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スティグマータ・ライセンス  作者: 蓬零介
第一部 痕印
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第一話 変わりゆく日常 3

 休校が解かれた日の朝。燻る眠気を押し殺しつつ、未だ慣れない通学路を秀彰は一人で歩いていた。高校に入学して早一ヶ月が経つが、この道を通った回数はまだ数えるほどしかない。


(停学期間が二十日、休校期間が八日か。長い春休みだったな)


 白線の内側を窮屈に感じながら憂鬱げな顔で歩く。歩道の脇に植えられた桜はほとんどが散り終え、枝葉に小さな薄桃色を残す程度となっている。儚い春の風物詩だ。


 踏切の近くまで進むと、カンカンと警鐘を鳴らす遮断機が行く手を阻んだ。間が悪い日だと秀彰がうんざりしながら列車が通り過ぎるのを待っていると、不意に視線の端を何かが横切った。ふわりふわりと風に揺れ、彼の前髪へと落下してくる。取ろうかどうしようかと悩んでいる内に、通過してきた走行列車の風圧に煽られ、桜の花びらは何処かへと消えていった。


 踏切を越えると穏やかな住宅風景は一転して、喧騒の絶えない駅前通りへと様変わりする。車道は朝早くから混み合っており、歩道も通勤途中のサラリーマンや学生達でごった返している。


 歩道に放置された自転車を避けながら、駅前通りの細い脇道を進む。曲がりくねった坂道を登りきると、先日テレビで放映された校門が見えてきた。門付近に立つ生活指導の教諭と見慣れない格好をした警備員に見守られながら、生徒らは暗く沈んだ表情を浮かべて登校している。


(無理もないよな。何が悲しくて、全国ニュースで放送された事件現場に通わなければならないのか)


 続報を聞く限り、犯人は未だ捕まっていないらしい。よくそんな中で休校解除に踏み切れたものだと、秀彰は死人のような顔付きの生徒らに同情した。


(しかし、俺にとってはこの上なく有意義な休校期間になったな)


 この八日間、秀彰は件の廃墟公園を利用して人知れず痕印能力とその発動条件について探っていた。初回の大事故を含め、何度か生命の危機を感じる場面はあったが、ようやく安全な能力の発動手順を彼なりに導き出せるまでに至った。


(まだまだ研究段階だが、ある程度のコントロールは可能になったと思っていいだろう)


 加えて、己の痕印能力への理解も深まってきた。ゴミ同然と思っていた能力も、慣れ親しむと意外に悪くない。要は使い方次第で化けるのだと、すれ違う他人の暗い顔など意に介さず、秀彰は自分の世界に浸っている。


(後はより実戦的な場面を想定した訓練が出来れば理想だな)


 秀彰の中で危険な好奇心が鎌首をもたげる。道の真ん中で立ち止まり、興味本位で右腕を掲げてみた。


(例えば――此処みたいに、標的の多い場所だと尚更好都合か)


 ゴクリと秀彰の喉が鳴る。研ぎ澄まされた意識が、傷痕の刻まれた肩口へと向かう。耳裏が痺れるような独特の気配を察し、痕印能力の高まりを強く感じた。俯きがちに傍を歩いていた生徒らも不穏な空気を悟ってか、秀彰から距離を置き始める。


 ちょうど今は通学ピークの時間帯だ。有象無象の的目掛けて能力を発動するには絶好の機会だろう。外道のやることだと思いながらも、秀彰の脳内では別の思考が渦巻いている。


 殺さなければいいだろう、少し怪我をさせるくらいならセーフだ。そんなトチ狂った価値観が、自然と湧いて出てくる。


(少しだけ、あのパーカー男の気持ちも分かる気がするな)


 口端を歪ませ、秀彰は不気味に笑う。漆黒の誘惑に心が揺らぎ掛けた、そんな時だった。


「なーにしてんだよ、秀彰ぃ。んなトコでぼーっと突っ立ってさぁ」

「ぐっ……!?」


 不意打ち気味に背中を強く叩かれ、秀彰の張り詰めていた集中力がプツンと切れた。


「っ!? 信吾、テメェなにしやがんだよ」

「おいおい、そりゃこっちの台詞だろ?」


 振り返りざまに睨みつけると、そこには飄々と佇む信吾の姿があった。相変わらずニコニコと人懐っこい笑みを浮かべているが、よく見るとその目は笑っていない。狐のように薄く引いた瞳は静かな怒りを孕んでいる。


