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A CROWN -クラウン-  作者: キズネコ
第一部:再会と出会い
1/7

01:ゴーストクロック、199年の空白〔3012〕

 凍りついた山嶺に、孤独に時を刻み続ける少女がいた。

 時は、彼女を世界から置き去りにするが、

 その一方で、新たな世界を彼女にもたらそうともする。

 美しき真紅の星が今、彼女に近づきつつあった。


 ◆1


 幽霊山脈ゴーストクロック

 かつて西北ユーラシアの極地でひっそりと暮らしていた滅びかけの遊牧民が、二百キロ先からでも望むことができるこの大いなる銀嶺ぎんれいを指して、そう呼んだ。

 約四億年前、古生代、プレートテクトニクスにより造山されたこの峻厳しゅんげんな連峰が、人間の命の長さに比すれば永久と表現してよい時間を、ほとんど姿を変えぬまま、無言で刻み続けていることがその名の由来。

 世界の果てに佇み、いつどこにいても遠くから自分たちを見ている、そしてそれ以外のすべてをしない空の巨人たちが、放浪の民にとってもはや実体の域を超えて、幽玄あらたかな概念と化していたのだ。

 地図に載っている名は、当然、別にあるはずだ。

 山系を構成するひとつひとつの山にも、権威ある学者の発案や、秩序だった何らかの法則により「名付け」られて、どこかの地図に記載されているだろう。

 しかし、そうした世俗の「名」に、私はまるで興味がなかった。

 なぜなら地図なんてものは、すぐに変わってしまうから。

 いつどこで誰によって書かれた地図でも構わない、ある地点の図を年代順に並び変えて、順番に見ていくところを想像してみてほしい。

 十年、二十年ならさほど大きな変化はないかもしれない。

 だが百年、二百年ならどうだろう?

 千年、二千年なら?

 それ以上なら?

 今、自分がいる場所、土地や街や国家が、百年前や千年前はどんな場所で、何と呼ばれていたか、正確に知ることができて、その風景までもがもし断片であっても知ることができて、当時の姿を脳裏に思い浮かべられるとしたら、それは幸せなことだ。

 大まかな自然地形、国家、都市、文化や歴史に因んだ名称は、どの時代の地図にもある程度は引き継がれているはずだ、と、反論があるかもしれない。

 その通り、そうであれば良かったのにという思いを、私は禁じ得ない。

 いかんせんここ数世紀の人類は、地図を書き換える仕事をしすぎた。

 世界中で土が掘り返され、山が切り崩され、都市が更地と化し、国境線も海岸線が幾度も引き直され、何もかもが数え切れないほど変わった。

 数えきれないほどの人類の遺産、文化的・歴史的シンボル、国家、民族、そしてそれらに付随する「名」が、人類自身の手によって不可逆的に失われた。

 「名」が示していることによって存続していた物や概念も、それを覚えている人間が死に絶えていくうちに、風雨の侵食を受けて砂に変わっていく遺跡のように、ゆっくりと消えていった。

 地図に書かれている「名」は、常に過去のもの。

 もし今、その場所に行ったとしても、その「名」が指し示す物や概念は、その当時そこにあったものとは少しずつ異なるか、もう現存していない。

 あの遊牧民たち、彼らの「名」も、私の記憶の片隅以外、もうどこにも存在しなくなって久しい。

 有形なものも、無形なものも、区別なく興亡を繰り返す混濁した世界に。

 私は少々、疲れてしまい。

 確かなものなど、もう何もないかのように思われて。

 古代から世界の隅でただ時を刻む、それ以外のことを何もしていない、これからもしないだろう、永遠そのもの、無言の巨人の如き氷の翠巒すいらんに、私は惹かれ、居つくことにした。

 悪く言えば、世俗をいとって、引きもることにした。


 西暦三〇一二年、冬。

 

