本に埋もれたさざ波の音
夏の暑さが本格化するエメルキア王国の8月。
このハズヴァルド学園では1年が前期と後期の2つに分けられており、この8月は前期の最後の月となっていた。
ここを乗り切れば長期休暇、1カ月丸々の休みを迎えることができる。
「もうダメだぁ!!おしまいだぁ!!」
だが当然、学期の区切りとなれば今まで学習してきた内容を試される試練が用意されているものだ。
端的に言えば期末試験。
大半の学生にとって試験など憂鬱なイベントでしかなく、アレスが所属する1-7でもマグナを筆頭に迫りくる試験に頭を抱えていた。
「諦めんじゃねえ!まだ期末試験まで2週間近くあるじゃねえか!!」
「それが耐えられねえんだ!!そんな長い間勉強し続けたらおいら死んじまう!」
「お前は学力がギリギリなんだから勉強し続けるしかねえんだ!嫌なら9月は補習ですべてを過ごすんだな!」
「それはもっと嫌だぁ!!」
昼食後、アレスたちはクラスに残り期末試験に向けての対策を進めていた。
机に突っ伏して干からびる寸前なのは普段から座学は苦戦しているマグナ。
そんなマグナにアレスを中心に成績がいい生徒達は分からないところがあるクラスメイト達に勉強を教えていたのだ。
「じゃあ泣いてないで教科書開け」
「でもよぉ……薬草学は4番目くらいに苦手なんだ。教科書を見てるだけでもくらくらしてきて……」
「4番目でそんなんじゃそれ以上のはどうなるんだ……」
「ですが薬草学が他の教科と比べて少し難しいのも事実ですね。それだけ必要な知識ということなのでしっかりと学んでおいたほうが良いですが」
「私もあまり得意という訳ではないですから上手に教えられるかは自信がないですね」
「1番得意なのは多分ソシアだろ。ソシア!今ちょっといいか?」
「なあにアレス君?今ちょっとメアリーさんに数学を教えてて」
「なになに!ソシアちゃんがそっち行くなら私も聞きたい!薬草学は私も苦手だもん!」
「そうだ。ソシア先生に薬草学の授業をして貰いたくてな。お前得意だったろ?」
「うん、小さい頃から勉強してたから。でもそれならちょっと時間を貰ってもいいかな?この前図書室で薬草学についての良い感じの本を見つけたから、それを使って説明したくて」
「それなら僕も心当たりがあります!僕も一緒に行って探しますよ」
「ありがとうジョージ君」
「おう、じゃあその間俺は繋ぎでこいつに教えてくからよ」
薬草について詳しく学べる本を借りに行くため、ソシアとジョージは教室を出て図書室へと向かったのだ。
図書室の本は当然ジャンル別に分けられてはいるが、あまりに蔵書数が多いためソシアとジョージは手分けをしてお目当ての本を探すことにした。
「うーん、何度来ても本が多すぎるよね。これ全部読もうと思ったら一体何年かかるのか……え?」
ジョージと別れ、1人本を探していたソシア。
広すぎる図書室は奥の方に行けば周囲に誰もいない孤独な空間へと早変わりしてしまう。
通路を進み、魔道ランプの明かりが切れかかっている少し薄暗いところへと差し掛かったソシア。
しかしその時、ソシアは図書室では絶対に聞くことはないある音が聞こえたような気がして足を止めたのだった。
「何……今の音。あの音ってまさか……」
「ソシアさん!ありましたよ!!これじゃないですか?」
「あっ、そうだよジョージ君!よく見つけられたね」
「僕もよく印象に残っていたので。それじゃあ早く戻りましょうか」
「うん……あの、ジョージ君。さっき何か聞こえなかった?」
「え?何かって……どんな音です?」
「……ううん!やっぱり何でもない。私の気のせいだったみたい」
(こんなところであんな音がするわけないよね……)
微かに聞こえてきた音に不審がるソシア。
しかしジョージがお目当ての本を探し出してやってきたことで、その音の出所を調べることなくそのまま図書室を後にしてしまったのだ。
このハズヴァルド学園の大図書室は、大量の本を保有しているのはもちろんその歴史的価値も非常に高い。
だから当然本の管理もしっかりしており、広い図書室の温度や湿度も完璧に調整されている。
だからこそ、あんな音が聞こえるわけがないのだ。
ザザァ~ンー……
砂浜に押し寄せる波の音。
湿気が天敵の本を大量に抱えるこの図書室で、そんな音が聞こえるはずが無いと思ったソシアは何もおかしくはなかった。
「おっ、それがソシアのおすすめの薬草学の本か?」
お目当ての本を探し当てたソシアとジョージはクラスに戻り、すでに限界寸前のマグナの目の前に持ってきた本を出したのだ。
「そう!世界の珍しい薬事典!図や面白いお話付きでいろいろな薬を学べるから薬草学の入り口としてはちょうどいいかなって」
「なんだこれ!小難しい教科書と違って面白そうじゃねえか!」
「マグナが生き返ったわね。でも確かに私も薬草学の教科書は難しいと思ってたからこれは興味があるわ」
ソシアが持ってきたのは学問を修める者向けに出版された本にしては面白くコミカルな本。