「厨二ゴッコがしたいんなら、人の邪魔にならないところでやれよ。ここは往来のド真ん中、しかも今は通学ピークの真っ只中。分かるだろ? ほら、あれだ、ピーティーオーってヤツ、弁えろって」

「それを言うならTPO……いや、お前の言う通りだな」


 秀彰は半分吐き出しかけた反論を飲み込んだ。周りを見ずとも、自分の置かれている状況が何となく把握できたからだ。突き刺さる周囲からの視線は危機を感じてではなく、単に痛いヤツを薄ら目で見ていただけなのだと。


「悪ぃ、俺の方こそちょっとどうかしてたみたいだ」


 それでも目を合わせるのが癪だったので、秀彰は顔を逸らしたまま謝った。すると、信吾は彼の頭をポンポンと軽く叩きながら、今度はいつも通りの自然な笑みで呟いた。


「へへ、分かればよろしい」

「おい……、よせよ」


 秀彰が何度手で振り払っても、信吾は攻撃をかわしながら彼の頭を触ってくる。鬱陶しい、恥ずかしいから止めろと秀彰が抗議しても彼はニヤニヤと笑うだけで一向に止めようとしない。怒られた手前、強く出ることも出来ないのがもどかしいらしく、秀彰は歯を噛み締めて呻いた。


(けど……結果的には俺の暴走を止めてくれたんだよな)


 入学式の日に起きた痕印者との遭遇事件。その時居合わせた信吾も、パーカーを着た怪しげな男が暴風を操る姿を見ていたはずだが、あれ以来秀彰との会話の中で話題に登ることはない。いや、案外それが普通の対応なのかもしれない。


 それまでの価値観が崩壊するような異常事態を目にしたとして、それを鵜呑みにするのは秀彰みたく退屈な非日常からの脱却を願っていた極一部の人間だけだろう。


 だからこそ、単純に友人を心配する気持ちだけで暴走を止めてくれたという事実が、秀彰にとっては何よりも嬉しかった。


「にしても、お前こそ妙にいつも通りじゃないか。あんな事件があったってのに、怖くないのか?」

「まーね。気にしても仕方ないし……さ。ほら、オレが沈んでても気持ち悪いだけっしょ」


 信吾は気丈に振舞っているが、その仕草はどこかぎこちなさを感じさせる。自分への追求を避けるように、信吾は話題を変えた。


「それよりも、ちょっとばかし気になる情報があってね。例の事件、犠牲者はなんと、あの『鬼の林婆』らしいんだよ!」

「……へぇ」

「聞きたいかい? 気になるかい? おーけーおーけー、話してやるともさ。ふふん、こりゃマジで特ダネだからな、聞いて驚け!」

「別に聞きたいワケじゃ――」


 秀彰の意見など無視して信吾はここぞとばかりに騒ぎ立てる。周りに居た生徒も突然の大声に驚き、視線を向け始めた。俺が馬鹿ならコイツも馬鹿だな、と秀彰は呆れながら溜め息を吐き、仕方なく信吾の耳を傾けることにした。


 鬼の林婆こと林教諭は校内でも名の知れた名物教師だった。老いてもなお盛んな熱血指導っぷりと規格外の身体能力から数々の逸話が生まれ、敬われ、疎まれ、恨まれ、入学間もない新入生の間でも彼女の噂は広がりを見せているらしい。と言っても、精力的に広めているのは自称情報通のこの男くらいなのだが。


「事件が起きたのは夜。場所は新校舎一階の正面玄関前だ。校舎には宿直当番だった林婆以外の学校関係者は居なかったらしい。宿直の主な仕事は施錠確認と見回り……要は夜間警護だな。その最中に凶行が起こり、明くる日の朝、出勤してきた教師に変わり果てた姿で発見された。発見時、すでに林婆は血塗れで倒れていたらしく、すぐに病院に搬送されたけど、残念ながら――」

「おい、ちょっと待て」


 適当に聞き流してやろうと思っていた秀彰だが、事件の情報があまりにも詳細に語られていたため、口を挟まざるをえなかった。


「お前……どっからそんな情報を仕入れてきてんだ? まさか本当に取材したってんじゃないだろうが」

「そこはお約束の『企業秘密』ってヤツだよ」


 そう言って、おどけて誤魔化す信吾。毎度のことながら、信吾は決して自分が得た情報源を漏らしたりはしない。普段教室で話しているような、学校内のろくでもない噂話ならまだしも、今回の件は一介の学生が知り得る権限を超えている。両親がマスコミ関係者だという噂も存外嘘っぱちではないのかもしれない。