 私が最後に「人間」と接触してから、一九九年が経っていた。


 ◆2


 平均標高約六〇〇〇メートル。

 どこまで行っても岩と雪と氷と空しかない幽霊山脈ゴーストクロックの峰々は、一年を通して氷点を上回ることがなく、すべてが凍り付いている。

 時折吹き抜ける風も、冷凍されたガラスの断面を押し付けられるかの如く鋭く、重たい。

 地形は峻厳。垂直に切り立った崖が視界の届く限り続く光景は、険しいと言うよりはもはや荘厳と表現するべきで、さながら世界の果てに立ち並ぶ壁を思わせる。

 生物の生存は不可能。

 微生物ですらこの極限環境では活動できない。

 ここを登頂しようとした野心家も、過去にはいただろうか。

 私は寡聞かぶんにしてその「名」を知らないが、いた可能性はある。

 この奥深い氷嶺の、その玄関の、敷居の手前くらいまでであれば、何とか到達可能かもしれない。

 その時点で間違いなく凍傷で四肢もしくは生命を失うか、帰りの切符を持っていないことを悔やみながら人知れず氷原に骨をうずめることになるだろうけど。

 「アネクメーネ」。

 人間の居住や継続的活動が不可能な地域のことをそう呼ぶ。

 かつては宇宙にさえ進出したことのある人類が、まだ一度たりとも足跡を残していない場所――幽霊山脈ゴーストクロック

 私がいるのはそういう場所。

 ここには何もない。ただ時間の流れるだけの、くう

 四億年もの間ここに佇み続ける静かなる幽霊の体内奥深くに私は入り、虚空の肉体を持つ巨人の新しい細胞となって、一九九年、ただ時を刻んだ。

 そして、それ以外のことはほとんど何もしなかった。

 酸素は恐ろしく薄かったけども、呼吸など、その気になれば止めてしまうことができた。

 年の半分はついに世界の終わりが訪れたかと思うほどの激しいブリザードが吹き荒れて、すべてを引き裂こうとするが、私を引き裂くことはできない。

 ただ、そういう日に身動きするのはさすがに困難なので、ただ膝を抱えて、雷鳴にも似た風の音にだけ耳を澄ませた。

 そうしていると、この世界は巨大な卵の内側で、誰かが殻の外から合図を送っているような気がした。ドンドン、ドンドン、危急の用事でドアを叩くように。親鳥が、早く出て来いと雛鳥を急かすように。

 しかし、いつも気のせいだった。

 ブリザードがやむと、何メートルも雪に埋まっていることもあったが、冷たさは感じなかった。しかし、雪から這い出すのが思いのほか面倒なので、ブリザードの日に膝を抱えるのは、できるだけ大きな岩陰にした。

 そして、ブリザードの狭間によく晴れた日が訪れると、私は裸に黒いアラミドのローブ一枚をまとった姿で、空と空ではない場所の境界、透き通った白い世界を、ふらふらと彷徨い歩いた。

 峰からまた峰へと。

 巨人たちの肩を渡る。

 これという目的があるわけでもなく。

 ただ連続的に存在するだけの、空構を。

 二世紀以上も過酷な環境に耐え続けてきたローブは、繊維がボロボロで、かろうじてひと繋ぎになっているだけの布切れと表現すべき有様だが、これだけの歳月を経てもなおまだ形を保てているところに元々の頑強さが現れている。

 銃弾にも耐え得るようにと作らせたものだが、私の身体よりは脆い。

 次の一世紀のあいだには、きっと幽霊の中に溶けてなくなるだろう。

 見る人間がいるわけでもなし、素っ裸でも構わないはずなのだけど、ぼろぼろの布一枚でも自分を護るものがあるというほのかな安心感が、それをまとわせた。

 人間としての記憶、あるいはまだ人間でありたいという願望がそうさせているのだろうかと時々考えた。

 時々、食事の本能が蘇って、たわむれにそこらの雪や氷粒を口に含むこともあった。

 しかし、何の味もしなかった。

 手ごろな岩穴を見つけ、そこでブリザードを凌いでいる時、住居のような安らぎを感じることもあった。しかし一度そこを出たら、同じ場所に戻ってくることはなかった。

 雪庇せっぴを踏み抜いたり、単純に足を踏み外したりして、何度か滑落した経験がある。

 一番酷いときは、鋭い斜面をあちこち岩肌に身体をぶつけながら千メートル以上滑り落ちたことがあった。

 さすがに多少の痛みはあった。

 それでも死にはしなかった。

 ただ、同じ高さへ、重力に逆らってもう一度登るのが途方もなく大変だったので、足元には気を付けるようにした。

 そんな、生活とも呼べない極限の空白を、一九九年に渡り、私は続けている。

 

 “なぜ?”

 

 という問いが、時折、虚空からやってきた。

 いつ頃から聴こえていたのかは覚えていない。

 いずれにせよそれは根源の問いかけだった。

 なぜ私はここにいるのか?

 なぜ私はここにあるのか?

 なぜ私は私であり、他の何かではないのか?

 なぜ当て所なく幽霊の中を彷徨うのか?

 なぜ同じ場所でじっとしていないのか?

 なぜまだ、存在しようとしているのか?

 ほとんどの場合、私にそれに答える言葉を持たなかった。

 思考というものは常に対象を必要とするが、ここには対象に取れるものがほとんどない。

 時計の秒針がただコチ、コチと進んでいく動作のことを思考と呼んでも構わないならば、私の思考もたぶんそれと大差なくなっていた。

 時計に向かって「お前の針はなぜ動いているのか」と問いかける者などいないように、「なぜ?」と問いかけてくる声も、じきに聞こえなくなるのだろう。

 よく晴れた夜、季節によっては、破裂したアンドロメダ銀河の残骸がはっきり見えることがあった。

 天球面に張り付いた蛍光色の蜘蛛の巣と、砕けた反射材のような粒子の散らばりを、しかし私はかつてのように美しいとは感じない。そこに何らかの意味を感ずることも、もうない。

