05:サイルイン、赤錆と吹雪の街〔3012〕(2/2)
吹雪の一日、廃墟のサイルインを歩いた冬花は、ティムとその老婆の姿を目撃する。
彼らの物語――世界のどこにでもある不幸な物語。
結婚について夜天に問いただすが、真意は「彼」に会うまで先送り。
翌日、バスがサイルインを発つ時、慣れた感傷が冬花を襲った。
◆1
不死者に生者のような「目覚め」はない。
ただ、水面へ浮かび上がっていくときのような微かな浮遊感があるだけで、深みへと沈んでいく前とで、時間の断絶もさほど感じない。
それでも、朝、白く清潔なシーツの上における「浮上」――二世紀ぶりの、文明の中での疑似的目覚め――は、どこか神聖さを帯びた静けさと温もりに包まれており、私をちょっぴり感動さえさせた。
高い位置にある採光用の窓から乳白色の光が注ぎ、色褪せた壁紙を照らしている。
空気に細かい埃の粒が舞っていた。
雪の妖精のように。
私はしばしぼんやりとした。
「…………」
夜天の姿がなかった。
一時間ほど前だろうか、まだ部屋の中が薄暗いうちに、彼女は先にベッドを出ていた。
発電機を見てくる、トウカはまだ寝ていて――と言い残して。
もちろん私はそのとき一緒に覚醒したし、一緒に起き出すこともできたけれども、冬の朝に暖かい毛布が恋しいのは不死者になっても変わらず、その言葉に甘えて毛布にくるまったのだった。
今、朝何時頃だろうか。
目に入る範囲に時計は置いていない。
壁紙を照らす光の色と量からするに七時くらいではないかと思われたが、四方六方を壁に囲まれていると、幽霊山脈にいたときほど正確に時間を識ることができず、時間感覚が宙ぶらりんになっていた。
それがけっこう、心細かった。
人工空間で生活するにはまだ慣れが必要なようだと思いながら、私はベッドから降りた。
◇
夜天はどこだろう。
家の中は静まり返っていた。
ブウウウウウンという発電機が動く音と、壁の向こうのヒートポンプの微かな振動のほかは、すべてが静かで、窓から床に投げ掛けられた光さえ凍り付いているかのようだ。
ダイニングへ顔を出す。
昨日同様、あらゆるものが秩序なく散らかされ、押しやられ、あるいは積み重なっているだけで、夜天の姿はなかった。
ただ、昨晩夜天が片手間に片付けたテーブルの一角だけが、ぽっかり空いている。
まだ屋内図が頭に入っていないため、私は壁に手をつきつつ、おぼつかない足取りで夜天を探した。
しかしそう広い家ではないので、人の気配がまったくないことは、隅々まで見て回るまでもなく明らかだった。
その時、奇妙な感覚が胸に生じた。
まるで、ここにいたのが最初から私ひとりだけだったかのような。
私ひとりだけでここに来て、ひとりだけで夜を越したかのような。
さすがにそれはありえない。
が、その疑念と入れ替わりに、ひんやりとした予感が胸をよぎった。
まさか夜天は、私を置いて、ひとりでどこかへ行ってしまったのではなかろうか。
何十年もかけて私を見つけたのに?
それこそありえない。
でも、彼女の行動はいつも予想がつかない――。
「…………」
と、微かな声が耳に届いた。
話し声だ。家の外から聞こえる。
どうやら、キッチン奥の裏戸から庭のような場所に出られるらしく、声はそこから聞こえていた。
夜天の声に違いないが、誰と話しているのだろう。
誰がいるのだろうか? ティムが来ている?
誰だとしても対面する勇気がすぐには湧かず、かといって夜天の姿くらい確認しておきたかったので、私は恐る恐る戸を開いた。
必然的に、声を盗み聞くことになった。
「うん、そう。まだサイルイン。順調にいけば三日後の昼にはそっちに着くと思う。だからそれまでに必要なものを用意しといてくれ。身分証明とかだよ。え、急? 君ならそれくらい簡単だろ。データはあとで送るから」
そこにいるのは夜天一人だった。
衛星通信可能な小型機器を耳に当て、誰かと通話している。
誰と?
「もちろん。結婚の話はもうしたよ。だってそういう話だっただろ? ……さあ、それはどうかな。いずれにせよトウカの説得は君がすることになると思う、それもそういう話だっただろ? ……そういう言い方はよせよ。僕だってちゃんとわかってる、昔と変わらないな、君は」
君、と。
親しげに呼んでいる相手は、まさか。
「言っとくが、ちゃんとした服で出迎えてくれよ。僕の親友を会わせるんだ。間違ってもいつものアレはダメだ。……何? おいおいまさか、自分じゃ似合ってると思ってたのか、あの学者風が? 冗談はやめてくれ、はは」
柔らかい笑い方。
「うーん。それについては保証できない。当然だろう、それについて僕が保証できることは何ひとつないんだ。頑張れよ、君が始めたことなんだから。僕も責任は感じてるが、筋書きを作ったのは君だ。……じゃあそろそろ切るよ。え……何?」
相手が何か言ったのだろう、呆れたように天を仰ぐ夜天。
そして、どこか投げやりに、しかし、親しみを込め、言った。
「はいはい。愛してる」
端末が耳から離される。
雪の庭でふうと白い息を吐いた夜天がどんな表情を浮かべているのか、私からは見えなかったが、まとう雰囲気はとても穏やかなものだった。
再び端末が持ち上げられ、何事か思案するように指がその上を這う。
ドアから顔を出してじっと彼女の所作を窺っていた私は、夜天が不意に身体を向きを変えたのに反応できず、ばっちり目が合ってしまった。
「トウカ。起きたのか」
夜天に驚いた様子はなかった。むしろ平静そのものだった。
今の通話を聞かれていたことに、気づいていないのか。
あるいは、気づいてなお、気づかない振りをしているのか。
どちらだろうか――。
「寒かっただろ。吹雪は止んだが、今朝は一段と気温が下がった。燃料タンクのパイプジョイントが凍結で不具合を起こしてないか見てたんだが、どうやら問題ないようだ」
誰と話していたのか、何を話していたのか。
私に教える気がないようだった。
通話の中で私の名前さえ出ていたのに。
なぜ、「その人」について説明しようとしないのだろう。
「…………」
私から尋ねることは、もちろんできた。
そうすべきだとも思った。
それをしなかったのは、盗み聞きという負い目もあったけれど。
夜天が自分から話そうとしないことを追及することに、意味を感じられなかった。
夜天ならいくらでも、私の追及をはぐらかすことができるだろうし、そういう夜天に対して、何を感じたらいいのか、今の私にはわからないから。
私は口を噤む。
◆2
「さて、これからの動きだが」
ダイニングに戻った後、夜天が私を見て言った。
「明日の朝、ここを発とう。バスが出るのが明日なんだ。途中で二回か三回、乗り換えて、順調ならシンセルドルフは三日後だ。トウカは色々必要なものがあるだろうが、道中か、シンセルドルフで揃えるのがいいだろうと僕は思う」
私はうなずいた。
「じゃあ、今日は?」
