04:サイルイン、赤錆と吹雪の街〔3012〕(1/2)
夜天が放った「結婚」の一言が冬花の胸を穿った。
しかし詳しい説明を求める間もなく、嵐が世界を覆い隠す。
三日三晩歩き通して、冬花は二世紀ぶりに人類の生存圏へ到達する。
旧炭鉱街・サイルイン。
◆1
予兆は何もなかったように思う。
発しようとした私の意思と言葉。
その両方を遮ろうとするかのようにブリザードが吹き始め、それはあっという間に世界を塗りつぶした。
無限の旒。
世界が二つの断崖となり、夜天と私の両脇を流れ続ける。
このあたりでは珍しくもないこと。地球上のどこでも行われている大気運動の一部。
空気どころか空間そのものを削り取る巨大掘削機の如き嵐を生んだ最初のそよ風が、いったいどこで生じ、そのエネルギーがどこでどのように増幅され、今ここにある颶風と化したのか、説明を試みようとすれば、私なら多分できないこともない。
しかし、それはあまりにも無為だ。
そんなことに思考をめぐらせようとしたのは、少しでも、「結婚」の話から意識を逸らしたかったからだろうと、自覚はしていた。
視界もゼロに等しい中、繋いだ手の先にいる、いるはずの夜天が、いったい何を考えているのか。
考えたくなかった。
――ああ、嵐になる。
数時間前、そう言って夜天は私に手を差し出した。
微笑を私に向けて。
手を繋ぐことが当然だろうというふうに。
確かに合理的だ。
吹雪の中では目でお互いを認識することは不可能だし、とても口を開くどころではない。だから手を繋いではぐれないようにすることは、まったくもって合理的。
けれど、合理性の名目それのみで夜天に、彼女の思惑に追従しているだけだという自覚から自分自身を手放すことは困難だった。
時折、手のひらにわずかな力が加わって、針路を修正した。
車のハンドルを左へ、右へ、ほんの少しばかり回すような感じで。
運転席でハンドルを握っているのは夜天。後部座席に無言で座っているのが私。
だって仕方がない。目的地を知っているのも、ルートがわかるのも夜天だから。
闇の中で私を繋ぎとめる手に誘われるがまま、私は一歩先、また一歩先へと溶けていく。
言葉さえ届かない混濁した暗闇へ。
この手を離してしまえば、と、いたずらげな思考を、幾度か浮かべた。
この吹雪の中ではぐれれば、いくら夜天でも、すぐに私を見つけることは難しいはず。
それでも、多分数日はかからない。
もしかすると数時間かも。
何より、この手を振り切ったところで、私に行く宛が無い。
行きたい場所もない。
逃げ出す場所もない。
もう、幽霊ではなくなってしまったし。
だから、この手に従う他にない。
繋いでいないほうの手では、夜天にかけてもらった真紅のローブを必死に押さえていて。
それを失うわけにはいかないという気持ちでいっぱいだった。
だから、そう、母親に手を引かれる子供と何も変わらず。
私は今もまだ北斗長里学園前のバス停でバスを待ち続けている、馬鹿な子供のままなのかもしれない。
――ねえ、冬花はどうして変わろうとするの? 今ここにあるもので、何もかも満ち足りているのに。
――それ以上を望むのは、ぜいたくだわ。
懐かしい声が、吹雪のどこかから聴こえた気がした。
仔山羊の頭を優しく撫でる、三つ編みの少女の声だった。
私はしばし闇の中に視線をさまよわせたが、もうこの世界のどこにも彼女が見つからないだろうことは理解していた。
それでもまた会いたかった。
モンテ・ローザの青い高原に住んでいた、優しき不死者に。
◆2
幽霊山脈の頂から、無謀なる転落を挟んで、歩き続けること七十時間。
長く続いたブリザードがようやく勢力を弱め、私たちの道の先を示すように徐々に視界が開けていった。
樹氷と化した針葉樹たち。
その黒々とした樹皮と根雪の間にわずかながらも地衣類が顔を覗かせるようになったのを見て、二世紀ぶりに人を拒む極限の世界を去ったことを、私ははっきり実感した。
標高は二千程だろうか。
内側から肺を圧する気圧や、肌に触れる空気のざらつきさえも今までとは違う。
暖かい、という表現を零下十度の空気に当てはめるのは不適当かもしれないが、幽霊の胎内に二百年浸っていた私からすれば、ヒュウと鳴って耳たぶを切らんばかりの風も、初春の陽気のように錯覚された。
もちろん感覚とは相対的なものだし、私は不死者。
生者が安定的に居住するにはまだまだ低温すぎる。
大災害以前の南極のほうがまだましで、生きた人間がいるのはまだ先だろう――と、思ったのだが。
ふと、先行する夜天が崖の縁に立ち、私を呼んで、眼下の景色を指さした。
その先に目を凝らした私は息を呑んだ。
旧炭鉱街・サイルイン――。
その景色を、何と形容したものだろうか。
二百年も文明を離れていたものだから、宇宙人の基地のような奇怪な風景があってもおかしくないと覚悟していたのだが、白く煙る景色の中に亡霊のように浮かび上がったのは、ある意味ではひどく凡庸な、鉄とコンクリートの集合体だった。
まず見えたのは鉱山の象徴ともいえる、大小の立坑。
それを支持する巨大な鉄の骨組みが数基、漏斗状に削り取られた山裾に張り付くようにして聳えているのが確認できた。
その骨組みから斜め下に伸び、しかしぎくしゃくと骨折し崩落しているのはベルトコンベア。
さらに、コンベアの支持構造体から生える大小の煙突、鉱山関係のものだろう倉庫や居住施設らしき小屋だろう灰色の陰影がいくつも――数十から百は確認できた。
平地はあるが道路の跡はない。雪の下だ。
動くものはなく、何もかも静止したグレースケールのキャンバスに沈んでいるが、建造物の狭間狭間に鈍い赤色が居ついているのがまちまちに目に入った。
あの赤は何だろう。
発光してはいないようだから、塗装の色だろうか?
「…………」
私はサイルインの姿を遠目に捉えたまま、膝をつき、喉元を押さえていた。
胸のあたりに酸性の不快なものが生じる。
さらに耳鳴り――軽いめまいも。
こうなるだろうと思ってはいたが、感覚は嘘をつけない。
「トウカ、どうした? ああ、『文明酔い』か」
「うん、ごめん。ちょっと、待って……」
不死者ならではの病――「文明酔い」。
文明とそれが作り出す構造物・生産物から長らく離れていると、再びそれと再び対面したとき、乗り物酔いに似た強い感覚の不快感を体験する。
仮説だが、この酔いの機序は以下の通り。
まず前提として、自然界にはそうあるべきという集合と離散のエントロピーが、あらゆるスケールに存在している。
それは大いなる時の潮流に溶け込み、何百万年スケールの大陸造岩作用から昨日の降雨まで、森羅万象をそうあるべき「形」として形成・破壊し、再形成する独自の還流作用を持つ。
銀河の渦巻きから原子核が持つ電子殻まで、自然のものはすべてそうあるべきものとして自然な形になる、ということだ。
ところが、人類の自然開発力は、短いスケールにおいては、その還流作用をはるかに凌駕してしまう。
自然を切り開いて作られた人間の街は、自然の作用によって出来る「形」からすれば異物であり、本来そこに形成されるはずのない逆流・不正・逸脱が一緒くたに詰め込まれたオブジェクト群となる。
文明の中で生まれ文明の中で生きる文明人は、通常、何十年という単位で文明を離れて生きることはできない、というかそれができる文明人はもはや文明人ではないから、自分たちが住む場所の「形」に違和感を持つことはありえない。
適応、という生存本能の働きもそれを助ける。
ところが自己の生存(いや、存続というのが正しいか)のために文明のリソースをまったく必要としない不死者は、その気になれば何十年も何百年も文明世界を離れて時を過ごすことができてしまうわけで。
何らかのきっかけで文明社会に戻り、それらが作り出す「形」に向き合った時、まるで異次元空間に踏み込んだかのような恐ろしい酔いに襲われる、というわけだ。
私は過去にも何度かこの文明酔いを経験している。
これが私固有の病ではない証拠に、夜天もいくらか(十年とかそれくらい)文明世界を離れ、戻った際に同じ症状に悩まされたことが数度はあるというから、不死者病、とでも表現するべきかもしれない。
何らかの宗教的制約によって生涯の長い期間を僻地で過ごす修行僧なら、私たちの気持ちを少しはわかってくれるだろうか。
あるいはそう、何らかの心理的要因によって社会との関わりを断ち、自分の世界に引き籠もり続ける子が、社会復帰する際に感じるハードルみたいなもの?