 そこらの雪や岩がそうであるように、肌や、髪や、網膜で、七色の光を受けているだけだった。

 昼と夜の境界線が、何千回、何万回と、私の内部を通過していった。

 何日も太陽が見えなくとも、今が何年何月何日の何時か、私はいつでも正確に当てられる自信があった。

 ここには「時間」しかないのだから、簡単だった。

 人間がどれだけ地図を書き換えようとも、地球が自転を続ける限り、時間だけは正確に己の日付変更線を引き続ける。

 すべてのものに平等な、不変の国境線。

 それだけが、この世界で絶対的に変わることのない、私が唯一信頼している地図。

 じっとしていよう。

 何もしないでいよう。

 そうしていれば、私はいずれこの地図そのものになる。

 幽霊山脈ゴーストクロックそのものに。

 いや既に、なっているのかもしれない。

 もう誰も、私の存在を認識することはできないし、私もまた、もう何も認識できなくなっているのかもしれない――。

 何度かそんな思考が頭に浮かんだ。

 つまり、そう思考する私と、その対象たる私はここにあって。

 つまり、依然として、私はまだ存在していた。

 ブリザードが去ったかどうか、岩陰からそっと空の様子を窺う私も。

 膝を抱えていた腕をほどき、立ち上がって、片手でアラミドのローブを押さえ、よろめきながらも新たな雪原へ歩みだす私も、やはり存在している。

 いったい何をしようとしているのか――。

 何のために、冷たい心臓が、冷たい指先に、冷たい血を流すのか。

 何のために、凍った目は、凍った虚空に、凍った焦点を結んでいるのか。

 きっと探しものをしているんだ、と、私の中の時計が囁いた。

 何を?

 それはわからない。

 きっと、遠い昔に失われてしまったものだ。

 それの「名」を覚えている者ももういない。

 名前がわからないので、探しても見つかるはずもない。

 しかし、喪失感だけは消えないので、そしてその喪失を味わったのが他ならぬ私自身なので、私はそれを探すことをやめられない。

 きっと、そう。

 探しているのは私自身の「名」なのかもしれない。

 新たなブリザードの気配がし、気配は瞬くうちに具象を成す。世界は攪拌され、大きな卵の中に封じ込められた。

 私は近場の岩陰に退避して、夜より暗い闇の中で身体を丸める。

 その度に希薄な意識で思うのだ。

 もう二度とブリザードが止まなくてもいいと。

 もう私は私として存在し続けなくてもいいと。

 再び意識を持つことなく、物言わぬ岩になっていればいいと。

 しかし、殻の外側からドンドンと扉を叩くような音は聞こえ続けた。

 ブリザードはひと月近く続くことはあっても、いずれは止んだ。

 そして私は、そうしなければならない理由は何一つないはずなのだが、新しい雪原に足跡を残すため、立ち上がるのだった。

 意識は極限まで希薄化し、思考と呼べる思考はほとんど喚起されなかった。

 しかしそれでもなお、私は存在していた。

 一九九年と三三五日間、ここで存在していた。

 

 ◆3

 

