけど、仕事に繋がらないでしょそんなんじゃ。遊びに行くんじゃないんだからリボンは外しておきなさい」

「……は〜〜〜い」

 机にカバンを残してトイレへ行く。

 ぷりぷりと指摘されてしまい、今日も朝から気分が上がらない。


 菰田(こもだ)みよ、25歳。大学進学を機に上京した。

 誰でもできる仕事だからと聞いたからやってる営業職。女ばかりの職場だけど、女子高時代のような空気が案外楽しい。丸の内の一等地にあるオフィスというのも嬉しいポイントだが、築年数は菰田よりも上。お世辞にも綺麗とは言い難くもあった。

 そこを学園祭みたくいろんな紙が壁に貼られ、賑わいを見せている。――全て誰かの成績を表すものだ。有る意味景気はいいが、不景気な数字も一緒に飾られている。

 数字が取れれば誰も文句は言わないし、その分自分に返ってくる。一人で都内の1Kのマンションで生きていくには、丁度良い職場だった。職場からも近いし、終電も遅くまである。コンビニもスーパーも徒歩圏内だ。

 何人か一緒に上京した友達もいるが、みんな地元に戻りたくなくて頑張っている。

 あのまま家にいたら、自分が自分でいられない。親の干渉、周囲の圧力、友達だった誰かに付き(まと)われる鬱陶(うっとう)しさ。

 全部実家に置いて出てきた。

 だから今日も菰田は、ここでやっていく。

「あ、菰田さんだ。今日もいるんだ」

「仕事ですもん。当たり前じゃないですかー」

「毎日頑張ってるねー。昨日喧嘩したって言ってたけどあれからどう? まだ仲直りしてないの?」

「向こうが早々に折れて、無事仲直りしました。はい、これ書いてください。……向こうは夜の仕事だから、会える時間が少なくて寂しいんですよねぇ」

 パステルカラーでキャラクターのついたボールペンと、クリップボードを渡しながら菰田はため息をついた。

「はいこれって……。契約書じゃん……」

「T元さん知ってましたか? 来月から契約年齢が変わってしまうって。お誕生日は半年先なのに、その日を待ってる内に値段が上がってしまうんですよ〜。怖いですよね〜」

 何事かと、T元の仲の良い同僚が近くに集まる。

 今は12時過ぎ、彼らの会社の休憩スペースに菰田はいた。契約の下、休憩時間に許可を得て菰田は営業に来てるのだ。

「S木さんもY中さんも、将来のことを考えておくなら今のうちですよ。人生、何があるか分からないですからね。備えておくなら早いうちから。――――同じ保証を受けるなら、安い内に入っておいた方が断然お得ですしね〜。ね、M藤さん?」

「そうそう。結婚して家庭を持って子供とか出来たら、その時保険に入ろうたって、健康不安があったら入れないし、審査も時間がかかる。早めに越したことはないって」

「いつからM藤まで保険外交員になったんだよ」

「さっすがM藤さ〜ん! 私より仕事してくれて助かりますー!」

 彼は先日契約してくれた顧客だ。S木たちの同期のM藤だけは、彼女持ちでそろそろ入籍も間近とか。

「備えは大事だって先輩たちも言ってたろ。担当の顔も分からない、様子も見に来てくれない、気軽に相談もしにくいどこぞの保険会社より、可愛くていつでも会える菰田さんの方がいいじゃん」

「なんだって相談に乗りますよー。分からないことは全部上司に丸投げからお任せください」

「そこは責任持ってくれないんだ」

「だってまだ分からないことも多いし、嘘教えてしまったら契約者の皆さんが困るじゃないですか。安心してください。上司は怖いけどこの道のベテランなので、すっごく頼りになりますから」

 愛想を振り撒くのは得意だ。毎日仕事の話をしなくてもいいこの緩さが、日々のつらさを緩和してくれる。

「……でもなぁ」

「気が向いたらでいいんです。きっかけを作るのも私たちの仕事なので、その内考えてみてくださいね」

 手応えのないのもいつものこと。営業先はこの四人だけではないのだから、それも気が楽だ。

「午後のお仕事も頑張ってくださいね。────あっ、A染さーん。お知らせしたいことがあるんですけど」

 四人から離れ、別の顧客見込みに声を掛けにいく。

 たった一時間だけの仕事(えいぎょう)だ。誰に何をしたかという報告を持ち帰らないと、ギスギスと先輩に詰められてしまう。

 なんでやらなかったんだと後で延々言われることほど、嫌で無駄な時間はない。

「待って、みよちゃん。あの話だけど──」

 M藤に手を取られ、引き止められた。

「────あぁ、飲み会ですよね?」

「そうそう。誰か呼べそう? こっちはいつメンだけど」

「多分いけると思いますー」

 すぐ離されるも、掴まれた部分が変に熱い。ちょっとした違和感を振り払うように、笑顔で彼らと別れて菰田は次の仕事へ向かった。




  なんだか今夜も眠れなかった。

  彼は夜遅くに建物のメンテナンスをする仕事だから、休みの日以外はなかなか会えない。

  だからこの部屋では菰田ひとり。傍に誰も居ない生活に慣れてきたはずなのに、誰も居ない空間が落ち着かない。

  人のいなくなった大きなビルで、電気の無機質な灯りに照らさた静かな空気の中、もくもくと仕事に勤しむだけの時間は楽しいと言っていた。

  派手さはなく大人しい性格で、昼に働く私とは真逆だ。

  会える日は少ないけど、告白された時一緒にいるのも嫌でなかったから付き合った。

  そんな、大した理由もない交際理由。

  でも誰かと付き合うきっかけなんてこんなものだろう。

  ここにはいてくれない彼を思い、今夜も空っぽの冷蔵庫の中で菰田は眠った。




「これ、アンタにあげる」

 先輩が何かを菰田(こもだ)の机に雑に置き、斜め向かいの自分の席に座った。

「なんですか、コレ?」

 茶色の小さな紙袋だ。シールで封がなされているだけの、外からでは何も情報がない四方十センチちょっとのただの小袋。

「帰りに見つけた。アンタに似合いそうだな〜と思っただけ」

 ぶっきらぼうなセリフと共に、先輩は買ってきた昼食を自席で広げ休憩を取り始めた。

「ありがとうございますー」

 なにか贈ってもらうようなことなんかあっただろうか。先輩はこちらを無視して、昼食の硬い小麦パンに挟まれたハムとチーズ、レタスとオニオンを大きな口で(かじ)り、PCを(にら)んでいる。