経験上、文明との「隔世年数」が長ければ長いほど、酔いの強度も強くなる。
二十年や三十年なら「我慢」という対処で済むが、今回は二百年なので――。
「…………ッ」
非常に気持ちが悪い。
身体をまっすぐ保持していられない。
吐くものなどなにもないはずだけど、ひどく吐きっぽい。
目に映るものは何だろう?
焦点がいきなり合わなくなる。
大きなものを見ているのか、小さなものを見ているのか?
雪に埋もれつつある古代の巨人の肋骨のようにも、白いシャーレの上に数千個集積されたヒメカマキリの卵鞘のようにも、ピロコリス・アプテルスの動的コロニーのようにも、高濃度の工業廃水が混じった紅亜鉛鉱のようにも、ビスマスが作る多角骸晶の成り損ないのようにも見えた。
千メートル滑落しても死なない身体なのに、零下の雪原を三日三晩歩き通しても何ともない肉体なのに、こうした内的な感覚をごまかせないとは、まったくもって、不便きわまりない。
文明というものが自然の在り方に逆行しているという自己仮説の裏付けだと、せめて理性で納得するしかない。
雪煙に霞む遠景でまだ良かった。
もっとくっきり目に映っていたら、卒倒してしていたかも。
ついでに言えば、これからあれに近づいていって、正気を保てる自信はまったくない。
「さあ、そろそろ行こう」
夜天はしかし、涼しい顔で手を差し伸べた。
「ま……待っ……。酔いが……うぐ……」
「辛いだろうが、わかってるだろ。文明酔いは『慣れる』しかない。幸い、今のサイルインはほとんど廃墟だから、今のトウカにはこれ以上ない準備環境だ」
鬼! と言いそうになる。
言わなかったのは、純粋に気持ち悪さが極限に達していたからだが、それはそれとして、彼女の言うことも正しい。
文明酔いの特効薬となるものはない。
文明からできるだけ離れないことで予防するしかないが、それができなかった場合は、少しずつ慣らしていくしかない。
ここでずっとうずくまっていても事態は改善しない。
いや、どうだろう。
案外するかもしれない。
せめてあと百時間。いや二百時間くらいじっとしていれば、少しは軽快するかも?
私は最大限力を振り絞って希望を夜天に伝えようとした。
した、のだけれども。
その十分後には、私は再び夜天に手を引かれ、よろよろと雪の上を歩いていた。
彼女の強引さに打ち勝つのは、万全の精神状態だとしても土台無理というものだ。
感覚の狂いが脳に苦痛を訴えているだけで、実際に身体が苦痛を受けているわけではない。
だから現実に身体をはっきり現実に直面させて感覚を補正することで苦痛は収まる――といったことを、歩きながら夜天が背中で語った。
認知行動療法だと。
そんなことはわかっている。その理屈を経験則から生み出したのだって私自身であって、私が一番よくわかっているのだが、苦痛は苦痛で、感覚補正もスイッチを切り替えるように簡単に行われるわけではなく、もう少し友達を労ってもいいのではないか――といったことを私は反論したかったが、そんな余裕はなかった。
「苦しかったら吐いてもいい。まあ、吐くものもないだろうが」
「……せめてゆっくり歩いてくれる?」
「ああ。大丈夫」
私はかなり弱っている。
ほとんど夜天の手に牽引されている形だ。
当然、歩みはひどくのろい。
夜天からすればじれったいほどの速度だろうに、繋いだ手から感じるのは、一種の気遣いだった。
私が何とか振り絞れる前進エネルギーを、最大限引き出そうとする手の引き方。
これも、母親が子供の手を引くような感じで。
気遣いはするが、弱音も妥協も許さない、自分の意志でついてきなさいという力の入れ方で。
やっぱり急いでいるのかな、と私は苦痛にまみれる意識の中でぼんやりと思った。
結婚の相手が、「生者」だから。
寿命がある相手だから。
私に使っていられる時間は、きっと有限なのだろう。
まだ凍りついているような胸の内で、私は二つの相反することを思った。
――夜天に見つけてもらえて、嬉しい。
――夜天に見つからなければ、良かったのに。
◆3
人里へ降りていくまでの間に、夜天が語ったところによると。
本格的なサイルインの起こりは、百五十年ほど前。
つまり私が雪山の奥深くに引き篭もってから五十年後くらい。
鉱物資源の採掘を目的として、辺境を束ねる領主が主導して建設を誘致した、いわば公共事業。
採算が取れるとはそもそも見込まれていなかった。ただ当時は、地域情勢に変化があって、短期的な財政の黒字赤字はさておき「備え」が早急に必要だったらしい。
生者が何かに備える理由というのは、根本的には一種類しかない。
それは戦争。
統治者の不在による不安定な情勢が、雪山をうろつく何者か(つまり、私のこと)の伝説に一定の確からしさを与えたのかもしれないと、夜天は考えを述べた。
人間の精神の不安定さは、人間が見る世界の不安定さにも直結するから。
結局、三十年ほどの間に小さな武力衝突が数度あっただけで利害関係者の間で講和が結ばれ、国境線ならびに自治区の境界線が細かく引き直され、この地域の政治的・軍事的情勢は安定化したという。
それは喜ばしき事だが、そうなると、サイルインの軍事的・政治的な必要性は薄れ、経済的に自立困難な、地理的にも孤立した街だけが残される構図となる。
現在もわずかに採掘事業は続けられているものの、著しい人口流出が続いた結果、人口は最盛期の三十分の一以下、五年前の統計では一万人未満となっているという。労働人口は、さらにそのうちの半分以下。
一世紀後には地図から消えているだろうなと、夜天は失笑交じりに説明を締めくくった。
私は不思議な気持ちになった。
私が関知しない間にひとつの街が誕生し、また、滅びようとしているなんて。
これも不死者ならではの経験といえる。
硬く黒々とした針葉樹の森を抜け、さきほど崖から見下ろした工業地帯へ入ると、言葉で聞くよりも鮮明に都市の盛衰が感じ取れた。
見上げるほど高い立坑の骨組みは、かつては立派な工業地帯だったことを物語っているが、今は半分以上が崩れて雪に没しており、踏み砕かれた骸骨と呼ぶに相応しい無惨な姿を晒している。
その周囲のコンベア、煙突も、見るものすべて破壊、損壊、倒壊しており、原型を留めているものは皆無。
かつては詰め所や集積所や宿舎に使われていたのであろう建物群も放棄されてから長い時間が経っていると見えて、壁や屋根がなくなっているのはまだいいほう。単なる瓦礫の山と化しているものも多かった。
遠目に鈍い赤に見えたものの正体は、塗装が剥がれ、地金の金属を覆う夥しい錆の色だった。
どうやら、このあたりでは建築物の外壁・屋根、その補強材、さらには雪避け、目隠し、敷地分けなど、汎用の用途として、サイズの揃った長方形の鋼板を用いていたようだ。
急な街の造成にあたって大量生産されていたことが窺える。
塗装もめっき処理も雑な粗悪品。
それらが長きにわたる風雪にさらされて腐食し、今は元からそういう色と形の規格品だったかのように、一様に赤錆をまとっているのだ。
真っ白な景色の中にいくつも滲む血のような色。
骨で出来た林の中、まばらに血が散った壁の合間を歩いているような、空恐ろしい気分になる。
こんな場所にまだ数千人も人が暮らしているのか、と私が言うと。
このあたりは完全な放棄地区となって久しく、サイルインの人々の活動はここからさらに五キロ行ったあたり、“中心街”で行われていると夜天は言った。まあそこも寂れていることには違いないが、と付け足す。
「お互いこんな服だし、いきなり中心街までは行かない。今夜は僕が拠点にしている家で休もう。あと少しだ」