 一九九年と三三六日目のことだった。

 十日あまり続いたブリザードが止み、時が止まったように凪いだ空の下を、私はふらふらと歩いていた。

 動くものは私の身体ひとつだけ。

 あたりは雪の粒ひとつ舞っていなかった。

 何も聞こえない。

 空は青かったのかもしれないが、そういうことを感じなくなってからもう長かった。

 最近では、昼と夜の明るさの違いもよくわからない。その最近というのがいつなのかも、あまり関心が無くなっていた。

 物の輪郭もあやふや、というか、輪郭を認識する必要性もないような気がしていた。

 どこからが空で、どこからが空でないかなんて、今の私には重要なことじゃない――。

 気付くと、足が止まっていた。

 もう何も見つからないのだ、と漠然と感じた。

 静寂が言った、お前の探しているものも、お前が探していなかったものも、お前がこれまで見つけてきたものも、もう永久に見つからないのだと。

 静寂と私とを区別するものは、もう何もなさそうだった。

 では、目を閉じて、ここに倒れて、何も考えず、永遠に雪に埋もれてしまおうか、と、考えるのではなく、ただそう感じた。

 いっそ、そうしてしまおうとした、その時だった。

 閉ざしかけた視界の隅に、忽然と――真紅の星が出現した。


 無音の衝撃が、

 私を襲った。

 一九九年間規則正しく動いていた幽霊山脈ゴーストクロックが、ギクリと異常な震えを起こし、歯車機構がギシリと歪んだ、そんな瞬間だった。

 「瞬間」というものそれ自体を、私はずいぶん久しぶりに感覚した。

 その瞬間、私の周囲のすべてのものに色彩と輪郭が描き込まれ、地吹雪が音をを伴ってそばを吹き抜け、その中心に立つ私の存在を否応なく浮かび上がらせた。

 透明な青が、頭の上に果てしなく広がっていた。

 透明な空に支えられている地表も、同じくらい透明で、澄んだ白で充たされていた。

 世界に他の色はないと思わせるほど純度の高い眺め――なのに。

 突如現れた真紅の一点は、恐るべき温度をもって私の網膜に焼き付いた。

 胸を撃ち抜かれた思いがした。

 それは過去、八十メートル先から小銃ライフルで身体を撃ち抜かれた時に視界に広がった色と、よく似ていた。

 そのとき私は、はっきり射手と目が合っていた。

 その敵意、そして私に向けられた長筒の目ガン・アイとも。

 空間の一点にぽっ、と赤いさそりの火が灯ったかと思うと、すべての音と景色が遠ざかり、叩かれるような衝撃と熱が胸を刳り貫いた。

 恐懼きょうくは、その瞬間よりはるかに遅れて到来したが、その代わり長く長く、身体に残り続けた。

 今、私は、自分でも意識しないうちに、胸骨を手のひらで押さえていた。

 あのときとは違い、眼下に出現した真紅の星は、しばらくその場から動かなかった。

 しかし、それは生きている星だった。

 今にも白い景色に溶けてしまいそうな極小の一点なのに、自分は世界に呑まれるような小さなものではないと誇示するように、虚空にひときわ真紅を瞬かせた。

 そして、虚空の中で静かなる運行を開始する。

 まさか、と私は思った。

 高低差を含め千メートル近い距離がある――見えているはずがない。

 ここにいる私が、見えているはずがない。

 しかし、その星は、私から遅れることなく、あるいは私よりも前に私の姿を見つけていたとでもいうような、明瞭に意思ある動きで、最適かつ最短の経路で私に接近しつつあった。

 彼女(・・)は、あの時、七・七六ミリ徹甲弾がそうしたように、私の胸に向かって、その深層にある柔らかいものに向かって、その間のあらゆる障害を取り払いながら最短ルートで進むためにはどうしたらよいか、微かに思案はしつつも、常に動き続けていた。

 この物言わぬ虚空の巨人の深部構造を、根雪ねゆきに覆われて見通すことのできない険峻な地形を、私でさえ完璧には把握しきれていない複雑な登攀とうはんのルートを、そして細かな雪の舞う複雑な気流の動きさえもを、彼女は数秒から数十秒の観察で看取かんしゅしたようだった。

 彼女の知性と観察眼ならば、それは造作もないことだったのかもしれない。

 そこからの軌跡は、あたかも重力によって軌道が決まっている星の運行のように一切の迷いが見られなかった。

 ゆっくりと、だが着実に、真紅の星が登ってくる。

 私のもとへ。

 そこは危ないとか、そっちが歩きやすいとか、私は何度か、反射的に声を上げそうになった。

 彼女はあたかも出してもいない私の声が聴こえているように、その通りの道筋を、いや、私の見立てよりも遥かに理想的なルートを選び続けた。

 私は、一度も彼女から目を離さないまま――迷っていた。

 ここから動き出すべきかどうかを。

 自分からも彼女に近づいていくべきか。

 それとも反対方向へ逃げ出すべきか。

 ふたつの気持ちが前と後ろに同時に引きあって、ちょうど力が釣り合っているみたいに、結局私は、今立っている場所から一歩も動き出すことができなかった。

 

(ほらまたそうやって。何もわからない馬鹿な子供の振りをする)


 彼女の声が、聴こえた気がした。

 頬が少し引き攣るのを感じた。

 その姿が、やがて真紅のコートを着た人型のシルエットだとわかるようになるまで二時間、そこから私と同じ高さに来るまでさらに三時間を要したが、私がここにいた歳月からすれば、それは弾丸が飛来するような、一瞬の経過と言って良かった。

 空と空でない場所のちょうど中間あたり。

 透明な場所で、私たちは再会した。



「久しぶり、冬花トウカ


 どこかで硝子の風鈴が鳴った気がした。

 いつも、彼女が話し始める時は、そうだった。

 声音ひとつで、夏の涼やかな風と、手の甲に触れる光の温かみまでもが想起される。対面する人間の意識を捉え、柔らかく包み込むような、美しく響く優しい声。

 凍って霜がついたゴーグルが持ち上げられると、大きく見開かれたふたつの目が現れた。

 世界を観照かんしょうし、管掌かんしょうし、時に干渉さえする力強いまなざし。その焦点が交わるところに、他人の嘘は存在できない。代わりに、嘘を含むあらゆるものが、そこに現出させられる。どんなに暗い影さえも。

 そういう目を、彼女は生まれ持って生まれた。

 

