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三つ数えて目をつぶれ

作者: jima
掲載日:2023/06/11

 テレビのニュースがヨーロッパの不穏な空気を報じた。

『両国は国境沿いで一触即発の危機を迎え…』

 私は流しで食器を洗いながら、目をやる。


「おっと」

 手が滑った。洗いかけの茶碗が手からすり抜け、壁に飛ぶ。

 ガチャーーン!

 茶碗が割れた。


 妻がダイニングから顔を出す。

「何?どうしたの?」


「すまん。手が滑った。茶碗を割ってしまった」


「怪我はないの?気をつけてね」

 妻はすぐに(ほうき)とちりとりを持ってきて割れた茶碗をかたづけてくれる。


「すまない。お気に入りのクマエモンの茶碗だったのに」


「それは気にしなくていいのよ」


 熊本旅行の時に妻が購入したものだった。私は申し訳なさに目を伏せた。

「最近多い気がする。歳かな」


「歳を取ると茶碗を割ることが多くなるというのは聞いたことがないけれど」

 妻が首を傾げた。




 その夜、書斎で書き物をしているとラジオから速報が流れる。

『国境で武力衝突があり、多数の死傷者が…』

 何とも不安な気持ちで万年筆のキャップを抜こうとして、手が滑る。

 存外しっかりとキャップがはまっていたのだった。キャップは向かいの壁に飛んでいった。


 コン、コン、カーン!

 キャップが壁に二回当たって跳ね返り、最後に机上のライトに当たった。

 意外と大きな音に妻が驚き、書斎をノックして顔を覗かせた。


「あなた、何の音?」


「ごめん、万年筆のキャップが飛んだ」


「キャップは空を飛んだりしません。気をつけてください」

 そう言うと妻は衝撃からか点滅していたデスクライトのスイッチを切る。

「SOSのサインだったわ」

 トントントンツーツーと点滅していたと妻が言う。


「ふむ。歳のせいだろう」

 何でもかんでも歳のせいだ。このデスクライトも長いこと使っている。



 ちょっとしたデスクワークの後、入浴をした。

 妻と私の二人暮らし、先に妻が入って、私が出るとき湯は捨てる。私は入浴後すぐに浴槽を洗うのだ。

 フワリと外国製の石けんの香りがした。ヒマワリ油…確かこれは今大変な状況の国で作られたものだった筈だ。私は行ったことのない東欧の国を想う。

 戦争が始まってしまったのか。早く停戦すればいいのだが…


 風呂の栓を抜こうとするが…硬質のゴム栓がギュッとしっかりはまっている。

「むぬぬう」

 私は無理矢理引き抜いた。ポンと抜けたが、弾みで栓は天井へ飛んでいく。


 ガン!ゴン!

 風呂の栓が天井から跳ね返って、私の脳天に激突した。

「ぐわっ!」


 妻が風呂の扉を開け、裸で頭を押さえてうずくまっている私に驚く。

「どうしたの?悲鳴が聞こえたわ」


「ううう、すまん。脳天に風呂の栓が当たった。手が滑ったんだ」

 頭にキーンと痛みが残る。


「手が滑って、風呂の栓が脳天に当たるというのが理解できない」

 妻はあきれ顔でタオルを私に投げ渡した。


「歳の」


「歳のせいで風呂の栓は脳天に当たったりしないわ」





 翌朝、妻の焼いてくれたフレンチトーストを食べる。甘く香ばしい匂いに鼻がくすぐられる。

「いい匂いだ。高いバターかな」


「ひまわり油のマーガリンよ。それより手元に注意して」


「バターもマーガリンも大した違いは」


「確かに健康診断前のあなたにとっては両方悪役だわね。そんなこといいから、ちゃんと手元見て」

 妻は昨日から私の手が滑ってばかりいることを心配している。

 ちょうど朝のニュースでラグビーのリーグ戦が映った。


「そんなに神経質になることは」

 私は言いながら、ナイフとフォークでトーストを切り分ける。

 ニュースでは私の贔屓のチームがスクラムで敵を押し込んでいた。

 何となく私の手元にも力が入る。それがいけなかった。

 途端にナイフとトーストが飛んだ。フレンチトーストの耳が意外と固くて力を入れすぎたのだ。


 ゴン、バシッ、ベチョッ!

