ルシーナの疑惑
アレスが御三家の一角であるネレマイヤ家の当主を誘拐した翌日。
誰もが動揺し、情報が錯綜し、国全体が不安と緊張状態に包まれていた。
そしてその非日常の空気はハズヴァルド学園にも伝わり、学園全体に緊張した雰囲気が漂っていた。
「ルシーナ書記、手が止まっていますよ」
「……」
「ルシーナ書記!」
そしてそれは生徒会室でも同じであった。
昨晩ネレマイヤ家の屋敷での警備に加わっていたルシーナ。
彼女はアレスに敗北し気絶させられていたものの大きな怪我もなく翌日の午後には学園に戻り通常の業務を行っていた。
しかし書類を整理する手は遅く、気が付くと生徒会長であるヴィオラに注意されてしまっていたのだ。
「はい!ごめんなさい!!」
「その調子ではまた書類にインクを溢しますよ」
「き、気を付けます……」
「はぁ……やっぱりあなた、今日はもう休んだほうが良いんじゃない?」
現在この生徒会室にはヴィオラとルシーナの2人しかいない。
ヴィオラは椅子から立ち上がり、静かにルシーナへ歩み寄った。
「いえ!もう体は大丈夫なので……」
「怪我の話じゃないでしょう?」
「っ!」
「……あなた、生徒会室に戻って来た時からずっとおかしかったわよ?ジゼル様を守り切れなかったことに罪悪感を感じているのでしょう?」
ヴィオラの指摘にルシーナは静かに俯いてしまう。
ヴィオラの家はネレマイヤ家と従属関係にあり、ジゼルはヴィオラにとって主人と言ってもいい。
そんなジゼルを守り切れなかったということでルシーナが余計に負い目を感じている、そんな風にヴィオラは考えたのだ。
「私は……敵の主力と思われる男と戦いました。その敵は底が見えないほどに強く、私では時間稼ぎをすることすら難しく……」
「詳しい話は聞いてないけどとんでもない敵がいたそうじゃない。それがあなたの戦った相手だったのなら仕方ないと思うわ。なんたってあのゼギン様ですらその敵に重傷を負わされてしまったんですもの」
「それにあの男は私に……」
「……。あなたに、何かしら?」
「ッ!!いえ、やっぱり何でもありません!」
ルシーナがジゼルを守り切れなかったことに対して負い目を感じているのは事実であった。
しかしそれ以上に彼女は昨晩戦った敵に対して何か思う所があったらしく、ヴィオラに何かを喋りかけてとっさに誤魔化したのだった。
「……とにかく。あなたが責任を感じる必要はないわ。今日はもう帰って休みなさい。急ぎの仕事もないから大丈夫よ」
「……はい」
ルシーナからわずかに違和感を感じたヴィオラだったが、今は聞くべきではないと考え今日はもう彼女に帰るよう勧めたのだ。
ルシーナは思うところがあった様子だが、ヴィオラの提案を受け入れ荷物をまとめそのまま生徒会室を後にする。
――落ち着かないこの心を鎮めたい。
そう考えていたルシーナは1人になれる寮の自室ではなく。大好きな本が山ほどある学園の図書室へとやってきたのだった。
ルシーナは寮の部屋や屋敷ではあまり本を読まない。
それは自分の家族や従者たちに本を読んでいる姿を見られるとそれだけ失望されることになり、その視線に彼女自身が耐えられなかったからだ。
図書室へとやって来た彼女は受付係の男性に軽く会釈をしすぐに人気のない本棚へと向かった。
周囲に漂うひんやりとした空気と本の匂いが彼女の心を落ち着かせる。
ルシーナは手に取った本を手に人気のない奥の席に静かに腰を下ろした。
(どうせ早く帰ったところですることもない……今日はここで時間を潰そう……)
いつもは読みたい本がたくさんありすぐには決めることができない彼女だったが、今日はどの本も読む気になれず適当に手に取った本を開き時間を潰すそうと心の中で呟いた。
表紙で興味をそそられなくてもページをめくれば物語に引き込まれるなんてことはよくあること。
しかし今日はいつもとは違い、どれだけページをめくっても本の内容に集中できず、いつしかページをめくる手は止まり視線は虚空に宙ぶらりんとなってしまっていた。
『くッ!こいつ、なんて……』
ぼんやりと虚空を見つめながらルシーナが思い出していたのは昨晩の戦いの様子。
彼女がここまで思い悩んでいたのはジゼルを守り切れなかった罪悪感のほかにある大きな理由があったのだ。
(この男……とんでもなく強い!私じゃ勝てないかも……)
それは昨晩、ルシーナがネレマイヤ家の屋敷内で遭遇した仮面の男と戦っていた時のこと。
その相手はアレスであったのだが、それを知らないルシーナはその男の異常な強さに内心驚きを隠せなかった。
(ルシーナさん……実力差があっても冷静に粘れてる。堅実な努力の積み重ねって感じの剣技だ)
アレスはルシーナの剣の実力を知りたいと、まるで彼女を試すように鋭く猛攻を仕掛けていった。
すでに1対1での戦いでルシーナに勝ち目はない。
そのことは彼女自身もすでに分かっているはずで、それでもなお精神がぶれない彼女の心の強さにアレスは感心していた。
(勝てないのならそれでいい!私がすることは可能な限りこいつを足止めすること!)