廃墟化した工業地帯を抜けると、肌に当たる空気の感触がさらに柔らかくなった。
標高が一段と下がり、現在はたぶん千八百くらい。
風景にかぶさる霞の密度が下がり、深雪の下にはひび割れた舗装路が見えるようになる。
人気のない山合いの道路を、手を繋いだまましばらく歩いた。
番号だけが書かれた錆だらけの標識。まるで地の果てへ導かれているかのよう。
道を塞ぐ土砂崩れ。
路肩に放置された大きな鉄屑――元は工事車両だろうか。
寂れてはいたが、人里が、その痕跡が、如実に近づいているのを感じた。
時間をかけて歩いてきたおかげか、私の文明酔いは少しばかり軽快しつつあった。
やはり「慣れ」が特効薬というのは確かなのだ。
それでも、まだ人に会う勇気はないが――。
曲がりくねった山道を抜けると、行く手に開けた平地が見えた。
足を滑らせそうな急勾配の下り坂が目の前にあり、その向こうは道路が碁盤の目のように張り巡らされて、いくらか整理された区画となっている。
このあたりは住宅街のようだが、工業地帯と同じく規格品の鋼板が目隠し、雪除け、区画分けの道具として使われているらしく、人の気配がないのに赤茶けた板だけが朽ちるまでそこにあれと命令されたかのように整然と並び立っていて、ちょっと不気味な景色だった。
雪交じりの風が吹く度に、板同士が不規則にぶつかって、カタカタ、キイキイと生き物めいた鳴き声を奏でる。
夜天に説明されるまでもなく、このあたりも既に放棄されて久しく、鋼板に囲われた敷地と建造物もほぼ例外なく廃墟となっているようだった。
風の音。
そして、カタカタ、キイキイという音はそこかしこから途切れなく聴こえてくるのに、やけに静かだと感じるのは、この景色が何とも言えない物寂しさを醸し出しているからだろうか。
と、坂道を下りきらないうちに、夜天が足を止めた。
「とりあえずここが仮の宿」
切り立つような急勾配の中腹あたりだった。
並べられた赤錆の鋼板が目隠しとなっていて道路側からはほとんど内側が見えなかったが、夜天が三枚ほど鋼板をずらして入り口らしきものを形成。
三十平米ほどの均された土の上に、コンクリート造の平屋が悄然と佇んでいた。
横倒しの金属バケツや、いくつものドラム缶や、空き瓶などが、いかにも雑然と、もう長いこと人の目に触れていない顔つきで建物に寄り添っている。
猛禽を養っていたと思しき金網小屋もあったが、もう生命の匂いは消え失せていた。
平屋も風雪の影響かかなり色褪せており、一見して廃墟のようにも見えたが、よく見れば外壁には新し目の補修跡、塗装の違いがあるし、雑然とした雰囲気ではあるが時間による著しい破壊の跡はない。
生きている家だった。
風雪を避けるためだろう、入り口のドアは建物の凹んだ場所にあった。
そのステップが地面よりも下にあることに私は気づいた。寒冷地にたまに見られる半地下住宅だ、土は暖かく温度が変わりにくいから。
夜天が鍵を開け、その背中に続いて中に入る。
風の音が後ろに遠ざかり、むっとするような澱みが身体が包んだ。
私にとっては二世紀ぶりの「動いていない空気」であり、上下左右を壁に包まれるという体験。
一瞬、視覚が焦点を失い、距離感が狂う。
室温は零下に違いないが、熱さえ感じる。
酔いは、幸い、覚悟したほどではない。
「発電機を動かしてくる。適当にそのへんにいて」
夜天はそう言い残し、部屋の奥へ消えた。
彼女が戻ってくるまでの間に、閉鎖空間に押しつぶされそうになる感覚を呼吸とともに補正しつつ、ゆっくり室内の様子を観察する。
照明がついておらず、夕方のように薄暗い。
曇った窓から濁った光がぼんやりと差しているだけだ。
それでも、多くのものが、本当に多くのものが部屋の中にあるのが感覚された。
ひとつひとつのものを取り上げる意味はない。それらすべては誰かの「生活」のための道具であり、それらは「生活」という名の相対的濁りとなって、床や壁の一部と化していた。
それらが使われなくなってずいぶん経つようだが、空気が風雪に流されない分、「生活」の匂いはかなりの密度で残存していた。
部屋の真ん中付近に四つ足のテーブルがある。それは、自分の上を覆いつくす食べ物の残骸や汚れた食器やこぼれた塩粒の重みを無言で受け止めつつ、それでいて部屋の壁に対し平行ではない角度で立ち続け、無意味な反抗を示している。
私は自分の腕を無意識に撫でていた。
と、不意に、壁の向こうでブオン!という大きな音して、私は飛び上がりそうになった。
同時に床や壁が一瞬震え、エネルギーが家の中に満ちていく気配がした。どうやら壁の中に配管が通っているようだ。
頭の上で照明がつく。
シェードをかぶった円筒形の放電管が部屋の中を青白く照らし出すと、壁と床に満ちていた黒い濁りは細い影となって引きちぎられ、ものとものの隙間隙間へ、奥へ奥へ、するすると引っ込んでいった。まるでひとつの大きな生き物のように。
「お待たせ」
夜天が戻ってくる。
「片付けてなくて悪い。今日トウカが来るってわかってたら、掃除機くらいかけといたんだが」
などとジョークを言いながら、テーブルの上に無造作にスペースを作り始める夜天。
キッチンの一角は油まみれの食器やゴミで埋まっているし、床もほとんどそうだ。収納からもものが溢れだしている始末。どかしたものをとりあえずで置く場所はあっても、その先に収まるべき場所はなく、この部屋にあるすべてのものは濁りと化していく運命にあるようだった。
「私は気にしないよ。でもここ……誰の家なの?」
夜天は私ほど潔癖ではないが、これは明らかに、彼女の感性が許しうる衛生環境とは言えなかった。
本人が言った通り、ただの「仮の宿」なのだろう。
それに、ここに染みついている生活の濁りは、誰か一人の人間が数年で生み出せる程度のものではない。
夜天は、片付けの手を止めずに誰かの名前を言った。
「元・鉱山労働者。ひとり娘が家を出て、養っていた母親が死んだ後もこの街にずっと残っていた。そう決めたと言えば聞こえはいいが、彼には何か別の道を目指せるような度量も技術なかったし、年齢的体力的にも厳しかったというだけ。鉱山の仕事がなくなってからは、ドラッグで消化器と肝臓をいたぶるのが趣味かつ日課だった。中心街でかつての労働者仲間に誘われてちょっと怪しい商売に手を染めていた時期もあったが、長く続けられるようなやり方でもなく、彼は行き詰まりを感じていた。そこへ、数年前にちょっと離れたところで奇跡的にうまくやっていけそうな仕事が見つかったので、今はそこで過ごしている」
「うん。それで?」
「――僕は、その男の姪。大学の地質調査のためにしばらくこの家に滞在させてもらってる」
という設定。
「その人はいつ帰ってくるの?」
「帰ってこない」
永久に、と、夜天は付け足した。
その理由の先を説明する気はないようだった。
「でも……娘がいるんでしょう? ここに来る可能性は?」
「限り無くゼロ。疎遠になって四十年経つし、彼女は遠く離れた異国で結婚し自分の人生を謳歌してる。もしとんでもなく低い確率が重なってここまで来ても、ごまかす手段はいくらでもある」
「労働者仲間は? 彼の不在を怪しんだりしない?」
「その全員が彼と一緒の奇跡により、ちょっと離れたところで新しい生き方を得た。全部円満。だからこの街に戻ってくる理由はない。大丈夫だって、抜かりはないよ」
夜天に手抜かりがあるとは思っていなかった。
ただ、「ちょっと離れたところ」というのは。
「…………」
よもや、あの世のことではあるまいか?