「それとさ、少し妙な点があってね」


 信吾は眉を潜め、神妙な顔付きで語り始めた。


「ねぇ秀彰、新校舎一階の正面玄関から右手の廊下を進んだ突き当りってさ、何があるか知ってるかい?」

「新校舎一階の右手廊下の突き当り……化学準備室か?」

「ご名答。ロクに登校して来ないのに良く覚えてたね」


 若干馬鹿にしたニュアンスを含みながらも、秀彰を褒める信吾。褒められた方は全くもって嬉しくなさそうな顔をしている。


「……あいにく、記憶力だけには自信があんだよ」

「その化学準備室の窓が一つさ、派手に打ち破られていたらしいんだ。勿論、この事件が起きてからだよ」

「ほう」


 校門を抜け、騒がしく賑わう校庭を突っ切って下駄箱まで向かう二人。


「いや、窓が割られたのが妙だって言ってるんじゃないぜ。外部犯の可能性が高いんだから、侵入経路として使われたと考えれば自然だ。問題は床だよ。床に散らばったガラス片。この中に林婆のモノと思われる血液が付着していたらしいんだ」

「ふむ」


 秀彰の適当な相槌も気に掛けないまま、信吾の語りはますます加熱していく。


「おかしいと思わないかい? 正面玄関で殺してから、死体を化学準備室に運んだのならまだ分かる。けどさ、化学準備室で殺した後、わざわざ人目に付きやすい正面玄関まで、死体を運んだ意味が俺には分からない。これじゃ、早く死体を見つけてくれと言っているようなものだよ……!」

「――おい、信吾」


 強い口調で名前を呼ばれ、信吾はハッとした表情になった。慌てて周囲を見渡すと、ようやく置かれている事態に気付いたらしい。


「……お、おい……聞いたか? 死体だってよ……」

「……うぅ、せっかく気にしないようにしてたのに……」

「やっぱり嫌だよぉ……事件が起きた学校なんて……行きたくない……」


 周りに居た登校者らは一様に、信吾達から遠ざかる。中には目に見えて怯えている者も居た。


「こういう事はあまり大声で話すな。余計な不安を煽るだけだろ」

「そう……だね、ごめん」


 今度は逆に秀彰の方から迂闊な言動を戒められた信吾は、ポツリと呟いたまま肩を落とし、頭を垂れてしまった。どうにもらしくない友人の態度に、秀彰はふと事件の話題が出た時のぎこちない様子を思い出す。


 もしかしたら、信吾なりの強がりだったのかもしれない。普段やかましいくらいに喋る友人が無言になった様子を見ていると、秀彰まで気分が滅入りそうだ。


「そんな気にすんな。早めに止めなかった俺も同罪だ」

「うぉわっ!?」


 お返しとばかりに、信吾の頭をポンポンと叩く秀彰。本人は地毛と言い張るが、どう見ても茶色に染めたであろうその髪は逆立っていて、叩くたび手のひらに刺さって痛い。が、構わず秀彰は叩き続けた。


「やーめーろーよおーーーっ」


 てっきり噛み付いてくるのかと思ったが、信吾は満更でもなさそうな顔で受け入れている。まるで従順な犬のようだ。これ以上やるとさすがに気持ち悪いので、ここらで秀彰も止めてやる。


「不謹慎な上に無責任な話だけどさ。これで秀彰が偏見の目で見られなくなったらいいなって、オレはちょっと期待してるんだよ」


 靴箱で肩を並べながら上履きに履き替えている秀彰に、隣の信吾が複雑そうな表情を浮かべて言う。


「どうだかな。俺は別に今のままでも構わないぞ」

「なんでさ」

「噂が消えたからって、それまで作り上げられた雰囲気はそうそう変わらない。火のないところに煙は立たないって言うだろ。俺が喧嘩っ早いのは事実だからな」


 そう秀彰はサラリと答える。かつて中学時代に前髪に赤のメッシュを入れていたのは年頃のカッコつけという理由以外にも、敢えて悪目立ちしようという思惑も少なからずあった。なにせ生来の目つきの悪さも相まって、秀彰の斜に構えた態度を快く思わない『お友達』は沢山居たのだ。不良と呼ばれるのも決してレッテル貼りではない。