 夜天やてん


 と、私は彼女の名を呼んだ。

 呼んだつもりだった。

 凍って渇き切った喉がいきなり言葉を紡げるはずもなく、実際には、虚空と同質の薄い空気が、短く吐き出されただけだった。

 それは私の胸をひどく痛ませた。物理的な意味で。

 凍った呼吸器をむりやり収縮させ、喉を切り裂くように冷たい外気を取り込んで、百年以上ぶりにいきなり機能させようとしたのだから、当然と言えば当然だ。

 そんな当たり前のことまで、私は忘れていた。

 不意に息を止められる苦しさ。そして、冷たい血と空気を急激に流し込まれた臓器たちが連鎖的にその衝撃に打ち震え、私の身体は一時的にショック状態に陥った。

 馬鹿みたいだ、と私は自分を客観視しながら思った。

 長いこと一言も発していなかったのだから仕方ないといえば仕方ないのだが、その事実と、みっともなく虚空をかきむしりながら倒れ伏す姿を親友に見られてしまうというのは、いかにも格好がつかなかった。

 夜天は、そこで最良の行動を取った。

 ゆるやかでさえある足運びで近づいてきた彼女は、私の胸に飛び込むようにして、アラミドの外衣ごと上体を支えながら、美しく制御された動きで一緒に雪原に倒れこんだ。


「呼吸はゆっくり。大丈夫。心配はいらない」


 耳元で優しい声が言った。弦楽器の余韻のような響きが耳小骨を伝っていった。

 いつかどこかでまったく同じ状況があったような気がする、と、脳がおぼろげな記憶に血を通わせると、それもやはり、七・七六ミリ弾が肋骨の間を突き抜けて、汚れた土に倒れた時のことだった。

 あの時と違って、血は流れていないけれど。

 代わりに、氷原に寝転がって私を両腕でしっかり抱きすくめる夜天の身体から、真紅のコート越しのはずなのに、血のぬくもりを感じた気がした。

 これはたぶん、物理的にではなく、精神的なもの。

 生きようと思えば、必要だと思えば、そう思うだけで、私たちの身体には血が通い、脳内物質が分泌され、そう思ったように動き始める。

 長いこと「凍って」いると、再起動いきかえるのに少し時間がかかるというだけで。

 私たちは――死なない。

 指示された通りゆっくりと呼吸をしながら、その合間、夜天、と、私は何度も発音を試みた。

 それが言葉になって彼女に届いたと確信できるまで。


 ***


 夜野田よのだ天使えんじぇる、というのが、彼女が親からもらった名前だった。

 しかしながら、彼女の母親も父親も、少なくとも天使のようには娘を愛さなかったらしい。

 だから彼女は、天使になることは早々に(本人が言うには、九歳になる頃には)諦めたが、親を愛してはいた。

 だから父と母が法律上の親でなくなったあとも、与えられた名前のすべてを捨てることまではしなかった。

 苗字と名前から一文字ずつ取って、夜天。

 高校時代――それはつまり今から千年ほど前のこと――クラスのみんなが彼女が望む通りにその名前で彼女を呼んでいた。

 その名が、夜天と、夜天の周りにいた人間たちの、一種の絆を作っていた。

 美しき連帯と、承認の儀式。

 みんな夜天に承認されて、夜天を承認し返し、それによって、日々生きていけるぶんのささやかな希望と幸福を得ていた――私を含めて。

 天使になることは諦めた、と本人は言ったが。

 少なくとも私にとって、彼女はまさしく、神話的な夜の空から地上に降りてきた、羽のない天使そのものだった。


「夜天――」


 その美しい名の響きが、アルコールのように喉に沁みて、心地よい感覚が胸にひろがった。

 思い出す。放課後の教室にみちる、どこか酸味混じりの、息苦しいほど熱い空気を。

 夕焼けの色に染まったガラスとアルミサッシと、柔らかく風になびくカーテンを。

 ワックスをかけたばかりの床に、柔らかい輪郭の影がふたつ。

 ひとつが夜天。そしてもうひとつが、私。

 あれは、千年も前のことなのに。

 私はまだ、忘れていない。


 ***


「落ち着いたか?」


 私の身体はしばらく夜天の腕の中にあったが、やがて彼女は身体を起こして、私の顔を上から覗き込む格好になった。

 太陽の光を遮って、そこだけ秘密の静寂しじまを作り出しているかのような、豊かな長い髪。

 それをかき上げる、白魚のような細く長い指。

 そして、過去から未来まで、世界のあらゆる瞬間を余さず写し取ることができる万能なカメラのレンズのような、恐るべき瞳。

 ひきしまったフェイスラインと大人びた目鼻立ちとは裏腹に、私を見つめる表情は、年相応の少女の微笑みとしてほころびつつあった。

 そのすべてが夢のいろどりを帯びていて。

 私はまだ、これが現実の出来事だと完全には信じ切れないほどだった。

 

