言葉足らずの夫婦
以前投稿したアラン視点の「妻不足」(https://ncode.syosetu.com/n6636gn/5/)から派生したハミルトン夫妻の話です。最初はサティア視点、途中からギルバート視点になります。
最近の夫は兎角仕事が忙しいらしい。忙しいのはいつもの事で、放っておかれるのはもう慣れっこだ。だが、結婚してから休日、ないしは週に一度夫婦水入らずで過ごす筈の時間は、もう暫くの間無い物とされている。
婚約期間も放っておかれていたというのに、どうしてだか無性に腹が立って仕方が無い。愛されていないとは思わない。彼は少々不器用で、愛情表現が苦手な部類だが、彼なりに妻を愛してくれていると思う。きっと、恐らく。そうであってほしい。忙しい人である事も理解しているし、他所の国の王子が来るならば、騎士団長である夫がいつもより多忙になるのも仕方ない。子供ではないのだからそんな事分かっているのだが、それでも毎日目が覚める前に屋敷を出て、眠った後に帰ってくるという、夫と完全にすれ違う生活に嫌気が指していた。
「今日もあの人は遅いのね」
「はい。なるべく早く戻ると仰せでしたが、恐らく難しいかと」
「はあ…これでは婚約していた頃と同じだわ」
左手に輝く結婚指輪。婚約期間中には無かったそれは、暫くの間夫婦として仲良くやっていた証明であり、その分構ってもらえない寂しさを助長させるものになってしまった。人差し指でゆるりと撫でながら溜息を吐く姿を見るクラリスが、困ったように眉尻を下げた。
「まあ良いわ。放っておかれるのは慣れっこだし、お忙しいのだから仕方ないわよ」
「遅くではありますが、毎日お戻りになられ、奥様はどうだったか私に聞いておりますよ」
「…そう」
そういう会話をしたいのだ。お互い一日どうだったか、何をしていたのか語らいながら一杯の酒を飲んで、同じベッドに潜り込む。たったそれだけの習慣が、どうやらサティアにとって心休まる事になっていたらしい。
「全く。あの人は忙しいしか言わずに妻を放っておく事の重大さを知らないのね。クラリスから他国の王子が来る話を聞いていなかったら、不義を疑われたって文句言えないわよ」
「それはあり得ませんから…」
怖がられたくない、嫌われたくないからと逃げ回っていたあの男が、漸く夫婦らしく出来るようになったから、エスコートをしてやりたいと必死に練習を頼み込んだのだ。表現するのが苦手なだけで、ギルバートはサティアを深く愛している。それを知っているからこそ、クラリスは珍しく幼馴染を庇った。
「そういえば、セレスも寂しいと言っていたのよね。うちの人が忙しいのだから、アラン様もお忙しくなって当然だわ」
「お茶にでもお誘いしてみては?」
「それは良いわね。手紙でも出してみましょうか」
もうこの屋敷に煩い義母は居ない。友人を誘っても文句は言われないし、夫がいなくて寂しい以外に文句も無い、快適な生活を送っている。
そうとなれば、早速お茶の誘いをしようと、サティアは手紙の準備を言いつけた。
◆◆◆
「どうしてこうも違うのかしらね、獅子と鴉って」
「そういう方だと知っているじゃない」
「知っていても納得できるものじゃないわ」
新妻たちのお茶会は、少々の愚痴が織り交ぜられながらも和やかな時間が流れていた。愚痴を言うのは主にサティアで、セレスはそれを聞きながら時折笑う。
アランは忙しくなってきた頃にきちんと事情を説明し、何度も詫びてから仕事に臨んだらしい。それに比べ、ギルバートは「忙しくて戻れん」とだけ書かれたカードを部下に持たせて寄越しただけだ。詫びろとは言わないが、せめて何故戻れない程忙しく、いつ頃落ち着く予定なのかくらいは言ってくれても良い筈だ。放っておかれる事に慣れているという事は、ギルバートは放っておく事にも慣れている。きっとそういう事だ。
「サティアは寂しいのね」
「…そうね」
不機嫌そうな顔でカップを傾けるサティアに、セレスは穏やかな笑みを向けた。
「何も言わないから、放っておいても大丈夫だと思っているのかもしれないわよ?寂しいと一言お伝えしたら、何か変わるかも」
「私が素直にそういう事を言う女だと思っているの?」
「…無理ね!」
珍しくけらけらと声を上げて笑うセレスに、サティアは恨めしそうな目を向ける。だが、セレスの言う通りなのだろう。今迄大した文句も言わず、それこそ八年も放っておかれて大した行動も起こさなかったのだ。大丈夫だと思われているから、こうしておざなりにされるのだろう。
