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A CROWN -クラウン-  作者: キズネコ
第一部:再会と出会い
7/7

07:ディオール王国、待っていた彼女の男〔3012〕

 ディオール王国・首都シンセルドルフ。

 青色に輝くエネルギーが街路を流れる、世界でも指折りの文明都市。

 高級リストランテの貸切バルコニーで、冬花はついに“その男”に引き合わされる。

 静かなる隻眼の巨人――アダム。

 ◆1


 午前七時。

 夜を二つ、国境を四つ跨いで、バスはディオール王国の入国ゲートを通過した。


 "Wilkome In"

 "DIE KRONE OF DYOELLE"


 ――ディオール王国へようこそ。

 

 「王国」は、ふつう"the Kingdom"だ。

 しかし、ディオール王国では"Die Krone(the Crown)"、つまり「王冠」を王国の称としている。

 これは建国の歴史に由来する。

 ディオールは王とその王格を冠するものの、王による統治ではなく、政体はあくまでも民主主義による議会内閣制を採用している。

 王は、象徴として君臨するに留まる。

 より正確には、象徴と政治的実体を繋ぐ存在が国宝たる「王冠」なのであり、その継承と存続が国家の国体である、とされる。

 まあ、そんな話は憲法解釈上のお題目、ないしは国家にまつわる豆知識以上のものではない。国民であっても王冠を実際に目にしたことがある者のほうが少ないだろう。

 けれども、ゲートの看板、"DIE KRONE"の文字がしっかり磨き上げられているところを見ると、「王冠」の理念は今も継承され続けているようだと私は思った。 

 ゲートをくぐったとき、定刻からは一時間ほど遅れていたけれども、この長距離行程でかつ悪天候が続いていたことを考えると優秀といえるだろう。

 サイルインからずっとついてきていた吹雪は、多少、弱まりつつあった。ハイウェイを降りて車速が落ちたから感じるだけかもしれないけど、世界は明らかに減速した。

 北極圏からずっと大陸にかぶさっていた寒帯を抜け、車窓から覗く景色は少しずつ温かみを帯びてきたように思われた。

 少しずつ彩度を帯びていく土と空気。

 下書きを終えた画家が、水彩顔料をちょっとずつ載せていくみたいだ。 

 不毛の凍土が、広大な牧草地帯に農業地帯へ、人の管理が行き届いた田園風景が主たる光景となり、人の息吹、文明の色を肌で感じ取れるようになってくる。

 とはいえ、雪化粧がすべてのものからちょっとずつ彩度を奪っているから、スペクトルの変化はそう盛んではない。

 さらに三十キロほど走行。

 今度は自然の風景がだんだん薄れる代わりに、市街と呼ぶにふさわしい、整備された複線道路に、高さもまちまちな角ばった建物がたくさん並ぶ風景に切り替わっていき、路線の数、交差点の数、車の数、建物の密度は少しずつ上がっていく。

 それもそのはず、私たちが向かっているシンセルドルフは、世界で最も科学文明が進化していると言われるディオール王国の、その首都だからだ。

 シンセルドルフ自体、“世界の都”とのふたつ名を持っている。

 私が最後にシンセルドルフに滞在していたのは二百四十年ほど前だけれども、発行日が三カ月前のガイドブックにも変わらず“世界の都”という表記があったから、その発展ぶりと世界の評価は変わっていないことが窺えた。

 ではここで、ガイドブックからシンセルドルフの解説を抜粋しよう。

 

 地理的にのみならず、文化的、政治的にもヨーロッパ世界の中心地であり、世界でも指折りの大都市――シンセルドルフ。

 現在の都市人口は約1700万人。

 王国全体の人口が約3200万人なので、国民の過半数が首都で暮らしていることになる。

 シンセルドルフは17の区から成り、農業、工業、自然と観光、金融と政治、教育、宗教と文化、歴史、その他福祉など、各区ごとに色濃い特色を持った都市開発が行われているのが大きな特徴となっている。

 肥沃な農業地帯のおかげで、食料自給率は100パーセント超。

 「貿易を行わなくても自国内だけでエネルギーや必要な物資をいつでも備えておけること」が建国時点の産業開発・維持指針となっており、「完結都市イル・オートノマ」との異名を持つ。

 国内総生産(GDP)は、最新の統計では世界二位。

 国民総生産(GNP)では一位である。

 科学技術、医療水準、教育レベルはどれも世界最高レベルにあり、数々の科学技術者や文化人を世界に輩出しているほか、他国からも有能な人材は積極的に受け入れ厚遇している。それゆえ、多国籍国家としても知られ、人種ではなく発展し続ける都市の在り様がアイデンティティを確立している。

 国民の幸福度指数も非常に高く、シンセルドルフはこの三十一世紀において「世界の首都」を名乗るに相応しいであろう――。

 

 だ、そうだ。

 シンセルドルフは私にとって縁の深い都市だ。

 世界中を旅してきた経歴があるけれども、生活や行動の拠点していた時間が一番長いのが、ここシンセルドルフ。

 理由はそれだけではなくて、ディオール王国の歴史の中にもそれなりに関わりがあるのだけれど、それについては――私は努めて忘れることにしている。

 とにかく、私という個人にとって、特別な思い入れがあって、懐かしい感じがある街であるのは確か。

 日本が第一の故郷だとしたら、シンセルドルフが第二のそれ、と言うことに何ら抵抗を感じないくらい。

 もうそろそろ街の全景が見えてくる頃だろうかと、私は窓の外へ目を凝らした。

 弱まってきたとはいえあいにくと吹雪がまだ視界のほとんどを閉ざしており、車窓からは灰色にけぶった景色しか見えない――と思ったときだった。

 驚くべき光景が私の目に飛び込んできた。


「……何あれ」


 ガラスに額をくっつけるようにして外を凝視する。 

 巨大な光のドーム――と形容するのが一番適切だろうか。

 限り無く透明に近い光の膜のようなものが、地上から空へ向けて伸び、弧を描きつつ頂点を結びあって、さながら地面に伏せられたお椀のような形状を成している。

 シャボン玉の上半球のみを地面に置いたような感じ、と喩えてもよい。

 その大きさは、どう小さく見積もっても直径数キロ、高さについても同じくらいありそうで、シンセルドルフのほとんどを包んでしまっているように見える。

 何だろう、あれは。

 私の記憶の中にあんなものは存在しないし、あれが何なのか見当もつかない。


「ん? トウカはあれ見るの初めてか」


 私の様子とその関心の先に気づいた夜天が、隣の席からぼやいた。


「あれはエレイン・フィールド。エネルギーの断層で街をドーム状に包んで、熱対流とかを制御して……まあ疑似的にだが天候を制御してるってわけ。見てろ、効果はすぐにわかる」


 バスは、巨大な半透明のドーム――エレイン・フィールドに向かってそのまま進んでいく。

 ドームがあまりにも大きいので、近づくに連れて、光の壁が断崖のようにそそり立っていくように見えた。

 私は目が離せない。

 エネルギーの断層? どんなものか想像もつかないけれど、物質の出入りはどうするのだろう。危険はないのだろうか?