「自由行動。僕は旅券の調達と、他にも用意するものがあって中心街に行くんだが、悪いがトウカを連れていきたくない。柄の悪い連中がうろついてるからな」
私はまたうなずいた。
野蛮な連中に絡まれても最低限身を護れる自信はあるが、騒ぎになるのは面倒だ。こんな街では私のような女も珍しいだろう。
何より、人が多いところに行くのにはまだ抵抗感があった。
「じゃあ……この近くを散歩でもしていようかな」
「ああ、好きに時間を潰してくれたらいい。だがあまり遠くへ行くなよ。それから日没までにはここに戻るように、必ずだ」
「子供じゃないし、わかってるよ」
「すまない。だが何せ、連絡手段が何もない状態だからな」
その声は本当に心配そうに聞こえた。
私が勝手にひとりでどこかへ消えてしまうのではないかと未だ懸念しているかのような。
まだ私のことを信頼しきれてはいないような。
そうだとしたら、それは実際、その通りだけれども。
◇
夜天が出かけるのを見送ったあと、私は彼女から借りた真紅のコートを着て、靴も彼女の予備のブーツを借りて、雪の街へ彷徨い出た。
昨日よりはちゃんとした格好だし、現地民に声をかけられても不審がられないという程度に「自分が何者なのか」についての対外的な説明も、夜天と相談して最低限作ってあった。
合理的な説明さえ用意してあれば、知らない社会を歩くことはさほど恐ろしいことではない。
今の私は、どこにでもありそうな事情によって友人を訪ねて来た、ただの外国人。見知らぬ土地を物珍しさで散歩していたって、そうおかしくはない。
とはいえ昨日同様、辺りに人の気配はまったくなく、雪に覆われた街は静寂に包まれていた。
よほど遠くまで歩かない限り、人間と出会うことはなさそうだと思われた。
昨日の吹雪が運んできたのか、地上の全景が粉っぽい白雪に覆われている。
空も同じ色に煙っていて、太陽の位置がつかめず、地上との境目はあやふやだ。
赤錆に覆われた鋼板が血のように景色のあちこちに飛び散り、吹雪の名残めいた突風が吹くたびに、それらは粉雪を散らしながらカタカタ、キイキイと抗議めいた声を立てた。
あれは何かに似ていると思って記憶を辿ると、一反木綿という妖怪が像を結んだ。
布切れみたいに薄い身体の妖怪たちがデモをするように一列に並んで、何かに抗議しているような絵だ。
血の色の錆をまとったペラペラの労働者たち。
彼らは何に対して何を訴えているのか、私にはその言語は解読できない。
彼らの声を左右から浴びつつ、まずは円を描くようにして周囲の地図を把握した。
見たものを頭の中の地図に書き足していきながら、歩く範囲をだんだん拡張していく。
どこまで行っても目につくのは赤錆と雪くらいなものだったが、それでも幽霊山脈に比べれば、あからさまに作為に満ちた空間だった。
少なくとも百五十年前にはここには何もなかった、雪と風と岩と針葉樹しかなかった、その原風景に比べれば、ここにはあまりにもたくさんのものがある。
コンクリートの建造物、舗装路、放棄車両、標識、錆びた工作機械、汚れた瓶や缶、プラスチックの袋、細々(こまごま)としたごみ。
道端に、腕のちぎれたビニルの人形を見つけて、かつてはここにもこれで遊ぶような子供がいたのだろうが、それは遠い昔のことで、もう誰もその子のことを覚えていない、この人形のことも、と思いを馳せた。
昔から、遺跡とか廃墟とか遺物とか名の付くものが好きだった。
古代の都市を歩いて、そこに遺されたわずかな痕跡から、当時の人々の生活や文化や気持ちを推し量るのが好きだった。
人間は、互いに区別しあうことで自分のアイデンティティを強化する傾向がある。
国家や、宗教や、民族や、言葉や、通貨や、習俗は、すべて「他のものと異なっていること」に意義がある。
混ざれば同じものになってしまう。自分がなくなってしまう。
時間は、あらゆるものを区別せず、すべてを同じように薄れさせる。
物質的なものは当然として、人間の記憶や認識や感覚といったものさえ、時の影響を受ける。
どのような博覧強記の知性が己の記憶の同一性を保とうとしたとて、どんな記憶も徐々にその特殊性を失い、ただ汎用的な「これとそれの区別」の根拠として変容していく宿命から逃れることはできない。
愛する人を失うような劇的な記憶でも。
石に刻まれた半永久な記録でさえも。
すべて平等に薄れていく。
時の作用により、現実は記録に、記録は歴史に、歴史は物語に、物語は伝説または神話と変容し、今ここに現実感から遊離していく。
その瞬間瞬間に何かを捨象されながら。
しかしだからこそ、時の経過は、ある時代の人間たちの営みを、その息遣いを、その足跡を、その営みを成立させていた当時のあらゆる区別を排しながら、逆にたどることを可能とする。
時だけが、そこで行われていた人の営みを平等に析出させる。
このサイルインも、既に「現実」としての領分を離れつつあるように私には感じられた。
それくらい、風景は「今」という時間の現実感を欠いている。
どこまで行こうか考えながら歩いた。
結局、行きたい場所もないので、私は昨日の道のりを逆にたどり、放棄された工業地帯へ至っていた。
削り取られた山肌のあちこちに連なる煙突群。まるで大地の墓標だ。
昨日はただ夜天に手を引かれて通り抜けるだけだった場所を、私はちょくちょく足を止め、観察しつつ歩いた。
マッチ箱のように並ぶ建造物をひとつひとつ覗き込み、ここは何の場所だったのか、どんな人々がどんな思いで働いていたのかに思いを馳せた。
風雪の侵入がない建物はなく、すべてが緩慢な崩落のさなかにあった。
分厚いコンクリートに走る罅割れは、さながら時の稲妻。
高性能な爆薬を精密に仕掛けても再現できない、精緻で断続的な傷跡を、手のひらで撫ぜる。
なぜだか、いとおしい。
傾いた鉄塔に寄りかかる歪んだ骨組みを、私はしばらく見上げた。
それがまだ最低限の強度を保っていると確信したのち、意を決してそれを登り始めた。
ブーツを鉄骨にかけるたび、その音は彼方へ反響する。
時折突風が吹いて私の身体を浚おうとしたが、幽霊山脈の風に比べれば、そよ風だった。
四肢をうまく突っ張って身体を支え、高所から工業地帯を見渡す。
削り取られた地表から染み出す、白く粘度のある田麩の如き雪霞が眼下に滞留していた。
それは死者の顔にかけられる面布のようでもあった。
私は直感する。
この場所に人が戻ることは、今後千年ないだろう。
もしかすると、永遠に。
そうであるとすれば、ここは既に滅んでいるのだ。
私はしばし冷たい骨組みに身体を預け、感傷に浸った。
「……?」
ふと、私の意識が、何かの気配を捉えた。
白くたゆたう風景の、遠い一点に、雪の色でも赤錆の色でもない複雑な色のピクセルが陽炎のように滲んだ。
それは一瞬のことで、すぐに霞に呑まれて見えなくなったが、私は自分の目と感覚を疑わなかった。
誰かがそこにいた。
こんなところになぜ?