もしも今後、同じように忙しくなったのなら。きっと今回と同じように放っておかれるのだろう。それで何も言わずにいて、ただ自分だけが寂しいと思っていたのなら。それはとても寂しく、悲しい事だと思う。折角夫婦になれたのに、一緒に休日を過ごせるくらい仲良くなれたと思っていたのに。ギルバートも、寂しいと思ってくれていたら良いのに。
「でも、わざわざ眠っているサティアの顔を見にお戻りになられているのでしょう?会いたいと思っているからこその行動なんじゃないかしら」
「…それも何だか嫌なのよ。無理をさせているみたいじゃない」
騎士団の詰所には、仮眠を取れるような部屋がある筈だ。そこで休めば良いのに、わざわざ時間を使って屋敷に戻って来るのは大変な筈。どれだけ文句を言ったところで、あの不器用な男がわざわざ妻の寝顔を見に戻って来る事が彼なりの愛情表現という事くらい分かっていた。だが、それが負担になっているのではと不安にも思う。
「アラン様も仮眠室でお休みになれば良いのに、わざわざ毎日お戻りになるのよね」
「…そうだわ。いっそ二人で家出しましょうか」
「しないわよ!心配されるわ!」
「ああ、違うわ。私たちが屋敷にいるから、あの人たちはわざわざ帰ってくるの。だったら、私たちがいなければ休める筈でしょう?」
突拍子もないサティアの提案に、セレスは何度もぱちくりと目を瞬かせる。ちょっとした悪戯兼、夫の睡眠時間の確保をするだけよと、サティアは悪戯っぽく笑った。
◆◆◆
サティアが寂しいと拗ねているのと同じ頃。夫であるギルバートは目の下に隈を、眉間には深い皺を刻み込みながら机に突っ伏していた。小さく唸りながら終わらない仕事に殺されそうだとゆっくり顔を上げ、ぐいと大きく背中を伸ばした。もう何日妻の寝顔を見ただろう。サファイアブルーの瞳が恋しい。いつも可愛げのない事しか言わない彼女だが、夫の帰りを出迎える時は嬉しそうに微笑んでくれる。休日を共に過ごす時は、いつもより気合の入った化粧をしている事も知っている。
「…会いたい」
誰にも聞かれない言葉は、静かな執務室に溶けて消える。ぐいぐいと目頭を指で押し、今日こそは妻が起きている時間に帰ろうと姿勢を正す。まだ朝なのだから、何とか頑張れば帰れるかもしれない。昨日は部下の妻、セレスティアとお茶をしていたそうだし、今日早く帰れれば楽しかったかどうか話をするくらい出来るだろう。
きっと少しくらい憎まれ口をたたかれるのだろうが、会話が出来るのならそれくらいなんてことは無い。会いたくて仕方がなかった。
「失礼致します」
「入れ」
「奥様からお預かり致しました」
ハミルトン家の従者が、気まずそうな顔をしながら封筒をギルバートに手渡してくる。見慣れた妻の筆跡に、眠気が吹き飛んでいく。
内容は何だろう。放っておいている事への抗議だろうか。怒っているだろうなと思ってはいたが、まさか手紙を寄越す程怒っていたとは。いや、もしかしたら寂しいと訴える可愛げが…あの妻にあるとも思えない。
何となく恐ろしい気持ちを抱えながら、ギルバートは恐る恐る手紙に目を通す。
もう何日もお帰りになられないギルバート様。お仕事がお忙しいのですね。詳しい事を何もお話になってくださらないのは、いつまで経っても変わらないのでしょう。妻との約束をすっかり忘れてしまわれる程お忙しいのなら、私少々羽を伸ばして参ります。
そうそう、金獅子も暫くお帰りになられていないと親友が落ち込んでおりますので、お預かりしますとお伝えくださいませ。
「なんだと!」
思わず出た声に、従者はびくりと肩を震わせる。何度読み返してみても内容が変わる筈もなく、ただ妻からの「家出宣言」が書かれているだけだった。
またやってしまった。忙しさにかまけて妻を放っておいたせいで、家出してしまう程怒らせてしまうなんて。家出をされるのは二度目だが、あの時とはまた状況が違う。
だらだらと嫌な汗が背中を伝っている気がする。これは本当にまずい。本気で怒らせてしまっている。何が今日こそ帰るだ。もうそんな事態ですらないではないか。ああ、こんな事なら書置きの一つでもするんだった。きっとサティアなら、何も言わなくても分かってくれると、八年放っておいたって離れなかったのだからと、心の何処かで思ってしまっていたのだ。