(相手との実力差を正確に把握し、折れることなく受けに徹して時間を稼ごうとする。判断も悪くない。剣の実力も相当高い。なのに……)
『なのにルシーナさん。なんで普段からあんな弱気なんですか?』
「ッ!?」
それはアレスが思わず口にしてしまった一言。
もちろん正体を隠して潜入している以上声をかければ自分の正体を相手に知らしめることになってしまうため避けなければならない。
しかしアレスは目の前のルシーナが強い精神と高い実力を兼ね備えているのを見て、なぜ普段はもっと堂々と振舞うことができないのか疑問に思ってしまいつい口に出してしまったのだ。
(な……この男、今……私の名前を……?)
(なんだ?急に動きが……)
それを聞いたルシーナの動きが途端にぎこちなくなる。
彼女が戦場で堂々と振舞うことができるのは敵が自分に対し倒すべき相手ということ以上の認識を持たないからだ。
なんの期待も失望もないから、先を考えることなく剣を振るえる。
しかし目の前の男が自分の名前を口にして、さらに普段の自分の様子を知ったようなことを話せば状況が変わってくる。
この人は普段自分のことをどう考えているのか。
戦場では力を発揮できるのに普段はみっともないところしか見せられない自分を愚かだと思っているのか。
色々な考えが頭を過った結果、彼女は頭が真っ白になり剣のキレを維持することが出来なくなってしまったのだ。
(よくわからねえが……これ以上は時間の無駄か)
『シュッ!』
『がッ!?』
ルシーナの実力を測りたいと考えていたアレスは彼女の動きが悪くなったことにこれ以上の手合わせは不要だとルシーナの隙を突き、重過ぎる拳を彼女のみぞおちに捻じ込んだのだ。
決定打としては十分すぎるその一撃によりルシーナは剣を手放し地面に倒れる。
そうしてアレスはルシーナを突破しジゼルの元に向かったのだった。
(あの時……突然名前を呼ばれて頭が真っ白になったせいで誰の声か覚えてないけど……相手は私の身近にいる男の人、ってことだよね……)
ルシーナがずっと悩んでいたのは自分が戦った侵入者の正体。
自分の身近にいるその男は何故ジゼルを誘拐したのか。
そしてなぜ戦いの最中に正体がバレるリスクがあるにもかかわらず自分に声をかけたのか。
「あれ、ルシーナさん?」
「……」
「ルシーナさん、大丈夫ですか?」
「えっ!?あ、ジョージ君!?」
そうして件の侵入者について考えていたルシーナだったが、その時背後からジョージが声をかけてきたのだ。
その声にルシーナは慌てて反応し振り返る。
「大丈夫ですか?ずっと何もないところを見つめて考え込んでましたけど」
「だ、大丈夫だよ!ちょっとこの本の物語について考えてただけで……」
「地方行政における水路管理の記録……?物語にはとても見えませんが」
「ええ!?私こんな本選んでたの!?」
「そこ!図書室では静かに!」
「すっ、すみません……」
ルシーナが手に取っていた本はエメルキア王国の地方の水路管理の記録をまとめたとてもつまらなさそうなもの。
心ここにあらずであることを完全にジョージに見抜かれてしまったルシーナは図書室の係りの男性に静かにするように注意されてしまったことも相まって恥ずかしそうに顔を赤くして。
「それでルシーナさん、どうかしたんですか?随分深刻そうな悩みに見えますが」
「そ、そんなことは……あるけどさ。あんまり人に相談できるものでもないし……」
図書室によく入り浸っている彼女は、同じく図書室を主な生息地とするジョージと知り合いであり、何度か本の感想を共有するような関係であった。
そのため浮かない表情をしていたルシーナをジョージは気にかけ、話を聞こうと彼女と同じ席に座ることにした。
(相談なんて出来る話じゃないよね。そもそも機密情報だし。いくらジョージ君が親切でもそれは……あれ?)
ネレマイヤ家襲撃の件は詳しい情報はまだ出回っておらず、ルシーナはジョージに話すことはできないと相談を諦めようとする。
しかしその時彼女はある可能性を思いついてしまったのだ。
『なのにルシーナさん。なんで普段からあんな弱気なんですか?』
(あの感じ……私を強く責めるような意図は感じなかった。普段の私を知っていて、私に期待や失望もないような身近な若い男の人……)
「……ねえ、ジョージ君」
「はい?」
「もしかしてジョージ君、ジゼル様を誘拐した犯人じゃない?」
「ッ!?」
ルシーナが考えついたのは昨日自分が戦った襲撃者の正体が目の前にいるジョージではないかということ。
根拠もなく妄想の域を出ない質問であったが、ジョージはその質問に思わず表情をこわばらせてしまうのだった。
どうにもモチベーションが維持できなくてすみません