私は滑るようにして地上に降り、雪霞をかきわけた。
多分、私の姿を見られただろう。
不安定な足場に登るという、不審な行動をしているところも。
見られたことそれ自体が直ちに危険に繋がるわけではないが、不安要素には違いなく、放置しておきたくもなかった。
相変わらず人の気配はどこにもなかったが、注意深く確認すると、雪上に微かな足跡が残っていた。
来た足跡。
ここで立ち止まった足跡。
そして戻っていく足跡。
今にも雪に吹き消されそうになってはいたが、この古い世界の中ではあまりに新しすぎる痕跡であり、その大きさ、歩幅、そして何より足場の上から一瞬だけ垣間見えた「色合い」から、ここにいたのが誰なのか、私は不思議と見当がついた。
「ティム?」
もしそうでなかったとしても、子供の足だ。
こんなところに、いったい何の用で?
旧市街地から私の足でも二時間かかるのに。
尾行はありえない。私の感覚はそんなに鈍ってはいない。
しかし姿を見られた可能性は高い。
私は数秒の思案の後、その足跡をそっと辿りはじめた。
◇
工業地帯から、針葉樹に囲まれた丘の廃道を越え、旧市街地へ。
私は早々に足跡の主に追いついていた。
やはり、ティムだった。
灰色のニット帽に、くすんだ色の防寒着。昨日とまったく同じ格好。
肩を左右に揺らすようにして、どこか不安定によちよちと歩く背中を、私は距離を保って追いかけた。
ティムはまったく周囲や背後を警戒する素振りがなかったので、素人でも尾行は難しくなかっただろう。
別に、堂々と前に出て行って挨拶しても良かったのだが、世を憚る不死者としての経験、あるいは本能が、ある意味で私を臆病にしていた。
周りの生者について一方的に情報を取れる機会があるのなら、わざわざそれを逸することはない――。
静寂の中の追走。
どこまで歩いても風景は変わらず、白濁した空気の中に廃墟めいた街並みが浮かんでいる。
昼を過ぎて夜に近くなってきているはずだが、景色は朝とほとんど変わることがない。
また、風が強くなってきていた。
舗装路の両脇に一列に並ぶ短冊型の赤錆たちがケタケタと笑う、静寂に奏でられる不規則な祭囃子が、いっそう風景の侘しさを強調する。
歩いても歩いても似たような景色がどこまでも続き、どこまで行っても人などいないのではないか、と、私が真剣に疑い始めた頃、ティムは急に小走りになって、赤錆と赤錆の間に姿を消した。
その向こうに、古びた一軒家があるのを私は確認する。
どこか輪郭がおぼろげな、影が立体を成しているかのような家だった。
玄関先に、腰の曲がった老婆が杖を支えとして立っていた。
ともすればそちらが家で、背後にあるのは影に過ぎないと思わせるような、厳然とした佇まい。
枯れ木のような腕が、ゆっくりと拡げられ、息を切らせて帰ってきたティムをうやうやしく抱きしめる。
二人の姿は、雨だれと腐食だらけで、今にもその場で崩れ落ちそうな古い銅像を思わせた。
何事か話しているようだが、さすがに会話の内容まではわからない。
やがて、ティムが駆け足で家の中へ入っていった。
その後を老婆の持つ杖がゆっくりゆっくり、十センチずつ追いかけ、老婆の身体はさらにその後を追いかけた。
と、老婆がふと、何かの気配を感じたかのように私のいるほうを振り返った。
見られたのかと思い、どきりとした。
しかしほとんど何も見えてはいないだろう。
その両目は白く濁っている。
老婆はしかし、その眼差しをもって、孫の未来を脅かすような何かよくないものが、近くまで来ていないか、その感覚を巡らせているようだった。妖怪たちの声が、危険を訴えていないかどうか。もし何が悪いものが近くに来ていたら、絶対にそれを追い払わなければならないというように。
二人の姿が影の中へ吸われて完全に見えなくなるのを見送り、私はその場を離れた。
本格的に風が強くなってきていた。
◆3
「ちょっと困ったことになった」
日没の少し前、仮の宿に戻ってきた夜天が、コートについた雪を払いながら言った。
表情こそ曇っていたが、口ぶりはあまり重くなかったので、さほど重くないトラブルのようだと私は感じた。
「今さっきそこでティムに会ったんだが、今夜ミートパイを持っていくから友達と二人で食べてくれと言われた。祖母の得意料理だからと」
夜天は肩をすくめた。
「僕としたことが断り切れなかった。このキッチンの惨状を知られた上で、せっかく遠くから友人が訪ねて来てるのにろくな食べ物がないだろう、って言われるとな。あの小僧め、トウカを見て舞い上がってるんだ」
私は苦笑い。
「私じゃなくて、多分、夜天に気に入られたいんだと思う」
夜天は否定こそしなかったが、どこか含みがあるようなため息をついて、前髪をかき上げた。
「とにかく、二時間後にはパイがこのテーブルに載ることになる。大丈夫か?」
大丈夫か、の意味を取り損ねたが、すぐに合点がいった。
二百年ぶりの、食事、か。
◇
それから二時間かけて、二人でキッチンを片付けた。
とはいえ、清掃のための薬品や道具も満足に揃っていないので、できたのはテーブルの上を何とか空けて、生者でも何とか許容し得るであろう水準の衛生状態に近づけることだけだったが。
手を動かしながら、夜天はティムについて話してくれた。
「ティミー・アハトフは、父親の帰りを待ち続けている。物心ついたときから毎日ずっとだ」
夜天の口ぶりは平坦で無感動だった。
「彼は父親の顔を知らない。ティムが生まれて間もない頃、北米に出稼ぎに行ったからだ。事業が軌道に乗って大金を手にしたと言う連絡がしばらく前にあって、そろそろ帰ってくる頃だ、と、ティムは祖母から聞かされている」
聞かされている。
私は語尾に「?」をつけて繰り返した。
「出稼ぎの話は事実。仕事にあぶれた元・鉱山労働者に近づいて、衰退の一途を辿るサイルインからの“脱出”を説き、新天地での職を斡旋する仲介業が一時期流行ったんだ。今よりもっといい暮らしができる、家族にも良い思いをさせられるぞと。よくある話さ」
私は無言で先を促した。
「当然そんなうまい話はない。まともな業者はほんの一握り。多くのケースで、寄る辺なき労働者を現地で使い捨てることしか計画されていなかった。彼もそんな業者に騙され、気づけばワシントンリプの片隅で非合法組織の末端構成員となり、渡米から二カ月経たずに路地裏で他殺体となって発見されることとなった」
「そのことを……」
「男の母親、つまりティムの祖母は、その連絡を受け取ってる形跡がある。少なくともティムが物心つく前には。だがティムにはその事実を話していないし、話す気もないようだ」