 愛想もなくじっと睨むような仕草をよくするが、それが先輩だ。悪気はなく、ただサバサバした性格なだけ。最初は怖くて苦手だったけど、今は細かいことにうるさい先輩だと思っている。

「────っうそ! Rのキーホルダー……? お高い奴じゃないですか……」

 袋から出てきたのはマカロンの形をしたキーホルダー。淡いミントグリーンのマカロンに、淡いピンクのリボンがついた某ブランドのキーホルダーだ。

 高いからわざわざ買うほど欲しいと思ったことはないが、見覚えのある形にいきなり声が高くなる。

「はぁ? そんな高いもの、私がアンタに買う訳ないでしょ」

「……確かに」

「たまたま見かけたショップで見て、菰田っぽいって思ったから買っただけ。お高いブランドじゃなくて残念だったわね。そういうのは彼氏に買ってもらえ」

 フンと嫌味っぽく鼻で笑うが、先輩はこういう人だ。

 この人らしいと思ったものをなぜか周囲にプレゼントしてくれる、案外気のいい人なのだ。

「大事にします。先輩、ありがとうございます♪」

 昼食をかじりながら片手を振り、もういいからと切り上げられる。

 金色の金具についたそれを眺めながら、菰田は後に待ち構える報告会のためうきうきと準備を進めた。


「おっ。菰田お疲れー。今日は元気そうだねー」

「お疲れ、H磯──。ちょっといい? あんたにいい話があるの」

 トイレの前でちょうど会った同期、H磯とちょうど会った。同じオフィスだが席が離れてしまったため、よくトークアプリでやり取りする仲の良い同期だ。職場ではここが会話ポイントだ。

「×月〇日って空いてる? 職域で飲み会に誘われたんだだけど、一緒にどう?」

「いいよー。誰が来るの?」

「I島とN村にも声を掛けてるんだけど、この前契約をもらった職域(しょくいき)のM藤さんと、その同期。みんないい人だよ。彼女持ちはM藤さんだけだから、他は好きに選んでいいよ」

「あはは……。はー、彼氏欲しい──」

 眉間に一気に皺を寄せ、H磯は渋い声になる。可愛い顔が台無しだ。

 この会社に入って三年目。H磯とは入社してからの付き合いだ。華奢(きゃしゃ)で小柄、マニッシュな雰囲気だけど、奥手で弱腰な性格だ。

「そっちの職域にいい人いないの? H磯に今まで彼氏が出来たことないなんて、今でも信じられないんだけど」

「あーうん。どうしてかなぁ……。職場恋愛って多分向いてないわ。職場の人となんか、そういう関係になるってことが、一ミリも考えらんない」

「紹介してもらえばいいんだよ。仕事といっしょ」

 この仕事をしていると色んな人と知り合う。保険外交員は婚活中、なんて年配の人からしょっちゅう揶揄(からか)われるくらいだ。

 だが、それなりに信用のある会社に所属する人間と出会えて、マッチングアプリよりも近くで相手のことが知れる。

 仕事もプライベートも充足させるなら、悪くない環境だと菰田は思っていた。別に婚活のためにやっている訳じゃないが、いろんな人と知り合えるのはただ単に楽しかった。

 少しの接点しかないけれど、その人の人生を考える仕事だ。やりがいがある。

 親に仕事のことを伝えた時は微妙な反応だったけれど、なんだかんだ三年も続いてる。なんとなく選んだ仕事だったけど、案外性に合っていたのかもしれない。

 渋い顔をするH磯は腕を組み、しばし悩んでいた。

「そうなのかなー。当たり障りない会話なら平気だけど、その先ってなると……、つい身構えちゃうんだよね」

「男慣れしてないだけじゃない、それって。男なんて適当でへーき。意識するからうまくいかないんだよ」

 他人の姿が見え、通行の邪魔にならないようH磯と一緒にトイレ前を離れた。

 カツカツと廊下にヒールの音が響いた。──お互いヒールも慣れたもの。硬い靴に足が痛んだことも、二人で飲んだ帰り道、ヒールが折れて大笑いした事もあったけれど、並んで歩けば社会の大人の一員だ。卒業したてのみずみずしさなんて、気付いたらどこかに消えていた。

「あー、そうかも。……昔から男の人ってよく分からないんだよねー。下ネタとか多いし」

「下ネタ言ってるヤツなんて、いっちばん分かりやすいじゃない。適当に言っておけば、向こうも笑ってくれるんだから簡単でしょ」

 少なくとも周りの人間はそうだった。男も女も関係なくちょっと下品な話題すれば、笑い飛ばして仲良くなる。──実害を伴うセクハラはダメだけど、笑い話として場を温めるだけなら、いつでもどこでも笑いが取れる有用なネタだ。

「あはは。菰田はさすがだね。男子の心が分かるんだ」

「男だけじゃなく、女だって好きな人は多いでしょ、下ネタなんて。子供から大人までみんな好きな話題じゃん。お酒が入ればなおのこと、一緒に笑ってるうちに親しくなれていいよ」

「お酒が入ってたらいいかもしれないけど、シラフになって、同じテンションでいられる自信ないなぁ」

「私がついてるって。今度来る人みんなみんな草食系だから、いきなり手を出そうなんて人はいないから安心して。その内どこかに、いいなって人が見つかるかもしれないじゃない。人生の見込み作りだよ」

