アランの一番長い夜
アラン視点番外編。
寝取られ令嬢本編、侍女は騎士様のお気に入り本編完結後、アランとセレスの子供が生まれた話です。子供の名前はコミカライズでお世話になっている きくちくらげ 様に考えていただきました!
「おめでとうございます。妊娠していらっしゃいますよ」
にこやかにそう告げる医師に、若い夫婦は石のように固まった。
ここ数日嫁いで来たばかりのセレスの体調が思わしくなかった。何日も寝込んだままで食事もろくに摂れず、寝ていれば大丈夫だと言い張るセレスを押し切って呼んだ医師は、にこにこと嬉しそうに笑っているのだ。
「にんしん」
ぽつりと呟いたセレスの顔は真っ青だ。
ベッドの上に座ったままの姿勢で、そっと自分の腹を撫でる。
「私が、妊娠しているのですか」
震える声。
何故そんな震えた声で信じられないと目を見開くのだろう。嬉しくないのだろうかと不安になり、アランはそっと腹に添えられたままのセレスの手を取った。
ひやりと冷たい手。
ゆっくりと此方を見る深緑の瞳が、ゆらりと揺れた。
「アラン様の子が、お腹に」
潤んだ目から、ぽたりと雫が落ちた。
「セレス?」
「まだ二人きりが良いと仰っていたのに」
そういえばそんな話を少し前にしたような気がする。
跡継ぎは兄だし、更にその跡継ぎならきっと兄夫婦がまだまだ頑張るだろう。だからまだ夫婦二人きりの時間を楽しみたい。
いつか子供が出来たらきっととても嬉しいのだろうけれどと話したのだが、今のセレスは「まだ二人が良い」という所しか頭に無いのだろう。
「セレス…どうしよう」
「どう、とは…」
「嬉しすぎてどうにかなりそうだ!」
ぎゅっと握りしめたセレスの手を唇に寄せ、我慢できないとばかりに満面の笑みを浮かべる。
嬉しい、愛しい人との子供が宿ってくれた。セレスの体調が悪い事は心配でたまらないが、それでも自分とセレスの子供ができたのだ。
ぽかんと呆けた顔のセレスを堪えきれずに抱きしめて、アランは専属執事のハロルドに礼を弾むように言いつけて医師を帰らせた。
「お喜びいただけるのですか…?」
「当たり前じゃないか!俺とセレスの子なんだから!セレスは嬉しくない?」
アランの問いに、セレスはふるふると首を横に振る。
男の子だろうか、それとも女の子だろうか。
名前はどうしよう、子供部屋はどの部屋にしよう。日当たりの良い部屋はどこだっただろう。
考える事は沢山ある筈なのに、そのどれもが嬉しい悩みとなってくれるのだから困ったものだ。
「まだ二人で良いって俺が言ったから困らせたんだな…ごめんね」
嬉しい嬉しいと何度もキスを落としているうちに、セレスは安心したように微笑んだ。
抱きしめて離さないアランに体を預け、幸せそうに笑ってくれるのが、アランは嬉しくて堪らない。
「体調が悪いのはつわりだったんだな。心配なのは変わらないけれど…ああどうしよう、嬉しくてにやけるのが我慢できない」
セレスが辛いのにと零すと、セレスは小さく声を漏らして笑った。
久しぶりにセレスの笑顔を見たような気がする。ほんの少し笑ってくれるだけで、こんなにも心が浮ついてしまうのは、それだけ彼女に心を奪われているという事なのだろう。
「この子が無事に生まれてくれるのなら、これくらいの事いくらでも耐えられますわ」
「母は強いな。でも心配だから、お母様をあまり苛めないでやってくれよ」
そっとセレスの腹を撫でながら、アランはまだ見ぬ我が子へ声を掛ける。
性別はどちらでも構わない。無事元気に生まれてくれさえすればそれで良いのだ。