積極的にわき道にそれていくスタイルのその本は、難しい調合や注意事項がびっしりと書かれた物と違い薬に対する興味をそそり学ぶ意欲を湧かせるような内容になっていた。
「へぇ、若返りの薬なんてあるのか」
「でも若返っても副作用で老化のスピードが速まって結果老けるだけじゃない!美容目的には使えないわね」
「こういう実用的じゃない薬は学ぶ優先度が低くなっちゃうからね。でもそんな薬の方が面白いものはたくさんあるから」
「逆に年を取る薬は副作用もなさそうだな。まあ実用性があるかと言えばなさそうだが」
「子供に飲ませて労働力を確保……と思いましたが体が成長しただけじゃ微妙そうですよね。魔力成長期も飛ばしてしまうっぽいので戦力としても厳しいかと」
「おお!!頭がよくなる薬!!これがあれば期末試験なんか怖くねえじゃねえか!」
「効果は眉唾って書いてあるけどな。もっと研究が必要ってあるし、しっかり薬草学を学んでこの薬を完成させなきゃだ」
「よぉっしゃあ!!頭がよくなる薬を完成させて期末試験を楽勝で乗り切るために薬草学をマスターしてやるぜぇ!!」
「マグナさん、それでは本末転倒かと……」
期末試験の勉強ということで義務感が強くやる気が出なかったマグナだったが、ソシアが持ってきた本のおかげで薬草学に少し興味を持つことが出来たのだった。
その上ソシアは小さなころから深い森の中で暮らし薬草や狩りに使える毒などを調合する術を学んでおり、その知識でマグナ達に薬草学について丁寧に教えることが出来たのだ。
「すげぇなソシア。先生から教わるより全然わかりやすかったぜ」
「先生は全体に教えてるから無理はないよ。でも、私の知識が役に立ってよかったな」
「ああ。本当に凄いと思うよソシア。コツコツと学んできた証だな」
「そ、そうかな?ありがとうアレス君///」
(あれ?もしかしてソシアさんってアレスさんのことが……)
そんな薬草学の知識をソシアはマグナとアレスから褒められたのだが、その時の反応の違いからアリアはソシアがアレスに恋をしているんじゃないかと考え始めたのだ。
よく見ればソシアは度々隣のアレスとの距離感を意識しているようにも思える。
その勉強会が終わるころには、アリアの考えは確信へと変わっていた。
「あの、アレスさん。アレスさんって色恋などには興味はないのですか?」
その翌日。
今日の勉強会は早々に終わり、教室にはアレスとアリアの2人だけが残っていた。
この2人はこれ以前からマグナに勉強を教えるために何度もこのように残っており、教科書では理解が出来ないと贅沢を言うマグナのために分かりやすい資料などを作っていたのだ。
「うん?なんだよ急に」
「いいじゃないですか。もうかなり作業してますし少しくらい息抜きでお喋りしても」
「まあ、いいけどさ。色恋……別に興味はないかな」
机を2つ向かい合わせ、今日も自分たちの復習を兼ねての資料を作成していたアレスとアリア。
しばらくするとアリアが突然恋愛に関する質問をアレスに始めたのだ。
今まであまりしたことがないような内容の話を切り出されたことに少し驚いたアレスだが、このように勉強会の合間に話をすること自体はいつもやっているため深く考えずにその質問に答えた。
「アリアは興味あるのか?」
「それはありますよ。私だって年頃の女の子なんですから」
「うーん、そうだよな。多分俺がおかしいんだよなぁ。あんまり恋愛とかを考える環境になかったから」
「それはアレスさんが育った教会でのお話ですか?それとも王宮の?」
「どっちもだな。教会に居た頃は教会以外の人と会う機会は全然なかったから。皆家族みたいなもんで恋とかとは無縁だったんだ。後は単純に貧乏過ぎて余裕がなかった」
「それは本当に大変でしたね……」
「でもまあ貧しいわりに楽しく暮らしてたし当時はそんな辛いとも思ってなかったよ。あとは王宮に居た時だけど、その時はもう婚約者がいたからな」
「こ、婚約者ですか!?」
「ああ。5歳くらいから婚約者が居たら恋だのなんだのって発想にすら至らないよ」
アリアに恋愛について聞かれたアレスはかつての王宮での暮らしについて久しぶりに語ったのだ。
当時のアレスはS級スキルの剣聖の持ち主としてこの国の第1王女と婚約していた。
王宮内に出入りできる人物も限られており、同年代の友達などいなかったアレスにとって恋愛する環境がなかったのだ。
「婚約者……平民の私じゃ想像もできないです」
「俺も実感があった訳じゃなかったけどな。まあその話も俺が王宮を追い出されて完全に消えたわけだが」
「この国の第1王女様ということはリーザ様ですよね?」
「そうだな。仮にも婚約者だったってことでリーザ様が今何してるか気にならなくはないが……まあ、もう直接話すこともないだろう」
アレスがリーザ姫と最後に会ったのは11歳頃。
その時から貴族ですらなくなったアレスがリーザ姫と会う機会などあるはずが無く、7年近く会っていないリーザ姫にアレスは少し思いをはせたのだった。
(いけないいけない。教室に忘れ物しちゃった……まだ誰かいるかな……っ!?)