「はぁ……。そうだよね。……ついでに契約してくれる人も、見つかるといいんだけど」

「そんなに気弱になるなって。締切まで時間あるんだし、諦めずにいこ」

 廊下の窓の外には開けた空に緑と御堀が見える。日比谷公園と皇居の緑だ。

 しばらく帰っていない地元では、どこを見ても自然があるのが当たり前だったけれど、ここでは無機質で舗装され、人の手が加えられたもの以外存在しない。

 その分、人がこの街にたくさん集まる。行き詰まったなけなしの(はい)を奪い合うような、人間関係はここにはない。

 次から次へと新しいものが現れ消費されていくスピードが、ずっと気楽な思いにさせてくれた。




 「お帰り、みよ」

  休みだからと、ひと足先に最寄駅に迎えに来てくれたのは彼氏だった。

 「こんなところでお帰りって言われるの、変な感じ」

  改札を出たところだ。駅から出てくる人並みの中、知ってる人が待っているというものは心が暖かくなる。

  仕事用の重たい鞄を菰田から受け取り、軽くなった腕で彼の頼りないもう片方の腕に絡みついた。

  街明かりに眩んだ空色の(もと)、減っていく人並みから外れてマンションへ向かう。

 「お腹すいた。もんじゃ食べたい」

 「いいけど……、スーツに匂いつかない?」

 「だいじょーぶ。しゅしゅっとエアケアしておけば明日もバッチリなんだから」

 「さっきみよの冷蔵庫見たけど、なんもなかったね。材料買ってく?」

 「面倒だから食べに行こう。いつものお店で」

  上京した頃はよく自炊をしていた。実家にいた頃イヤイヤ仕込まれた家事だったけれど、自炊の方が安上がりなんて言葉を信じ頑張って料理をしていたものだ。

  社会人になったら料理する暇も気力もなくなり、案外買って食べる方が楽だし安上がりだと気付いてしまった。彼と休みが合う時は作ってあげることもあるが、平日休みばかりの今の彼とは一、二度は作ったことがあっただろうか。

  『女は手料理して当たり前』なんて偉そうに言っていた前の彼とは違い、外食でも冷凍でも作らなくても、今彼は何も言わないから全然作らなくなった。

  一人暮らしにしては大きめの冷蔵庫がここ数年、お酒やつまみの保管庫となっていた。

 「餅と明太子は外せないでしょ? それからベビスターも入れたい」

 「いいね。キムチは?」

 「うーん。あと一日いけば休みだし、頼んじゃおうっか」

  始めはもんじゃ焼きなんて、ドロドロに混ぜて焼くだけの変な料理だと思っていた。おやつなのかおかずなのか、粉物なのか汁なのか、なんだかよく分からないごちゃ混ぜの食べ物。見た目もゲーッと思ってしまい、縁のない食べ物だと思っていた。

  だけど東京の食べ物だからと、怖いもの見たさで友人と試してみたら、思っていたよりも美味しい。キャベツとソースのせいなのか、小麦粉が全部繋いでしまうからなのか、色んな組み合わせでつまみ感覚で楽しめてしまう。小さなヘラで念入りにおこげを作るのも楽しいし、焼けるのを待ちながらダラダラとおしゃべりに興じるのも楽しい時間だ。

  そんな緩やかな時間を一緒に楽しめる、今の彼が好きだ。




 約束の日、上司に職域の人と飲み会へ行くことを報告し、H磯と、もう二人の同期と一緒に駅にいた。

 男女比同数だから合コンみたいだが、これはただの飲み会だ。仕事につながればこちらは嬉しいし、お互い職場でさらけ出せない話しをして気晴らしになってちょうどいい。──そんな理由で(もう)けられた機会だった。

 客と営業という立場を超えて、ただの個人として付き合うだけの時間。同期も先輩たちもみんなやってるし、サークル飲みみたいな時間が、楽しい気持ちを引き連れてくれる。

「いつも菰田が言ってる人たちだよね? 顔はいいの?」

「ふつーよふつー。つーかI島って面食いだっけ?」

「そうだよー。ひとりでもイケメンがいれば儲けものじゃん。顔が命」

「なら諦めな。イケメンなんてそんな簡単にいないから」

「みんな独身でしょ? 全員医療保険に入ってくんないかな」

「獲物を狙う目やめーよ、N村。仕事終わりなんだから、仕事の話はナシだかんね」

「言ってみただけだってー」

 明日は休みということもあって、同期もテンション高めだ。四方から流れる音質の悪い音楽と集まる人波に、向き合う同期の声も大きくないと届かない。クラブにでも迷い込んだかのような賑やかさだ。

 男子もいる飲み会なんていつぶりだろう。

 昔の楽しかった時間まで蘇り、浮かれて街に踊り響くようだ。


 某居酒屋の個室。八人がぎゅうぎゅうに収まる、少し狭めの空間に案内された。

 ガチャンとジョッキをぶつけ乾杯をすると、営業と顧客という顔は早々に破り捨てられる。

「五個上の先輩がさー、男に厳しいくせに女子には甘いの。令和の時代に男女差別なんて流行らないでしょー」

「学生の頃、バ先にそういう人いたわ。男子には大変な仕事振って女子には簡単な仕事ばかり回してくれたから、私的にはラッキーだったけど」

「そうそう。優遇してくれるのはありがたいんだけどさー。女だからって理由で優遇されるのってキモくないですか?」

「仕事だって本当にできる人でもいるのに、性別で区別されるのって嫌ですよねー」

 アルコールの勢いか、I島とN村はT元とM藤とどうしようもない愚痴で盛り上がり酒が進んでいる。

 S木とY中、H磯はこの空気に馴染まないのか、ぎこちなく会話しては沈黙と愛想笑いがぽつぽつり出る。だが、この三人はっちゃけるタイプでもないだけに、飲み会という席ではこれが限界なのだろう。