名前はどうしよう。自分とセレスのどちらに似るのだろう。まだまだ先の新しい家族を迎えるその日を楽しみにしながら、若い夫婦は暫くの間抱き合い続けた。
◆◆◆
セレスが妊娠したとお互いの実家に手紙を出して数ヶ月。
あっという間に月日は流れ、そろそろ新年を迎えるという頃には、セレスの腹はすっかり大きくなっていた。
ゆったりとしたドレスを着て、重たそうに腹を抱えるセレスの顔はいつでも穏やかで、時折…否、しょっちゅう腹を撫でながら嬉しそうに何か話し掛けている。
我が子を迎える為、セレスとアランはせっせと針仕事をこなす。使用人に任せれば良いとティナは言うが、生まれてくる我が子の為に用意する物は、出来るだけ親の手で用意してやりたいという夫婦の望み。
「アラン様は針仕事がお得意なのですね…」
「軍人っていうのは、訓練が始まったらまず初めに針仕事を教えられるんだ。繕い物とか、外れてしまったボタンを自分で付けられるようにね」
話しながらも、二人の手は止まらない。産着や小さな服、いくらあっても良いおしめなど、あらゆるものをちまちまと作っては微笑み合うのだ。
「セレスだって上手じゃないか」
「私は刺繍の方が慣れておりますから…手が遅くて恥ずかしいです」
「丁寧に刺しているからだよ。俺は早いけれど、セレスに比べたら雑だから」
ほら見てと見せた小さな布。これからおしめにするそれは、アランの言う通りほんの少し縫い代が曲がっていた。セレスの手に握られている布は、まっすぐ均等に糸が走っている。
テーブルの端に綺麗に畳んで置かれた大きな布を広げながら、アランは小さく微笑む。
細やかな刺繍で彩られたそれは、お包みにするのだとセレスが張り切って刺繍をした自信作だ。
寒い時期に生まれてくるから、せめて母の愛に包まれて眠れるようにと。
「性格が出るね。セレスはとても丁寧な仕事をするんだ」
そっと刺繍に指を這わせながら笑ったアランに、セレスも穏やかな笑みを浮かべる。
だが、ほんの少し驚いた様な顔をしてそっと大きな腹に手をやった。
「また蹴った。今日も元気ね、愛しい子」
腹の子は少々元気すぎるらしく、よく母の腹を蹴っては「今日も元気だ」と伝えているように思う。
時々当たり所が悪いと痛いらしいが、それでもセレスは怒る事もせず、嬉しそうに腹を撫でるのだ。
「今日も元気が有り余ってるな」
そろそろ休憩にしようと、布と針たちを仕舞い込み、ソファーに座るセレスの膝にごろりと寝転がりながら、アランは大きく膨らんだ腹に頬を寄せる。
すっかりお気に入りの場所を我が子に奪われているが、生まれて来たらこの特等席はまたアランが独占するのだ。
「痛っ、こら。お父様を蹴るんじゃないよ」
「きっとお父様に遊んでほしいのですよ」
腹の子に文句を言うアランの顔を見下ろしながら、セレスは両手でそれぞれ腹と夫の頭を撫でる。
腹が膨らむと同時に体重も増えたのか、セレスの顔はほんの少しふっくらとした。それでもまだまだ細い方で、医師からはもっと食べるように言われている。
「名前、決まりましたか?」
「まだ。候補は男女それぞれ幾つか決めたんだけど…」
名前は俺が決める!なんて張り切った癖に、いざ名前を考えてみるとなると難しい。
親から子への初めての贈り物。生まれたその瞬間から死ぬその瞬間まで抱えていられる贈り物なのだからと気合を入れているのだが、どれだけ考えても決めかねてしまうのだ。
「セレスの名前は誰が決めたんだい?」
「父が決めました。セレスティアという名前はこよなく美しいだとか、素晴らしいという意味があるそうで…名前負けしていないと良いのですけれど」