だがそんな時、忘れ物をしたソシアがそれを取りに教室へ戻ってきたのだった。
ソシアは開けられていた教室の後方の入り口から仲良さそうに話すアレスとアリアの姿を見つけてしまったのだ。
「でも、王族との結婚なんて少し憧れてしまうかもしれません」
「憧れるだけならキラキラ輝いてるかもな。でもそんないいものじゃないぞ?」
「そうなんですね」
「ねえ2人とも!何してるの?」
王族との結婚生活に少しの憧れを抱くアリアはアレスとの会話に身を乗り出していた。
そんな2人の会話がソシアには親しげなものに見え、放っておくことができないソシアは2人の会話に割って入っていったのだ。
「おお、ソシアか。どうして戻ってきたんだ?」
「うん、ちょっと忘れ物をしちゃってね。それでアレス君とアリアさん、何をしてるの?」
「別にいつも通りマグナに勉強を教えるための準備だよ」
「へぇ、いつも2人でそんなことしてたんだ?」
ソシアは笑顔を保ったままアレスに何をしていたのか問い詰めた。
今までミルエスタ騎士団に行く機会が多かったソシアはアレスとアリアが放課後に勉強会を開いていることを知らなかったのだ。
そしてソシアはその話の流れで椅子を持って来るとアレスの隣に座ったのだ。
(うわ!ソシアさん、思ったよりぐいぐい来るんだ……てっきり奥手なタイプかと……)
(い、勢いでアレス君の隣に座っちゃった/// でも少しずつでもアピールをしていくことが大切だよね!)
「お前も資料作り手伝ってくれるのか?」
「う、うん!私も一緒にやるから、これからは私にも声をかけてよ」
(あっ!やっぱりこれアレスさんがソシアさんの気持ちに全く気が付いてないんだ……)
「そ、それじゃあ私ちょっと用事を思い出したから!今日は先に失礼しますね!」
「お?そうなのか。用事があるならこんなの優先しなくて俺に任せてくれればよかったのに」
「私も勉強になって助かってるから。それじゃあまたねアレスさん、ソシアさん」
ソシアが嫉妬していることに気が付いたアリアは今日はこれ以上止まらないほうがよさそうだと考え、2人を残して教室を後にしたのだった。
「ふぅ、危なかった。争いの種になりたいわけじゃないからね。確かにアレスさんはいい人だと思うけど……っと、こんな事をソシアさんに聞かれたら大変なことになっちゃう」
そんな独り言を呟きながら、アリアは教室を離れ1人図書室の方へと歩いていったのだ。
復習を兼ねていた勉強会。
アリアは早めに切り上げてしまった分を、図書室で自習をすることで補おうと考えていた。
(さてと、お目当ての本を探すだけでも一苦労だわ。ジョージさんならいろいろと詳しいんでしょうが……)
ザザァ~ンー……
「……え?」
アリアが静まり返った図書室で1人本を探していると、ふと遠くの本棚の方から聞き慣れない音が聞こえてきたのだ。
海がないエメルキア王国で育ったアリア。
大きな湖でもなければ砂浜に押し寄せる波の音など聞く機会もなく、アリアは不思議な音に吸い寄せられるように奥へ奥へと歩いていったのだ。
(水の音?こんな本ばかりの場所で?)
ザザァ~ンー……ザザァ~ンー……
(だんだんと音が大きくなってきた。でもこの辺りに水場なんて見当たらないのに……)
ザザァ~ンー……
「え?まさか……本棚の中から?」
波の音の出所を探して歩き回るアリア。
周囲にそんな音が出そうな水場はなく、同じようなところをぐるぐると行ったり来たりしてしまっていた。
しかしついにアリアはその波の音が出ている場所を特定できたのだ。
それは一見何の変哲もない本棚。
その中にある1冊の本の中から、確かに波の音が響いていたのだ。
「なんで……本の中からこんな音が……」
本の中からするさざ波の音を聞いていたアリアは吸い寄せられるようにその本に手を伸ばした。
その本の表紙は立派だがタイトルが書かれていない。
表紙を開けるとそこにはプロの作品とは思えなくとも味があると感じられるような絵が何ページにもわたって描かれていた。
「っ!!これは……」
そして次々にページをめくっていたアリアは、とあるページでその手を止めたのだ。
アリアが開いたのはさざ波の音が聞こえていた原因のページ。
ザザァ~ンー……
次の瞬間、周囲に波の音と本が床に落ちる音だけがあたりに小さく響き渡った。