「なぜ?」
夜天は困ったように肩をすくめる。
「父親がいつか帰ってくるという物語、英雄譚が、この街で幼い子を育て上げるために必要だったからだろう。父はじきに帰ってくる、だからここで待っていようと、老婆はティムに伝えている。嘘が嘘だとばれないよう、旅路でちょっとしたアクシデントが起きて帰ってくる予定が伸びたというような、更なる嘘をけなげに重ねながら」
「…………」
「父は今夜あたり帰ってくるかも、いや明日、いや来週かもしれないと、叶うことのない希望を持ち続けているのさ。それが日々を生きるための糧であり、精神的支柱ってわけ。トウカや僕みたいなよそ者に興味津々なのも、もしかしたら父が一緒のバスに乗っていたんじゃないか、いやひょっとしてどこかで会ってるんじゃないかという気持ちがあるからかもな」
「母親は?」
「僕が調べた限りでは、ティムの母親は隣国から出稼ぎにやってきてた娼婦で、ティムを養育してないし、認知してたかも怪しい。六年前に酔った客に腹を刺されて死亡してる」
「…………」
「例によってティムは、優しかった母親は病気によって死んだと伝えられてる」
そういう物語が、やはり、ティムには必要だった…今もまだ必要だということなのだろう。
幼い子供に限らない、人間が生きていくためには何らかの物語がいつも必要だ。
人間が考え、行うことには、善悪に関わらず、常に物語が伴う。
未来に起こり得ることを想像し、それに備える能力を与える。そのための情報を集積・選別・整理し成型したものが物語だからだ。
しかしそれは、語り聞かせられる物語が未来に起こり得ることと大きく乖離している場合、いつか未来が現実と化した時に、大きな衝撃が伴うことを意味する。
頑なに信じていた原理が、ただの妄想として霧散する。
それは時には、自身の存在理由さえ揺るがすほどの衝撃となる。
今日の昼――廃墟化した工業地帯にいたティムの、おぼろげな輪郭が思い出された。
彼は、かつてそこで働いていた父親の、気配というか、幻影、匂いのようなもの、物語の補強材料となりうる痕跡を、少しでも感じ取ろうと、あの場所に何度も足を運んでいるのではないだろうか。
事実を知りながらそれを隠し続ける老婆は、いつもどんな気分でそんなティムの帰りを待っているのだろうか。
「僕たちにできることはないよ、トウカ」
夜天が私に言い聞かせるように言った。
「明日の朝には、僕らは旅立つ」
うん、と、私はうなずく。
テーブルにこびりついた黒い汚れに目を落としながら。
例えばどんな物語がこの汚れをつくり出したのだろうかと、無為に思いを巡らせる以外、できることは何も思いつかなかった。
◇
二時間後。
二キロ離れたティムの家まで夜天がパイを受け取りに行き、大きな紙包みを抱えて戻ってきた。
私が出迎えた時、外はもう真っ暗だった。
吹雪は強まっており、ドアを閉めてもうなるような風の音が聴こえた。
何とか片付いたテーブルの上に現れたのは、幅二十センチ、厚さ五センチもある立派なパイ。
黄金色に輝く生地の中央のをナイフで切り分けると、ぎっしりと詰められた肉の断面が現れる。
塩と油、焼いた肉とパイ生地、そして香辛料の匂いがたちこめた。
ちょっと噎せそうになった。
「やれやれ、ティムめ。ご老体をずいぶん焚きつけたな」
「この街だと肉も貴重なんじゃ……?」
そうだろうと夜天は言った。
労働力のないアハトフ家は行政から食糧支援を受けているが、それでも贅沢はできないだろうと。
「とはいえ、これから突き帰しに行くわけにもいかない。僕たちへの歓迎の表れさ。いただこう」
「うん……」
歓迎を素直に受けることは同意だったが、加工されつくした有機物の成れ果て、とでも言うべきものを前に、私が食欲というものを思い出すまでには控えめにいってもかなりの時間がかかった。
食べる、という行為。
生者にとっては当たり前で、生命維持に必須な行為。
しかし不死者にとっては当然、当たり前のことではなくて。
食べることそれ自体は、できるかと言われればできる、けど。
その「できる」は、ネズミの死骸を物理的に口に放り込み、歯で内臓を齧り、喉に流し込む、というその一連の行為自体は誰でも「できる」、という意味と同じ。
「慣れて」いれば何でもない感覚だけれども、私がその習慣を失ってから久しい。
ティムのおばあちゃんのパイは、私にとって火に潜るような大いなる試練となることは疑いようがなかった。
「緊張してるのか?」
二人でテーブルを挟んで座る、と同時に、私の顔を見た夜天が言った。
それほど顔に出ていたらしい。
「うん、これは……今の私にはかなり難易度が高いような」
葉物とか、ゼリーみたいなものならまだしも。
肉のパイはあまりにも、あまりにも、こんがらがっている。混沌としている。見ているだけで胃が縮みあがるようだ。
「まあ、とにかく一口試してみることだ。食事は『生者らしく』の基本だからな」
私の気分を知ってか知らずか、夜天は軽い調子でパイを切り、私の皿に取り分けた。
何だか、死刑の準備でもされているかのようだ。
いや、不死なので例え猛毒でも死ぬことはないけれども、気分の上では神妙にならざるを得ない。
私はとにかく、ナイフとフォークを手に持った。
夜天の言う通り、しばらく生者の世界に滞在するとなったら、生者のように食事ができなければならない。社会的に欠くことのできない行為なのだ。
紛いなりにも自分で幽霊山脈から降りてきた以上、これは避けられない試練。
まずはひとくち。
ひとくちでいい。
「いただきます」
身体に染みついた食事前の言葉。
奇妙な弾力のある肉と、パイ生地を、口に含む。
それが舌に触れた瞬間――何かが口の中で弾けるような感覚があり、それが熱とともに鼻へと抜けて、目尻にジワッと涙が滲んだ。
味は、全然わからなかった。
ただ、濃い、というのが、本能で感じた感覚だった。
ひたすらに濃い。
コップ一杯の純水に黒のインクを落とすとすべてが黒に染まるように、この食べ物のひとかけらによって自分の身体すべてが飽和してしまいそうだ。
その存在感に呑み込まれそうになる。
二百年、空気と雪くらいしか摂取していなかったこの身体にとって、あまりに苛烈で濃密な異物。
吐き出しそうになるが――我慢する。
吐き出しても、また口に入れるしかないのだから。
静かに鼻で呼吸して、熱が落ち着くのを待ち、激烈な濃さに一定の解像度を与えられるようになるまで待つ。