 彼の根幹にあるのは”闘争本能”という原始の欲求。一つ間違えれば犯罪者として檻の中に入れられても不思議ではない危険な衝動だ。どれだけ取り繕ったところで、本質というものは何かの拍子に、必ず露呈する。現に先程も、信吾の制止がなければ無関係な生徒達を巻き添えに、痕印能力を発動して大惨事を引き起こしていたかもしれない。


 ならば最初から噂という形で皆の心理に溶け込んでいれば、妙な期待も信頼もされずに済む。中学時代から問題児の烙印を押されてきた秀彰には、その方が楽だった。


 だが、先に靴を履き替えた信吾は秀彰の方を振り向いて、ただ一言だけ、


「やっぱり強いよね、秀彰は」


 何故か羨ましげな顔でそう言った。


「オレだったらありもしない噂を立てられたら平気な顔して学校なんて来れないよ。いや、仮に一部が事実だったとしてもさ、それまで守ってきた仮初の顔が崩れた時点でもうその場から逃げたくなっちゃうね」

「真っ当な人間の意見だな」

「あ、馬鹿にしてる?」

「少しだけな」


 クソ野郎が、と吐き捨てる信吾の顔はどこか楽しげに見える。秀彰にとっても入学式から今までこんなに短い期間で親しくなった友人は初めてだ。悪友、そんな分類タグが自然と浮かぶくらいには信吾との会話を楽しんでいる。


「いっそ、エスカレートして犯人扱いされたりしてね。あはは」

「止めてくれ」


 爽やかに軽口を叩く友人の隣で、人知れず異能の力を手にしてしまった秀彰は全く笑えずにいた。


「あ~~~、信くん~~、ちょっと待って~~!」


 二人が昇降口を抜け、二階にある教室への階段を上ろうとした時だった。廊下に居た一人の女生徒が慌てた様子でこちらに駆けてくる。女子の間ではポピュラーなあだ名を呼ばれた信吾は振り返り、ついでに秀彰も歩みを止めた。


「ん、どしたの笹塚さん。僕に何か用?」

「うん、大した事じゃないんだけど、そのぉ――」


 笹塚と呼ばれた女子はモジモジと身体をくねらせ、言いづらそうに言葉を濁している。大した事じゃないと言ってる割に、その目は真剣そのものだ。


 ふと秀彰が女生徒の方へ視線を向けると、後ろ手にラッピングされたお菓子を持っているのが見えた。


(なるほど、そういう用事か)


 秀彰が一人納得して頷いていると、視線を感じ取った彼女がビクリと肩を震わせた。まるで獰猛な獣を恐れるような反応に苦笑したくなったが、ここは余計な事をせずに去るのが最善だろう。


「先に教室行っとくぞ」

「え、あっ、ちょっと秀彰っ!」


 状況を飲み込めていない信吾が素っ頓狂な声を上げるが、秀彰は無視してその場を立ち去った。人の恋路を邪魔した挙句、馬に蹴られて死ぬのは勘弁だ。


(信吾のお眼鏡に適えば良いがな)


 友人の恋愛成就を適当に祈りながら、秀彰は教室までの道のりを歩く。今の彼女が例外なだけで、新校舎の雰囲気はお通夜のように暗い。長居するとこっちまで気が滅入りそうなので、極力足早に廊下を通り過ぎた。


 そして教室の扉を開けようと手を伸ばした瞬間、横から制服の袖を掴まれ、阻まれた。


「おいおい勝手に先行くなよー、水くさいじゃないか」

「どうせ用事はお前にしかないんだろ、なら待つ必要なんて――」


 と秀彰は言いかけて、ふと信吾の手荷物に目を落とし、気がつく。


「さてはお前、受け取らずに逃げてきたな」

「あはは、バレちゃった?」


 スカスカの鞄には女生徒が渡そうとしていた菓子袋を入れた形跡はなく、勿論手にも持っていない。紳士的な彼の性格から考えて、せっかくのプレゼントを鞄でぐしゃぐしゃに潰すような真似は絶対にしないだろうが、それにしても受け取りすら拒むというのは秀彰にも予想外だった。