 微笑えましい三人に相槌を打っていると、M藤が大きく腕を上げた。

「――――いいじゃんT元! それでこそ男だ!」

「えー、本気ですかー?」

「男前ですねT元さんって!」

 バシンと隣に座るT元の肩を叩くと、I島とN村がきゃーっと可愛いらしく歓声を上げていた。

「S木もY中もいっちゃえいっちゃえ。こういうのは勢いが大事だから」

 バシバシと叩かれるT元はご機嫌そうだった。

「なんの話?」

「保険にはいろっかなって話し。また今度N村ちゃんに契約を頼もうかなって話しをT元がしてて」

「はぁ、また今度ぉ――――?」

 誰も、その言葉を誰も見逃さなかった。

「こんなこともあろうかと、――――申込書、ありますよ」

 四人でカバンからプラケースに納められた、カラフルな書類を取り出した。

「告知が簡単な、がん保険と損害保険の申込書です。はい、どうぞ♡」

 奥手に振る舞っていたH磯までも、カチっとペンを鳴らしクリップボードに挟んで、向かいに座るS木へ手渡していた。

「……って、俺もかよ」

「M藤さんもまだまだ保障が完璧じゃないですからねー。がん保険もサブスクみたいなもんなんで、ここは勢いでぐいっといっておきましょ」

 端に座るM藤に書類を手渡すと、大人しく受け取った。

「しょうがないなぁ。みよちゃん可愛いから言うこと聞いちゃう♡」

「ありがとうございまーす♡ 書類の書き方はI島に聞いて下さい」

 席を立ちあがり、この場を離れようとするとM藤の手が伸びてきた。

「どこ行くの?」

「いやだなぁ。お花を摘みに行ってくるだけです。少し飲み過ぎたみたいで」

 机の上に、空いた皿と空のジョッキが増えている。

「ついでに机の上のいらないものを下げてもらうよう、店員さん呼んで来きますね」

「気が利くね。上司に報告でもするのかと思った」

「それもしてきますー」

 顧客との飲み会を上司が許すのは、こういうことがあるからだ。どこに機会があるか分からないからこそ、備えは常に用意しておけと、日々の朝礼で言われ続けている。

 接待は禁止だが、業後の余暇の時間個人の付き合いを禁止するものではない。個人の繋がりから契約が取れることもあるからだ。

 だから今日は、年の近い者同士のただの飲み会。

 トイレから出て、上司へこの件を報告しておこうと菰田がスマホを取り出した。

「良かったねみよちゃん。お友だちも面白い人が多いんだね」

 顔を上げるとM藤だった。ジャケットはなく、ネクタイを緩めている。

 人気(ひとけ)のない通路、店の声は遠い。いつも休憩所で話す間柄なだけあって、居酒屋という場所が少しだけ不思議だ。

「ありがとうございますー。みんないい子でしょう? 緊張してるのがひとりいますけど」

 一瞬だけ見えた、彼からの帰りを心配する言葉をサイドボタンで消す。深く酔うまで飲むことなんて、加減の分からない二十歳(はたち)だった時とは違うのに。――――温かくもおせっかいな心配にくすりと笑う。

「H磯ちゃん、だっけ? 明らかに緊張してたね」

「女子高、女子大と女(まみ)れの環境にいたらしくて、男子はちょっと苦手みたいです」

 『彼氏が欲しい』と口にする割に、本気じゃないのは前から気付いていた。学生の頃も今も周りは彼氏持ちばかりだったから、周りから浮かないよう取り繕っているのだろう。

「へぇ――。もしかして生粋のお嬢様?」

「そうなんですよー。毎年家族で海外に行くし、いまだに仕送り貰ってるみたいで。お小遣いがまだもらえるなんてうらやましすぎ」

「あぁ~、大事にされてるんだ。そりゃあお嬢様だわ」

「それが逆にコンプレックスみたいですけど。私なら貰ったお小遣いで、舞浜のリゾートホテルに泊まりに行くのに」

 開園も閉園も気にせず、荷物も置いてパークへ一日中遊びに行くだろう。ベランダから楽しい場所を好きな時間で眺められるのもいい。

 いつかやりたいと、彼とボーナスを溜めて計画しているひとつの楽しみだった。 

「なんだそんなこと。俺だったらすぐにでも連れて行ってあげるのに」

 たまに同期と思い立って、仕事終わりにパークへ行くこともある。職場が丸の内で良かった最大の利点だ。

「頼もし~。彼女さんもM藤さんみたいな人と一緒になれて、さぞ幸せでしょうねー」

「みよちゃんの彼はそんなことしてくれないの?」

「えぇ。でも一緒に予定を立ててくれるし、私に付き合ってくれるだけで充分ですよ。――――前の彼は最初の頃はデートも気合を入れてましたけど、だんだんうちに入りびたって世話を要求されて最悪でしたもん」

 社会人になってすぐに付き合った相手――。年上で頼れるところがいいと思ったが、世間知らずの女に威張りたいだけの男だった。

「でも結構付き合ってたんだろ?」

「そうですけど、身体の相性も最悪だったので、捨ててやりましたとも」

「短小で自分勝手な奴だったんだろ。振って当然だよそんなの」

「えぇ。クロビでも見てひとりでしてろっての」

 人を使って自慰でもしてるかのような関係に、もっと早く区切りをつけるべきだった。だが、別れるというのは付き合うよりも大変だ。もめにもめて、暴力沙汰寸前までいったのも最早笑い話だ。

「今まで何人と付き合ったの?」

「学生の頃も含めて……、三人です」

「それって、盛ってるでしょー? 今変に間があった」

「さぁ。どうでしょうね」

 いつまでもこんな場所で、いつまでもふたりで話すのはM藤の恋人に悪いだろう。会話を切り上げようと、笑顔ではぐらかした。

「そろそろ戻りません? っていうかトイレ行くならどうぞ。私は先に戻ってますから」

「はいはーい。戻ったらお酒追加しておいて。みよちゃんもまだ飲めるんでしょ?」

「もちろんです」

 そう言ってやっとひとりになると、上司に今日の成果を伝えた。――――何より大事な成果だ。個人情報を酒の入った状態で来週まで持たせるのは不安ということで、あまり飲んでいないH磯にオフィスに持って帰ってもらうこととなった。