しかし、もしそうだとしても、私にそれを確かめる手段がなく、夜天もそれを説明しようとしない以上、それ以上突っ込んで聞く意味があるとは思えなかった。
私としては、ここの家主とその仲間たちが、「ちょっと離れたところ」でうまくやっていることを願うばかりだ。
「ならいいけど」
私が納得のサインとして軽く息を吐くと、夜天はあからさまに安堵の顔になった。
「ここ、こんなさまだけどバスルームだけは新しくしてあるんだ。まずはゆっくり湯に浸かってくれ。空気もじき温まる。その間に僕は、あー、このへんを少しは片付けておこうか」
「気にしないって言ったのに。それにさっきの音、化石燃料を使ってるんでしょ?」
間違いなくボイラーの起動音だった。
「もったいないよ。わざわざ有限な燃料を使わなくても……」
「生者のいないところでも生者のように、だろ。僕もたまに装備を整えに戻ってくるだけの場所だが、滞在するとなるとさすがにいろいろ整えないと」
「滞在……」
「まあ、二、三日以内に出発の目途がつくと思うが」
出発――シンセルドルフへ。
そこにいるという夜天の“結婚相手”に、会いに行くということ。
いや、そもそも、その前に私は問い質さないといけないことがあって。
「夜天。それより、その――」
顔を上げた私は、驚き、言葉を切った。
夜天が目を見開いて、私を見ていたから。
いや、私ではない。
夜天の目は私の背後に焦点を合わせていた。
「――!」
その存在に気付き、私は文字通り飛び上がった。
玄関のドアが空いた気配はなかった。
なのにいつの間にか、私のすぐ後ろに誰かが立っていた。
少年。
いや、まだ成長期も迎えていない背格好で、子供という言葉のほうがそれらしい。
白人。
歳は六歳から八歳くらい。
身長百二十。
二百年ぶりに見る、自ら動くもの。
生き物。
生者。
男。
灰色のニット帽からはみ出るくしゃくしゃの前髪。
その下にある色素の薄い瞳が、私をじっと見つめている。見つめ返してきている。
身体や表情はほとんど動かない。白い息が一定間隔で赤い頬を遮らなければ、彫像か何かだと思ったかもしれない。
服装は、セーターに白のベスト、ジーンズ、ゴム長靴。
どれもサイズはかなり大きめで、使い古され、汚れている。
と、その子が、何か口を開きかけた。
私は怖れおののく。
が、それよりも早く夜天が割り込んで声をかけた。
会話が行われる――私の知らない言葉で。
たぶん、これは二百年前には既知の言語だったと思う。
このあたりの地域語のひとつ。その名残が、文法や発音に随所に感じ取れる。
それでも、二百年もあれば新しい単語・用語が増えるのが当然で、まったく別の言語になるような場合も珍しくない。言葉とは生き物なのだ。
日本での学生時代も古文には苦労させられた(苦労しない学生は少ないだろう)。
私は二人の身振り手振り、そして切れ切れに聞こえる単語断片に集中した。
発話はほとんど夜天が行っており、男の子は時々それに頷くだけで、あまり口数が多くない。
しかし知り合い同士なのは間違いないようだ。
男の子は、状況からして私が誰なのか気になっているはずだが、私のほうへは目線を送らない。夜天の振る舞いに集中している。夜天がそう誘導しているのもあるけれど、彼も彼で、美人のお姉さんを独占したいという感じ。
二人のコミュニケーションは都合二分ほど。
男の子はいちおうの納得を得たようだった。
去り際、彼は私に右の手のひらを向けて、握って開く動作を数回繰り返した。
私は曖昧な微笑で、同じ動作を真似てみた。
タイミングからして「バイバイ」の挨拶だし、古今東西、相手の動作を真似るのは九十九パーセントの確率で「友好のサイン」なので。
「名前は、ティム」
部屋に静寂が戻ったタイミングで、夜天が言った。
「近所に、と言っても二キロ先なんだが、そこに祖母と二人で住んでる子。なぜか懐かれててね。『大学の地質調査』で僕はほとんど家にいないってわかってるのに、たまに帰ってきてないかって様子を見に来るんだ。入ってきたのは裏口からだよ、驚いただろ」
「うん、かなりね……」
まだドキドキしている。
「先に言っておくべきだった、すまない。こんなタイミングで出くわすとは思わなかった。トウカのことを聞かれて、僕が外国にいた時の友人で、休暇で訪ねて来てくれたんだ、と教えた。偽名は考える暇がなかったからそのまま『トウカ』で伝えてしまったが……」
「べつにそれは構わないけど……怪しまれなかった?」
「多分。だがあとで話を擦り合わせておこう。リスクは減らすに越したことはない」
リスクとはつまり、私たちの秘密が――不死であることが、ティムを含めた生者たちに、彼らが属する人類社会に露見してしまう事態のことだ。
この千年、私たちはそのリスクを徹底的に避けて行動してきた。
偽名を名乗るのはその第一の手引きだが、今のケースでは仕方がない。二百年も文明を離れていれば「フジムラ・トウカ」を知る人間はほぼいなくなっているから、そこは本当に問題ではなかった。
「うん、そうだね。あの様子だと、また訪ねてくるんじゃない?」
「ああ。けっこう邪険にしてるつもりなんだが、子供っていうのは扱いが難しいな」
ちょっと怖い顔をする夜天。
「ま、それはさておき、まずは風呂にでも入ってくれ。生者がするような格好じゃないからな」
言われて、私は自分はほぼ裸に赤いコートを巻いているだけだと思い出し、赤面した。
◆4
新しくしてある、と夜天が言った通り、バスルームは立派なものだった。
ダイニングキッチンよりも広いスペース。
全室白いタイル張りの清潔で明るい空間は、まるでホテルのよう。
便器と洗面台、鏡。防水カーテンで仕切られたシャワールーム。タオル類を収めた棚。
余計なものが置かれていないのも、空間を広く見せている。
そして、空間の真ん中にでんとバスタブが置かれていた。
すべてが曲線のみで構成されたティーカップのような形をしており、猫脚で踏ん張るようにして立つ形がどこか可愛らしい。
アンティークものだが、手入れはされている、恐らく夜天によって。
ここのリフォームも夜天がやったのだろうか? 少なくとも、ドラッグに溺れていた元鉱山労働者の趣味とは思えない。
「このタブを下ろした状態でこのバルブをひねると湯が出る。熱いから水で薄めて。たまるまで少し時間がかかるが」
と、夜天がバスタブの使い方を説明してくれたけど、私は首を振った。
「い、いいよ、私はシャワーだけ使えれば」
この二百年、身繕いというものをしていないので、何だかんだ私は汚れている。
浴槽を汚したくなかったし、湯を沸かすエネルギーだけではなく水もそれなりに貴重なはずだった。水道サービスが生きているとは思えない。タンクからの補給だろう。
「ん、そう? ちゃんと浸かったほうが温まると思うが、まあ、好きにしていい。タオルとかシャンプーとか、ここにあるものは自由に使っていいから。着替えは僕の手持ちから適当に用意しとくが、構わないよな?」
「うん。何から何までありがとう」
「何言ってる。友達だろ」
じゃあごゆっくり、と手を振って、夜天はバスルームを出て行った。
「…………」
しんとなる。白いタイルが眩しい。
何だか夢の中にいるようだ。
私は一息ついてから、真紅のコートを脱ぎ落とした。