 バスは減速する様子もなく、道路を走る他の車と同様に、光の壁に突っ込んでいく。

 激突――。

 と呼べるような衝撃は、まったくなかった。

 ただ一瞬、水中にあったものが空気中に出るときのような、微妙な圧力の変化と振動があったのみで、「境界線」はすぐに後ろに遠ざかった。

 景色の変化に私は再三驚く。

 今までずっと視界を濁らせていた吹雪が、綺麗に消えている。

 視界がいきなり晴れたので、いきなり視力が良くなったのかと思ったほどだった。

 晴天というわけではなく、見上げると空は灰色だ。

 でも、曇りというのも当てはまらない。

 空のとても高いところ――恐らくドームの頂点付近――で、乳白色と墨色とが交じり合うマーブリング模様ができており、それは今も少しずつ形を変えながら複雑な渦を巻いている。木星の表面か、ミルクを入れてかきまぜている最中のコーヒーのようだ。

 まるで台風の断面図を下から見ているような感じで、まさしく、そこがフィールドとやらが外側と内側を分けている面なのだろうと私は推理する。

 幻想的な光景だった。

 まるで地球上ではないかのようだ。

 その天球の境界面、まだら模様の合間合間から、大きな白い剣にも似た光の筋が、幾本も重なり合いつつ、地上まで届く長くて透明な梯子を下ろしていた。

 降り注ぐ梯子の一脚だけではないのは、太陽の光ではなく、あのフィールドが、光さえも希釈するなり合成するなりして、街全体の人工光源として放出しているからだろうか。


「……凄い」


 そうとしか言えない光景だった。

 雪も、風も、霞も、見えざる巨人の手がフィールドの外側へ運び去ってしまっていた。

 通り抜ける時に物質が(例えば、このバスが)全くと言って影響を受けなかったのは、私にはもはや魔法としか思えない。


「実験稼働が始まったのが、えーと確か百年くらい前だったか。トウカが知らないわけだ」


「これって、街全体を包んでるの?」


「いやそこまで大きくない。中央区とその周辺だけ。大規模化すればするほどメンテナンスが大変らしいし、天気くらい自然のままを享受したいって人に配慮してる」


「…………」


 それでも直径二十キロ以上あるだろう。凄すぎて声が出ない。

 まさか天候まで制御できるようになっているなんて。

 サイルインから一足飛びに未来に来たという感覚だった。

 エレイン・フィールドによって空間がクリアになったおかげで、地上の街並みをよく観察することができた。

 建物や道路は、どれも青白い水晶のような透明な部分と、アルミのようになめらかで硬質な部分を持っており、両者はモザイク模様を描きながら噛み合っている。

 そのおかげで街並み全体に青白い独特の透明感があり、景色はあたかも美しくカットされたクリスタルガラスの集合体。

 あらゆる建造物および路面に組み込まれている青い水晶のような部分は何らかの伝導体のようだと私は推測した。

 そう、確か夜天が言っていた。

 都市部では、原子力発電が一般家庭にも導入されていると。

 つまりあの青色の流れは、二十一世紀でいえば電線や電柱に相当するインフラで、街全体にエネルギーを行き渡らせているのではないか。

 あるいは、あの青色自体が何らかの素子なのか。

 青色に輝く小さな水面みなもが、クリスタルガラスのあらゆる表面を這い、流れ、脈打っているかのよう。

 まさに近未来都市の雰囲気だった。

 私の知らない、シンセルドルフの姿。

 それはまあ、二百五十年も離れていればひとつの街の姿なんて大きく変わって然るべしというところで、シンセルドルフが元々科学都市として知られていたことを考えれば、これくらいの進化は当然なのかもしれないけれど。


「いろいろ変わってるだろ」


 夜天が私の胸中を読んだかのように言う。


「だが、間違いなくシンセルドルフだ。……おかえり、トウカ」


 おかえり。

 ――なのか。


「…………」


 ただいま、と言うべきかどうか悩んで、口を開きかけたけれど、結局悩んだまま、私は口を閉ざした。

 私は、自分自身が、この街に対しておかえりただいまと言い合える間柄だとは、到底思えなかったから。


 ◆2


 "Seinscerdolf Cent. Bz."

 

 ――シンセルドルフ中央区。

 

 エレイン・フィールドで守護されたエリアに入ってから十数分後、バスは中央ターミナル駅に到着した。

 バスを降りてまず感じたのは、空気がほのかに暖かいということだった。

 ここはまだ亜寒帯で、時期は厳冬季。しかも強い吹雪の中を抜けてきたはずなのに、陽気は初春のそれだ。

 熱対流の制御、か。フィールド内は人間が暮らしやすいように環境パラメータが調整されているだろうことが予想された。

 見上げると、平らく圧縮された空が、ゆっくりと渦巻いている。

 吸い込まれそう、という表現がぴったりだ。

 思わずじっと見つめてしまう。


「みんなそうやって空を見上げる」


 夜天が言った。


「今のシンセルドルフの象徴さ」


 ちょっと田舎者っぽかったかなと内省するけれども、それは実際その通りだから仕方ない。

 初めてこの光景を見て、呆気にとられない人はいないだろう。

 空なのに、空でないようだという体験はなかなかできるものではない。

 地上に目を移すと、首都の中心部というというだけあって、建物の密度は高め。

 しかしさほど圧迫感を覚えないのは、見上げるほど高い建造物がなく、人の足で行き来できる地上の面積がとても広くとられていて、視界が開けているためだ。

 建物はどれも鈍く光る銀白色の建材をベースとしていて、それでは眩しすぎるためか、つやのないアイボリー色の塗装が装飾的に施されている。

 その塗装が視界いっぱいにほとんど一様なので、統一感があって非常に美しい。

 クリーミッシュな床や壁面を縦横に這う、電気回路のごとき青い水晶色の道筋。恐らくはエネルギーインフラ。

 それと並行して流れている水路と噴水。

 冬だというのに、常緑樹めいた植木がそれらに囲まれて並び重なり、目をなごませる。

 お城のバルコニーから広大な庭園を見下ろしているような気分だった。

 二百五十年ぶりなので、さすがに記憶とは違うけれど、それでも大まかなレイアウトは同じで、高い建造物がなく、キャピタル・カラーたるアイボリー・ホワイトが風景を染めているのも同じ。

 多分、景観の統一性は、「王冠」と同様、シンセルドルフ条例や慣習や伝統として継承され維持され続けているのだろう。

 それは、喜ばしいことだと思う。


「懐かしいか?」


 懐かしいかと聞かれると、しかし、ちょっと歯がゆい。

 私がこの国にしたことを思うと、懐かしく思ってはいけないようにも思うから。

 ただ、掛け値なしに綺麗な景観だと思う。

 恐らくは万人が同じ印象を抱くだろう。

 そんな想像だけで私は十分なのだった。

 腕時計に目を落とすと、午前八時になろうとしていた。

 気のせいか、ただ見ている間にも刻々と街に降ってくる光が明るくなってきている気がする。

 ちょうど人々が活動を始めている時間だからか、行きかう人々の姿は多い――けど、思ったほどではない。

 このあたりはビジネス街ではないせいもあるし、視界が開けているから、人と人の距離も狭くは感じなかった。

 私はいくつか落ち着いて呼吸し、文明酔いが起こらないことを自覚した。

 綺麗な景色が肺の中まで浄化したかのようで、すがすがしい気分ですらある。

 もう大丈夫だろう。


「さて、トウカ。疲れてないか?」


「うん。大丈夫」


 不死者は肉体的には疲れない。

 疲れてないかという質問は、だから、神経や気持ちの問題としてだった。


「それは良かった。じゃ、とりあえず観光がてらそこらを歩いて、どこかで軽く朝食でも摂るか。……と言いたいところなんだが」


 夜天はトーンを落とした。


「実はあまり時間がない」


「時間?」


「『彼』と会う算段をつけてある。正午にランチだ」


 私は気が引き締まるのを感じた。

 ようやく『彼』――夜天の婚約相手とご対面だ。


「どこで?」


「場所は彼が選んだ。第二区にあるレストラン(リストランテ)、“リズニ”」


 私はうなずいた。

 ガイドブックにあったシンセルドルフの市街図は頭に入っている。

 ここから第二区までなら、移動に二十分とかからないだろう。

 それを踏まえて、私は疑問を口にする。


「正午の約束なら、まだいくらか時間はあるんじゃ?」


 正午まであと四時間ほど。

 もちろん心の準備という意味では短いかもしれない。

 しかし、夜天がそういうニュアンスで時間の逼迫ひっぱくを訴えたとは思えなかった。


「おいおいトウカ。女にはいろいろ準備ってものがあるだろ?」


「あ……えっと、身繕いとかのこと?」


「そうだ。そんな間に合わせの服で連れていくわけにいかない。お色直しが必要だ」


 そう言って、小さな通信機械を操作し始める夜天。

 指先がおそろしく早く動いている。

 もう私を見ていない。


「えっと、あの……?」


 お色直しに、そんなに時間がかかるものだろうか?