 H磯にと名を出したのは菰田だが、上司は納得して電話を切った。

 本人が望んでいる姿を見せようとも、無理してどうこうなることでもないだろう。彼氏が出来ようが出来まいが、H磯であることは変わらないのだから。 

「じゃ、H磯任せた」

「上司命令じゃ仕方ないよね。気を付けて会社に戻るんだよー」

「私たちの成果、ちゃんと届けてよ」

 菰田とI島、N村はH磯に大事がないようにと釘を刺しつつ背中を押した。

「あんたらねぇ……。契約してくれた皆さんの前でなんてこと言うの。――――皆さんの大切な個人情報なので、私が責任をもって会社に保管してきます」

「可愛い顔してみんなほっんと容赦ない……」

「いいじゃないですかー。本当に困ったときの助けになるものなんですから、絶対無駄になんかなりませんよ」

「そうですよー。私も昔から仲良くしていた友だちに営業するのを避けていた時、ガンが見つかって後悔したことがあるんです。仕事も普通に続けられなくなって、収入が減って苦労していました。……相手のことを真剣に考えているからこそ、こうして真面目に営業掛けてるんです」

 I島がずっと後悔している話だった。保険の営業なんて、実際に活動してから親がいい顔しなかった理由を理解した。

 暗い未来に備えるための商品。手元に残る形もないのに、金だけ取る仕事だ。健康で恵まれた人々から嫌がられることが当たり前で、話も聞いてもらえない。だけど数字は待ってくれない。

 孤独でつらいと思ったこともあったが、契約者から相談されたり、困っているときに役に立てるのは嬉しかった。

 使わないに越したことはない『保険(しょうひん)』だが、あって良かったと言われることも多い『保険(しょうひん)』だ。

「人生、何があるか分からないから備えておきましょう」

「保険ってそういうものなんです」

「入ろうと思ったときに入れないのも保険ですから。しかも! 年齢が上がるごとに人生のリスクも増えるだけに、若いうちが一番お得なんですよ! 本当に!」

 ずっと離席していたM藤が戻り、同時に店員が新しいジョッキを人数分運んで来た。

「あーわかったわかった。もう保険はいいから、飲み直そう」

 大事なものがこの場にないだけに、I島もN村も先ほどより気が楽になったようだった。

 H磯がいないのは寂しいが、本当の意味で仕事から解放された夜に、菰田もいつもより多くアルコールを飲んでしまった。




  昼間に暑いと感じることはない。

  自分の部屋に戻り、寝ようとすると暑くて眠れなくなってしまう。

  部屋の温度も室温も異常はなく、体温も平熱。病院で一度観て貰ったけど、どこにも異常はなかった。

  なのに――――、冷蔵庫の冷たさだけが、熱を持つ身体に心地よい。

  室温は約3℃から6℃――――。雪は降らないけど、冬の寒い日と同じくらいの温度だ。

  地元では、冬の支度を始める頃だろうか。しばらく里帰りしてないだけに、思い出すのは古い記憶ばかり。雪の降る前、近所を駆けまわった小さい頃。あの時はあの日の一瞬のことだけ考えて生きていた。怪我をしても泣いても、次の瞬間には別の興味に移って転んだことも忘れてしまったことばかり。

  上下に区切る棚を外し、中に入れば狭いながらも心地よい――――。冷蔵庫の中だけが、■■に安息をくれる。

  ちゃんと眠れるのだから私は大丈夫と、■■は自分に言い聞かせて今夜も眠る。




 身体が重い。頭が痛む。喉が渇いた――――。

 手を伸ばすと、何もない。だがなんとなく羽毛布団みたいなふくらみとカサカサと布の擦れる音がする。

 そして、知らない匂いだ。心地よいとは言えない、他人の匂いが油のように染みくような不快感に目を開ける。

「……ここ、どこ?」

 安っぽいソファに、古めかしいローテーブルと乗せられた白い袋が視界に入る。広い部屋だけど、はげかけた壁紙と色とりどりのライト。テレビだけは大きくて薄い形で新しい。電源が落とされ真っ暗だけど、小さく音楽が聞こえる。

 高い天井に大きなスピーカーがあり、そこから音が届くようだ。――知ってる部屋の作りに、身体を起こす。

「――――どうしてホテルなんかにいるの、私」

 ベッドボードに並ぶ銀色の装置が、この部屋の照明に音楽、テレビまで管理できるようになっている。大きなダブルベッドの堅さがいわゆるラブホのものだと気付く。

 記憶がない。

 身に着けている服は仕事用のスーツだ。スカートのポケットにしまってあるスマホを見ると、とっくに1時を過ぎている。もちろん夜の1時だ。

 彼からのメッセージがそのまま画面に通知で表示されるだけに、飲み会ここに来たらしい。

 メッセージの通知はH磯からも来ている。申込書は上司に預けることが出来たこと、無事に帰れたのかと気遣うメッセージ。他にも一緒にいたI島とN村から感謝の言葉と、無事に帰れたというメッセージが届いていた。