「トウカ? おい。大丈夫か?」


 しかし、夢だとしても、鼻先が触れ合わんばかりに顔を寄せられると、反応しないわけにもいかず。


「うん、だいじょうぶ……」


 自分の声が、まだかなり遠くに聴こえたが。


「そう。良かった」


 会話が成立している以上、どうやらこれは現実の出来事だと認める他なさそうだった。


「――立てるか?」


 私は、差し出された手を握り、ゆっくりと、各部の関節を気遣いながら立ち上がった。

 最低限の血と温度と感覚だけで立っていたさきほどまでとは異なる、一九九年ぶりの、生者せいじゃとしての挙措きょそ

 全身からバラバラと落ちていく雪の破片を感じた。骨が軋んで、全身が痛むような感じがした。鼻腔や素肌に冬の冷たさを感じた。舌に空気の味を感じた。光が刺すように眩しく感じられたが、夜天の顔を見ていたくて、目蓋は開いたままでいた。

 一番強く感じていたのは、握った夜天の手の感触と、私がちゃんと立ち上がるまで、彼女がそれを絶対離さないという信頼だった。


「あ」


 うまく立ち上がれず、バランスを崩す私。


「おっと」


 夜天はそれを予期していたように、信頼を裏切らず、正面から私を抱きとめた。

 分厚いコート越しでもわかる豊満な胸が、ひととき、世界一柔らかいクッションとなって私の顔を包んだ。

 ごめん、と言って離れようとするより先に、夜天は私の腰と肩と背中を流れるような動作で支えてそっと自立させた。

 夜天は人体構造に関する並外れた知識と感覚があった。その気になれば、片手で大の大人を組み伏せることもできる。


「その様子じゃ、長いこと動いてなかったみたいだ。あー、髪もボサボサじゃないか」


 夜天の手が伸ばされ、古い機械の状態を確かめるように私の頭や顔や肩に触れながら、各所についた雪を払った。

 私はボロボロのアラミドローブの前を何とか寄り合わせてかろうじて裸を隠した格好で、そうされるのを黙って受け入れた。緊張しながらも人に撫でられることを許す、野生の猫みたいな気分だった。

 顔が熱くなるのを感じた。顔面の血管がようやく脈動を思い出したようだ。

 バランスを崩さず自立できるという確信が生まれてから、私はようやくちゃんと夜天と向き合う。

 金のダブルボタンが輝く真紅のコート。エナメルに似た質感だが、未知の素材だ。

 靴はどうやって着脱するのかもわからない、いくつもベルトがついた金属質の厚靴で、底にアイゼンがついている。

 近くに放り出されているピッケルとストックは、さっきまで手に持っていたもの。

 頭にはニット帽。ゴーグル。

 一応は雪山を登る格好ではあったものの、六〇〇〇メートル級の山に挑むにしては軽装どころの話ではなく、並の人間なら自殺も同然だった。

 バックパックの類すら携行していないようで、ほぼ手ぶら。

 それは夜天も私と同様、生存に何も必要としない存在だからだろう。


「あー。さすがに疲れた」


 夜天はニット帽をゴーグルごとうざったそうにはぎとって、そこらに投げ棄て、軽く頭を振った。

 そうすると、黒い髪が、まるで水が流れるみたいに、その向こうの雪景色を透かした。恐ろしく繊細な髪。私は無意識に目でその流れを追ってしまう。


「ずいぶん探した。最後に会ってから、二百年くらいか?」


 私は正確な日数を言うこともできたけれど、それにさしたる意味がないことはわかっていたので、答える代わりに尋ねた。


「探したって、私を?」


「当然じゃないか。他に誰がいる?」


「でも……どうしてここが?」


 約二百年前に夜天と別れてから、私は何の手掛かりも残さずここに来たはずだった。

 私が最後に接触した人類であるあの遊牧民はほとんど文明と関わりを持たなかったし、もうとっくの昔に滅びてしまったはずだから。

 誰も自分を探し当てられない。

 そう思って私はここに来たのに。

 

「ただの総当たり」


 夜天は事も無げに言ってのけた。

 私は唖然となる。が、彼女はその反応を愉しんでいるように、言い足した。

 

「て、言うのはさすがに大げさかな。相変わらずトウカは人間の活動力を低く見すぎだ。二百年も引き篭もってれば、感覚がにぶるのも当然だが」


「……?」


「この近く、と言っても三百キロは離れているけど、サイルインという名の街があって。そこの人間に目撃されてるんだ。トウカの姿」


「うそ――」


 絶句する。

 この極地に人類が進出してくることなど考えられなかった。

 ましてや、この幽霊山脈ゴーストクロックの奥深くに引きこもっている自分が、目撃されることなど。


「山師ってわかるだろ。鉱床とか、その山に地下資源があるかどうかを調べる専門の職業の人間。彼らは独特な感覚で山から山へ渡り歩くんだ。彼らが何を根拠に資源の有無を確認するのか、彼ら自身にも説明できない。ただ、何かを掴む。違和感という言葉が一番近いか」


 そうだろう? という、同意を促す目が私に向けられる。

 その違和感というのが、つまりは自分ということらしかったが。


「待って。資源なんて、このあたりには存在しないはず……」


「いや、それがあるんだ。ごく微量で、採算に見合うような量じゃないのは理論上明らかだが、それを諦めないのが人類というものなんだ。サイルインはちょっとした採掘都市として栄えた……それもまあ昔の話だが」