「さ、行くぞ」


 手を掴まれ、引っ張られる形になる。

 私は事情を尋ねるために二言三言口を挟んだけれど、行動力全開状態になっている夜天を止めることは誰にもできない。 

 車道へ出るなり、目の前で止まったカプセル型の小型車に身体を押し込まれた。

 運転手はいない。夜天が座席のコンソールを操作すると、車体は勝手に動き出した。自動運転タクシーのようで、加速がとても滑らか。

 しかし私はその技術に感心する余裕もない。


「ええと、どこへ?」


 夜天は無言で端末を叩いている。

 私の声が耳に入っていないようだ。

 と、その顔がいきなりこちらを向いた。


「赤と青、どちらがいい?」


「えっ、何が?」


「青だな」


 ひとりで勝手に納得して、また端末の相手に戻ってしまう。

 いったい何だというのか。

 タクシーの速度がかなり早くて、ちょっと肝を冷やしている間に、目的地に到着。走ったのはほんの二分くらいだったと思う。

 中央区・表通りの端っこにあたり。

 ほとんど銀色とアイボリーで構成されているシンセルドルフの街並みの中で、その店は誰かの隠れ家のようにひっそりとたたずんでいた。

 黒檀のようにシックで、艶消し塗装が施された、落ち着いた雰囲気の外観。

 周りの建物に比べて敷地が狭く、壁面には飾りという飾りもなく、一見すると何の店なのかよくわからない。

 壁面にドアがひとつだけあり、その横に、一抱えサイズほどの小さなボックス・ショーウィンドウが埋め込まれている。

 その透明な箱の中で、顔の無いマネキンの胸像が金のネックレスをかけられ、暖色のスポットライトを当てられていた。

 そこがどんな場所かを示す情報は、驚くべきことにそれだけだ。

 それはつまり、そこがどんな場所であるか、知らない人間に知らせる必要はないという商業形態を採っているということだろう。

 夜天に手を引かれてドアをくぐる直前、壁面に小さく掲げられた金属の切文字――おそらく店名であろう筆記体のアルファベット――を、私はかろうじて読み取った。

 

 "Nemu."

 

 「ネム」、で、いいのだろうか。

 けたたましく鳴り響いたドアベルとは対象に、足を踏み入れた店内は静まり返っていた。

 ひょっとして誰もいない店に入ってしまったのかな、営業時間外なのかな、と思うほどの静寂の中、タキシードとネクタイで正装した女性たちが一列に整列し、礼儀正しくこちらに頭を下げていたものだから、私は腰を抜かしそうになった。

 人間はこんなに静かで不動であれるものなのかと驚くほど、彼女たちは微動だにしなかった。

 しかし夜天が短く声をかけると一斉に、恐ろしいほど訓練された速度と所作で顔を上げ、指示を聞く姿勢となった。

 夜天が何やら話し出すけれど、早口すぎて、言葉の慣らしが終わっていない私にはまだちょっとその内容まではわからない。服や髪がどうのこうのと言っているらしいけど。

 要求を伝えているというより、指示を与えているという感じ。

 ぱん、と軽く夜天が手を叩くと、女性たち――今さらだけど「ネム」のスタッフたちなのだろう――は一斉に動き始めた。

 さながら軍隊の作戦行動の合図が出されたように、雰囲気が慌ただしくなる。

 ぽかんとしていた私は、その雰囲気の完全な蚊帳の外――にできればいたかったのだけれども、気づけばスタッフたちに取り囲まれ、身体を引かれているのか押されているのか、数人がかりで店の奥へ運ばれようとしていた。

 まるで荷物でも運ぶかのように、私の意思は無視されている。

 

「え、あの、ちょっと!?」


 ようやく我にかえり、首だけどうにか動かして夜天に助けと状況説明を求める。

 しかし返ってきたのは無感動な一言だけだった。


「トウカは何もしなくていい」


 それを最後に、しばらく夜天とは離れ離れになり。

 私は全自動洗濯乾燥機に投げ込まれた布切れの気分を味わうこととなる。


 ◇

 

 別室に連れていかれた私は、まず、下着を含めて服をすべて没収された。

 一応抵抗はしたのだけれども、五秒で脱がされた。

 さらに別室へ連れていかれ、赤いゼリーのようなもので満たされた大きな浴槽に首まで浸からされた。

 抵抗しなければ頭まで沈められそうなほど、女たちの力は強く、何より冷徹だった。

 職業人として、自分たちの道具をどう扱うべきか知り尽くしているという感じ。

 彼女たちの職業意識に、顧客への説明責任という言葉はないようだけど。

 妙な粘度のある赤いゼリーは人肌以上に温められていて、感触はゼラチンのよう。

 浸からされるだけならまだ不快ではなかったけれども、途中から新たに二人、三人と女が現れ、私の四肢の、その始まりから終わりまで何往復も入念に粘液を刷り込まれるのにはさすがに辟易へきえきというか、困惑というか、混乱した。

 顎に塗り込まれる時は首を絞められるかと思うほどの執着を感じたし、お腹や、脇の下や、耳たぶや、乳房や、その他、皮膚という皮膚、粘膜という粘膜まで無遠慮に撫でまわされ、拡げられ、圧迫され、いじくられるのは、もはや人権蹂躙以外の何者でもなかった。

 さすがに文句を言おうとしたところで、さらに別の一人が現れ、陶器の瓶からトニックのような匂いのする液体を私の頭に注ぎはじめ、口を封じられる。

 その注ぎ方ときたら、液が顔面に分厚い膜を張るほどの勢いと量で、ようやく終わったと思ったら続けざまにもう一瓶の蓋が開けられ、呼吸さえ許されない水責めが即座に再開された。

 目を開けたらひどく染みた。

 私は真剣に拷問を疑った。

 地獄のような時間が過ぎたあと、浴槽から引きずり出され、身体中からぽたぽた赤い粘液を垂らしたまま別室へ連行され、また別の浴槽に押し込められた。

 今度はどぎつい緑色の液体が張ってあった。

 悪臭ではないものの、生臭い匂いがあって、妙に生ぬるい。

 液体はヘドロのような恐ろしい粘度があり、一度浸かってしまうと身動きするのも辛かった。底なし沼に引き込まれ、溺れるような恐怖感が掻き立てられた。

 その恐怖を実体験させようとでもいうように、女が、手袋をした手で浴槽のヘドロをすくいあげ上げ、遠慮なく私の顔に塗りたくりはじめた。

 生臭い匂いが目の奥までしみ込んでくるかのようで、何だか心がとても傷つく。

 私が抵抗するのにも関わらず、女は何度も無造作に繰り返した。

 よく訓練された拷問官だ。

 ヘドロ風呂から引きずり出されても、べたつくヘドロは一滴も私の身体から離れなかった。

 そこに鏡はなかったけれども、もしあったら、そこには深き沼の底から現れた、呪いの王のようなものが映っていたに違いない。

 もはやどこを歩かされているのかもわからぬまま、気づけば今度はひどく暗くて狭い空間に立たされていた。

 妙に静かになったと思ったら、あらゆる方向から水の噴射が始まる。

 強力なノズル噴射が、頭上からも、左右からも、足元からも、幾重にも身体を叩いた。

 身体がえぐられ、骨が曲がるかと思うほどの衝撃が、全方向から絶え間なく押し寄せる。

 いっそ倒れこんでしまって衝撃から逃れようとしたのだけれど、全方向からの圧力なのでそれすらできない。

 どうにか身体を動かしてそこから逃れようとするのだけれども、ずいぶんと狭いところ、たぶんカプセルのような洗浄室に閉じ込められているらしく、内側から開けられそうな取っ掛かりはどこにもない。

 できるのは衝撃を全身に受けながら、時間が過ぎるのを待つだけ。

 新しい拷問の手口か。

 水が冷たくないのが、せめてもの救い。

 でも普通に痛いし苦しい。

 洗浄カプセルから引っ張り出され、次の部屋へ。

 待ち受けていたのは、新たなる浴槽。

 今度は何だろう。

 酸かな。マグマかも。

 と思っていたら、白い湯気の立つ普通の湯だった。

 女たちがうやうやしく左右前後にかしづき、泡立ったスポンジやタオル生地で私の身体を洗いはじめる。

 足の爪の中、耳の穴の中、髪の毛の間と間さえかき分けるようにして、丁寧かつ入念に。

 どうやらさきほどの洗浄室と合わせて高粘度の緑ヘドロをしっかり洗い落とすための行程であるらしい、と私は理解した。 

 摩擦はそうとう強めだし、デリケートな部分も遠慮なくこすられるけれども、そう理解することで、ここまでに比べればまだ人間的な扱いを受けていると、私はなんとか納得しようとした。

 湯から上がってようやくさっぱりしたと思ったら、次に連行された部屋では、また赤いゼリーの浴槽が私を待っていた。

 どうも最初の部屋へ戻ってきたらしい。

 またこれに浸からされて、数人がかりで満遍なく粘液を塗り込まれるのかと思ったら、その通りだった。

 トニック臭のする水責めも当然セット。

 私は心を失いかけていた。

 まさか、もう一度同じ行程が繰り返されるのだろうか?