そう笑うセレスだが、美しさも勿論だがその人柄も素晴らしい。名前の通りに育ったんだなと笑うと、セレスは照れ臭そうな顔をして笑った。
「ハンナは恩恵、恵み…だったか」
「はい。母方の曾祖母の名前だそうです」
セレスが産まれる前に亡くなったそうだが、とても優しく誰からも愛される人だったらしい。そんな曾祖母のように、誰からも愛されるようにと願いを籠めて付けられたのが、セレスティア・ハンナ・ダルトンという名前なのだと、セレスは笑った。
「アラン様のお名前は何方がお決めになったのです?」
「父方の祖父だよ。産声の元気が良かったからって言ってたかな」
アランという名前にも幾つか意味がある。元気という意味もあるそうだが、ハンサムと言う意味がある事も知っているセレスは、名前の通りに育った人だなと小さく笑った。
「ニールはやはり何方からかいただいたのですか?」
「祖父がお世話になった師匠の名前だそうだ。意味は闘士…だったかな。騎士になったし、名前の通りになったよ」
へらりと笑うアランに、セレスも穏やかに微笑み返す。
誰かが自分の事を思って付けてくれた名前。それを大切にしようと思えるのだから、これから生まれてくる我が子にも、同じように大切にしてもらえる名前を付けてやりたいのだ。
「名前を付けるって大変なんだな…」
「一人だけでも大変なのに、複数人分考えるのは大変ですわね」
「こんなに楽しい悩みなら、何人分でも悩むよ」
互いのきょうだいの名前の話、名付けてくれた人との思い出話を楽しみながら、アランとセレスは穏やかな時間を楽しむ。
そろそろ重たいだろうからと起き上がった途端、アランはふとセレスに相談しなければならない事があったと思い出した。
「そういえば、父から手紙が来たんだ。新年を祝うのは、来年は遠慮するって」
「まあ…折角お会いできると思って楽しみにしておりましたのに」
新年を祝う為、貴族たちは皆王都に集まる。王家への挨拶を済ませると、家族や親戚で集まってそれぞれパーティーをするのが習わしなのだ。
セレスは結婚前と結婚後の二回だけその集まりに参加している。
今回は丁度出産の時期と被るから、宿を取って其方に泊まると手紙が来たのだが、久しぶりに義理の両親に会えると楽しみにしていたらしいセレスは心底残念そうに眉尻を下げた。
「普通夫の両親に会うのは嫌がるものじゃないのか?」
「だってお二人共とてもお優しいんですもの。それに、ニコラス様とクレア様、アイリーンも来るでしょう?」
今年の集まりに初めて参加した姪のアイリーンと打ち解けたのか、久しぶりに遊んでやるのだと張り切ってたらしい。
義理の兄夫婦にも可愛がられ、とても良い家に嫁いでこられて嬉しいと微笑んでいた事を思い出し、アランは仕方ないなと小さく笑う。
「セレスがそんなに楽しみにしていたなら、俺から父上に手紙を出しておくよ。セレスが会いたがってるから、是非屋敷にって」
「本当ですか!」
「でも無理はしない事。年明けにはいつ生まれても可笑しくないんだから」
準備はアランに任せ、セレスは大人しくしている事。腹が苦しくなったり、万が一陣痛が始まったらすぐにでも知らせる事。絶対に無理はしない事。
何度もしつこく念を押し、しつこいとセレスが拗ねるまでアランの小言は止まらなかった。
◆◆◆
普段静かな屋敷は、今日はとても賑やかだ。昨日の昼過ぎに屋敷に到着した領地から出て来た家族を迎え入れ、穏やかに談笑し、いつも通りのステップなど何も考えないダンスを楽しむ。
「アイリーン、少し見ないうちに大きくなりましたね」