それからほとんど原型を留めていない、二百年お世話になったアラミドの布切れも。
壁際の全身鏡に細くて頼りない肌色がぼんやりと映っていたが、そちらはできるだけ見ないようにして、タオルだけ手に取ってそそくさとシャワースペースへ入った。
間違いなく夜天の私物だろう、高級そうなシャンプーやトリートメントのボトルが備え付けの棚にあったが、私はただ湯を浴びるだけのつもりだった。
壁の赤い印のコックをひねると、上部に備え付けられたシャワーノズルからすぐに暖かい湯が噴き出す。
たちまち、視界が真っ白になるほどの湯気が発生した。爆発的と形容していい勢い。気温・湿度を考えれば当然といえた。
換気扇のスイッチの場所を聞き忘れていたと私は自分の思慮の足りなさを責めるのだが、そんなことがどうでもよくなってしまうほど、頭皮と顔面と鎖骨に当たる湯が心地良く、意識はたちまち忘我の域にまで引き上げられた。
全細胞が飛沫となって吹き上がる感覚。
自分の中の血液が、湯と交じり合って皮膚表面を流れ落ちていくかのようだ。
まぶたを閉じれば、自分の身体の輪郭が不明確になる。
明確な快感。
明確な歓び。
これが、多分生きているという感覚。
どんなに過酷な環境でも私は傷つかない。
もし傷ついても、それでどうにかなってしまうということはない。
しかし、だからと言って、不死の肉体から何かを得るというわけでもなく。
ただひたすらに、形容しようのない何かを失い続けるだけで。
不死になってからも、結局はこうやって、文明が作り出す何らかの熱を浴びていないと、私は私という存在とその尊厳を護ることができない。
それがどんなにちっぽけな尊厳だとしても。
私はまだ藤村冬花なのであり、人間性とその尊厳を失ってはいないのだ。
幽霊山脈の二百年も、私から私を奪えなかった。
私は未だ、藤村冬花以外の何かでいることはできない。
そして多分これからも。
誰からも必要とされていないのに。
また私は同じ現実に戻されてしまう。
――いったい何を差し出したら、ここに留まってくれるの、ハート?
――私が今あなたを必要としている、それだけでは足りないの、ハート?
口元にほくろのあるブロンド女の幻影が、湯気の合間にちらついた気がした。
私はその幻影を振り切るように、無心で身体を洗った。
頬や、首筋や、胸骨や、背筋に、存分に湯を当てた。
手のひらで湯を受け、それで身体を撫でた。
その動作をずっと繰り返した。
時間の流れは水音の向こうにあって、ほとんど私の知覚の外だった。
だから、というのは結果論だが。
背後から伸びてきた手に、私はまったく気づかなかった。
「捕まえた」
「――ひゃっ!?」
自分でも恥ずかしくなるような悲鳴が飛び出した。
何者かが私の背に張り付くようにして両腕をまわし、抱きついてきていた。
何者か、というか、夜天しかいないのだが。
いつバスルームに入ってきたのか、いつ背後に立たれていたのか、まったく気付かなかった。
「な、何してるの夜天?」
辛うじて首を動かすと、彼女が服を着ていないのがわかった。
全裸で、私の背中にぴったり腹をくっつけている態勢だ。
「僕も風呂に入ろうと思ってた。だったら一緒に入ったほうが合理的だ」
なるほど、合理的だ。
え、いや、合理的か?
私は少々混乱している。
「だからって、こんな狭い場所に一緒にいることないでしょう。私はもう出るから、夜天は――」
と言いながら身体を逃がそうとした私の腕を、夜天は後ろから掴んだ。
「ダメダメ。トウカ、シャンプーもボディソープも使ってないじゃないか。ほら、爪の間までちゃんと綺麗にしないと」
「そ、それくらいひとりでできるよ……」
さらに身体を逃がそうとするのだが、後ろはもう壁だ。
「ひとりじゃ洗いにくい場所もある、手伝ってやろう」
私の濡れた髪に、夜天の頬が触れる。
片手は私の手を掴んだまま、もう片方の手の指が、太ももや、腰回りや、臍の下を撫ぜる。
その指使いが、やけになまめかしく感じられるのは、気のせいだろうか。
「フフ……」
耳元であやしい笑いが響く。照星に獲物を捉えたかのような。
細い指が、臍周りからみぞおちまで登ってきて、さらにその上の、ふたつの膨らみを射程に捉えている――それを確信した私はぎゅっと身体を固くした。
それを察知したのか、指の動きがわずかに止まる。
「そんなに身構えることないだろ。まさか、恥ずかしがってるのか?」
開いたままのシャワーノズルが頭に湯をかぶせ続けていなければ、涙目になっていることを悟られたかもしれない。
「私はその……夜天みたいにないから……」
「ない?」
「胸が……」
「胸」
お互いの顔が見える位置関係ではなかったが、夜天はきょとんとしたに違いない。
「胸って。まだ気にしてたのか」
夜天の力が緩んだので、私は自由になった両腕を交差させて自分の胸を隠した。
そして、壁に身体を押し付けてできる限り小さくなろうとした。
できるなら壁になってしまいたかった。
夜天はそんな私を、ちょっと呆れたように見る。
「つまり、コンプレックスを持ち続けているわけか。千年もずっと? 気にしたって仕方ないって何度も言ってるだろ? 僕たちは成長しないんだから」
「……成長しないから悩んでるんですけど」
我ながら子供っぽい拗ね方だと思うけど、泣き顔を晒すよりはましだ。
「あればいいってものでもない。とにかく重いから肩が凝って仕方がないし、それに足元も見にくいし、身体の動きにも支障が――」
「持ってる人が持ってることの苦労を語っても、慰めになりませんけど」
はあ、という夜天の溜め息。聞こえよがしな。
「トウカはもっと自分の身体を誇るべきだ」
再び両手が伸びてきた。
一瞬の葛藤――払いのけるか、あるいは避けるか。
とにかく何らかの防御行動を取ろうとしたのは確かだが、相手の「~しようとした」瞬間の、その一瞬前を捉えるのは夜天の得意技だ。
あっという間(実際にあっと声が出た)に脇の下をすくわれ、しなやかな指の腹が、私の腕の下のふくらみを、的確に捉えた。
「トウカはこの身体のままで『ある』しかないんだ。それに恥じ入る部分があるのは単純に損失だ」
胸部への刺激に対処「しようとする」と、それを見越したように今度は首筋や腹に指が這わされ、絶妙に矛先を逸らされる。
そうして防御が緩むと、さらに各所へ触手のように指が伸びる。
翻弄される。
「少なくとも僕はトウカのこの身体が好きだ。このスレンダーなラインが綺麗だ。細い手足は人形みたいだし、この指は僕より器用だ。髪質も僕とは少し違う、さすがに少し荒れてるが手触りは悪くない――」
「や、やめて……」
人体の急所を知り尽くしている夜天にとって、目の前の人間を指だけで無力化することは容易い。銃やナイフがあって、何とか互角に持っていけるかどうかだ。
「うん、すごく手触りがいい。プルプルでシコシコ……いやはや、同性ながら不思議な手触りだ」
もはや性的なアクションであることを隠す気もないようだ。
払いのけることは諦め、何とか心を落ち着けて、説得を試みる。
「や、夜天……そんなに触ったって、な、何も感じませんよ」
「ん? 感じるって、何のこと?」
毒を含んだとぼけ方。
言葉を発する合間も、うごめく手を一切止めない。