 このあとはまたあの緑のヘドロで、その次は高圧洗浄?

 と思っていたら、次は二回目の普通のお湯だった。

 スポンジやタオルで身体を洗われるのは同じだったけれども、さきほどより生地や目地が柔らかいものに変わっており、使用されるソープも泡が細かく、よい香りがして、女たちの摩擦も心なしか優しく、擦るというよりは拭くという手つきになっていた。

 心地よい、とすら私は感じた。

 いや、しかし、油断はできない。

 対象者に敢えて余裕を与えるというのも、拷問のよくある手口だからだ。

 浴槽から出され、蒸しタオルで身体を拭かれる。

 ベビーパウダーのような微細粒子をスプレーで全身に吹きかけられ、乾いた布で肌になじませられた。

 髪にはヘアドライヤーの熱風がかかる。

 身体中しっかり乾かされているところを見ると、どうやら水責めは終わりのようだ。

 すっかりふやけてしまったのではなかろうか、と自分の身体を確認した私は、皮膚のどこもかしこもが剥きたてのゆで卵のように瑞々しい張りツヤを放っていることに気づき、驚きを隠せなかった。

 さきほど吹きかけられたパウダーの残滓ざんしが銀色に輝き、指先まで輝くよう。

 さらに、耳、頬に当たる髪の感触がものすごくしっとりしていて、水をかくように指が通った。

 何だこれは。何が起きた。

 自分の身体じゃないみたいだ。

 などと思っているうちに、身体測定が始まった。

 裸のままの私をスタッフ数人が代わる代わる取り囲み、あちこちにメジャーを当てては鋭い声で数字を読み上げる。

 その数字を記録係がすばやいペン捌きで紙に書きつけていく。

 まつ毛の長さまで測られて、私はそんな数字をいったい何に使う気なのかと、怒りも困惑も通り越して、ただ呆れた。

 それでもこれまでの拷問に比べればましなのでじっと立ち尽くして耐えていると、いつの間にか夜天の姿が近くにあった。

 記録係が抱えている紙を覗きこんでいる。


「彼女、身長の割に胸とお尻が小さいですね」


「ああ」


「強調しますか?」


「うーん。気持ち程度で」


 などというやりとりが耳に入り、私は思わず殴り掛かりそうになった。

 なんという無礼なやりとりをしているのか。

 と、文句のひとつもつけたい気持ちが湧き上がるものの、ぐっとこらえた。

 着衣の人間の中ひとりだけ裸、というのはこんなにも人を弱くさせるものなのかと歯噛みする。

 ……そんなに小さくないと思うけどな。

 ふてくされる間もなく、背中を押され、次の部屋へ。

 白いシーツが張られた台があり、そこへ横たわるよう身振りで指示された。

 もうどうにでもなれという気分で従うと、始まったのはマッサージだった。

 施術者は腕まくりをした白シャツの女性。

 私は誰かに触れられることを好むタイプではないけれど、彼女の手つきのよどみなさに、早々に抵抗をやめた。

 人体の筋肉の構造、関節の働き、経絡けいらく等については私も並み以上の知識を持っているけれど、その知識に照らしていえば、彼女の技術はエキスパートクラスだった。

 どこの筋肉をどのようにほぐし、どの深さから血流を良くしていくか、彼女は指先にかかるほんの数グラムの圧力から察知していた。

 もともとそれほど身体が凝っていたつもりはなかったけれども、骨と骨格筋にかかるエネルギーを巧みに分離させられつつほぐされていると、いかに自分が無駄な負荷をかけて歩いていたかが如実になった。

 人体はそう意識しない限り、ついつい弱い部位にばかり頼って負荷をかけてしまうものだ。

 例えば、膝とか腰とか。

 最初に壊れるのもそこ。

 不死者だから、そういう疲労や痛みはどこかへやってしまえるとしても、肉体に負荷は溜まるので、それを解されれば人並み程度に気持ちいい。

 私はすっかり彼女への警戒心を解き、身を委ねた。

 たまに彼女の指が筋膜を刺激するために強く押し込まれたけれど、それすら痛みと気持ちよさが等価で、もっとやってほしいと思うほどだった。

 さきほどまでの拷問はどこへやら――いや、あの拷問があってこその、この究極の弛緩なのかもしれない。

 皮膚はつるつるぴかぴかになったけれども、ずっと緊張状態に置かれていたため、深層の筋肉に強いストレスがかかっていたことは確かだ。

 それを癒そうという試みなのかもしれない。

 ひどくゆったりとした時間が流れた。

 眠りとはまた違う、頭がぼんやりとなるような幸福感。

 肩を叩かれ、台から降りるよう指示された時も、私は夢見心地で、背中から羽が生えたかのように身体は軽やかだった。

 未だ一糸まとわぬ姿のまま、また違う部屋へ移動。

 この建物にはいったいいくつの部屋があるのだろうか。異次元空間に迷い込んだのではなかろうか。

 さすがにそろそろ何か着せてくれてもいいのではと思っていると、スタッフのひとりが白い布のようなものが入ったバスケットをうやうやしく差し出してきた。

 やっと下着を着せてもらえるのかと中身を引っぱり出すと、下着では下着でも、素材が布ではなく紙だった。

 紙で出来たブラと、ショーツ。

 作りも非常に簡素で、着けるとか穿くとかではなく、巻いて止めるだけの代物。

 意図を測りかねて首を傾げたのも束の間、次に到着した部屋で、私はそれら使い捨て下着の意義を理解した。

 今までで一番大きな部屋だった。

 そして、今までで一番騒がしい部屋だった。

 スタッフたちがあちらこちらと走り回り、怒号のような声が飛び交い、それと同じくらい様々なものが手と手でリレーされ、あるいは床を走り、時には宙を舞っている。

 様々なもの、というのは、例えば大量のドレスが架けられたキャスター付きハンガーラックであるとか、ドレス単体であるとか、ひらめくリボンであるとか、ボタンであるとか、チェーンネックレスであるとか、ハンガーであるとか、きわどいラインのビキニであるとか、ハイヒールであるとか、宝石であるとか……。

 衣服あるいは装身具、という言葉を、仮に例示的にしか表すことができないとしたら、この空間にはそのすべての例示が存在していた。

 何をしているのだろうかと私は他人事のように思った。

 税務署か何かの査察が入って緊急に財産を処分する必要でも生じたか。

 しかし、壁一面の大きな鏡の前へ連れていかれ、様々な方向から眩しいライトを当てられ、衣服あるいは装身具たちが私を囲むように用意され、今もその列に次々と新手が追加されていく様子を目撃すると、どうもこの騒ぎが他人事ではないらしいことを私は知るのだった。