「くそ…」
ぐしゃりと髪を掻き毟り、ギルバートは小さく唸る。何も言わなくても分かってくれるなんて考えが甘かった。たった書類一枚の契約。離縁はそう簡単な事では無いが、心が離れるのは簡単な事。そんな事分かっているつもりだったのに、甘えてしまっていた。謝って許して貰えるだろうか。今度こそ、あのサファイアブルーの瞳は冷たく自分を睨むだろう。もう一度だけでも良いから、優しく笑いかけてほしかった。胸ポケットに大事に仕舞い込んでいたいつかの刺繍入りのハンカチを握りしめ、ギルバートは従者にアランを呼びに行くように言いつけた。
◆◆◆
さあ、どうしたものだろう。目の前でツンと澄ました顔の妻は、ゆったりと椅子に腰かけたままカップを傾ける。部下とその妻を先に帰らせ、二人きりになった庭は酷く静かで、ばくばくと煩い自分の心臓の音がサティアにも聞こえていそうだ。
「あー…サティア」
「なんです?」
「悪かった」
「何がです」
恐ろしく冷たい声。視線を此方に向ける事すらせず、ポーター家別荘の小さな庭を眺めるサティアが恐ろしい。先程は思っていたよりも怒っていないと思っていたのだが、どうやら友人夫妻に気を使っての顔だったらしく、二人きりになってからはスッと細められた瞳が恐ろしく冷たい。何を話せば良いのかも分からないこの重苦しい空気が、ギルバートの口を更に重たくさせた。
「お仕事はもう宜しいのですか?」
「ああ、もう落ち着いた。暫くはゆっくり出来るだろう」
「左様ですか」
どうしてここで会話を続けることが出来ないのだろう。折角サティアが気を利かせて話を振ってくれたというのに、そのチャンスを上手くものに出来ない愚かな自分を呪った。
「…ふう。全く、貴方という人は本当に口下手でいらっしゃいますね」
呆れた顔の妻は、困ったように笑ってみせた。その顔はもう怒っていないのか、本当に呆れているのか、何を考えているのかはよく分からない。だが、笑ってくれたのが嬉しかった。
「隈、酷すぎるんじゃありません?」
自分の目元を指しながら、サティアは小さく笑う。ここ暫く睡眠不足なのだから、隈が酷いくらいは許してほしい。それでなくとも、家出をした妻を早く迎えに行かねばと馬車を急がせたのだ。眠れている筈がなかった。
「その、きちんと説明もなく放っておいてすまなかった」
「本当に、その通りですわね」
「言い訳も出来ん」
「八年も放っておかれるよりはマシですが、私は貴方にとってそう大切な存在ではないようですわね」
「それは違う!…違うんだ」
思っていたよりも大きくなった声に、サティアは驚いたように目を見開く。サファイアブルーの瞳が零れ落ちそうな程見開かれたと思うと、何度かぱちくりと瞬かせ、夫の言葉の続きを待ってくれていた。
「言わずとも、分かってくれていると思っていた。そんな筈が無いことくらい分かっているのに、サティアに甘えていた」
「あら、私は案外何も分かりませんわ。貴方が何を思い、何を考えているかなんて」
先程から、サティアは夫の名前を呼んでくれない。ずっと「貴方」としか呼んでくれないのが、どうにも距離を置かれているようで寂しくて堪らない。
「…毎晩お戻りになられていた事も、早くお仕事を終わらせようと努力してくださっていた事も知っております。ですが、私は言っていただかなければ分かりません」
「すまない」
「手紙、酷い内容でごめんなさい。寂しかったのです」
ぽつりと謝るサティアの言葉に、いつの間にか俯いていた顔をパッと上げる。申し訳なさそうな、気まずそうな顔をしたサティアが、もじもじと此方を見ていた。珍しく眉尻が下がり、儚げな見た目通りの表情に、ギルバートは息を飲む。
「もっと、怒っているのかと」
「怒っておりました!…ですが、セレスに言われたのです。もっと素直に、寂しいとお伝えしても良いのではないかと」
次期侯爵であるギルバートは忙しい人だ。そんな人だと分かっていて結婚したのだから、寂しいなどと我儘を言って困らせてはいけないと思っていた。それでも寂しくて、つい困らせるような手紙を送ってしまったと、サティアは申し訳なさそうに詫びた。
「休日は一緒に過ごせると思っておりましたのに、返上でお仕事に行ってしまわれたと朝一番に伝えられるんですもの」
しまった、それも伝えていなかった。そう頭を抱えた夫を見て、また小さな溜息を吐いたサティアがもう一度カップを傾ける。