「だから、私たちは……そういう感覚を失ってるから……」
私たちが不死になると同時に、理由もわからぬまま取り上げられたものがいくつかある。
性感、性的な感覚はそのひとつ。
いわゆる不感症というやつで、物理的刺激によって「いやらしい気持ち」になることはない。
「感覚は、確かにそうだ」
夜天は肯定しつつも、私の胸にかける圧力とベクトルを、絶えず変化させ続けている。
恐るべき手管、というやつ。
普通の女の子なら悶絶しているかもしれない。
たぶん。
いや、わからないけど。
「だが心理的な影響まで無くなったわけじゃない。もともとこういう行為は心でヤるもので、心と身体は常に繋がってるんだ」
「うう……」
「それに感じないと言ったって、触覚や温度感覚まで失われたわけじゃない。ましてや神経の集中してる場所だ、僕の指をちゃんと感じるだろう?」
指どころか、押し付けてくる身体の、肉の柔らかさまではっきりと感じる。
湯で濡れた皮膚が擦れ合い、熱で溶け合っていく感覚も。
変な気分になる。
「トウカ、いい顔だ」
耳朶に注がれる湿り気。
そして、夜天の意識と指先が別のところへ移動するのを察知し、私は声を張り上げた。
「夜天、そこはだめ!」
「そこってどこのこと? 何がだめ?」
「だ、だめだって――」
「大丈夫、力を抜いて」
「だめ……」
「さあ」
ぷちん、とどこかで音がした。
「やめろって言ってるだろこのバカッ!!」
二秒後、夜天の右こめかみに私の踵が叩きつけられていた。
タイルが砕ける音がした。
◆5
「――すみませんでした」
タイルの上に全裸で正座し、平謝りする夜天を、許すつもりは、これっぽっちもなかったけど。
「久しぶりで、ただ、トウカと仲良くしたかっただけなんだ。わかってる、わかってるんだ、僕は昔から何度もトウカに言われてる、距離感がおかしい時があるって。でも治らなくて。やりすぎだった。本当にごめん」
そんなふうに、しおらしい声でつらつらと謝りながら、きゅっと眉根を寄せて目を潤ませても、すぐには。
「久しぶりだからなんてのは、言い訳にならないよな。わかってるんだ。ああ、でも、僕はもっとトウカと親睦を深めたかったんだ、昔みたいにしたかったんだ。僕も風呂へ入りたかったのは本当で、それからはただ出来心で……。もういたずらしない、約束する」
うーん……。
「浴槽に湯を張っておいたんだ。ちょっと良いバスソルトも入れておいた。せっかくだから浸かっていってくれないか。お詫びも兼ねて僕に背中を、あ、いや、嫌だよな、そうだよな、あんないたずらのあとで僕ときたら図々しい。外で待ってるよ。一緒にいるのが嫌なら今夜は別のところにいる。ここは安全だ。それは保障する」
「はぁ」
私は盛大に溜め息を吐きだした。
びくり、と、夜天の肩が跳ねる。
「あ、そうだよな、罰が必要だよな。何でも言ってくれ。どんなことをしたらトウカの気が晴れるか、何でも言ってくれ」
私は言った。
「……じゃあ、背中を流してくれる?」
夜天の目が輝く。まるで子供のようだ。
「も、もちろんだ!」
「言っとくけど、まだちゃんと許したわけじゃないよ。勝手に変なところに触れたら、もう一生許さないから」
夜天は正座したままうなずいた。うんうんと何度も。
「約束する、トウカが嫌がることはしない。ただ背中を流すだけ」
私も甘いな、と溜め息を吐く。
「私も、やりすぎちゃってごめんね。頭、痛くない?」
「頭? ああ、問題ないよ。正しい防衛反応だ。勘が鈍ってないようでむしろ安心したよ」
夜天ほどではないが、私も素手で一対一なら大の男にも負けない程度の技を修めている。
寄る辺なき長い旅の中、自分で自分を守れる力を持つことは必須だったからだ。
もっとも私の技術は護身術の延長であって、夜天のような天性の武闘の才能はない。
さっきの回し蹴りにしたって、夜天が本気で避けようとしていたなら、避けられたのではないかと思う。
しかしもしわざと受けたのだとしたら、それは夜天が私の怒りを受け止めたということだから、私は気を鎮めることにする。
夜天とともにバスルームの真ん中のバスタブに浸かった。
白く濁った湯はシュシュワと細かな泡を立てており、良い香りのする紫の花弁が散らされていたので、私は苦笑してしまった。いったいどこから用意したのだろう。
二人で入るとあまりゆとりはなかったが、夜天は私の身体の位置にしっかり注意を払っていて、いたずらっ気を起こすまいと自制を強いているのが気配から伝わった。
不思議なことに、夜天のそういう気配だけは、私は昔からはっきり信頼して感じ取ることができた。
表面の演技ではなく、彼女が本当に自分の行動を反省し、自らの心を責めているということが。
問題は、それがあまり長い時間持続しないことなのだが、少なくとも今は反省している。
だから私は形ばかりの警戒を解かずにいながらも、白い湯の中で膝を抱え、背中を夜天に預けた。
たっぷり泡をつけたスポンジが軽く肩甲骨に当てられ、僧帽筋を労るように優しく円を描く。
「お湯、熱くないか」
「うん、大丈夫」
「力入れ過ぎてないかな」
「大丈夫だよ、続けて」
そんなぎこちない会話が途切れ途切れにあった他は、静かだった。
小さな泡が陶器の表面にくっついて、はたはたと潰れていく、その微かな音さえ聞こえるくらい。
「いったん流すよ。いい?」
「うん」
水音が二重、三重とバスルームに反響する。
世界に私たち二人しかいないみたいだ。
「……えっとさ、トウカ。もしよかったら髪のトリートメント、させてくれないか。背中を流すだけって言ったが、少し痛んでるように見えるから。もちろん嫌ならしないし、髪以外どこも触らない」
何だか、こっちのペースまで狂ってしまう。
夜天の美容技術については千年前から全幅の信頼を置いているので、私は二つ返事で承諾した。
大小いくつものボトルがサイドテーブルに用意され、処置が開始される。
根本から毛先まで、ぬるぬるとしたトリートメント液がまんべんなく塗りこまれていく。
頭皮に、お湯とは違う粘液の温度を感じる。
少しひやっとしたが、少しずつ体温に溶けていく。
夜天の指で優しく揉みこまれるのが、気持ちいい。
夜天の指つきはまるで不安定な化学物質でも扱っているかのように慎重だった。無理に髪を引っ張ったりしないよう、細心の注意を払っている。
シャワールームでいたずらしてきたのとはまるで別人のような――。
いや、こうした多面性もまた、夜天の魅力のひとつなのだろう。
私は目を細める。
このまま眠れてしまえそうな心地よさだった。
***
僕は人間として出遅れてるんだ、と、いつだったか夜天が語ったことがあった。
あれはまだ、北斗長里学園に籍を置いていた頃のこと。
夜天と「友達」として話すようになってからは、少し時が過ぎた頃のこと。
人間として出遅れてるってどういう意味、と私は尋ねたはずだ。
「おや。学級長殿なら事前に知らされているはずだと思ったんだが。僕の、ろくでもない両親のこと」
私が知らされているのは、あなたが複雑な家庭環境に育って、親元を離れて、養護施設で育ったということだけだ、と私が言うと。
「複雑、ね。事はまったく複雑じゃないよ。世の中のどこででも平然と行われていることだ。なのにトウカときたら、怠慢か?」
怠慢?