「もう七歳か…早いな」
のんびりとソファーで寛ぎながら見つめる先で、アランの姪である幼い少女が楽しそうに笑う。
「お爺様!そんなに回さないで!」
きゃっきゃと楽しそうに笑うアイリーンは、先程から大好きな祖父、エドガーに抱き上げられたままぐるぐると回られている。
あんなに回されて目が回るだろうにと呆れながら、アランは腹の大きな妻が掴まらないようにと隣に陣取ってそれを眺めた。
「アラン様は踊らないのですか?」
「うん?俺は良いかな。セレスが無理しないように見張らなきゃ」
「母と踊るのが恥ずかしいと素直に仰い」
にんまりと笑うエイダに、アランはぐっと言葉を詰まらせる。
成人して何年も経つのに、母親と手を取り合って仲良く踊るなんて恥ずかしいのだ。
「息子なんて可愛いのはほんの一瞬。娘なら幾つになってもお母様と踊ってくれるのに」
よよよ、と泣き真似をしながら、エイダはアランと反対、セレスの隣に座った。
「でも女の子を産んでも、いつか親元を離れて何処か別の家に行ってしまうのよね…」
「母上、これから出産するセレスを不安にさせないでください」
じろりと母を睨みつけ、アランはそっとセレスの手を取る。
二人に挟まれたセレスは少し困った顔をするのだが、エイダはその姿を見てまた笑った。
「男の子を生んでも、どこかの女の子に心奪われて手を離れていくのよね」
すっかり取られちゃったわ。
そう言って、エイダは少し離れた所で妻の手を取って踊っているニコラスを眺める。
息子を二人、娘を一人生んだエイダは母親の先輩であり姑だ。もしかしたら良くしてくれていても、本当は憎いと思われているのではと体を固くしたセレスの隣で、アランはいい加減にしろと母に文句を言うべく口を開きかけた。
「でもね、子供たちが皆幸せそうにしていて、私とっても嬉しいの。可愛い娘も増えたし、孫までできた。こんなに嬉しい事ってあるかしら?」
触れても良い?と小首を傾げ、エイダはにっこりとセレスに微笑みかける。
大きな腹に視線を向け、まだ見ぬ新たな孫を見つめるその顔は、とても穏やかで優しい。
「どうぞ、お義母様」
「ありがとう。あらあら、本当に大きなお腹ね。何だか懐かしいわ」
ゆっくりとセレスの腹を撫で、嬉しそうにしているエイダに、アランは文句を言う気が失せてしまった。開きかけた口は、グラスに注がれた冷たい水を飲み込むのに使う事にした。
「まあ、元気な子!私の手を蹴ったわ」
とびきり嬉しそうな声を出し、エイダは「おばあちゃまよ」と腹に向かって語り掛ける。
可愛い可愛いとまだ生まれてすらいない孫を愛で、触らせてくれた事にもう一度礼を言うと、今度はアランに視線を向けた。
「アラン」
「はい、何ですか」
「出産と言うのは女にとって戦争です。初めての出産は心細く不安に思う事もあるでしょう。貴方が支えなさい」
「言われなくとも」
「とは言いましたが、出産中男は邪魔です。何も出来ずに狼狽えるだけなのですから…セレスのお母様が此方にいらっしゃるのなら、ご都合をお伺いしてお呼びしなさい」
自分の出産の時は、夫は狼狽えるばかりで何も出来なかっただの、心細くて堪らないのに自分の母は屋敷に来ることも許されず不安だった事。
もう二十年以上昔の話だというのに、恨みは深いのか手をわなわなと動かしながら低い声で唸る。
「なんの話だ?」
ダンスを終えたのか、孫を抱いたエドガーがにこにこと微笑みながら寄ってくる。
「貴方への恨み言」
「えっ」
狼狽えるエドガーをじとりと睨むエイダの横顔を見ながら、セレスは小さく笑った。
