甘い語らい
セレス視点の番外編です。
寝取られ令嬢本編完結後、婚約期間中のお話になります。
彼が優しく微笑んでいる。甘いキャラメルの色をした、彼の瞳が此方を見て、そっと腕を広げて此方に歩いてくる。
彼に抱きしめられるような事は滅多に無かったような気がする。むしろ、そんな記憶は無い。
「どうしたの、ウィル」
ああ、彼の腕に捕らえられる。どうしたら良いのかしら。大人しく彼の腕に収まって、身体を預ければ良いのかしら。ああ、待って、もう少しだけ待って。心の準備が出来ていないの。
「マリア」
彼の声が紡いだ名前は、私の名前では無かった。大嫌いな女の名前をうっとりと愛おしそうに呼びながら、「元婚約者」はセレスの横を通り過ぎ、輝く金の髪をした、美しい女性の体を抱きしめた。ああそうだ、そうだった。この人は私を愛してくれなかった。
違う、この人じゃない。私を愛してくれるのは、輝く金の癖毛に深緑の瞳をした麗しき騎士様。
何故だか真っ白な空間で、ぐるりと首を動かしてみる。誰かいないか。目の前で此方を見ながら笑っている大嫌いなあの二人以外に、誰でも良い、アランでなくとも良いから、誰かいないだろうか。
不安になって泣きそうになった頃、聞きなれた声が耳元で囁く。
「どうしたんだい、セレス」
「アラン様!」
安堵しながら声の主に抱き付くが、それはそっと押しのけられる。普段の彼なら嬉しそうに抱き返してくれるのに。どうして、どうして今日は抱き返してくれないの。どうして、そんなに優しい目で、可哀想な子を見るような目を向けるの。どうして、どうして、どうして。
「面白みのない人形」
心臓が潰れたのではないかと思った。大好きな声が、心の奥底に刺さって抜けてくれない言葉を紡ぐなんて。にっこり微笑む顔はいつもの優しいアランなのに、いつものアランではない。
「君といるのは退屈だ。お人形遊びは趣味じゃないんだ」
彼の真顔ってこんなにも恐ろしかったかしら。呆然と整ったアランの顔を見つめる事しか出来ないセレスから、アランはあっさりと離れて行く。そうして向かっていく先には、顔までは分からないが、女性の姿があった。
そっと女性の腰を抱き、ちらりともセレスを見ないまま去って行くアランに、セレスは泣きながら待ってくれと懇願する事しか出来なかった。
「嫌よ!」
自分の声で目が覚める。涙で濡れた顔に、ぜえぜえと荒い呼吸。寝起きの頭が覚醒するまでに少し時間がかかるが、あれが夢なのか現実なのかが分からない。
周囲は真っ白な空間などではない、見慣れたダルトン家の自分の部屋だ。大声に驚いたらしいティナが慌てて扉を開け放ち、何事かと目を瞬かせていた。
「お嬢様…どうかなさいましたか」
「いいえ…なんでも、ないわ」
まだ身体が震えている。何だったのだあの夢は。元婚約者は仕方ないとして、アランがあんなに冷たい目で自分を見つめてくるはずが無いのに。あんな事を言うはずがないのに。涙に濡れた目をぎゅっと閉じ、鼻から大きく息を吸い込んだ。
「何か、良くない夢でも見たのですか」
「…思っていたよりも、嫌な思い出は忘れられないのね」
「ああ…」
察してくれたらしいティナが、濡らしたタオルを差し出してくれる。それに顔を埋め、忘れてしまおうと別の事を考えようとした。だが、ティナに差し出された深紅の薔薇の花が、アランの存在を思い出させて胸を重たくさせた。
大丈夫、あの人は簡単に何処かに行ったりしない。他の女性に心を奪われたりしない。大丈夫、大丈夫、大丈夫。だって今日もこうして、あの人からの真心が届いているのだから。
『チョコレートを沢山用意して待っているよ』
カードに書かれたメッセージにほっとして、セレスは漸くベッドから抜け出したのだった。
◆◆◆
どうしたものか。大丈夫だと頭では分かっているのに、あの夢が忘れられない。隣に座って嬉しそうに微笑んでいるいつものアランの顔を見ながら、セレスは何となく居心地が悪かった。