 というか、私自身のための空間か。

 使い捨ての下着は、つまりフィッティングのためらしい。

 そして、そこからが真の拷問だった。


 ◇


 痛みに代表される、肉体への物理的刺激によって生じる不快な感覚は、大多数の人間にとって耐えがたいものであることは言うまでもない。

 しかし、物理的なものは物理的なものとして内的な感覚からは切り離すという方法論が存在する。

 例えば瞑想がそう。

 心頭滅却すれば火もまた涼しと言うように、自身の感覚をも操作するに至る達人は、どの芸道にもほぼ必ず存在する。その領域に至れなければ、その道は成らぬと言っても良い。

 宇宙飛行士、消防士、兵士、あるいは特殊工作員などは、その職種に求められる資質として必ずその種の鍛練を行う。

 訓練、鍛練などと大げさなことを言わなくとも、ただの素人でも必要とあれば苦痛に慣れることができる。

 痛みは結局、危険のシグナルに過ぎないわけだから、それを受容するよりも今まさにさらに大きな危険に対処しなければならない場合には、脳がアドレナリンを分泌し、痛みを感じにくくしてくれる。時には肉体のリミッターさえ外してくれる。

 不死者は元々、肉体の感覚をどこか遠くにやってしまえるし、痛みに耐えるための基本的な訓練も(不死者になってからだけど)私も生兵法にならない程度に受けている。 

 要は、痛みであれば誰でも多少は耐えるすべがある、というお話。

 しかし――これという刺激を伴わない苦痛には、人はそう長く耐えることができない。

 極論、まったくの「無」に放り出されると、常人なら数十分かそこら、専門の訓練を受けていてもものの数時間で発狂し、一日前後で廃人化すると言われている。

 不死者はどうなのか、「無」にどの程度耐えられるのかという実験は、公的には行われたことがない。

 そのはずだ。

 しかしまさに今、ここでそれが行われているのかもしれない。

 大部屋に連れてこられてから、どのくらい経っただろうか。

 あまりにも辛くてよくわからない。

 私が感覚し得るものといえば、鏡の反射、ストロボ、肌の上を這い、擦れる布、金属の感触、鼓膜にぼんやりと届く矢継ぎ早の指示、その繰り返し。

 下着の色に始まり、さまざまな素材の肌着、様々な丈のドレス、色々な形の靴、大小さまざまな装飾品を身につけさせられた。

 新しい組み合わせの度に大鏡の前、ストロボの下へ連れていかれ、ポーズを取らされた。

 その度にスタッフたちが恐るべき速さで言葉を交わし、信じられないほどの高速で動き回った。

 そうこうしているうちに新しい服飾が周りに用意されており、着ているものを脱がされ、また新たな組み合わせが試験された。

 手を引かれ、肩を掴まれ、背中を押され。

 今度はあっちへ、次はこっちへ。

 苦痛を感じていられるのも最初の十五分くらいだった。

 そもそもの話、私は、自分を見られるのがそんなに好きなほうではない。

 お洒落するのが嫌いなわけではない。むしろ、興味も知識も人並みにあるほうだと思う。

 しかし、公衆や大衆に向けてそれをアピールしようとは思わないし、ましてや何らかの批評を受けるとしたら苦痛そのものだ。

 これは、不死者になる前に構築された私の内面に根差した問題であって、経験によって改革可能なドグマではない。

 つまり、大勢に囲まれ、大きな鏡の前に立たされ、大光量のライトを浴びながら、ファッションを試行錯誤されているというこの状況は深い背馳はいちに満ちた当為とういであって、私はこれを受け入れられない。

 受け入れられないけれども、どうやって逃げ出せばいいのかもわからない。

 洗濯機の渦に投げ込まれた布切れに、洗濯機から脱出する術があるものだろうか。

 耐えようにも、物理的刺激そのものが苦痛というわけではないので、銃で撃たれるような痛みと違って、耐える対象がない。

 銃で撃たれるほうがまだマシとさえいえる。

 耐えるには、感受性を殺していくしかない。

 私は人形。

 マネキン人形。

 世界にあるすべてのマネキンを、私ひとりで代理してあげているという、悲劇のマネキンを心の中で演じるのが限度。

 椅子に座らされ、化粧を施されることもあり、そのパターンも服のデザインに合わせて適宜変更されるようだったが、鏡の中の私はすぐにゲシュタルトが崩壊してしまい、当の私にはどこがどう変わっているのか全然わからなかった。

 ある特定のスタッフが常に私の背後についてまわり、休みなく私の髪をくくったり、櫛でいたり、ミストを振りかけたり、ヘアピンを通したりしていることに、けっこう時間が経ってから気づいた。

 他のスタッフに促され、私がどんなに強制移動させられても、その彼女は影のように私の背後にいて、絶対に私の髪を引っ張ることなく、それでいて指先は途方もない速さで動いていた。

 凄腕のヘアスタイリストか、あるいは背後霊のどちらかだろうと私は思った。

 どちらだろうと私には変わりない。

 お色直し、という夜天の言葉が、時々泡のように意識に浮かんでは、音もなく弾けて消えていった。

 お色直し(カラー・チェンジ)

 彼女たちは夜天の指示で、私を、私の色を変えようとしているようだけれども。

 いったい何のために?

 …………。

 ああ、そうそう。

 確か、これから夜天の婚約者に会いに行くので、だから、ちょっとばかりドレス・アップが必要という、そういう話か。

 それで、ええと。

 今何をしているのだっけ。

 鏡に映る、このぼんやりとした色の集合は何だろう。

 私のようだけど、なんだか私っぽくないなあ。

 白い光が眩しいなあ。

 …………。

 何だっけ、これ。

 …………。

 ああ、そうそう。

 お色直し、だっけ。

 それで、オイロナオシって?


 ◇


「――トウカ。トウカ、しっかりしろ」


 ぺちぺちと頬を叩かれる。

 叩かれた古いテレビの写りがよくなるみたいに意識のチャンネルがオンになり、私は夜天の顔が目の前にあるのに気付いた。

 何だか頭がぼんやりしていている。

 しばらく意識が飛んでいたかのような奇妙な空白感があり、私は本能的に目蓋をこすろうとした。

 その手を、夜天に止められる。


「よせ。化粧が落ちるぞ」


「……?」


 私は自分がどこにいるのか咄嗟にわからず、周りを見回した。

 霧が晴れるように眼の焦点が合っていく――と、五歩ほど離れたところに見知らぬ女が立っており、こちらを窺うような目を向けてきていることに気づいた。

 あれは誰、と夜天に尋ねようとして、その女が私と同期した挙動をしたことに驚いた。

 すると、その少女もまた、私と同じようにびくりと肩を跳ねさせていた。

 この段になって、五歩先にあるのは鏡であり、信じがたい表情でこちらを見返してきているのが他ならぬ自分自身であるようだと、ようやく悟った。


「――――」


 悟り、そして悟ったゆえに、しばらく言葉が出なかった。

 鏡の中にいるのは、なんとか喩えるなら、アニメの中からそのまま出てきたような、清涼な色彩をまとったお姫様だった。

 上品なサックスブルーを基調としたドレスは、漢服調のゆるやかなフォルムで、生地が肩から両袖、足がすべて隠れる長さのフレアスカートの先端に向かってふわりと柔らかく広がり、青い蝶ユリシスを思わせる優雅なシルエットに仕上がっている。

 腕や胸や腰のラインやボタンラインに合わせて仄暗い冥色めいしょくや、明るいはなだ色が巧みに織り交ぜられ、翅のはばたきを生地の中に閉じ込めたような動静の機微がある。

 胸元は紺に近いほどの深い縹で、容易には窺い知れない胸の裡の深遠さを示しているかのよう。

 そこから手足の先端に向かうに連れて、青は明色と暗色のはざまで飛翔しながらも徐々に月白げっぱく色へと溶けて、最終的には外界と鮮やかなまでの混和を果たしている。

 肌が透けるほど一枚一枚の生地が薄くて軽く、布の重ねがない末端部分では空気を纏っているのと区別がつかず、まるで身体から体重がなくなって世界へ溶けていくような鮮明な感覚だった。

 柄はあまり目立たないものの、大きく開いた袖や、スカートのひだ周りに恐ろしく細かい刺繍が走っており、割れた陶器を修復・装飾する金継ぎにも似た、上品で優雅な光沢を要所要所で放っている。

 襟はなく、頸から胸元まで肌が露出しているけれど、ドレス全体の色味やシルエットが幻想的ですらあるために、妖艶さとか、生々しさといった感じはなく、剥き出しの肌の白さはむしろ全体のコントラストを引き締める統括的な役割を果たしていた。