「毎晩お帰りが遅いので、もうずっとお話も出来ませんでしたし」
「…寂しいと、思ってくれていたのか」
「思いますとも。私をなんだと思っているのです?」
もっと淡泊で、放っておかれてもあまり気にしないと思っていた。そう言ったらどんな顔をするだろう。それよりも、自分がいなくて寂しいと思ってくれていた事に、どうしてだか胸が躍った。
「悪かった。知っての通り、私は口下手だし、気が利かない男だ。それをすぐにどうにかするのは…うん、難しい」
「無理でしょうね」
「努力する!」
溜息混じりの妻の言葉に被せるように、ギルバートは声を上げた。何から手をつければ良いか分からないが、もう黙って放っておく事はしないと、必死になってサティアに訴える。
「良い夫になれるかは分からない。だが、私はサティアが大切だ。他の誰よりも、何よりも愛している。だからお願いだ、もう私から離れようとしないでくれ」
テーブルの上でサティアの両手を握りしめ、どうかどうかと懇願するような目を向ける。それに驚いたサティアは動きを止めるが、夫の必死な姿と、愛しているという言葉を理解したのか、真っ白な肌を真っ赤に染め上げた。
「頼む、いてくれないと困るんだ。眠っている姿だけでも良いから会いたくて帰っていた。それなのに、自分のせいとはいえ居なくなってしまったら私はどこに帰れば良い?」
「あの、ちょっと…」
「どうしたら許してくれる?いや違うな…許してくれなくても良い、帰って来てくれる?」
「待って!」
悲鳴のような声を上げながら、サティアは真っ赤な顔をしてあわあわと口をぱくぱくさせた。真直ぐに向けられた夫からの感情をどう処理すべきか分からないのだ。真剣に真直ぐに向けられる黒い瞳から、目が離せそうになかった。
「違います、何処にも行きません!ただ、私が負担になっていると思って…」
「負担?」
「私がいるから、お休みになる時間を削ってまでお戻りになられるのだと思って…それならいっそ、屋敷から離れていればお戻りにならずに休めるかと思ったのです!」
単なるお互いの考えの行き違い。ギルバートは寝顔でも良いから妻の顔を見たくて帰っていただけだし、サティアは自分に気を使っているのだと思っていた。だから家出のような形になってしまったが、屋敷から離れていたのだ。
「でもちょっとだけ怒っていたので、手紙の文面があのような…申し訳ありません」
「いや…そうか、そういう事か」
大きな溜息を吐き、先程自分が吐いた甘ったるい台詞を思い出し、ギルバートは居心地悪そうに咳払いをした。まだ落ち着かないようにきょどきょどしながら、サティアがギルバートの顔をちらりと覗く。顔は赤いままだ。
「あの、先程、愛していると…?」
「う…」
「素直に受け取ってしまいますが、宜しいでしょうか」
「受け取ってもらわねば困る…」
勢いで言ってしまった言葉。だが、何度も口の中で繰り返しながら、嬉しそうに微笑む妻の顔を見ていると、羞恥心よりも可愛いという感情の方が上回る。成程、思っているだけでなく言ってやれば、妻はこんなにも可愛らしい顔をしてくれるのか。
「私たちは本当に、言葉が足りないな」
「あら、足りないのはギルバート様ですわ」
漸く名前を呼んでくれた。きっともう怒っていないのだろう。意地悪そうな顔をしているが、目元は嬉しそうに笑ってくれていた。
「暫く休暇をもぎ取ってきた。休みの間幾らでも我儘を聞いてやるから、一緒に王都の屋敷に戻ってくれるか?」
「勿論。折角お迎えに来てくださったのですから」
にこにこと微笑みながら、サティアは何をおねだりしようか考え始めたようだ。あまり無茶を言ってくれるなよと若干の心配をするが、きっとサティアは可愛らしい我儘しか言わないのだろう。
「まずは一緒にお昼寝でもしていただきたいですわ。私最近寝つきが良くありませんの」
夫の隈の酷さを気にしての言葉なのだろうが、一緒に行こうと手を引いてくれるのが嬉しくて堪らない。久しぶりに妻を抱きしめて眠れる喜びに頬を綻ばせながら、ギルバートは妻に腕を引かれるがまま立ち上がる。
「ああそうだ」
「うん?」
「お仕事、お疲れ様でございました」
いつも帰宅した時の決まり文句。久しぶりに聞けた事が嬉しかったせいか、ギルバートは普段よりも大胆になっていたように思う。小柄な妻を抱きしめて、そっと唇を重ねて微笑むと、「ただいま」と返すのだった。