だが、一瞬動きが止まったかと思うとみるみるうちに苦しそうな顔になり、ゆっくりと体を前に折り畳んだ。
「セレス?セレス、どうした?腹が張ったか?」
「う…」
苦しそうな声に、その場にいる全員が慌てだす。
腹を抱え、細く長く息を吐きながら何かに耐えるセレスの姿に、エイダとクレアが冷静さを取り戻した。
「セレス、それはいつから?」
「…今朝からです」
話がまだ掴めていない男たちが顔を見合わせると、エイダはパンパンと手を鳴らし、使用人を呼んだ。
「産婆と医師を呼びなさい。それからお湯と清潔な布をありったけ支度して。ダルトン家に遣いを出すのも忘れずにね」
エイダの指示に、漸く男たちも何が起きているのか理解したらしい。
まだ固まっているアランを、ニコラスが揺さぶった。
「しっかりしろアラン、父親だろう」
「え…あ、ちょっと待ってくれ。セレス、朝から辛かったなら言ってくれ!」
「最近よく張っていたので、今日もそうだとばかり…」
責めても仕方が無いことくらい分かっているのだが、混乱というか動揺していてどうしたら良いのか分からないのだ。
やっぱりこうなったと笑うエイダとクレアが、動ける今の内にとセレスを談話室から連れ出していく。
「俺も…」
「邪魔になるからそこにいなさい」
じろりと母に睨まれ、立ち上がるだけ立ち上がったアランはその場に残るしかなかった。
「良いかアラン、出産において男は無力だ」
「待つしか出来ないからな」
アランの両肩を、父と兄がぽんと叩く。
これからセレスは女の戦争とやらに挑む。何も出来ない、してやれない。何度も想像し、立ち合う事も考えたのだがそれも出来ない。セレスが嫌がったのだ。
きっととても痛くて苦しいだろうから、酷い姿を晒してしまう。それを見られたくないという、セレスの願いだった。
「セレスおば様、どうしたの?」
「セレスはね、これから赤ちゃんを生むんだよ。初めてのいとこだな」
アイリーンの頭を撫でながら、ニコラスはゆったりと微笑む。
まだ七歳の幼子であるアイリーンだが、セレスが苦しそうな顔をしていた事で不安になったのだろう。
「赤ちゃん、アイリーンも抱っこできるかしら」
「落としてしまわないように、座ってなら抱っこ出来るよ。でも一番はセレス、二番はアランだ」
順番にねと笑うニコラスに、アイリーンはまだ心配そうな顔をする。
子供なりに、大人たちが普段と違う事を理解しているのだ。
「さて、きっと生まれる頃には夜だろうから、気長に待つぞ。聞いてるかアラン?」
「…心配でどうにかなりそうだ」
「うーん…これはどうしたもんかな」
真っ青な顔で狼狽えるアランに、ニコラスは頭を抱えた。
◆◆◆
セレスが談話室から出て数時間。既に外は真っ暗で、真夜中になっていた。
談話室と出産部屋を何度も往復するアランが煩わしいからと、廊下に置かれたソファーにぐったりと項垂れているアランの隣で、ニコラスは呆れ顔で何度も背中を摩っていた。
「セレスのお母上も来てくださったし、俺たちには何も出来ないんだ。少し眠ってこい」
夕方になる頃、王都のダルトン邸に来ていたセレスの母ダリアが、セレスが産気づいたと聞かされて訪ねてきた。
久しぶりの母との再会と、初めてのお産で不安で堪らなかったのか、セレスはぽろぽろと涙を零していたと使用人が囁いているのを二人で聞いた。
「セレスが頑張ってるのに、俺だけ眠るなんて出来ません」
小さく呻くようなアランの声に、ニコラスは数年前の自分を重ねる。
同じような状態だったなと微笑むと、ばしりと音を立てて弟の背中を叩いた。
「しゃんとしろ」