相変わらず、味はまったくわからなかったけど。
弾力を確かめるように歯を立てて、肉を潰し、何とか喉に流し込んだ。
食道と胃がちょっとびっくりしたように痙攣したが、いちおうは受け入れてくれた。
「泣くほどか?」
私の試練をテーブルの対岸から見届けていた夜天が、ちょっと呆れたように言った。
人の気も知らないで、と私は思うのだけど、その余裕もなかったので無言で涙を拭った。
「味はどうだ?」
「…………」
答えようがない。
「文明の味だ。慣れることだな」
飄々と言い、もう一切れ、私の皿にパイを取り分ける夜天。
私は時々、彼女が恐ろしい拷問官か何かではないかと思うのだけど、そう思ったときには、厳しい教育者だと思いなおすことにしている。
二切れ目は、最初ほどの異物感はなかった。
何でもそうだ。
最初こそが一番難しい。
ゴムのような肉を咀嚼し、飲み込む。
味は、どうだろう?
「うん……美味しい、かな」
そう言って顔を上げた時、カシャリと機械音がした。
夜天が通信用の機械を私に向けていた。
「な……なに?」
ちょうど、眼球表面に膜を張っていた涙が筋となって頬を伝ったのと同時だったので、私はびっくりする。
「ああ、今のうちに写真をと思って。この先、身分証明用に必要になる」
「ええっ。何も今撮らなくても!」
「本当にな。目がウルウルしてるし、口元にソースがついてる。くくっ……」
端末の画面に撮影画像が表示されているのだろう、夜天は笑いをかみ殺す。
「余計にダメじゃない! 消して!」
「これはこれでいい写真だが」
「夜天」
怒気を声に含ませると、わかったわかったと、夜天は端末を操作した。
「とはいえ、シンセルドルフへ行くのにIDは必要になる。顔は撮らせてくれ。いいな?」
「それはいい、けど……」
私は椅子の上でお尻の位置を直した。
ついでに、口元についているらしいソースを拭う。
「IDは誰が……?」
今現在、私の身分を証明し保証し得る権威は存在しない。
私の存在は、国家をはじめ、今の世のどんな社会集団にも認知されていない。
生まれてもいないし、死んでもいない。
どこの国民でもなく、どこの集団にも所属しておらず、どこでどのように生きてきたかという記録も存在しない。
この千年、身分を保証されていた時期のほうがはるかに少なく、夜天も私も「そこにいるはずのない人間」であることが常で、正規のIDというものが手元にあった時期についても、やはり言うまでもない。
IDは誰が、という質問は、だから、「今回は誰が私のIDを偽造してくれるのか」という意味だった。
「この辺の国境を超えられる程度のものは、僕の手持ちの道具で用意できる。今日の昼、旅券関係の手続きはしてきた。ちゃんとしたやつは、彼に用意してもらう」
「彼、っていうのは――」
「そう。シンセルドルフにいる、彼さ」
意味ありげに彼という三人称を繰り返す夜天。
私は胸のあたりがざわつく感じがした。胃の中にあるパイのせいではないだろう。
「トウカのことはあらかじめ話してあるし、信用という面では心配いらない。僕が保証するよ」
「私が心配しているのは……」
言葉がうまく形にならず、宙に消えてしまう。
パイからまだ仄かに上がっている湯気みたいに。
「ん?」
私はナイフとフォークを握りなおして、夜天を見据えた。
意を決して言う。
幽霊山脈の吹雪の中から、ずっと言おうと思っていたことを。
「どんな人か知らないけど、私が……結婚に賛成すると思ってる?」
夜天は、私の視線から逃れなかった。
ただ椅子の上で少しばかり姿勢を崩し、シニカルに笑ってみせた。
「……ま、そうだよな。トウカは反対だろうと思ってた。でもこれには事情があって……」
「だからその、事情というのを話してよ」
「悪いが、まだ言えない」
「なぜ?」
「それは彼が語るべきことだからだ」
私が口を挟む余地を与えず、夜天は続けた。
「どんな人か知らないと今トウカは言ったな。その通りだ。賛成か反対かの判断は、彼のことをよく知ってから下してもらいたい」
「それで私の考えが変わると? まさか。そうは思えないけど」
私はわざと吐き捨てるように言って、夜天の反応を、何かしらの本心らしきものを引き出そうとした。
けれど、彼女はちょっと申し訳なさそうに肩をすくめるだけで、弁解も反論もしなかった。
ただじっと、私を見ている。
「……いちおうこれだけは確認させて。この話はその……夜天が脅されたり強制させられたり、何らかの駆け引きとかで、仕方なくしようとしていること? それとも――」
後者だ、と夜天は私を遮った。
「僕が僕自身の意思として、彼と結婚することを望んでるんだ」
「……それなのに、それに関わる“事情”を、私には――ここでは話せないの?」
夜天は無言でパイを切り、口に運んだ。
肯定の仕草。
私は敢えて質問を重ねることはせず、辛抱強く彼女の言葉を待った。
「トウカが不信に思うのもわかる。でもこれは、トウカへの義理でもあるんだ」
さすがにかちんとくる。
「どのあたりが?」
「結婚の話は、まだ決定事項じゃないって思ってくれ。トウカがシンセルドルフで彼に会って、“事情”を聞いて、それでも納得できなかった場合、つまり僕の結婚に反対した場合――この話は白紙にする。約束する」
拍子抜け、という表現が正しいかはわからない。
身体の色々なところの力が、ちょっとずつ抜けた感じがしたのは確かだった。
手のひらに跡がつくくらいナイフを握りしめていたことを、私はようやく自覚して、その力を抜いた。
万事につけふざけることが多くて、言うことも行うことも定かならぬ彼女だけど、付き合いがそれなりに長い私には、目の前の彼女が何も嘘をついていないこと、何もごまかしていないことがわかった。
少なくとも、約束という言葉とその内容に、ごまかしはない。
「……“彼”のほうは、それで納得するわけ? 私が結婚の話を白紙にしたとしても?」
「もちろんだ。今ここに彼はいないから証明はできないが、トウカが反対すれば、彼も彼自身の意思で、結婚を取りやめることを承諾する――それについては僕を信じてもらうほかないが、確約する」
「私への義理」で、そんな大切なことが決まるものだろうかと思う反面。
もしそれが真実なら、多少はフェアになるというか、私への義理という言い回しにもいくらかの得心がいく。気がする。
どんな事情が裏にあるにせよ、私は必ず反対する。
それは私が私自身に確約できる。
それは夜天もわかっている、はず。
じゃあ、はじめから反対してほしくて私を探していた?