 夜天は肩をすくめ、続けた。

 

「目撃と言っても、もちろん確かなものじゃない。そもそもこんなところに生きた人間がいるわけがないから。だが奇妙な体験というものはそれが奇妙であればあるほど、誰かに話さないわけにいかなくなる。山師の目撃証言は不確かで曖昧なものになり、人から人へ、世代から世代へ伝えられるうちに装飾と神話性を帯びていく。雪山の奥深くに人を誘惑する雪女がいるとか、まあ、そういう類に。そういう比較的新しめな伝説や民話なんかを、僕は世界中から収集して、総当たりしたわけだ。たぶん、そのうちのどれかがトウカじゃないかってね」


 そんな総当たりが可能だろうか、とさすがに疑問に思わずにはいられない。

 しかし、そう――彼女も私と同様に、時間は限りなくあるわけで。

 時間さえあれば可能、なのだろうか?


「…………」


 私は考え込む。あまりに途方のない話だ。

 夜天は黙った私を見て、今度はちょっと弁解するように口を開く。

 

「もちろん多少人も使ったが、秘密を守れる人間たちだから、その点は安心してくれ。ここにトウカがいることは今のところ僕しか知らないよ」


 自分ひとりで探したわけではないから驚くようなことではないと、夜天は言いたいらしかったが、私は驚きからなかなか立ち直れない。

 その作業には何年かかったのだろうか?

 

「自分の足で本格的に探し始めてからは、まあ、二十年くらいか」


 私の胸中の疑問が聴こえたかのように、夜天は言った。

 

「でも、どうして?」


 私は訊く。一番気になることを。


「そこまでして、どうして私を探してくれたの?」


「どうして? トウカに会いたかったからに決まってるじゃないか」


 さも当然のように、むしろ質問されたことが不思議であるかのように、夜天は答えた。


「…………」


 会いたかったから。

 なぜか、胸がざわつく言葉だった。

 良い理由なのだろうけど、どこか、不穏なものが胸をよぎる。

 

「何の連絡もなくいなくなったじゃないか。だから心配もしてたんだ」


「うん。ごめん」


「別に謝る必要はないが。いったいどうしてこんなところに?」


「えっと……それは」


 夜天の目に向かって嘘をつくのは、難しい。

 そもそも、自分でもうまく言語化できる気はしなかったから、私は曖昧な表現を選んだ。


「周りがいろいろ騒がしかったから、ひとりになりたかったっていうか」


「ふうん」


 夜天は、一定の共感を示すように鼻を鳴らし、あたりを見回した。

 山裾も霞んで見えないほどの高さ。

 地上とそうでない場所の境界線もない。

 そのくらい、景色は遠く、開けている。

 

「わかるよ。ここは静かだし、眺めもいい。何より、人が来ない。トウカの好きそうなところだ」


「夜天には見つかっちゃったけど」


「逃げられると思った? 僕から」


 どきりとした。


「や、夜天が本気で探したら、見つかるかもしれない……とは思ってた。でも、探される理由もないと思ってたから……」


「おいおい。さみしいこと言うじゃないか。千年来の友達だろ、僕たちは」


「うん……」


 夜天は私を見て、腰に手を当てる仕草をした。

 モデルみたいだ。


「独りになりたい気持ちもわかる。けど二百年だ。とりあえず十分じゃないか?」


「……? どういう意味?」


「ちょっと付き合ってくれないか。久々に下界したの空気を吸うのも悪くないだろ」


「街へ……?」


 私の反応から否定的なニュアンスを読み取ったか、夜天は周囲を見渡す仕草をした。ちょっとわざとらしく。


「それとも、これからここで何か用事でもあったのか? あるなら、済むまで待ってもいいが」


「そ、そういうわけじゃ、ないけど……」


「ん?」


 私は素肌をかろうじて隠しているローブの前を、ぎゅっと閉じ合わせた。さっきからそうしていたけど、いっそう強く。


「い、いきなり街は怖いっていうか……私……こんな格好だし」


「ああ、そういうこと。気持ちはわかる、でも何も心配ない。僕がついてるから」


 ふわりと、背中に柔らかいものがかかった。

 夜天が着ていた真紅のコートを脱ぎ、私の肩にかけたのだった。

 

「とりあえず、これ着といて。あと、靴もあったほうがいいか」


 くるぶしまで覆うベルトだらけのブーツを、両足とも手際よく脱ぎ、「はい」と無造作に押し付けてくる夜天。

 履け、ということのようだけど。


「それっぽい格好しとけば、まあ、伝説の人喰いイエティには見えないだろう」


 見れば、ウールのソックスまで脱ぎ落として素足になっている夜天。

 もっともそれは私に履かせるためではなく、雪で濡らさないためらしい。

 