「薄情なヤツだな。断るにしろ、せめて気持ちくらいは受け取ってやれよ」

「いやぁ、自分でもそれが正しい対応だとは思うんだけどねー。ああいう突然の贈り物ってどうにも苦手でさ、どうしていいか分かんなくなっちゃうんだよ」

「だからって逃げることはないだろ」

「てへっ」


 秀彰の追求を誤魔化すように、信吾は舌を出してウインクしてみせる。無性に殴りたくなる顔だが、握りしめた拳をグッと堪え、秀彰は教室内に入る。


「モテる男ってのは、相手を傷つけない断り方を心得ているモンだと思ってたがな」


 教室内の雰囲気も廊下や通学路と同じく、決して明るいものではなかった。それでも見知った顔と居ると安心するのか、ポツポツと話し声は聞こえてくる。


 机の横に立て付けられたフックに鞄を掛け置くと、秀彰は自分の席へと座った。信吾も自分の席――ちょうど秀彰の一つ前の席に当たる――に座ると、椅子を反転させ、嬉々とした表情で話に食らいついてくる。


「え、モテる男って誰のことさ?」

「さぁな」


 余計な一言だったと、言った傍から後悔する秀彰。


「あれれー秀彰クン、もしかしてオレに嫉妬してらっしゃる? いやー悪いねー、そうなんだよー、実はオレ、結構モテるんだー、はっはっはー!」

「うぜぇ」


 どうやら手遅れだったようだ。天狗になった信吾を相手にするのは、もはやバカらしくて無意味な行為だと悟った秀彰は、机に肘を付いてそっぽを向く。するとその先に、なにやら真剣な瞳でこちらを見つめている女生徒の顔があった。


「うわっ、居たのか中川」

「や、やっと気づいた……?」


 秀彰の机の横にしゃがみこんでじっと様子を窺っていたのは、クラスメイトの中川だ。肩に掛かる長い三つ編みと大きな丸眼鏡が特徴で、全身からこれでもかと優等生オーラを放っている。それが担任の美月教諭の目に止まったどうかは定かではないが、入学第一号のクラス委員長に任命されている。


 見た目通りに気が弱く、話していると小動物的な印象を受けるが、意外と面倒見がいい。停学中、わざわざ秀彰の家までプリントを届けに来てくれた恩もあってか、学内に名を轟かせた問題児である秀彰とも時折こうして話を交わしている。信吾を除けば、校内で気を使わずに話が出来る唯一の生徒だ。


「あ、おはよー文子あやこちゃん、ちーっす!」

「おはようございます、土方君。ち、ちーっす?」


 信吾は人差し指と中指を眉に添えながら、何ともチャラい挨拶を中川に送っている。無視すればいいものの、受け取った中川もそのポーズを真似て挨拶を返そうとするが、添えた指先が眼鏡のフレームに当たってカチカチと音が鳴るばかりで、上手く出来てない。真面目だが、結構不器用なタイプなのか。


「あ、あれ? これでいいのかな…? 何だか違う気がするけど……」

「いや、別に無理して真似する必要なんて無いぞ」

「ご、ごめんなさい! 今度練習してきます……」


 フォローしたつもりが、中川は何故か秀彰に向かって頭を下げる。勢いを付けて振りかぶった上半身は、分度器で測ったかのように斜め四十五度の位置でピタリと静止した。素晴らしいお辞儀、いや最敬礼だ。もはやお辞儀芸と呼んでも差し障りの無いのレベルではないかと、秀彰はくだらないことを考えてしまう。


(にしても、なんだこの視線は)


 ふと居心地の悪さを感じて周囲を見渡してみると、普段は怯えて視線を合わそうとしないクラスメイト達が一斉に秀彰を睨み、糾弾するような厳しい視線を向けている。完全に悪者扱いだ。


 理不尽だ。理不尽過ぎる。秀彰はそう内心で愚痴りながら信吾を睨むが、彼はチロリと舌を出すだけで詫びの欠片も無い。秀彰は小さく溜め息を吐いてから、話題を変えた。


「それで中川、俺に何か用か? 始業前に委員長が回収する物でもあったっけ」

「あ!そうでした」


 気を取り直した中川がこほんと咳払いを交えてから、話し始める。


「今日の午前授業は臨時の職員会議がある関係で全科目自習になると美月先生から連絡があったので、良ければそのプリント運びを副委員長さんに手伝って貰おうかと……」

「副委員長?」


 反射的に信吾の方を振り向く秀彰だが、『何とぼけてんの?』とでも言いたげな、呆れた視線を返される。


「君だよキミ。赤坂秀彰副委員長だよ」

「俺が副委員長?」


 自分の顎を指差しながら、怪訝な表情を浮かべる秀彰。そう言われても、全くもって記憶に無い。記憶には無いのだが、隣にいる委員長がうんうんと頷いている辺り、事実なんだろう。