いや、彼女がそんな回りくどいことをするとは思えない。
真相はまだ不定。
結局、彼とやらに会って、事情とやらを聞かないと話が先に進まないようだと私は理解する。
「……だからとりあえずは一緒にシンセルドルフへ、ということ」
「そういうこと」
ひとまずの合意形成。
私たちは一緒にパイを切り分けた。
「うーん、ちょっと濃いな」
夜天がもぐもぐと口を動かしながら感想を言う。
「うん。でも、美味しいよ?」
ふうん? と、探るような目を私に向ける夜天。
「……なに?」
「いや。食べてる姿を見て安心したんだ。トウカを山で見つけた時は、なんていうか、幽霊みたいだったから」
「うん……そうかもね」
実際、こうして何か食べていると、自分が実体ある存在であるということに自覚的になる。
味も、匂いも、すべてが私の一部となっていく。
それを受け入れる。
これはこの世界に自分を定着させる行為。
その土地のものを食べることで、その土地に属する人間と成っていく。
古くから自然と行われてきた生き物としての習俗。
残念ながら不死者は生者と同じにはなれないけれど。
これを、ティムのおばあちゃんのパイを、私は美味しいと感じるし、そう感じたいのだ。
「明日は胃もたれだな」
などと、不死者ジョークを飛ばしながら、私たちはテーブルの上にしばらくカチャカチャという食器の音を響かせた。
◆4
翌朝。
私たちは夜明け頃に起きだして、出発の準備をした。
夜天が自分の荷物をスーツケースに詰め込んでいる間、自分の荷物が何もない私は、申し訳程度に家の中を掃除した。
そんなことはしなくていい、僕たちのことが調査される恐れはまずないと夜天は言ったけれど、何となく、自分の義務ような気がして。
お世話になった二日ぶんに釣り合うくらいは、家の汚れを落としていきたくて。
夜天の持ち込んだ日用品のほとんどは家の中に残置されることになり、持っていかないが残置できないもの(置き残すと不自然かもしれないもの)は、山近くの雪の下に埋められることとなった。
私の唯一の持ち物だったアラミドのローブ、ボロボロの黒い布切れも、手厚く埋葬された。
この先、誰かに掘り返されることが万が一あるとしても、それは私が昨日道端で見かけたビニルの人形と同じように、匿名的な形骸でしかないだろう。
ちょっと名残惜しかった。あのローブを手放すのは。
だって二世紀以上一緒にいた相棒だから。
私の身体をというより、心を守ってくれたから。
けれど、持っていくための積極的理由がない以上、仕方がなかった。
私たちがここではないどこかへ行く時、いつも多くのものが置き去りにされる。
「じゃ、行くか」
やがて、スーツケースひとつだけ持って、夜天と私は仮の宿を後にした。
◇
吹雪は昨日より弱くなっていたが、まだ吹いていた。
景色は白く煙り、地表から絶えず雪の渦が巻き上げられる。
しかし悪天候が、私たちを誰でもない影としてカムフラージュしてくれた。
外套のフードを目深にかぶって黙々と歩く限り、そうとう近づかれない限り女だということさえ分からないだろう。
その推測は私をずいぶん安心させた。
五キロほど歩き、サイルインの中心街へ至る。
吹雪のせいか、そもそも平常なのか、ほとんど人の姿は見えず、街そのものも、コンクリの二車線道路の両脇にぽつぽつと建物が立っているだけで、うら寂しい雰囲気だった。
その建物にしても、二階建てがせいぜいで、作りが古い。しかもそのほとんどが無人のまま放棄されて久しいようだ。
割れたガラス、赤錆だらけの外壁、壊れた屋根にはためくビニールシート。
聞こえてくるのは風の音ばかり。
道路の状態も悪く、そこを走る車もない。
時折、雪霞の向こうにおぼろげに人らしき影が浮かび、消えていくほかは、廃墟の中を歩いているのとほとんど変わらなかった。
心拍数が少し上がったが、文明酔いは、覚悟したほどではなかった。
「離れるな」
一度だけ夜天がそう警告したことで、サイルイン中心街の、そのさらに中心に近づいていることが予想された。
空は相変わらず開けていたが、建物の密度が上がった。
そのせいで吹雪が影響が弱められ、目に映る景色がいくらか明瞭になる。
ドライアイスみたいな煙の中に浮かびあがる、セピア色の街並み。
その中で、いびつに振動する影たちがいる。
そこかしこにいる。
男がいる。女もいる。
それぞれ違う服装をして、脈絡なく散らばって、別々のほうを向いて、各々が異なる動きをしていた。
耳に入る話し声、笑い声、動作音は、ノコギリの音のように聴こえる。
白カビが生えた倒木の中で、同じ種ではあるものの、一匹ずつ違う形態と生態をもった虫たちが蠢いているようだった。
虫と違って、食事とか、仕事とか、子育てとか、必要な何かをしているわけでもなく。
何もすることがないので屯している、という印象だった。
私は強いて自分の心を落ち着かせた。
特別なことをしない限り害はないはずだ。
夜天がわざわざ危険な道を行く理由もない、離れずついていけばいい。
ブリックによりかかって世間話をしていたらしき中年の男たちの集団、そのひとりの男の顔がふと、こちらを向いた。
筋肉が緊張しかける。
探るような視線を感じるが、目は合わせない。
幸い、すぐに注意は逸れた。
ただの通行者に絡みにいくほど暇ではないようだった。
獣がうなるような音が聞こえ、顔を上げると、ゴムタイヤを履いた鋼鉄の塊が、白い靄の中から現れるところだった。