 そして細い頸の上にある、顔は。

 何と言うべきだろうか。

 「お色直し(カラー・チェンジ)」。

 "colors"には、「本性」という意味もあったはずだ。

 その意味に従えば、確かに、私の顔そのもの――私と言う存在から半歩はみ出して、他者の前に現前させられる私という様態が、何かしらの方法で変更させられたようだった。

 鏡写しの自分の顔が、間違いなく自分の顔であるとわかっているのに、その理解の少し手前に、私そのものではない、私が所有したり理解したりすることのできない、優美なまでの断絶があるのを感じた。

 人は誰しも、幼い日々の中のどこかの一瞬で、鏡の中にある顔が、この顔こそが自分の顔であるという確かな実感を得る。

 しかしその感覚は実のところ、「理解」ではなく「所有」でもない。

 鏡という「外部」を、自己であるかのように「臨写りんしゃ」しているに過ぎない。

 まさしく、誰かの真似をすることでその誰かになり切ろうとする、幼児のごっこ遊びだとか、憧れの存在への模倣の究極形。

 「誰か」に近づき、同一化・同調し、そのまま溶け合ってしまいたいという原始の欲求を叶えるための最もシンプルな方法が、その「誰か」を「自分」として「臨写」することなのだ。

 人間は自分自身に対してそのような「臨写」を繰り返してひたすら自我を強化するので、普通は、自分の顔が自分の顔ではないかもしれないと疑いを持つことはない。

 私、藤村冬花が「これが私なのだ」と最初に鏡に対して確信したのはいつだったか。

 それはさすがに思い出せないけれど。

 今この瞬間も、それと似た感慨が間違いなくあった。

 魔法にかけられたあと、初めて鏡に向き合ったシンデレラも、こんな気持ちだったのだろうか。


「どうだ?」


 鏡像に向き合う時間をたっぷり私に与えたあとで、夜天が訊いてきた。


「……何だか自分じゃないみたい」


 口にしてみると、月並みな感想だけれども、そうとしか言いようがない。

 いずれにせよ悪い感じではなかった。

 世界中の女の子が(男の子でもいいけど)一度は味わうべき気持ちだとは思う。


「良いのか悪いのか、どっちなんだ?」


 夜天はそう言って苦笑しつつも、答えを求めているふうではなく、私が満足していることに満足しているようだった。

 それを見て、私も頬が緩むのを感じた。

 ようやく、鏡以外を気にする余裕ができる。

 そこはまだ、「Nemu.」の建物のどこか、あらゆる服・装身具が集積され並べられた大きな倉庫のような空間の、そのどこか一角にあるフィッティングスペースだった。

 傘が開いたような大きなストロボに照らされて、私と夜天は一面の鏡の前に立っている。

 夜天も私と同程度にドレス・アップしていた。

 私と同じ中華風のシルエットだけど、私とは対照的に、明るく鮮やかな薔薇色と白みがかったコーラルレッドを基調としたドレスで、丈はやや短く、膝から下を露出して脚線美を出している。

 私はクラシカルだけど、夜天はモダンでカジュアルな感じ。

 色やデザインにお互いの性格が現れているようだ、と私は思う。

 彼女は昔から目立つ赤系の色が好きだった。

 化粧もしているけど、夜天の場合は「お色直し」ではない。

 どんな色を身に着けようが、染まるのは色のほうであって、彼女のほうではないからだ。


「夜天、すごく似合ってる」


 だろう、と彼女は得意げに笑った。

 ストロボの影の中を、スタッフたちがまだ忙しげにそこかしこを行き来していた。

 しかし最初に比べれば、つまり、私が永遠に続くかに思えるフィッティング作業の苦痛に耐えかねて意識を飛ばしてしまう前よりは熱量のない、疲労と達成感とがブレンドされたけだるい空気が漂っていた。

 彼女たちは仕事をやり遂げたのだ。


「トウカ、ちょっとそのまま。背筋伸ばして」


「うん……」


 私の首筋に巻かれた小さなリボンを、夜天が角度調整する。

 私には全然わからないくらい微妙な調整だけど、夜天にはわかるのかな。

 そのとき鏡の中では、ちょうどうまい具合に赤と青が重なっていた。

 私は凍った青い海で、夜天が明け方の曙光しょこう

 二つは融け合わないけど、同じ世界に隣接して並び立つことはできる。

 双子の女王みたいだ、なんて思うのは、ちょっと烏滸おこがましいかな。


「さて、もうこんな時間だ。行くぞトウカ」


 鏡に見とれていたら、ぐいっと腕を引っ張られた。

 つんめりながらも、何とかついていく。

 早足、というより小走りになって狭い通路を抜ける。

 私はドレスの縫製を心配したけれど、入念なフィッティングのおかげか、走ってもまったく負荷や擦れ感を感じなかった。ドレス自体も非常に軽い。きっと宙返りだってできるだろう。

 私には店内の地図がまったくわからないけど、手を引かれるうち、気づけば入ってきたのと同じサロンのロビーに到着。

 店員たちが整列して頭を下げる中、夜天が勢いを止めずに出口に向かうものだから、私は抵抗した。


「あのちょっと、支払いとかは?」


「や、ここ僕のワードローブだから。いいから急げ」


 僕のワードローブ? どういう意味?

 まさか、「Nemu.」のオーナーだったりする?

 考える間もなく退店。

 店の前に停まっていたカプセル型の自動運転タクシーにそのままの勢いで詰め込まれそうになる直前で、私はさっきより強く抵抗し、言った。


「待って夜天。忘れ物」


「は? 何も持ってなかっただろ?」


「ポシェットと時計……あと元の服も」


「あんなの気にするな。もっといいのを後で買ってやるから、とにかく乗れ」


 苛立つような夜天に逆らえず、車に押し込まれる。

 こういう時になかなか抵抗できないのは、相変わらず私の弱い部分だ。確かに後で取りに来ることはできるだろうけど……。

 車は滑るように発進。


「やれやれ。思ったより手間取ったな」


 私は腕時計を置いてきてしまっていたけど、車内の時計によれば今は正午を二十分ほども回っていた。

 「Nemu.」に四時間以上いたことになる。

 時間感覚が狂いそうだった。そんなにいたという感覚はまったくなかった。


「約束は、正午ぴったり?」


「ああ。だが、気にすることはない。待たせとこう」


 時間に寛容な人なのかな。


「到着まで十五分ある。コレ、仕上げにやっとこう」


 そう言って夜天がどこからか取り出したのは、マニキュアの道具だ。

 爪なんて塗らなくても、と私は思うのだけれど、「正統なオシャレ」にはどうしても必要なのだという。

 正直よくわからないので、私は言われるままにした。


「トウカはあんまり目立つ色好きじゃないから、薄いピンクにしとく。根本だけちょっと濃いめにしてもいいか?」


「うん」


「じっとしてて」


「うん」


 ほとんど音も振動もなく走る車内で、夜天に指先を預ける。

 はみ出さないように透明な下地を塗って、それが乾くか乾かないかの絶妙なタイミングで、薄紅色の塗料を溶かし込んでいく。

 完全に乾き切る前に全体をならして、透明感とツヤのある綺麗なグラデーションを作るっていく。

 繊細な作業だ。

 一本だけならまだしも、すべての指先に均一なグラデーションを作るのは大変だと、見ているだけでもわかる。

 声をかけるのも躊躇われるほど、夜天は集中していた。この世界に私の爪以外のものがなくなってしまったと思い込んでいるみたいに、目を細め、唇を尖らせるようにして、小さな筆を〇・一ミリ単位で操っている。