 ナイフは壁に一度当たってから跳ね返り、私の足下に刺さる。

 トーストは妻の顔に直撃して、跳ね返ることは…なかった。


「あなた!」


 私は取り乱しながらも、妻にウエットティッシュを数枚渡す。

「え、えっと。大丈夫か」


「あなたが大丈夫じゃないのよ。昨日から」

 顔のマーガリンや卵液を拭き取りながら、妻が私を睨む。


「歳」


「歳のせいでナイフやフレンチトーストを飛ばされた日にはこっちが災難だわ。医者に行ってください。何か手先に異常があるのかもしれないわ」

 そう言ってから妻はさらに不安そうな顔になる。

「もしかして手のしびれというのは脳の異常かも。前から変だとは」


「本人の前で言うことかな」

 さすがに私も不満を洩らしたが、顔にトーストをぶつけた後だけに反論しにくい。


「ちゃんと医者に行くと宣言しなさい。あなたは歯医者でも何でもすぐ誤魔化そうとするんだから」


「ちょっと手が滑ったくらいで」


 妻が真面目な顔になって私を正面から見つめる。

「三つ数えるうちに『医者に行きます』と約束しなさい」


「そんな脅迫みたいに」


「ひとつ、ふたつ…」


「行くよ。行きます。病院に行って検査してくるよ」


「わかればよろしい」


 テレビのニュースがヨーロッパの戦争について報じ始めた。

『ついに戦争が起こってしまったわけですが、同時に両国の皇太子と姫が行方不明という噂があり…』





 2時間後、私は路線バスに乗っていた。

 ちょうど図書館に返す本があり、いきつけの医者にも寄ることにした。

 運転手は顔見知りで同年配の男だった。図書館へ行くたびに大概このバスで顔を合わせる。


 平日の昼間、乗り合わせた人間は少ない。

 前の方にたぶんグループであろうガッチリした体格の若い男達三人組。大学の柔道部とかラグビー部だろうか。

 真ん中付近に赤ん坊を抱いた母親と老齢の男性2人組。

 後方には眼鏡をかけた神経質そうな金髪女性、スマホを眺める銀髪の男。

 …この二人は年齢どころか、国籍も、二人が知り合いなのかどうかも不明だ。怪しい。


 以上の9名、私を含めて10名の乗客ということになる。

 私はバスの真ん中へんに腰をおろした。

 それぞれいろいろな用事で市の中央付近に向かっている中で、私は最近手が滑るから医者へ行くのだ。

 歳だな。




 市役所前で外が騒然としていることに気づいた。向かいの銀行にパトカーと警官と野次馬がいる。

 事件だろうか。私自身も野次馬根性を出して、窓から銀行を覗き込む。


 バスは銀行を100メートルほど過ぎて停車する。

「市役所前です」

 バスが止まってドアが開くと同時に、二人組の男が飛び込んできた。


「すぐに発車しろ!」

 サングラスの若い男が背中から拳銃を取り出して、運転手に突きつけた。


「きゃあっ!」

 子供連れの女性が悲鳴をあげる。


「騒ぐな」

 もう一人の小柄な野球帽をかぶった男がナイフを出して、乗客に見せる。


「早くしろ。バスを出すんだ」

 運転手がミラーで後ろのパトカーをちらりと見、発車を躊躇する。

「死にたいらしいな。三つカウントするうちに出さないと、その運転席には俺が座ることになる」


「出します出します」

 運転手が慌ててギアを入れた。


 サングラスがカウントを始める。

「ひとつ、ふたつ…」


 運転手が青い顔でアクセルを踏み、バスは普段よりも急発車する。

 朝の食卓で聞いたのと同じタイプの脅しだ。私は妙な感覚に襲われる。


「静かにしていろ。脅しじゃないぞ」

 サングラスが運転手と乗客に交互に拳銃を見せた。脅しじゃなかったら何なんだ。


 野球帽が悲鳴をあげた母親に近づいて、ナイフをかざす。

「口を閉じてろよ。お母さん」


 母親はコクコクと頷いたが、赤ん坊は泣き始めた。

「黙らせろ」

 

「は、はい。よしよし、大丈夫大丈夫。ねえ、僕ちゃん」

 泣き止まない。母親は野球帽に懇願する。

「漏らしているようなんです。オムツを替えさせてください」


 野球帽が嫌そうな顔で赤ん坊を見る。

「ちっ、面倒臭え。…む、匂うな。仕方ない、早くやれよ」


「は、はい」

 母親がオムツを替え始めた。オムツの尻に大きく笑顔のクマエモンがプリントされている。このバス内でそこだけが平和だ。



(大変なことになった。昨日からの手の滑りは歳のせいではなく、この事件を暗示していた…なんてことあるわけないか)