それはあっという間に近づいてきて、大岩が転げ落ちるようなけたたましい音を発しながら、あっという間に靄の中に消えていった。
車両だった。
私の心拍数は瞬間的に高くなり、呼吸も乱れかけたが、すぐ前を行く夜天が歩調をわずかに緩めてくれたので、なんとか落ち着く余裕ができた。
車か。見るのは二百年ぶりだ。
三十一世紀に入った世でも、車はまだ四つのゴムタイヤをつけて内燃機関で動いているらしい――その認識は私をいくらかは安堵させた。
二台、三台と、思い出したように車が行き来するのを歩きながら見送る。
道路状態が悪いせいか、どの車もガタンガタンと信じられないほどうるさい音を立てた。走り去ると、いきなり静かになった。
吹雪で視界が限られているせいで、街の中だというのに、人が暮らしているという感じがあまりしなかった。
音がうるさいのを除けば、目に映るものはどれも雪上の蜃気楼のように頼りない。
文明的な喧噪が苦手な私としては、願ったりかなったりだが。
多分、このストリートはサイルインの「表向き」の場所なのだろうと私は想像する。
どんな街にも、最低限の治安を維持しておかねばならない通り道というものがある。
そうでなければ外部から人が訪れることがなくなるし、無法状態は誰にとっても損しかない。
やりたいことは路地裏か裏道か自分の庭に入ったところでやれ、という暗黙の規則は、どんなに風紀の乱れた土地でも、街として運営される以上、不思議なほど自然に形成される。
その代わり、一歩でも裏側に足を踏み入れれば、どんな神聖な法律も適用されないというのがお決まり。
実際こうして歩いていると、道路脇に途切れ途切れに覗く暗がりの路地から、腐った果物の中を覗き込んだ時みたいな、ぐちゃりと音がしそうな異様な熱気が漂ってきていた。
サイルインの本体というか、生きている側は、どちらかといえばそちら側なのだろうと私は感じた。
よそ者としての当然の護身術として、私は狭い暗闇に目を向けることを徹底的に避けて歩いた。
そうして二十分ほど歩いただろうか。
街の終端に達しつつあるのか、建物の密度が再び減り、視界が開けてくる。
先行する夜天がフードを脱いだので、もう安全らしいと判断し、私もフードを脱いだ。
途端に顔面に吹き付けてくる吹雪から目を覆いながら前方を窺うと、申し訳程度に除雪された平らな用地に、一台のバスが白い排気を吐きながら停まっているのが見えた。
丸いモノコック屋根のボンネットバス。
子供のおもちゃみたいに小さく、何年も子供の遊び道具になったあとで放棄されたが如く、全体が傷だらけ、かつ錆だらけだった。
すべてのリベットは塊状の錆と一体化して留まっているし、フレームをなす鋼板はどこもパンチひとつで穴が開いてしまいそうなほど脆化している。
冗談抜きで百年くらい走っていそうだった。自立しているのがいっそ不思議なくらいで、私の目が確かなら、実際ちょっとばかし傾いている。
このサイルインにしてこのバスあり、といったところだろうか。
車検のようなシステムは存在しない世界をひたすら走り続けてきたに違いない。
車体の手前に何やら錆びた小塔があり、どうやらそれがなけなしの停留所表示のようだった。
いちおう顔を寄せてみるが、ものすごい錆のせいで文字や数字を読み取ることは不可能。ここでは誰も時刻表を必要としないらしい。
「すぐ乗り換える」
安心させるように夜天が言う。
私はうなずいた。これが旅客車両だとはにわかに信じられなかったが、実際、私たちの他にも二、三人が荷物を手に乗車しつつある。
乗りたい客を乗せきったらすぐ出発するという雰囲気だった。
走行中に車体がバラバラにならないかさすがに心配だったが、もしそうなっても、私も夜天も死ぬことはない。次の目的地への移動がちょっと面倒になるだけだ。
私は夜天と一緒にバスに近づいた。
と、その時、遠くから声がした。
なぜだか自分が呼ばれた気がして振り返った私は、その声の主を認めた。
「――ティム」
灰色のニット帽、くすんだ防寒着の少年が、少し離れたところで立ちすくんでいた。
走ってきたのか、息は切れ、鼻先とほっぺたと耳たぶが赤々と腫れたようになっている。
ティムは、そこからほんのわずか、足を前に進める素振りを見せたが、すぐに何かに引き留められたかのようにその場に立ち尽くした。
肌を切るような風の中、雪にまみれ、ただ眼差しだけを届かせてくるその姿は、何かに抗議しているかのようで。
「…………」
ああそうか、と私は思った。
今日私たちがサイルインを発つことを、彼は知らなかったのだ。
空っぽになっている家に気づいたか、偶然に私たちの姿を見つけたかして、追いかけてきたのだろう。
そこから近寄ってこないのは、近寄れば、決定的になってしまうからだ。
別れが避けられないということが。
自分では引き留められないということが。
彼としては、だから、私たちのほうから戻ってきてほしいのだ。
別れるにせよ、何か次に続くような言葉をかけてほしいのだ。
また会いましょうとか、また戻ってくるよとか、そういう種類の語句を。
希望が欲しいのだ。
自分サイルインにい続けるための、わずかな理由が。
その健気な立ち姿が、幽霊山脈の頂に立ちすくみ、真紅の星をただ待っていた自分自身の姿と、不思議と重なった。
私はただ何もせず待っているだけで、夜天が来てくれたけど。
ティムを探し求める人間は、いるのだろうか。
ティムがここに留まる、ここに留まっていてもよい理由を、この先誰かが与えてくれるのだろうか?
