結◆回答
――8月16日。あの日から丁度ひと月が経っていた。
相も変わらず、蝉はせわしなく泣き喚いている。それは思わず耳をふさぎたくなるような騒動しさ。けれどその理由は、決して蝉のせいだけでは無かった。
「なんじゃ、要ももう二十歳か!そりゃあいい!飲め、飲め!」
五十畳はあろうかという、神社の敷地内に建てられた会館の大広間。そこで開かれている法事の食事会で、昼間っから酒を進めてくる遠い親戚の爺さんたち。
俺の右側に座っている名前も知らない坊主頭の爺さんは、恐らく80歳を裕に超えているであろうに、それでもびっくりする程豪快に笑いながら、俺のグラスに向けてとっくりを傾けた。
そんな爺さんに俺は、おいおい、グラスに日本酒かよ。などと呆れながらも、爺さんの昔話にただ相づちを打ち続けていた。
「ほいでな、その婆さんってのがほんまおっそろしい婆さんで。竿を振り回して追っかけてきおって」
「何いっとんじゃ。ありゃお前さんがばっさんの日記に落書きしよったからじゃろが」
「じゃけどありゃ日記じゃなかったんじゃ。どこもかしこも真っ白でな」
その爺さんの言葉に、俺は思わず顔をしかめる。
真っ白なページばかりの、日記。それは酷く既視感のある――。
俺の脳裏に過るのは、あの時の一冊の白い本。そして、一抹の不安と、予感。
「そんな筈ない。ばっさんは日記て言うとったんじゃから」
「何じゃ!俺を疑うんか」
「そうは言っとらん」
とうとう口論を始める爺さん連中。けれど俺は、そんなことはお構いなしに口を挟む。
「あの!」
どうしても、確かめざるを得なくて。
「そのお婆さんの、名前は――?」
”千秋”じゃよ。
告げられたその名に、俺は雷に打たれたように走りだした。その辺に散らばった適当なサンダルに足を突っ込み、一目散に蔵へと向かう。
そして、あの日ここに帰ってきてから避けるように蔵の奥にしまい込んだ、あの黒塗りの木箱を引っ張り出した。
俺は恐る恐る蓋を開ける。そしてその本のページを、震える指で――めくった。
そこに書かれているのは、あの日と変わらない、何の変哲もない数字の並び。
”2087/7/16”
「――ッ」
――あぁ、どうして気が付かなかった。どうして俺は、何も確かめなかったんだ。
その文字は――この筆跡は、あの日千秋がこの本に書いた、あの時の字と同じだったというのに。
「……千秋」
俺は今度は木箱から写真を取り出す。そしてそれを順に確かめて……手を、止めた。
俺の視線の先、手の中の写真に写るのは、ひまわりの様に明るい笑顔を咲かせる千秋の姿。着物姿の優しそうな男と寄り添うように並ぶ、麗しい千秋の姿。その彼女の腕の中には――鈴のついた赤い組紐をしっかりと握り――無邪気に笑う、赤ん坊が抱かれていた。
その姿は本当に幸せそうで――あの日のように、眩しい笑顔で。俺はそんな彼女の微笑みに、縋るような思いで写真を裏返す。そしてようやく、理解した。写真の裏に綴られた、さらりとした涼やかな文字に――。
「……っ」
――あぁ、千秋。本当に、千秋だ。
刹那――じわりと滲む、俺の視界。
”100年後の君へ
私は幸せになりました
君も夢を叶えて下さい
100年前の私より”
「反則……だろ」
あぁ……なんだよ。そうか、そうだったのか。千秋はちゃんと幸せになったんだな。ちゃんと……夢を叶えたんだな。
この本は、千秋が俺に……俺の為に用意してくれたものだったんだな。
それなら、俺も決して諦めるわけには行かない。写真の中で笑う、千秋の為に――。
俺はシャツの袖で顔を拭い、全力で走り出した。――そして。
「――父さん!俺、やりたいことがあるんだ!」
―終―