「赤坂君が知らないのも無理ないですよ。決定したのはその……停学処分中のことでしたから」

「そうそう、推薦で決まったんだよね、たしか」

「推薦? 一体誰がそんな酔狂な真似を――」

「オレだよオレ」


 当然だと言わんばかりに信吾は胸を張る。だったら復学した後に一言伝えれば良いだろうに。相変わらず無責任な野郎だと、秀彰は目の前の男を睨んだ。


「はぁ。にしても、こんな無責任野郎が副委員じゃ、文子ちゃんも苦労するよねぇ。ホント、共通の友人としては申し訳ないばかりだよ」


 どっちがだよ、と突っ込もうとする秀彰だったが、それより早く中川のフォローが入る。


「い、いえっ、苦労なんて全然っ! 普段は大した仕事量でもないですし、その……す…、好きでやってる事ですからっ」


 何故か必死で中川から弁明された秀彰が、どう反応していいやら分からず黙っていると、信吾が更に調子付き、余計な文句を飛ばし始める。


「いやいやー、そこは謙遜しちゃいけないよー。花瓶の水差しや黒板消しの掃除だって、聞けば毎朝文子ちゃん()でやってるみたいじゃないか。たまには副委員長が代わってやってもいいはずなのにねー」

「け、謙遜だなんて、そんな……」


 自分の不親切を棚に上げておいて、よくもまぁそこまで嫌味を呟けるものだと違う意味で信吾を感心する一方、段々と中川のフォローが善意の刃となって秀彰の心をチクチクと刺激し始める。


「プリント、取ってくる」


 心の痛みに耐え切れなくなった秀彰は、名誉挽回に自ら副委員長の職務を遂行しようと、立ち上がってそのまま教室から出ようとした。


「いってらっしゃい、副委員長さん」


 清々しいほどの笑顔で送り出そうとする信吾に対し、コイツだけは後でブチのめそうと心に誓う秀彰。そうして彼が教室を出て廊下を歩いていると、後ろからパタパタと上履きの靴音が近付いてきた。


「す、すみません。えぇとプリントは職員室横の連絡ボックスに入っているはずなので、よ、よろしくお願いします……」


 申し訳なさそうに頭を下げる中川を見て、秀彰は柄にもなく善人ぶったような言葉を返してしまう。


「いや、中川が謝ることなんてねぇよ。停学中、わざわざプリントを家まで届けて貰った恩もあるし」

「あ、あれこそ委員長として当然の役目ですから、恩だなんて……」

「そうか? いくら役目ったって問題児の家に行くのは面倒だし、嫌なモンだろ」


 つい、自然な口調で本音が漏れてしまい、中川の表情が更に硬くなる。が、それでも中川は胸元を手のひらで押さえつつ、秀彰の顔を見上げながら一言一言大事に言葉を紡いでいく。


「は、初めは少し、怖かったですけど……話してみたら優しい人だったので、嫌なんて思っていませんよ」

「優しいって、俺がか?」


 そんな言葉、生まれてこの方掛けられた覚えがなかった秀彰は、ずいっと顔を近付けてしまう。すると中川は焦ったようにぶるぶると顔を左右に震わせ、教室の方へと後ずさっていく。


「い、今のは聞かなかったことにしてください……っ、で、ではっっ!!」

「おう、そっちも委員長の仕事頑張ってくれ」


 ふらふらと教室に戻っていく姿を見届けてから、秀彰は職員室へと向かった。途中、教室の窓際に置かれていた水差しと黒板消しが脳裏に浮かぶ。普段は何気なく見ていたが、今にして思うとどちらも欠かさず手入れされ、清潔に保たれていた。


(たまには早起きして、委員長の手伝いでもするか)


 一時限目開始のチャイムが鳴り響く中、秀彰は真面目なクラス委員長のことを考えながら、凝り固まった首をコキコキと鳴らしてみせるのだった――。

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