「え、でも、それじゃ夜天が……え、待って。イエティ? 私そういう伝説になってるの?」


「僕なら何も問題ない。だろう?」


 夜天は私に向かって両腕を左右に広げ、首を少し傾けながら足の位置を変え、モデルのようにポーズを取った。

 首元まで覆う純白のセーターに、丈夫そうな黒のレザーパンツ。

 コートの上からでは想像もつかないほど細くくびれたウェストと、すらりとした長い脚。

 スレンダーな体型なのにそこだけ大きく膨らんでセーターを押し上げる両胸バストが、人体とは思えないほどアンバランスで、さらにそこに小さな、しかし彫像を思わせるほど整った顔まで乗っているものだから、実に二世紀ぶりに、私はその美しさに驚愕させられた。

 陽光を照り返す雪原は彼女のために用意された天然の舞台のようで、背景の青空は宗教画めいて映った。

 明らかに冬山に居るべき格好ではなく、彼女こそ誰かに目撃されれば伝説となってしまいそうだが、その正体は、人喰いイエティなどではなく、やはり何か神聖なもの――そう、天使か何かとして語り継がれることだろう。

 その伝説の最初の目撃者となって、誰かにそれを語り継がせても良いとすら私は思い、しかしすぐに、私ひとりが伝説の目撃者であったほうが私にとって都合が良い、と思い直す。

 私ひとりが、夜天のことを胸に秘めていたほうが、うまく言えないが――心地良い。

 

「トウカを探すのにかけた時間のぶん、とまでは言わないが。トウカの時間を少し僕に預けてくれないか? 銃で撃たれるような、危険なところに連れていったりしない。約束する」


 卑怯だ、と思った。そういう言い方とそのまなざしで、私が断れないということを夜天は知っているはずだから。

 

「うん……いい、けど……どこへ?」


「シンセルドルフ。トウカに会わせたい人がいるんだ」


 シンセルドルフは既知の地名だからいいとして。

 会わせたい人、と、私はオウム返しに繰り返した。

 二世紀にわたり世俗から完全に離れていた私に、会わせたい人とは?


「それって――」


 私は問おうとしたが、夜天は既に会話を終えたつもりのようで、明後日の方向に身体を向けていた。

 ウエストの戦術タクティカルベルト――彼女が昔から愛用している装備――にアタッチメントされたポーチのひとつから取り出された手のひらサイズ機械を、彼女は見つめていた。


「そんなに時間はかからないはずだ。まずはサイルイン……ここからだとまあ、三日ってところか。二十四時間歩き通す想定だが、構わないよな?」


 夜天は機械の画面を見つめたまま言った。

 機械にはアンテナのようなものが立っており、電子通信機器のようなものと、想像はついたが。

 このあたりに電波が飛んでいるはずがない。


「夜天。それは?」


「ああ。衛星とリンクして、おおまかな位置を測位してる」


 私は文字通り仰天した。


衛星通信スターライン!? 生きてる衛星が、まだあったなんて……」


「いや、ちょっと前に打ち上げたやつ」


「え?」


「これがけっこう大変だったんだ。気象観測の有用性でどうにか押し切ったんだが、どうせ遠からず壊れるのにって反対する輩がどうしても多くてさ」


 まるで自分が主導して新しい人工衛星を考案し予算を投じて設計し組み立てて打ち上げたかのような夜天の口ぶりに、私は唖然とするしかなかった。

 実際、その通りだろうということにも。

 

「じゃ、行こうか。……それ、履かないのか?」


 機器を元通りポケットに収めた夜天が、渡された厚靴を両手にぶらさげたままの私を見て、首を傾げた。真紅のコートもまだ肩にかかったまま、袖を通せてもいない。


「あの、これ、履き方がわからない……っていうか、夜天が裸足になっちゃうから……」


「ああ。まあいいか、靴なんて」


 私と並んで立ち、肩に手をまわす夜天。

 その顔と目は、目の前の鋭い斜面の、その先に据えられていて。


「え? 夜天?」


「ここをまっすぐ降りるのが、最短ルート」


「降りるって、ちょっと、あ」


 躊躇ためらいを感じる猶予さえ与えられなかった。

 虚空への跳躍、一瞬の停止。

 そして――ふたりそろって、仲良く滑落した。

 すべてが群青になる。

 視界も、意識も。

 喉の奥から悲鳴を絞り出しながら、ぐるぐる、ぐるぐると、時計の針が身体と一緒に高速回転するのを、私は感じた。

 幽霊山脈ゴーストクロックで刻み続けてきた二百年など、しがみついてきた地図など、まるで意味がなかったみたいに、空白がぎゅうっと圧縮されていく気分。

 私を抱きかかえる夜天の身体だけが、今の私の唯一の拠り所で、私はそれを離すまいと必死だった。


(なぜ、こうなるの?)


 夜天に出会ってから幾度となく感じたことを、私は約二百年ぶりに感じた。

 正確には、一九九年と、三六四日ぶりに。

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