出産部屋から、セレスの悲鳴が聞こえた。
数時間前から苦しそうな悲鳴が聞こえる度に、アランはオロオロとソファーから立ち上がって扉の前を行ったり来たりと歩き回る。
「兄上、本当に大丈夫でしょうか」
「母は強いんだ。アイリーンの時もこんな感じだった」
愛しい妻が叫んでいても、何も出来ないのは歯痒い。そう自嘲するニコラスが、座れとアランの腕を引いてソファーに戻す。
「名前は?決まったのか」
「まだです…候補は幾つか」
「顔を見て決める、というのもありだしな」
あとどれだけこの時間が続くのだろう。
あれだけ楽しみにしていた我が子なのに、世界中の誰よりも大切なセレスをこれだけ苦しませるなんてと憎く思えてきてしまった。
それよりも、何も出来ず、ただ待つだけの自分が情けなくて嫌だ。
バンと大きな音を立て、扉が開いた。
飛び出してきたのはティナで、その顔は余裕が無いのか引き攣っている。
「ティナ!セレスは!」
「申し訳ありません急ぎますので」
仮にも主であるアランに向かって、立ち止まる事も無く走り去るティナに、ニコラスはぽかんと呆ける。
閉じかけた扉の隙間から見えたセレスは、必死で荒い呼吸を繰り返しながら戦っていた。
「セレス…」
「まあ落ち着けというのは無理かもしれないが、多分お湯を取りに行ったんだろう。もう少しだ」
足の速い侍女だなあと呑気な声を出し、ニコラスはまた忙しなく歩き回る弟を捕まえにかかる。
戦場で剣を振るった経験があっても、妻の出産は初めてだ。
「若旦那様!扉を開けてください!」
つい先程走って行った筈のティナが、大きな桶を持って、厨房の女集を引き連れて走ってくる。
言われた通り扉を開いた瞬間、セレスの絶叫が響いた。
「セレス!」
「邪魔です!」
退けと主に怒鳴るティナに気圧され、アランは大人しく横に避けるしかない。
パタンと閉じられた扉の向こうが、一瞬静まり返った。
「何も…何も出来ないなんて」
「それが男ってもんだよ」
項垂れるアランの背中を、そっとニコラスが摩る。
じわりと目頭が熱くなった。ぎゅっと目を閉じた瞬間、扉の向こうから聞きなれない赤子の声が聞こえたような気がした。
ぱっと顔を上げた。これは幻聴だろうか?妻の絶叫に耐え切れなくなった自分の、都合の良い妄想なのだろうか。
そう思い始めた瞬間、細く開かれた扉の隙間から、侍女長のマーサがそっと顔を覗かせた。
「おめでとうございます、若旦那様。可愛らしい女の子ですよ」
「生まれた…のか?」
「はい、聞こえますでしょう?」
にっこりと笑うマーサの後ろから、元気な泣き声が響いていた。
まだ入るなとあっさり扉を閉じられてしまったが、一気に体の力が抜けたアランは、その場にしゃがみ込む事しか出来なかった。
「おめでとうアラン。父として励めよ」
兄の祝福の言葉に、アランは頷いて返した。
◆◆◆
漸く入っても良いと言われたのは、それから少ししてからの事だった。
大量の血に汚れた布を抱えて出て行くティナと、涙ぐむダリアと入れ替わりに入った部屋は暑い。
生まれたばかりの赤子に冬の空気は冷たいかららしいのだが、むわりと暑い部屋が心地よいのか疑問に思いながら、そっと足を踏み入れる。
「アラン様」
ベッドの上で微笑むセレスは、ベッドの上からで申し訳ないと小さく詫びる。
その腕に抱かれたセレスの自信作。
そっと隣に置かれた椅子に腰かけ、布の中を覗き込んだ。
「小さい…」
「ずっとお部屋の前にいてくださったのですね。呼んでくださっているのが聞こえました」
そう言って微笑むセレスが、どうぞ抱いてやってくれと小さな我が子をアランに差し出す。