 私は思わず頬を緩めていた。

 自制しなければ、吹き出していたかもしれない。

 取るに足らない私の小さな指先のために、夜天がここまで神経を使ってくれることが、ちょっぴり――。

 いや、だいぶ、嬉しかった。

 私の爪が夜天の意識を独占していることが。

 でもわかってる。

 これは私のためじゃない。

 ぜんぶ「彼」のため。

 私を世界の果てから探し出して、私を洗って、私を磨いて、私の髪をいて、私にドレスを着せて、私にリボンを結んで、私の爪を塗っているのは――。

 私のためじゃない。

 自分の友達を、自分の婚約者に少しでもよく見せたい。

 そこまで単純な感情ではないかもしれないけど、突き詰めればそういうこと。

 私は、夜天の結婚式に招待されたただの「ご友人」。

 二百年も僻地に引き篭もっていて、オシャレの仕方もわからない、結婚式に着ていくドレスも持っていない困った子だから、手間をかけて世話されているだけ。

 問いたいことはたくさんある。

 それとは別に言いたいこともたくさんある。

 でも何も言わない。

 言ったところで、きっと、どうにもならないから。

 言われた通り、じっとしている。

 一九九年間そうしていたように、じっとしているのは得意だから。


 ◆3


 十枚の爪が淡い桜色に染められ、乾いてくる頃、窓の外の景色に変化があった。

 大きなゲートをくぐると、近未来的な青と銀色の街並みがスッパリなくなり、いきなり、石の街になった。

 道路や歩道はすべて石畳。

 建築物も石材を加工して積み上げたものが大半で、寺院や教会、あるいは神殿といった雰囲気のものが多く見られる。

 そのどれもが必要以上に巨大で、荘厳で、壁面や窓には装飾を凝らした彫り物が多くみられ、中央区の平坦で柔らかな印象とは真逆の古めかしい雄偉ゆういを放っている。

 古代ギリシャの建築に使われていたエンタシスの柱が、ここでは最新の流行のようにそこかしこに見ることができる。

 あれは美しき渦巻き模様のドーリス柱。

 こっちは高窓とアーチのバリシカ。

 その向こうの玉ねぎ型の屋根は、ワシリィ大聖堂を思わせる。

 三角形のトラス構造が無限に組み合わされたエッフェル塔の隣に見えるのは、五重の塔?

 今は三十一世紀のはずだけど、ここの街並みはさまざまな地方、さまざまな時代の景色が混在しており、何と言うか、時空が著しく乱れている。

 さすがに、街路を行き交う観光客と思しき人々がトーガ姿ということはないし、あまり目立たないけど青色のエネルギー路や上下水道などのインフラは完璧なようだから、あくまでもそういう外面だけ、ということなのだろうけど。

 「遺跡の街」。

 ガイドブックには確かそう書いてあった。

 シンセルドルフ第二区、通称、古式ゆかしいアーカイック・エリア。

 世界中の失われつつあるあらゆる文化・歴史的建築物を可能な限り収集あるいは模造・再現し保存を図るという発想の元、区ひとつに世界中の様々な時代・場所の、有形・無形を問わない文化が集められ、所狭しと並べられ共存している。

 要は、区全体が博物館というわけ。

 神殿などの建築物は現状をできるだけ維持しながら現地から運ばれてきたものもあるし、現在の技術で再現されたものもある。

 石造建築が目立つのは、やっぱり文化の収集対象はヨーロッパが中心だからかな、と私は思う。

 空を見上げると、半透明なエレイン・フィールドが、第二区の空にも天候制御用バリアを張っている。

 歴史的建築物を気候の影響から守るためだろう、と予想できた。

 ここは年中雨も雪も降らず、風も穏やかで、温度や湿度もほとんど変化しないに違いない。

 まるで時間が止まっているようだ、と私は思った。


 ◇

 

 自動運転タクシーが止まったのは、ちょっとした宮殿、とでも表現すべき石と鋳鉄ちゅうてつの建物の前だった。

 ゴシック建築の影響を受けたと思しき、ギザギザとした複雑精緻な装飾、尖塔アーチ、大きな張り出し窓。

 石材は日に焼けて少し劣化していて、全体に古さを感じる佇まいなのは、たぶんこれもどこかの歴史的建造物を模倣・再現するために、敢えて時代がかって見えるように加工されているのだろう。

 リストランテ"RESONNEY(リズニ)"。

 多国籍国家であるシンセルドルフにはこのあたりの共通語とは異なる言葉のニュアンスも多く散見される。

 リズニ。「共鳴」のニュアンスだろうか。 

 大きなファサードをくぐると、重厚な交差リブヴォールトの下、礼服姿のスタッフ二人が私たちを出迎えた。

 夜天が名前を告げると、予約があるのだろう、スタッフはうやうやしく頭を下げて、私達を先導した。

 大理石がシャンデリアの光だけではなくガラスの影まで鮮明に映し出し、輝くばかりのホワイトクロスがかけられた丸テーブルのいくつかで、客たちがランチを楽しんでいる。

 どうやら「リズニ」はドレスコードのあるレストランらしく、客は皆、一応は正装だ。

 一応はと言ったのは、あくまでもカジュアルフォーマルといった雰囲気だからで、襟のないシャツにジャケットだけ、という若者もいるし、お行儀悪くお喋りしながら皿をつついているジャンパースカートの女の子もいる。

 会員制の超高級レストランというわけではなさそうで安心する一方、それはそれで、自分の豪奢かつ高価なドレスはいかにも場にそぐわない気がしてきて、身体が縮こまる。

 入り口そばの鏡に映る自分を見ると、何枚もの青い包装紙に無理やりくるまれた即席のお姫様、という印象で、どうやっても目立つ。

 どう控えめに見ても、このフロアで、いやこの地区で一番高価な衣装を私はまとっていた。

 このままフロアを歩かされるのは嫌だな、と尻込みしていると、予想に反して私たちは別の通路へ案内された。

 薄暗い通路の奥の古めかしいエレベーターに乗せられ、ごとごと音とともにしばらく上昇。

 降りるとそこは、外に面した石造りの柱廊だった。

 夕方とも朝方とも、世界の終わりとも始まりともつかぬ、どこか酸味を帯びた光が円石柱の合間から注ぎ、丸みを帯びた横縞模様を石床上に描いている。

 肌に微風を感じた。その感触から、ここは建物の屋上に近い場所ではないかと思われた。

 静謐な寺院の中のような柱廊を、三十歩ばかり歩く。

 ヒールの音がこつこつ反響する。 

 間もなく開けた空間に出た。

 高さでいうと、たぶん六、七階くらい。

 屋根がなく、シンセルドルフ第二区、そして頭上を覆う半透明のドームをほぼ全景として一望できる、円形のバルコニーだった。

 まるで、空をかき混ぜようと差し出された巨大なティースプーン。

 城塞の先端で、敵の接近をいち早く察知するための物見台のようでもある。

 いずれにせよ、誰かのために、誰かによって、周到に整えられた舞台に違いなかった。

 円形の舞台のそのまた中央に、一基の丸テーブルが置かれている。

 純白のクロスに緋色の天鵞絨ベルベット、金細工で飾られたそのテーブルは、静かに私たちの到来を待ち受けていた。

 その他には何もない。

 ただぬるい風が、異様なほどゆっくりと流れていた。

 スタッフは先導をやめ、一礼だけして引き下がった。


「トウカ。さあ」


 夜天に促され、私は、軽いはずのドレスが水に濡れたように重たくなるなるのを感じながら、舞台に向かって踏み出した。

 クロスの上には大小の食器が並べられており、配膳が済んでいるようだった。

 三脚の椅子がテーブルを囲むように用意されている。

 しかし、傍には誰もいない。

 「彼」がここで待っているはずでは?

 約束の時間に遅れてしまったから、もうここにはいない?

 それとも、初めから私が何か勘違いをしていて、夜天に婚約者などいなかった?