「おい、マーガリン。全員のスマホを取り上げろ」

 サングラスが野球帽に指示する。


「わかった、バター」

 サングラスがバターで野球帽はマーガリン、悪党同志の符丁なのだろうか。

 どっちにしろ健康診断前の私にとっては両方悪党だ。


「おい、全員のスマホを集める。隠すと誰かが死ぬぞ」

 野球帽は相変わらずナイフを頭上に高く掲げながら、全員を嫌な目で見て脅した。



 前方の若者3人組が野球帽の持っているバッグにスマホを黙って入れていく。

 彼らの内の一人が野球帽(マーガリン)を睨むが、それに気がついたサングラス(バター)が拳銃を向ける。

「文句でもあるのか」


 若者は悔しそうに俯く。野球帽はニヤリと笑い、その脛を蹴り上げた。

「ぐっ」



 バスは市街地を進んでいく。

「次のバス停の前に北側に進路変更しろ」

 サングラスの指示でバスは左折し、人通りが少ない方に向かう。


「待ってくれ。わしらは介護ホームに行かねばならんのだ」

 老人のうちの一人が立ち上がって大声をあげた。

「そうじゃ。アレルギーの少ない殺菌用の石けんを届ける大切な用じゃ」

 もう一人の老人も声を合わせる。

「施設での感染流行を防止するためなんじゃ」


「うるせえ。知ったことか。馬鹿じゃねえのか石けんとか」

 野球帽が赤ん坊にナイフの先を向ける。母親が息を飲んだ。


「むぐぐ。卑怯者め」

 老人が座った。



 どこへ向かっているのか。仲間が待っている場所があるのだろうか。私たち乗客は無事に解放されるのか。不安で息が詰まる。


 その間にも野球帽が乗客のスマホを回収している。

 外部への連絡を断つことの他に、証拠を残させないという理由もあるのだろう。 

 

 母親が新しいオムツを赤ん坊に当てながら、スマホを差し出す。

「す、すいません。ちょ、ちょっと濡れていますが」


「この野郎、舐めんな」

 仕方ないじゃないか。私は野球帽(マーガリン)を非難の眼で睨んでやった。隠れて睨むくらいしか出来なくて申し訳ない。


「何だ、おっさん。文句あるのか。」

 野球帽が私の視線に気づき、こちらを斜めに見た。


「特にありません。スマホを出しましょうか」

 私はしれっと膝の上に置いたリュックを開いた。


 野球帽はフンと鼻を鳴らす。

「舐めた真似すると痛い目に合うぜ」


 もちろん痛い目にあうのはごめんだ。私は大人しくスマホを渡そうとする。

 ところがバッグの中の留め金にストラップが引っかかって、スマホが出てこない。

「あれ、ちょっと待ってくれ。引っかかってしまった」


「何やってんだ、おっさん。早くしろよ」


 私は焦る。スマホのストラップをグイグイ引っ張るが、外れない。


「おい、てめえ!何してる!」


「い、いや、何もしてないって。待ってくれ。今外すから」


「舐めるな。三つ数えるうちに出さないと、このナイフがその手首から先を切り落とす」

 何だ、いったい。最近は三つ数えるというのがどこかで流行っているのか。焦るじゃないか。


「ひとつ、ふたつ…」


 ちょ、ちょっと待てって。私はいやな汗を額から出しながら、悪戦苦闘する。


「みっつ」


 この、この。えいやっと!外れた!

「あっ」


 その瞬間、力を入れすぎたのか、私のスマホはブン!とすごいスピードでバスの前方へ飛んでいった。

 しまった。手が滑った!


 何とスマホは拳銃を持った賊の顔へ真っ直ぐに飛び、そのサングラスに激突した。


 ガシャンッ!バキッ!

「ギャアッ!」

 スマホがサングラスを叩き割る。サングラスは砕け散って、男はのけぞり顔を押さえた。

 拳銃がバスの床に落ちる。


 その瞬間、前の席にいた3人の男が一斉にタックルして賊を前の壁に押しこんだ。コードネーム『バター』は3人に押し込まれてバスの壁に身体を思いっきり挟まれ、息を吐き出す。