信用していないわけでは無い。毎朝届けられる薔薇とカードも、仕事が休みの日は優先してセレスに時間を使ってくれている事も、大事にされていると思えている。
社交界での高嶺の花であるアランの婚約者になったは良いが、未だにアランは女性陣から絶大な人気を誇っている。夜会に行けば遠くから黄色い声が上がっているし、過去の出来事を思い出しては不安になる事だってある。でもその不安を取り払ってくれるのは、いつだってアランだった。
大きくて温かい手が、優しく撫でてくれるだけで落ち着ける。手を取ってくれれば、一緒に何処へだって行ける気がした。深緑の瞳が優しく顔を覗き込んでくれるのが好きだ。光を反射してキラキラと輝く癖毛も、愛おしそうに名前を呼んでくれる低い声も、全てが愛おしくてたまらない。
「…セレス、どうかした?」
「あ…いいえ、ごめんなさい」
婚約者と過ごしているのにぼうっとしているなんて。慌てて笑顔を浮かべても、アランには通用しない。心配そうに眉尻を下げて顔を覗き込みながら、アランはセレスの頬に触れた。
「何か考え事?」
「あの…近い、です」
「ああ、やっぱり。泣いた痕がある。何かあったのかい?」
セレスの目尻に優しく唇を落としながら、アランは優しくセレスの頭を撫でた。何度も同じリズムで繰り返し撫でられているうちに、身体の力が抜けていくような気がした。やっぱりあれは夢でしかない。傷付いた記憶と、アランが何処かに行ってしまうのではないかという恐れが混ざり合って、可笑しな夢として現れただけ。
「少し、怖い夢を見たのです」
「どんな夢?怖い夢や嫌な夢を見た時は、人に話すと良いって言うけれど」
まさかあの夢の話をアランにするのか。きっと憤慨するだろうなと思うが、このまま話さなくても拗ねてしまうだろう。
「泣くほど怖い夢を見るなんて…何か化け物にでも襲われたかな」
「そんな子供のような夢ではありませんわ!…ええと、その、昔の夢と…言いましょうか」
しどろもどろになりながら返事をすると、アランはゆっくりと眉間に皺を寄せる。昔の夢、泣くほどの夢。それが元婚約者が関係している事に気付いたのだろう。まだ元婚約者への想いが残っている。そう思われてしまっては敵わない。
「あの方の事は、本当にもうどうでも良いのです。怖かったのは、その続きと言いますか…」
「続き?」
「…アラン様が、私ではない人と何処かに行ってしまうのです」
夢の中で言われた言葉をぽつりぽつりと零しながら、アランに握られた手を握り返し、どれだけ怖い思いをして目覚めたかを話して聞かせた。アランは話を聞いている最中ずっと真顔だったが、話し終える頃には呆れたような顔でセレスを見ていた。
「俺がセレスにそんな酷い事言うわけないだろう?まして、セレス以外の女性を選ぶなんて!」
「だから夢だと言ったではありませんか!」
「夢だとしても、俺がそんな事すると思われたら嫌だ。全く、あの二人はこんなにセレスを傷付けて…」
ブツブツと文句を言いながら、アランはチョコレートを一粒取ってセレスの唇に押し当てる。大人しく口を開けば、ゆっくりと溶けていく甘さが広がった。
「大丈夫。俺はセレスしか愛してないし、これから先愛する人が増えるとしても、一番はセレスだ」
「増えるんですの?」
「増えるだろう?俺たちの子供はきっと可愛い」
にっこり微笑み、アランはセレスの手を摩りながら楽しそうに語る。
庭をもう少し整備して、子供が走り回れる場所を作ろう。そこに大きな木があれば、二人で子供たちを見守りながらのんびりしたい。子供は何人が良いだろう。二人?三人?男の子と女の子、どちらもほしいけれど、元気に生まれてきてくれれば性別なんてどうだって良い。もしもセレスに似た女の子が生まれたら、きっと嫁に出すのが嫌になってしまうんだろうな。男の子が生まれたら剣を教えてやりたい。きっと立派な騎士になるだろうから。