 みんな無事に帰れたことに菰田は安心するも、どうしてここにいるのか分からなかった。

 重たい頭で見回すと、シャワーの音が聞こえる。

 彼が迎えに来てくれたのだろうか。

 だけど今日は仕事だったはずで、気遣う連絡も5時間ほど前に届いているだけだ。その後やり取りした形跡はない。

 ソファの上に菰田の鞄があった。財布や鍵など、貴重品は無事かと確かめる。

「――――起きたんだ。からだ大丈夫?」

 ドアが開けられると同時に、濡れた髪のまま姿を見せたのはM藤だった。

「……あー、もしかして面倒をかけてしまいました? すみません、アルコールは強い方だったんですけど」

 茶色のバスローブに濡れた身体を隠し、心配するようにこちらを伺っていた。

「いいっていいって。こっちも調子に乗ってみよちゃんにお酒を勧めちゃったし。シャワーでも浴びてくれば? どうせ終電もないんだし、サッパリしちゃいなよ」

「あはは……。自分にびっくりしすぎて、もう全部抜けました。ご迷惑をかけしてすみません」

 深々とお辞儀すると、視界が揺れる。意識はしっかりしているが、身体はまだ酒に酔ってるらしい。ふらつく足に、ガラスの天板が危うげなローテーブルにぶつかりそうになる。

「大丈夫じゃないじゃん。もうこんな時間だし、他に誰もいなんだから楽になりなよ」

「いやいや……。こんなの、まずいじゃないですか」

 軽装でまだ水滴のつくM藤に腕を取られ、ぶつかりそうになったローテーブルから引き離される。

 営業先の人で、恋人のいる人だ。仕事の合間に雑談して、お客になってくれただけの人。仕事終わりにパッと気晴らししたくて、集まっただけの相手だったはずだ。

 終電を逃して酔いつぶれたからといって、こんな場所にいるのはバカすぎる。

 距離を取ろうとするが、掴まれた腕が離れない。

「あぁ。もしかして俺の彼女に遠慮してるの? 大丈夫。今日は飲み会で朝帰りだって伝えてあるし、みよちゃんのことは言ってないから安心して」

「――――――はい?」

 素っ頓狂な声が出てしまった。心配させまいと彼女に伝えた、と言うことかと遅れて理解する。

「終電を逃しちゃったんだ。帰れないのはどうしようもない。みよちゃんも明日は休みだし、彼も仕事なんだろ」

「そうですけど……」

 ジャケットに皺がつきそうな形になる。部屋の脂っぽい匂いと、M藤からする安っぽい洗髪剤やボディーソープの匂いが酔う身体にきつい。だから離れたいのに、掴む腕は部屋の中央へ引っ張られる。

 遠ざけようとする考えが、確信に近付けられるみたいでぐるぐると身体の中が荒れ始める。

「ここまで来たんだ。やることなんてひとつだろ?」

「――――、やる訳ないじゃないですか~もう~」

 無理やり離れようとするけど、掴まれる腕に力を入れられるだけで、びくもともしない。

 出来るだけ穏便にこの場を切り抜けたい。じゃないとまた来週職域で顔を合わせるなんてこと出来ないし、今日の成果も枕で取ったと誤解されてしまう。

 ちゃんと仕事しているのに、そんなの嫌だ。

「一回だけでいいから!」

「あはは~、絶対無理。まさかM藤さんも酔ってますー? こんなことして彼女さんに悪いと思わないんですかー。ダメですよー」

 笑顔を作りながらM藤の指を一本一本外そうとすると、後ろからもう片方の腕を回され、体をホールドされる。身動きが取れず、触れ合う温度が不快だ。

 酒のせいで乱れる脈拍が鼓膜の奥まで届いた。身動(みじろ)ぎしても拘束する腕から逃げられる気がしない。

「彼女とみよちゃんは別でしょー。ほら、前に言ってたじゃん。結婚するまでは遊びたいって」

「……やだな~。あれは別に男遊びがしたいって話しじゃないですよ」

 身体中を巡る焦る気持ちは激しいのに、どこまでも急速に血の気が引いていく。息まで冷たくなってしまったのではと思うほど、指先が凍えるように震える。

「同じようなもんでしょ。それにこの仕事を選んだのも、男漁りが出来るからでしょ」

「――――は?」

 耳元で囁かれるバカみたいなセリフに、頭の中が白くなる。

「……冗談でも、言っていいことと悪いことがあるでしょ、M藤さん」

 先ほどはノリで契約を取ったけど、最初の提案は真面目だった。中身を気に入って契約してくれたものだと思っていたのに――――。

 近い呼吸も体温も、全部あり得ない。

「ここまで来て、何もなしなんてないでしょ。一回だけでいいから、今夜だけ俺と寝てよ」

「むりむり、本当に無理ですって。絶対いやだって――――」

 身体を押さえつける腕が締まり、息が苦しくなる。

「処女じゃないんだから別にいいでしょ。他の男とも寝たことくらいあるのに、俺はダメなの?」

 嫌だと抵抗しているのに、聞く耳を持たないのはどうしてなのだろう。分かりやすく暴れてみるも、背の高い男にそのままベッドへ投げ捨てられる。

 解放されるがまま、スカートの裾の行方も気にせず反対側に逃げる。

「……そういう問題じゃないですよね? 私にも今付き合っている人もいるので、他の人とはしたくないです」

「ひとりやふたり、変わらないって。それに試してみないと分からないこともあるって言ってたじゃん。前彼はへたくそな上に、入ってるかどうか分からないくらい短小だったんだろ? 今の彼はどうなの?」

 確かに前の彼が最悪すぎて、良くネタにしていた。あの時の鬱憤を晴らすように、口が軽くなっていたのは事実だ。

 だがそれは元カレの話であって、それ以上の意味はない。

 ベッドを挟んで対峙するも、入口も荷物も男の後ろだ。窓もなく広くて狭い空間からどうやって逃げればいいのか、頭が回らない。

「むりむり、本当に無理です。……彼女がいるのに他の女に手を出すクズ野郎だなんて、思ってもなかったです」

「彼女と遊ぶ女は別。――――普通、そういうものでしょ」

 何度も何度も嫌がっているのに、受け取ってくれる気配がどこにもない。ニタニタと笑う顔が、何を期待しているのか想像がつく。

 こんな奴に絶対私を渡したくない。

 外から分からないよう隠された窓に救いはない。浴室も鍵がついてないのが見えるだけに、トイレにもついてないだろう。

 だってこの場所は、そういう(・・・・)部屋だ。

 重たい鉄扉に、四方逃げ場のない空間。音楽で打ち消される音が、いろんな行為をなかったことにしてくれる。下がり過ぎて壁にぶつかると、隣の部屋の声がうっすら聞こえる。

「あのさ――――、みよちゃんばかりいい思いしてるんだから、俺に分け前をくれてもいいと思わない?」

「……いい思いなんてしてませんけど。何か誤解してませんか?」

 仕切るものも守ってくれるものもない上に、力だってない。片腕を掴まれるだけでどうしようもないというのに、男はヘラヘラと笑う。

「今日も契約してあげたじゃ~ん。しかも今日来たお友だちの分も契約が取れて嬉しいでしょ。しかも四人分。――――協力してあげたのに、そんな冷たくしなくてもいいじゃん」