 そんな非現実的な、あるいは曖昧なまどろみのような願望がぽつぽつと浮かんでは、浮かんできたのと同じリズムでしぼみ、消えていった。

 バルコニーを包む微風と光のかげりの中に、微かな緊張が漂っているのを私は感じた。

 私の見ている現実感と本物の現実が交錯するような感じ。

 見たいものも、見たくないものも、見ようとしているものも、すべてが同様に一元的な値札をつけられる、そういう瞬間が近づきつつあった。

 幽霊山脈ゴーストクロックを出奔した私の、ここが終着駅。 

 夜天に塗ってもらった桜色の爪を、ゆるく握る。

 舌の根が乾燥するのを感じた。

 正確なところをいえば、「彼」の姿は最初から私の視界の中にあった。

 ただ、「彼」がこの気配が古びた寺院のごとき石と鋳鉄の空間に、ほとんど完璧に溶け込んでいたために、私はその姿を動的な何かとして、つまり生きている何かとして認識できなかった。

 「彼」は、テーブルから少し離れたところ、空をかき混ぜようとするスプーンの先端に立っていた。

 こちらに背を向けていた。

 何もしていない。

 ただ、空を見ているようだった。

 その背中はさながら船の舳先に取り付けられる守護神像のように堅牢で、硬質で、何より大きかった。

 それは何十年や何百年という単位でただ同じ場所にあり続けることを、ただそれだけを是とする、大いなるいわの気配と同じだった。

 大きく、静かで、動かず、それでいて生きているが、注意して観察しなければ生きている気配がない。

 ただそれだけの、美しいほど単純で無機質なにおい。

 人間からそういう気配を感じることは、きわめて少ない。

 近づいていくに連れ、静かな緊張を強いられる。

 寺院の奥の、隠された部屋のさらにその奥にある祭壇の、大事に祀られた神仏に指先を近づけていくような気分。

 まだいくらかの距離はあった。

 にも関わらず、「彼」は唐突に、こちらを振り向いた。

 自然の岩が何年もかけて移動するような、重厚な砂色の残影を振りまきながら。

 私は彼の視線を受けた。

 大丈夫。

 私そのものはともかく、私の表面は今、どこへ出しても威張れるくらいには武装している。

 視線を青いドレスで跳ね返すような気持ちになりながら、なおもゆっくり近づいていった。

 一歩ごと、一瞬ごとに、大岩の全容があらわになった。

 身長――二メートル十。

 背丈に比例して骨格・体格も太く大きく、それをよろう筋肉はまさに岩のごとく頑強であることが、身に着けている服の上からでも感じられた。

 服装――黒い礼服にネックタイを締め、その上からカーキ色のトレンチコートをまとっている。

 両手には黒手袋。アーミーブーツらしき厚靴を履いている。

 身につけているものすべてが規格外に大きかった。

 しかし、大きすぎることはなく、彼の肉体を必要かつ十分に包んでおり、全体として均整がとれている。

 体重――百キロを超えているだろう。

 しかし彼の肉体も、服装も、まとう空気すら無駄な部分が見つからず、緩みなく、針が通るような隙もなく、すべてが必要なものだけで構成されているという厳然たる佇まい。

 ますます、大岩のようだ。

 重心の低い、微動さえしない堂々たる立ち姿。

 目を向けている時間ごとになお険しさを増していく、どこか翳りのある眼差し。

 心拍はごく弱く、ゆっくりで、身体を流れる血液の温度は低そうだ。

 私は察した。

 彼は軍人だ。それも歴戦の。

 私はかすかに筋肉を緊張させた。

 いかなる意味でも、彼に先手を取らせたくない。

 眼差しも、言葉も、態度も、あらゆる動作も。

 しかし、そこからさらに歩みを進め、ついに彼の影を踏めるほどの距離感へ至ると、少なくとも彼が現役の軍人ではないことが自ずと察せられた。

 私は足を止め、腕を伸ばせば届くほどの距離で、ついに、彼と向き合った。


「…………」


 顔――老いていた。

 額や、頬や、口元には細かい皺がいくつも刻み込まれている。

 四角い顔の輪郭をたてがみのように覆う髪とひげは、見事なほどに真っ白だ。

 顔の半分に大きな古傷があり、その傷のせいで失ったのであろう右目は、革製のアイパッチで隠されている。

 その代わりに左目が、優美なほど冷厳に、世界のあらゆるものを平等に観察しただひとつの評価を下す審判者のまなざしで、私を見つめていた。

 目――青灰せいかい色の、乾いた隻眼。

 大岩の、小さな亀裂からこちらを覗いている、未精錬の鈍い石英。

 それは恐れを知る目だと、私は直観した。

 この老人は、その人生の中で、多くの死や痛みや絶望に直面し、そしてそのすべてを身をもって受け入れてきた。

 それがゆえに、世界がままならないものであることを知り尽くしている。

 死や痛みや絶望を憎み、忌避し、その上でそれらを赦している。

 自分を今この場所に存在させることをゆるしているのと同程度に。

 彼を大岩のようだと感じたのは、無論、その外見だけが理由ではなかった。

 その身体に宿る魂もまた、硬く、揺るぎないものとして研ぎ澄まされている。

 歳――少なくとも六十は超えているだろう。

 七十くらいかもしれない。

 これが、夜天の婚約者。


「藤村冬花さんですね」

 

 顔に刻まれた皺のひとつひとつまで私が観察し、値踏みし、理解する時間をたっぷり与えてから、彼が言った。

 声――外見の印象にたがわず、重厚なバリトン。

 私の名前を確認する、ただそれだけの短い呼びかけの中にも、真っすぐな正義感と豊かな知性とが明瞭に感じ取れる。

 私が両目をそらさず、無言によって肯定を示すと。

 石英のような目の奥がわずかに輝き、口元の皺が緩んだ。

 それだけの仕草に、何十年もかけたかのような優雅さだった。


「お会い出来て光栄です」


 老人はその場で片膝をついた。

 自分の巨躯が動く時に相手に与える畏怖を知っているのだろう、ごくゆっくりと。

 のろまとは違う。

 動きの中にも制御された節度とリズムがある。

 貫禄と品位がある。

 無音の中に流儀が尽くされている。

 グラーヴェ(Grave)――「重々しく、荘重な」。

 そんな音楽用語が彼の動きかたにはぴったりだった。

 膝立ちになってなお、彼の顔は私の顔と同じ位置にあった。

 顔の面積も、皮の厚さもずいぶん違う。髪質もずいぶん固そうだ。

 種族からして人間と違う、巨人族の戦士と向き合っているような感じだけど、悪い感じはない。

 それは彼が最大限丁重にこちらを扱い、厳格さの中にも胸襟きょうきんを開く態度を崩さないからというのもあるけれど。

 生まれた時から既にあったのではないかと思われるほどの深い皺と、獅子の如き白いたてがみが、至近距離で観ると、ただただ、言葉を失うほどに美しかった。

 無言で見つめ合うこと幾秒か。

 私が恐怖していないことを確信してか、彼が、グラーヴェの動きで両腕を差し出してきた。

 黒い革手袋に包まれた大きな手。

 その片方が、私の左手首、手根骨を下から支えるようにしてツ、と持ち上げ。

 もう片方が、私の手のひらを軽く包んだ。

 初対面の女性わたしに対する、最大限の敬意を表す仕草だった。

 何と柔らかな手つきだろうか。

 鉄さえ砕けそうなほど太い腕なのに、指先にかかるモーメントは懐中時計の部品アンクルつまむピンセットの如しだ。


「初めまして。アダム・シャールスフロイトと申します」


「――――」


 私は、何も答えず、努めて無感動に彼を見返していた。

 老いている、という点を除けば、この男アダムは完璧に近かった。

 私はまだ彼についてほとんど何も知らない。

 彼がここまでどんな物語の中で生きてきたのか。

 彼がこれからどんな物語を期待しているのか。

 それでも、こうして正対し、立っている姿をながめ、動きを感じ、目をみつめ、声を聞き、指を触れるだけで、驚くほど多くのことがわかる。

 何より私は、なぜ今、彼がここにいるのか、その理由を知っている。

 それだけで必要にして十分なのだった――私がここにいる理由としては。

 第一印象は悪くなかった。

 むしろその反対だった。

 老いている、という点を除けば、減点すべき要素は何もないように思われた。

 いや、あるいは老いさえも、この男アダムを完璧に近づけている要素なのかもしれない。

 経年によるインクの変質が、かえって深い味わいを生む絵画のように。

 色褪せながらも、熟成されている。

 さながら、時間が産んだ結晶だ。

 それだけに残念だった。

 アダム・シャールスフロイト。

 夜天の婚約者。

 いずれ、できるだけ早いうちに。

 私はこの男を殺さなくてはならない。

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