あれもこれもと楽しそうに話すアランは、全てこの先の未来の事を話した。セレスはどうしたい?と聞くアランは、とても幸せそうに笑っている。その顔を見ると、不思議とセレスの不安感は消え去り、笑顔で将来を語らう事が出来た。
「もう怖い夢は忘れられた?」
「はい、もうすっかり」
「それは良かった。でもそうだな。セレスがそんな夢を見てしまうのなら、少し予定を変更しようか」
優しく手を取りながら立ち上がるアランに導かれ、セレスはサンルームの窓から見えるゴールドスタイン家の庭を見た。普段ならばそれはそれは見事に手入れされた庭が広がっているのだが、今日は一角が布で覆われていた。
「あれは…?」
「セレスが気に入ってくれると良いんだけれど」
王都のゴールドスタイン邸は、現在アランの父であるエドガーのものだが、兄のニコラスに代替わりすると同時にアランの屋敷になる。少し先の話になるが、いずれアランのものになるのだからと、屋敷や庭の改装はアランの好きにして良い事になっていると、アランは言った。
「おいで。この屋敷の庭はあまり花が多くないだろう?整ってはいるけれど、華やかさに欠けると思ってたんだ」
断じてそんな事は無い。そう反論したいのに、アランはニヤニヤと嬉しそうな顔をしながらセレスを引っ張ってサンルームから庭へと出る。じゃれつく大型犬のように、セレスを引っ張って布が張られた一角へ辿り着くと、勢い良くその布を捲り上げる。
「俺からセレスへのプレゼント」
まだ整わない庭。あちこち掘り返され土がむき出しになっているし、プレゼントと言われてもピンとこなかった。
「まだ手を付けたばかりだからこんなだけど…ここはセレスが寛げるように薔薇園にするんだ」
あそこに小さめのガゼボを置いて、レンガで道を作って、沢山の薔薇を植えるんだと、アランはあちこちを指しながら笑う。
言葉を失ったままのセレスの顔を覗き込み、あまり嬉しくないのかと不安げな顔をしたのを見て、セレスは漸く微笑んだ。
「赤い薔薇も植えてくださいますか?」
「勿論!ここで二人でゆっくりしよう。子供たちから離れて、夫婦二人で過ごす時間があっても良いだろう?」
「気の早い方ですね」
クスクスと声を漏らして笑うセレスに、アランが安心したように微笑みながらセレスの腰を抱いた。引き寄せられるまま、アランの肩に頭を預けたセレスが、至極当然の疑問を口にした。
「何故お庭がプレゼントなのです?」
「セレスはこの家に嫁いでくるだろう?慣れない屋敷で息が詰まるだろうし、少し隠れて休める場所があったら良いんじゃないかなと思ったんだ」
だから建物から少し離れた場所に薔薇園を作るのだと言葉を続け、我が家の庭師は優秀なんだと笑う。
「本当は完成するまで秘密にしておくつもりだったんだけど、なんだか不安そうにしていたから教えておくよ」
よしよしとセレスの頭を撫でたアランが、持ち上げたままの布をそっと降ろす。嫁いで来た日のお楽しみにしようと笑って、アランはまたサンルームへ向かって歩き出した。
「さあ、まだまだ用意したチョコレートが残ってるよ。甘い物を食べながら子供の名前でも考えようか」
そんな冗談を言いながら、アランはいつものように優しく、愛おしそうにセレスを見つめる。それに安心したセレスが微笑むと、アランは軽々とセレスを抱きあげた。
「ですから気が早いと言っているではありませんか!まだ式の日取りも決まっておりませんのに!」
降ろせとじたばた暴れてみても、普段から鍛えている騎士に適う筈もなく、セレスは大人しく元いた部屋に戻される。そのままソファーに降ろされるなんてあり得ない。当たり前のようにアランの膝の上に乗せられ、がっちりと捕まえられてしまえば、もう諦める他ないのだ。
「うーん…やっぱり暫くは二人きりでも良いかな」
そう言いながら、アランは自分の口にチョコレートを放り込む。まだスキンシップに慣れないセレスが顔を真っ赤にして固まっているのを見ると、にんまり笑って唇を重ね合わせた。
「沢山お食べ」
文句を言わせないよう、アランはセレスの口にチョコレートを詰め込むのだった。