「……頼んでないです」

「そう言ってあの時喜んでたじゃん。俺が今日の飲み会をセッティングしたおかげって分かってる? 鉄だった見返り分くらい、俺にくれたって減るもんじゃないでしょ」

 『若いアンタと話したがる相手はいるかもしれないけど、仕事に繋がらないでしょそんなんじゃ』と、先日言われた先輩の嫌味のような指摘が脳裏に響く。

 チャラチャラしてても、仕事はしているつもりだった。

「こんなことのために手伝ってくれてるなんて知ってたら頼まなかったです。――今日は帰りましょうよ、M藤さん」

「帰るって、みよちゃんちに? あぁ――、ホテルより家でしたいタイプ? 潔癖症なんだ」

 ベッドをスリッパのまま乗り越え、悠然とやってくる。

「本当に無理なんで、近付かないでくれますか」

 顔が引きつり、その場にしゃがみ込む。スカートに入れたスマホが重く床にぶつかる音がした。

 電話をすれば――――。

「いやいや言われとそそるんだよね。彼女にはこんなこと出来ないし。多分Sの気があるんだ、俺」

 どうでもいい情報と共に、片腕が掴まれて立ち上がらされる。


 こんな時、どうしたらいいのだろう。


「たまには、今夜はお互い恋人のことは忘れて楽しもうよ~。いつも話してて気が合うなって思ってたんだ」

 掴まれる腕も痛いし、乱暴に顔を上げようと掴まれる顎も痛い。

「分かった、キスはしないから。それでいいでしょ?」

「絶対にいや」

「え? なんだって?」

 楽しげに笑う男は、イエス以外の言葉が届かないようでわざとらしく聞き返す。

「……こんな人だと思わなかったです」

「へぇ。どう思ってたのか知らないけど、俺はこんな人だよ。少し強引なくらいが好きだって、みよちゃんも言ってたじゃん」

「あんたに言った訳じゃ――」

 なんとか逃げようとするも、へらへらと笑う顔がすっと消えた。

「協力した俺の好意を無碍(むげ)にするの? ――――契約ってすぐ切るとペナルティがあるんだよね? 前のも今日のも、俺もあいつらもみんな解約してもいいんだよ?」

 ペラペラと話したことが、全部自分に返って来る。

 どれも、そんなつもりで話していた訳じゃないのに。

「H磯ちゃんだっけ? 今月数字がやばいって言ってたよね」

 低い声にH磯を語らせてしまう。

「他の子もあんなに喜んでたのに、いいのかな。オフィスの数字にも響くよね? 四人も一気に解約しちゃったらさー」

 こんなつもりで同期を呼んだ訳じゃなかったのに。

「どうする? まだ嫌だって言う?」

 決まった返事しか求めてない男は、そう言った。




  深夜のこんな場所で、どうしてこうなってしまったんだろう。

  いい気になってお酒を飲んだせい?

  誰かの気に掛けてくれる声をうるさいと思ったせい?

  数字は欲しいけど他の場所にも機会はあったはずで、こんな事をする為じゃない。

  確かに男性経験はあるけど、それはこんな事の為じゃない。




「……やってくれたわね菰田」

 週明け、お昼の営業に行く前に上司に呼ばれた。

久磯(ひさいそ)から聞いたわよ。なにやってんのよアンタ……」

 大きな窓から燦々(さんさん)と昼前の光が、二人きりのオフィスに入る。遠くに見える緑も広い空も変わりない色をしている。

「嫌だってちゃんと言ったんですけど、帰れそうになかったので。仕方なかったんです」

 週末、いつもならどうでもいいやり取りをするのに、既読が付かないと電話をくれた久磯に経緯を伝えた。

 隠し事が得意ではないし、やらかしを誰かに聞いて欲しかっただけだった。上司に報告した久磯を少しだけ恨む。

「みんな帰ったって聞いたから安心してたのに。どうしてお持ち帰りされてるのよ」

「飲み過ぎちゃったみたいで、覚えてないんですよねぇ」

「アンタ飲める方でしょ? そんなやらかしするなんて珍しいわね。とーにーかーく、今日は行かなくていいから。担当を外れて貰います。どうしてか分かるわね?」

「はい」

 上司の決定だ。受け入れるしかない。

「しばらくはここで電話営業なさい。後任が決まったら担当職域に行くことになるけど、私も付いて行くからね」

「はい」

「……話は終わり。私も出なきゃいけないから、また後ではなそ」

 颯爽(さっそう)とオフィスを出ていく上司を見送り、賑やかだけど何の音もない静かなオフィスにひとり居残る。

 自分の席に電話とPCとメモを用意し、これからどうするかと思案する。

 ――先日の件は久磯にも話したけど、彼にも説明した。

 あれは野良犬に噛まれたようなもの。不慮の事故を責めることもせず、話を聞いた彼はただ心配をしてくれた。

 こちらを気遣っているのだろう。尻軽と罵られたって仕方ないことをしたのに、ただ優しいばかりの彼に冷めてしまった。

 こういう時、何バカなことをしてるんだと、非難し(なじ)られる方がまだ身の置き場も見つかるというのに――――。

「菰田――――」

「……久磯。もしかして忘れ物でもしたの」

 呼ぶ声に顔を上げると、まだ直接話してない友人がそこにいた。

「うん……。大丈夫? 大変だったよね。先に帰って本当ごめんね」

「……多分前からヤレるって目を付けられてたんでしょ。いかにも頭の軽い女だって、見るからに分かるもの」

 可愛いものが好きだった。目を楽しませる可愛いもの。心を癒す可愛いもの。気分を上げてくれる可愛いもの。

 それは全部、バカな女のシンボル。

 頭の軽い女らしい、周りからバカにしてもいいと箔を押すような代物で、まともな人は大人になると共に卒業していくもの。――――そんな他人が気にならないくらい可愛いものが好きだったけど、どれも今は心を温めてくれはしない。