触れただけで壊れてしまいそうな程小さな我が子。恐る恐る受け取った赤子は、小さい体をしているのにずっしりと重たく、温かかった。
「セレス」
「はい?」
「どうしよう、泣きそうだ」
腕の中で小さく手を動かす我が子を見つめながら、アランはくしゃりと顔を歪ませる。
鼻の奥がツンと痛んで仕方ないのだ。泣いている顔なんて見せたくないのに、胸がいっぱいでどうにもならないのだ。
「セレスをあれだけ苦しめたのに、こんなに可愛いなんて」
食べる事も出来ない程のつわりに苦しみ、腹が大きくなる度動くのも大変になった。大好きなお茶を楽しむ事も我慢させられ、つい先程まであれだけ絶叫する程苦しめたのに、うっすらと開いた目でアランを見つめる赤子が愛おしくて堪らないのだから不思議なものだ。
「お名前、決めてくださいました?」
「決めた、今決まった」
もぞもぞと動く小さな手に人差し指をつんと当てながら、アランは優しく微笑む。
「サーラ。この子はサーラだ」
幾つか考えていた候補の一つ。その一つをこの子に与えてやりたい。
「サーラ…お姫様ですか」
「我が家のお姫様だから。サーラ・ロザリンド・ゴールドスタイン。お前の名だよ」
まだうっすらと濡れる我が子の頭を撫でながら、アランは僅かに震える声で語り掛ける。
誰からも愛されるお姫様のようになりますように。美しく咲き誇る薔薇のような、美しい女性になるように。
「お姫様に薔薇。御伽噺のようですわね」
小さく笑うセレスに、アランも同じように微笑みかける。
腕の中で父の指をぎゅっと握りしめるサーラが、眠たそうに目をぱちぱちと瞬かせる。
「どっちに似るかな。瞳と髪はセレスとおんなじだ」
「まだ生まれたばかりですよ」
そう笑って、セレスはそっとアランの腕に抱かれるサーラの頭を撫でた。
「この子は家族に囲まれている時に生まれたかったのかもしれませんね」
予定ではもう少し後に生まれてくるはずだった。だが、新年を祝う為に王都に家族が集まっている時に生まれてきたのだ。
沢山の家族に祝福され生まれてきたかったのかもしれない。そう笑うセレスの顔は、疲れている筈なのに、とても嬉しそうだった。
「少し休んで。また後で来るから」
「はい、ありがとうございます。アラン様も休んでくださいね」
「そうするよ。何か欲しいものは無い?あとで持ってくる」
セレスにサーラを抱かせると、少し考えたセレスは照れ臭そうにアランを見てもじもじとしながら口を開いた。
「薔薇が欲しいです。…結婚前のように、一輪の薔薇にリボンを巻いて」
「分かった。一番綺麗な薔薇を見つけてくるよ」
おやすみとセレスとサーラに順番に唇を落とし、アランはそっと部屋を出る。
まだ暗い窓の向こうをぼうっと眺めながら、アランはふっと息を吐いた。
一番綺麗な薔薇をセレスに贈ろう。いつも書いていたカードも一緒に書いて、サーラにも何か可愛らしい花を探そう。
薔薇はセレスにだけ贈りたい。サーラには何が良いだろう。
出来るだけ華やかで、可愛らしい、我が家のお姫様に相応しい花を。
赤いアネモネなんて可愛らしいじゃないか。それともノースポールのように小さな花の方が似合うだろうか。
薔薇の名を与えた我が子には、いつかきっと自分ではない誰かが薔薇を贈るだろう。
その「いつか」を今から恨めしく思いながら、アランは真直ぐ伸びた廊下を歩く。
騎士として国を守る。だがそれよりも守りたい者が出来た。守りたい者が増えた。
夫として、父としてしっかりしなければと大きく息を吸い込みながら歩くアランの顔は、嬉しそうに綻んでいた。