「ぐええええっ!」


 ラグビー軍団の一人、先ほどにらみ合いで「文句あるのか」と言われ脛を蹴られた若者が床の拳銃を足で踏みつけ確保した。

「もちろん文句あるんだよ!」



「…うわっ、何だ」

 予期せぬアクシデントと乗客の動きに驚いた野球帽(マーガリン)がナイフを私に向ける。私はすくみ上がった。


 その時母親が背後から赤ん坊の濡れたオムツを顔に被せた。

「えいっ!」


「ぎゃっ!何だこりゃあ!臭えっ!」


 通路側にいた老人がいつの間にか立ち上がって構えている。

 彼は持っていた紙袋を正眼に構えて野球帽の脳天に撃ちつけた。

「きええええっ!」


「…ぐう」

 脳天を打ち据えられた野球帽、コードネーム『マーガリン』はオムツを被ったまま、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。紙袋は破れて、中身が床に散らばった。

 ナイフは私の足下に落ちて突き刺さった。私は声も出せない。


「一本!お見事です!」

 窓側の老人がそれを見て声をかける。

「さすが剣道4段、まだ衰えておりませんな」


「まあまあの撃ち込みでした」

 老人たちは新しい紙袋を取り出して、散らばった石けんを拾い集める。

 私の家でも使っているあのヒマワリ油の香りが漂った。


「ワシがわざわざ欧州から輸入した石けんを馬鹿にする(やから)はこうなるのじゃ」

 …何やってる爺さんなんだろう。

 

 床にはクマエモンの紙オムツをかぶって気絶している男。ちょうど奴の顔のところにキャラクターの顔が重なり、クマエモンが笑顔で倒れているかのようなシュールな光景だ。


「ふん!何がバターだ。こいつも確保します」

 ラグビー部の一人が乱暴に足を引きずりバスの前方へと運んだ。サングラスと同様に縛っておくつもりらしい。

 私は「そいつはマーガリンの方だ」と訂正しようとして止めておいた。



 停車したバスの中で私は石けん拾いを手伝いながら母親と老人に礼を告げる。

「助かりました」


「何の何の。あなたのスマホ飛ばしに比べれば」


「そうですな。あれは妙技でした。誰もが何とかしたいとは思っていたのですが、拳銃を構えられて赤ん坊もいますから…きっかけが必要でした」


「別に、その。あれは技じゃなくて…歳のせいというか、つまり()()()()()で手が滑って」


 思わず老人と母親が大笑いし、なぜか赤ん坊もダアダアと笑い声をあげた。




「動くな!」「全員その場で動かない!」

 その時バスの扉が開き、警官隊がなだれ込んできた。

 しばられた二人の悪党を見て目を丸くしている。


「警察が馬鹿に早く来ましたね」

 剣豪の老人がびっくりして運転手に声をかけた。


「本当ですね。不思議です」

 私も同意する。


 前のラグビーチームが笑った。

「僕たち、知ってますよ。ね、運転手さん」


 運転手が苦笑いする。

「気がつかれてましたか」


「ずっとテールランプをトントントンツーツーってやってましたよね。SOSですよね」


「犯人に気がつかれないかとドキドキしました」


 ラグビー3人組と運転手もワハハハハと笑い合った。


 うーん。私はすべてを振り返って、首を傾げた。

 ラグビー・クマエモン・石けんと脳天直撃・モールス信号…か。本当に偶然なのか。

 そういえばバターとマーガリンもいた。


 …どこかで戦争が始まっている。この奇妙な偶然が何か悪いことの起こる前兆でなければいいが。




 ふと気がつくとバスの一番後ろで眼鏡女性とスマホ男が熱烈なキスをしている。

「えええっ?」


「駆け落ちしてきた日本でこんな奇跡に遭遇するとは。これは天啓だ。私の国の侵略行為を許しておくれ」


「いいえ。やはり私たちは結ばれる運命だったのよ。国と国が対立していても二人の愛は」


 そして二人はこちらを向いて深々と頭を下げ、微笑む。

 眼鏡を外した金髪の娘が言う。

「日本の庶民達よ。感謝します。これで本当に踏ん切りがつきました。私たちは結婚します」


 銀髪の男も貴族的な微笑みを浮かべて、宣言した。

「王室同士の結びつきで戦争も止めて見せます。下々の者達、勇気をありがとう」


 そして二人はもう一度きつく抱き合った。


 何が何だかよくわからないがバス内に、警官隊も含めて拍手が起こる。


 私だけは拍手を控えた。手が滑って何かが飛んでいったらいろいろと台無しになりそうな気がしたからだ。

 そして意味不明ながら二人の熱い抱擁にこみあげてくるものがあり、私は不覚にも目頭を押さえた。


「歳のせいですな」「間違いありません」

 二人の老人が口を揃えた。







読んでいただきありがとうございます。いくつか自分の身の回りに起こったことを詰め込んでみましたが、ホントにあったのがどれだったか忘れつつあります。歳のせいです。

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