 アクセサリーにペン、カバンに手帳。一目で分かるくらいには可愛いもので揃えていたからバカだと思われていた。――――スーツもライトグレーの地味ながらリボンがついており、フレアスカートのものしか選ばなかったけど、久磯みたいなパンツスーツが似合う女で。――最初から、そういう系統が好きだったら良かったのに。

「そんなことない。菰田が明るくて付き合いのいい、優しい子だって分かってたから向こうが付け込んだんでしょ」

「負い目に感じなくていいからね。知ってると思うけど、別にこれが初めてじゃないし、失うもんなんかないんだから」

「菰田」

「ちょっとびっくりしたけど、私は大丈夫だから心配しないで」

 久磯の席は離れているのに、こちらにやって来て、隣の椅子を引き寄せて座った。

「いつも私たちは、『人生、何があるか分からないから備えておきましょう』って言うけど、それって事故とか病気に対してだけですよね」

 重い鞄をドンと机に置き、畏まってこちらに向かって座る久磯がそう切り出した。

「うん……? ロープレ?」

「だけど突然の暴力に最初から備えている人なんていないし、守ってくれる保障も保険もどこにもないと思うんだよ」

「備えって……、護身術を習うとか、防犯グッズを持つとかできることはあるんじゃない」

「でも護身術も防犯グッズも、その辺にあるものじゃなくてコストのかかるものですよね? まして護身術なんて一朝一夕で身に付けられるものではないし、男女で力の差がある以上いくら頑張っても埋められない溝がどうしても生じてしまうと、菰田さんも思いませんか?」

 自信でも忘れてきたのだろうか。唐突なロープレ調のやり取りに渋々付き合う。

「それはどうでしょう。スタンガンでも持ってたら話は変わって来るんじゃないですかー」

「スタンガンを家や職場に設置しておくのは合法ですが、理由なく持ち歩くことは軽犯罪法1条2項に接触する行為です。絶対にやめましょうね。護身のために携帯しているというのはあまり理由として認められないらしいので」

「へぇ、そうなんだ。久磯詳しいね」

「週末調べてみました。持ち歩けるんだったら、今すぐにでも電気ショックを食らわしてやるのに」

「そんな物騒なことを週末考えたの? 久磯こわ~い」

 綺麗な顔に似合わず据えた目で睨む久磯が、先輩に似ているので思わず笑ってしまう。

「ずっと考えてた。私に出来ることって何かあったのかなって……」

 湧いた気持が冷めていく。

「友だちが大変な時に、駆け付けられなくてごめんね」

「……私は大丈夫だって言ってるじゃん」

 冷蔵庫に心を仕舞う。空っぽで冷たい温度が腐敗から遠ざけ、自分という形を残しておいてくれる。

「だから、――どうしようもないことに菰田は巻き込まれたの。菰田は何も悪くないからね。相手がゴミカスの最悪で、酔った相手に付けこんだだけのクズ野郎ってことだから」

 久磯はいつもの笑顔なのに、口から出る罵倒がえげつない。

「何が出来るか調べてみたんだけど、もし菰田が話せるんだったら被害届、一緒に出しに行こう。時間が経ってるから受理してもらえるか分からないけど、のうのうとアイツが平気でいるなんて許せないもん」

 キッとこちらを睨む久磯の目に、大きな粒が出来ていた。

「上司も今回の件、相当怒ってたよ。もちろん菰田じゃなくて、相手にね。――私も上司に職域を交換してもらうよう頼んだんだ」

「はぁ? あんた何言って――」

「だってムカつくじゃん! 菰田のことをバカにしやがってって。私はずっとはらわた煮えくりかえってるから」

「そんなことより忘れ物したんじゃないの? さっさと仕事に行きなさいよ。自分の数字のことだけ考えて、余計なことは他の誰かに任せておけばいいの」

 こぼれる涙にティッシュを渡す。

「菰田! 私は怒ってるんだからね! 菰田が怒らないなら余計に!」

 手で(ぬぐ)いながら、訳の分からない宣言を久磯がして椅子を蹴り立ち上がった。

「えぇ……。怒らせてごめんって」

「謝るなー! 菰田も一緒に怒ってよ! なんで私ひとりで怒ってるの!?」

「知らないよ」

 転んでぽろぽろと涙をこぼす子どもみたいに怒りを表明する久磯の化粧が落ちてしまう。マスカラの繊維も涙と一緒に流れ、アイラインも(にじ)んでしまっている。

 チークもファンデも涙の跡が残りよれてしまったら大変だ。ティッシュで目元を拭うと、菰田の肩に頭をもたれた。

「嫌な目にあったんだから、泣いて怒っていいんだよ。諦めて受け入れる必要なんてないんだよ」

「――――そうかもね」

 久磯のように、感情のままどこかに怒りが向けばよかった。だけど形を失った心は全身で怒りを表明してくれる久磯のようになれず、元の形のままそこから出してしまえばきっと正気でいられない。

 冷蔵庫に仕舞ったって腐る時は腐るのにと、どこからともなく冷静な声が菰田に届く。

 だけど友人が触れる熱は心地よく、一生懸命泣いてくれる彼女をずっと(なだ)めた。

 今日も、ここでやっていくしかないのだ。菰田も久磯も――――。

 他の誰もが日々折り合いをつけて、過ごすのだ。

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