「いや違うか。トウカだけじゃなくこの学園のお嬢様がたにとっても教師連中にとっても、そもそも現実の出来事じゃなくて、『ふくざつ』という言葉によって思考停止するのが一番都合がいいってことなんだろう。そういう現実の形は僕もここで学んだよ」
夜天はそして、パックジュースのストローに時々口をつけながら、施設に入るまでの間に実の親にされたことについて、それから施設でも職員から受けた扱いについて、昨日の数学の小テストの結果について愚痴を零すみたいな調子で、ふわふわと語った。
ふわふわと?
いや、ふわふわとしていたのは、それを横で聞いていた私の心情だったのだろう。
私が彼女の口から聞かされたのは、彼女がした体験の、ほんの一部分に過ぎなかった。
それは確かに単純で、しかし複雑で、この世のどこでも行われている「あってはいけないこと」と私が一般知識として知っていることで。
しかし彼女の身には実際に起こったことで。
その二つの事象を埋めるための単純さが、私の中には一度も形作られたことがないのだった。
“虐待”――。
その二文字に私の思考が行きつくまでに、相当な時間を要した。
その二文字はしかし、私にとっては本当にただの文字で、そこから先の、夜天が実際にその身に受けた「何かしらの単純なもの」に思考を行き当てる術を、私は知らなかった。
「僕が人との距離感がうまく測れないことがあるのは、詰まるところそういう体験のせいらしい。ま、カウンセラーの受け売りだが。魂っていうのは、幼いうちにもうそれなりに“型”が出来てしまうものらしい。自分が知らないうちに自分の在り方が決められているってのは、なんか、気持ち悪いよな」
気持ち悪い?
そんなこと、私は考えたこともない。
いや、一度だけ、テストで八十八点を取ってしまった時……。
「だから僕は天使になることは諦めて、出遅れながらもいちおう人間としてやっていくことにしたわけ。実際にはまだ、その在り方みたいなものを探っている最中でさ。それには他人っていう、自分じゃない魂の形を持ってる存在でいろいろ試してみるのが手っ取り早い。それが、学級長殿にはトラブルに見えたりすることもあるようだが」
だからって、クラスメイトにあんなこと……。
「あんなこと? あんなことって、どんなこと? それはどのくらいトウカにとって単純で、あるいは複雑なことなんだろう。教えてくれ。知りたいんだ」
私は見てしまった。
昨日、人がはけた放課後の教室で、夜天が、同じクラスの、出席番号七番、十草小織に、髪を触らせているのを。
夕焼け色に染まる夜天の髪を、十草小織が、愛おしそうに撫ぜていた。
小織の頬、耳たぶは、夕焼け色と区別がつかないくらい、紅く染まっていた。
濡れたように光る夜天の髪のひと房をすくい上げ、顔を近づけ、匂いを嗅ぎ、音さえ聞こうとするかのように耳を寄せる小織。
明らかにそれは、女子同士の遊びとか、他愛ないふれあいとか、そういう域を超えていた。
秘密の儀式めいていて、他の誰かのいかなる精神的侵入も許さず、どこかしら神聖で、何らかの契約的行為のようでもあり――。
いや、その時私ははっきりこう感じたのだ。
性的だ、と。
これはここで行われるべきではない、禁じられた行為だ、と。
なのに夜天は、十草小織にそうされることを平然と受け入れていた。
受動体ではなくて、むしろ夜天の側が、その行為を通じて十草小織に動的な「承認」を与えていたと言うべきだろう。
十草小織は、私に見られているとも知らずに、そっと、夜天の髪に唇を近づけた。
触れたか、触れなかったか。
そこまでは私のいる角度からは見なかったし、それ以上は見ていられなかった。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、私は足音を殺してそこから立ち去った。
見たことと、そこで感じたことをそれとなく夜天に問うた結果、返ってきた答えが。
僕は人間として出遅れてるんだ、というものだったのだ。
しかし、私が本当に問題だと思ったのは、十草小織がどうという話じゃない。
十草小織以外の生徒にも、あるいは柴田先生など一部教師相手にも、夜天は同じようなことをさせていた。
つまり、身体や髪を触らせたり。肌のどこかに手や唇を触れさせることを許したり。
あるいは、話し相手になるとか、手を繋ぐとか、そういう他愛のない行為のように見えることでも。
相手の内なる欲望を叶えるための密約的行為の一部で。
それ以上のこともしていると、私は確信していた。
「トウカも、僕にああいうことをしたいのか?」
***
ドライヤーの熱風が、私の髪を乾かしている。
ドライヤーを持っていないほうの夜天の手が、ヘアブラシで私の髪を梳かしている。
それくらい自分でできると言ったのだけれど、夜天はこれはトリートメントの重要な工程だと譲らず、自分の身体もろくに拭かないまま、甲斐甲斐しく私の世話を焼いていた。
バスルームを出たのが数分前で、今はベッドルーム。
荒れっぱなしのダイニングとは違ってベッドルームはそこそこ片付いており、私が座っているベッドも清潔さが保たれている。
夜天のものだろうスーツケース、衣類、雪山用の装備などが壁際に並び、入り口のドアには建物のぼろさとは不釣り合いな厳重な内鍵が増設されている。
この家というより、この一室が夜天の拠点なのだろう、と私は察した。
半地下だからか、窓は頭より高い位置にあって、嵌め殺しだ。あくまでも採光のためだけにあるらしい。
オイルヒーターが稼働しており、部屋は暖かった。
「これでよし」
ドライヤーのスイッチが切られ、熱の余韻が空気にふわっと溶けていく。
「トウカもわかってると思うが、皮膚やキューティクルのような『表面』は、正確には自分であって自分でない領域なんだ。だからそれなりに痛む。もう少しケアを続けたら指通りもよくなると思うが……」
「そんなに気にしてくれなくても大丈夫。ありがとう、夜天」
「どういたしまして」
屈託なく笑う夜天は、自分はもう許されていると思っているようで。
実際、私はもうシャワー中のいたずらのことは許しかけていた。
夜天には敵わない。
「じゃあ、次が私が乾かすね」
と、私はドライヤーを受け取ろうとしたのだが、夜天はそれを遠ざけた。
「僕のことはいいんだ、自分でやる。それより、トウカに似合いそうな服を何着か出しといたから、適当に選んでくれ」
ベッドにはシャツ、セーター、ベスト、ゆったりとしたニットワンピースなどが並べられていた。
どれも夜天の私物だろう。
見た目にはすぐにわからないが、どれも上質な素材だ。
「ショーツは洗ったものがあるからそれで我慢してもらうことになるが、ブラは合うサイズがないから――あ! いや、今のは揶揄したわけじゃない!」
言いかけて早口で弁解する夜天に、私は吹き出しそうになる。
「私がいつ見つかるかもわからなかったのに、私に合うサイズの下着をいつも持ち歩いてたら、むしろそっちのほうが問題だよ。ノーブラでいいし、服だってもっと適当なものでいいのに……」
「生者のいないところでも生者のように、だろ? トウカくらいの外見年齢でブラをしてないのは怪しまれる。この街にはろくな店がないが、早いうちにどこかで揃えよう」
ブラをしているかどうか誰かに知られる状況に、まずならないと私は思うのだが、そういう心持ちからして「生者のように」であるので、私を反論を控えた。
「そうだね。あの子……ティムのこともあるし」
「トウカ。一応言っとくが、ティムに手出しするなよ」
「え? どういう意味?」
「トウカはあんまり男に免疫がないからな」
「だから、どういう意味? 私があの子に何かするとでも……」
「しないならいいんだが」
「しないよ。まだ子供でしょう」
いまいち会話が噛み合っていない感じがしたが、夜天は納得した様子で自分の髪をブローしはじめたので、私もその間に着替えを済ませた。
私と夜天は身長そのものはかなり近く、お互いラインも細いほうなので、あまりぴったりしたサイズでなければ服を融通できる。
バストだけは、どうしようもないが。
紺色のニットワンピースは部屋着としてはちょっと派手な感じがしたが、着心地は悪くなかった。
私が最低限の身づくろいを終えても、夜天はまだバスタオルを巻いただけの格好で髪をブローしていた。
とても長いので、乾かすのに小一時間かかるのも昔から同じ。
「……?」
と、彼女の左肩に小さな傷があるのが目に入った。
鋭いもので一直線に割いたかのような。
出血はなく、治りかけのようではあるが――いつからあったのか、気が付かなかった。
「その肩の傷、どうしたの?」
「え? ああ……」
夜天は言われて初めてそれに気づいたという顔をした。
「どこかで引っかけたかな。心配ないよ、わかってるだろ?」
不死者は傷を負ってもすぐに元通りになる。
すぐに。
ということは、さっき私が蹴り飛ばした時に、タイルの破片か何かで?