「トウカ」
夜天の声が横から告げた。
「僕たちにできることはないよ」
「でも……」
何か一言言ってあげるべきだと思った。
暖かみのある別れの言葉を、嘘でもいいから。
でも私では言葉が通じない。
いや、そもそも言葉以上に、きっと気持ちが通じない。
彼が求めているのは、私ではなく夜天で、もっといえば、母性とか、安らげる根拠のような何かで。
私がティムに何か報いたところで、偽善にさえならない。
偽善さえ、行使する価値がない。
「さあ、もうバスが出る」
夜天に半ば引っ張られるようにして、乗車。
手を引かれるまま狭苦しい通路を身体をひねって潜り抜け、布張りがほとんど剥げた客椅子に強引に背中をねじ込む。
乗客は私たちの他に数人いるようだったが、隣に夜天がいること以外、車内がどうなっているのか薄暗くてよくわからない。靴箱に押し込まれたような気分だった。
アイドリングの振動がじかに響く中、それでも私はどうにか首をひねって車窓の外に目を向けた。
ティムがまだ、同じ場所に立っていた。
表情はもうわからない。灰色のモザイクのようにぼやけている。
振動が大きくなり、バスはところどころで軋みを上げながら、がっくんがっくん、つんのめるように動き始めた。
私はティムから目を離さないでいたが、吹雪がその輪郭をすぐ曖昧にした。
ティムが、バスに追いつこうと走り出したように見えた。
気のせいだったかもしれない。
全てが白い景色に呑まれ、後ろには何も見えなくなる。
「ティムは知ってるよ」
夜天が、不意に言った。
「自分の父親がもう死んでることを」
私は驚き、窓から隣に目を移した。
「え……?」
「父親はじきに帰ってくるという祖母の嘘を、信じてる振りをしてるのさ。何年もずっと」
「……どうして?」
「その嘘しか祖母の心を支えるものがないと、わかってるからだ。父親は遠い異国で死んでいて、もう帰ってこない――自分がその真実に気づいてしまえば、祖母は生きる気力をなくす。ティムはそれを察して、祖母が望む通り、何も疑わない子供の役を演じてる。……ま、実際子供には違いないが」
「…………」
そうか。
物語を必要としていたのは、ティムではなく、あの老婆のほうだったのか。
濁った両目でどこともつかぬ空を睨みつける、巌のような老婆の立ち姿が目に浮かんだ。
荒れた天気の中、枯れ木のような腕が、誰にも渡すまいと孫を抱きすくめる姿も。
私に何ができただろうか?
私が今ここで泣いて夜天に頼めば、金銭や、物品や、より優れた住環境を彼らに与えることくらい、彼女なら造作もなくやってのけるだろう。
時間さえあれば、私ひとりでも、それくらいのことはやれるだろうと思う。
あるいは一定期間、彼らの友達か、姉か、母か、恋人か、その他なんらかの役柄を演じて、暖かな安らぎを与えることも、やってやれないことはない。
アハトフ家に、幸せを与えられるかもしれない。
でも私は知っている。
それは無理ではないが、無意味なのだ。
ティミー・アハトフが初めてではない。
不死になってからの長い旅の中で、私も夜天も、多くの不幸な人たちと関わってきた。
だから、そのすべてを救いきることはできない、と、私たちは早々に知ることになった。
私たちの中にあるもの、私たちが所有し、誰かに与えることのできる金銭や、物品や、恵まれた衣食住環境には、常に限りがある。
私たち自身が誰かにもたらすことのできる価値も、言うに及ばず。
私たちが生者なら。
せいぜい八十年かそこらしか生きられず、せいぜいひとりかふたりの伴侶と人生を共にして、せいぜい数人の子供たちに対して保護責任を負い、せいぜい数十人の子孫、親戚、仲間たちに贈与と返礼のための義理を感じるくらいで済む、生者なら。
自分の所有するもの、自分自身の存在の一部を与えるくらいのことは、難しいかもしれないが、やってやれないことはないはずだ。
でも私たちはそうではない。
誰かに何かを与えるたび、これまで何も与えてこなかったすべての人たちに、これからも何も与えられないであろう人たちに、私たちは背くことになる。
ただの偽善、えこひいきに過ぎなくても、目の前で救える人を救うべきだ、とそう思われるかもしれない。
私もそう思う場面は何度もあった。
実際にそうしてきた。
しかし、他者から与えられるすべてのものは消費される運命にある。
今日飢えている者にパンを与えたとして、明日はどうするのか、そのまた明日は、という問題まで、私たちは背負えない。
その者たち自身が、自分たちの物語によって望んで自分たちが生きるための糧を生み出そうとしない限り、根本的な解決にはならない。
私たちは物語までは与えられないし、彼らの人生物語の中まで入っていて、それに付き合い続けるということもできない。
不死である以上、それは永遠に対して責任を負うことにも等しいから。
ただ永遠に胸を締め付ける、そういう経験を無限に積み重ねることになってしまうから。
自然と私たちは悟ったのだ。
私たちは誰も救わないし、救えない。その近くを通り過ぎるだけ。
彼らが彼ら自身を救おうとする場合にその手助けをすることができるかもしれないが、その時その場で、彼らが望むものをぴったり用意できるかどうかは、奇跡的な確率になる。
その基準に照らして言えば。
私がティミー・アハトフに対してできることは、何もない。
だから、彼の物語はここで御終いなのだ。
「ティムに手出しするな、って」
「ん?」
「こういう意味だったんだ」
「なんだ。今さら気づいたのか」
「…………」
「昔から、トウカはあれくらいの男の子に弱いからな。ま、これも必要な経験だ。食事と同じさ」
呆れたような夜天の声に、ちょっと反発心を抱きつつ。
私は再び窓の外へ顔を向けた。
もうティムの姿は影も形も見えないけれど、その幻影がまだ、追いかけてくるような気がして。
身体が一瞬浮き上がるほど、おんぼろバスが大きく揺れて、私の胸もがくんと大きく揺れた気がした。
何度も感じてきた感傷なのに、未だに慣れることができない。
人里へ降りるとすぐこれだ。
(なぜ、こうなるの?)
こんなんじゃ、やりきれない。
やっぱり幽霊山脈に引き篭もっていればよかっただろうか、と拗ねてみて、そんな自分をさらに自嘲しつつ。
なぜ夜天は結婚するのか、と、答えのない問いが再び胸裡に浮かび上がるのを感じた。
政略的な意味でないというなら、今さらになって夜天はなにゆえ、他人の人生に関わろうとするのだろう。
他人の人生と自分の人生を、掛け合わせようとするのだろう。
しかも、男、生者なんかと。
そこにどんな重大な物語があるとしても、私は絶対に納得できないだろう。
うざったくなるほど身体と心を揺さぶってくるバスに軽い苛立ちを感じつつ、私は静かに目を閉じるのだった。
吹雪は、まだしばらく止みそうにない。