いや、それだとさすがにもう少し傷跡が新しいはずだが。
「さて、もう夜だ。今日は休まないか。さすがに少しは疲れてるだろ?」
「あ、そうか、夜……」
人工的な明かりのある閉鎖空間で過ごすのが二百年ぶりなので、時間感覚が完全に意識から外れていた。
時計――幽霊の時計ではなく生者の時計で言うなら、今は二十一時近かった。
三日三晩歩き通してサイルインに入ったのが日暮れ頃だったことになる。
まだ歩けと言われれば問題なく歩けるが、生者の領域では不用意に出歩かないほうがいい場合もある。この極寒の夜に外をうろつく生者はいないので、もし誰かに見られれば不審がられるのは必至だ。
疲労については、その気になればどこかへやってしまえるが、所詮は気力の話なので、肉体にいささかの疲労が蓄積しているのも確かだった。
「トウカにはこのベッドを使ってもらうとして、僕はそうだな、床でいいか」
「え? それは悪いよ。私はどこでも休めるから……」
「わざわざ外国から尋ねてきてくれた友達って設定なんだ。ベッドを譲らないなんてできるわけないだろ。他にベッドはないんだから仕方ない」
「じゃ、じゃあ……」
私がある提案をすると、夜天はきょとんとして私を見返した。
――半時間後。
ランタンの明かりだけがある部屋で、私と夜天はひとつのベッドに並んで横たわっていた。
一枚の毛布を分け合い、同じ天井を見上げている。
「二人だとさすがに狭いな」
私も思ったことを夜天が呟いた。
シングルベッドなので、二人分の身体を入れるのもぎりぎりだ。一方の肩は縁からはみ出しかけており、もう一方は夜天の肩の体温を感じられる近さだ。
「ご、ごめんね窮屈で」
提案したのは私なので、申し訳なさから謝る。
「いや、僕はいいんだが、トウカが窮屈じゃないかと」
「私はどこでもいいし、夜天が嫌じゃないなら……」
お互いに自分より相手を心配していることがわかり、同時にくすくすと笑った。
携帯用ランタンの暖かい光が、部屋を洞窟の中のようにぼんやりと照らしている。
「この二百年」
夜天が口を開いた。
「一度くらい眠れたか?」
私は質問の意味を少し考えてから答えた。
「ううん。そのへんは相変わらず曖昧で……。夜天は?」
「うん。僕も相変わらずさ」
不死となって私たちが失ったもののひとつ――「睡眠」。
限り無く眠りに近い状態になることはできる。
動かず、目を閉じて、できるだけ何も考えず、ひたすら意識を閉じていくようにイメージする。
長時間そのままでいる。
そうすれば、脳波は睡眠時と同じパターンを示す。
しかし、それが眠りなのかどうか、私たちにはわからない。
私たちの意識はどんな時も細く薄くだがそこにあり続け、完全に見当識を失いきるということができない。
「何も感じない、感じにくい」時間がしばらく続くことは確かだが、その持続はきわめて不安定であり、意思、あるいはわずかな刺激によってすぐに覚醒状態に移行できるし、何より、「目覚める」という体験が存在しない。
ああよく寝たと、ベッドの上で腕を伸ばす、そういう朝を体験しない。
ずっと朝、ずっと夜、ずっと同じ時間が続いているような感覚から、私たちは脱却しない。
その気になれば睡眠状態の脳波を維持したまま、会話したり、軽作業をこなしたりもできるので、もはや生者基準で睡眠を語ることも適当ではない。
ある研究者は言った。
君たちはいつでも眠っていると言えるし、いつでも起きているとも言える状態にあるのだ、と。
つまりは、とても曖昧なのだ。
確かなのは、その気になれば不眠不休で活動し続けることができ、反対に「寝よう」と最大限努力しても不完全な睡眠しか得られないのが不死者だということ。
事実、最初は眠れなくなったという訴えから医療機関を受診し、不死者であることが発覚することが多いらしい。
私もそうだったし、夜天もそうだった。
最後に「目覚めた」のは、もう千年前のことになる。
それからずっと起き続けているようでもあるし。
ずっと夢を見続けているようでもある。
今このときも。
「トウカ」
再び夜天が口を開いた。
毛布の下で彼女の手がかすかに動く気配がした。
「手を握ってもいいか?」
「……どうして?」
「闇に乗じてどこかへ行かれると、困る」
どこへも行かないよ。
すぐそう答えることもできた。
でも、自分でも自信がなかった。
どこへも行かないと約束したとして、その言葉に重みをもたせられるかどうか。
自分自身がその言葉に納得できるかどうか。
だから私は言葉の代わりに、自分から夜天の手を握った。
夜天が私の手をゆっくり握り返した。
「変なことしないよね?」
一応釘を刺す私。
「しない。さっき誓ったばかりだ」
夜天は真面目くさって答えた。
「トウカが望むならいつでも応じるが」
と思ったら、すぐにふざける。
「間に合ってます」
丁重にお断りした。
そうか、という乾いた笑いが隣から聴こえた。
「明かりを消していいか?」
「うん」
ランタンの明かりが落とされ、暗闇が目の前を満たした。
すぐ隣にあるはずの夜天の顔もはっきりとは見えないほど。
それからしばらく、言葉はなかった。
遠くで吹雪の音がした。
ボイラーの断続的な稼働音がそこに混じる。
それらの音は、幽霊山脈で幾度となく聞いた「卵の中の音」に不思議なほど似ていた。
しかし、今の私は殻の外側と明確に繋がっている。
夜天の手を通して。
「夜天」
今度は私が口を開いた。
「何だ?」
唇の動く気配だけがあった。
「……ううん。何でもない」
本当はこう訊こうとしたのだ。
私がいない日々、夜天は寂しかったかと。
私がもしずっと見つからないとしたら、夜天はどうしていたかと。
でも、どんな回答をもらえたら自分は満足できるのか、わからないまま質問を投げ掛けるのは私の主義に反していた。
それに、本当に聞かなければならないことが他にあることもわかっていた。
結婚の話。
誰と結婚するのか。
なぜ結婚するのか。
私がそれについて、どう思うと思っているのか。
でも、夜は眠るものだ。
明日に回せる問題は、明日の自分に何とかしてもらおう。
生者が皆、そうしているように。
私たちも未来に幾ばくかの価値を付託しつつ、今日という日を終えるのだ。
「おやすみ、夜天」
「おやすみ、トウカ」