転◆帰還
次の日、千秋は図書館でたくさんの本を借りてきた。そして何も言わずに、俺の目の前に積み上げていった。その次の日はどこから手に入れてきたのか、学術雑誌を過去二年分。そしてまた次の日は研究動画とそのデータ。それは多分、普通なら簡単には手に入らないものなのだろうに、千秋はそれを澄ました顔で俺の目につく場所に置いていく。
「……どういうつもり?」
ある日俺が尋ねると、千秋は笑った。
「応援してるんだよ」
それは、出会ったときと何ら変わることない明るい笑顔。そんな千秋が眩しくて、俺はただ俯く。
「……余計なお世話」
「そんなこと言って、ちゃんと読んでるの知ってるんだから」
彼女はそう言って、嬉しそうに目を細めた。そしてずっとそんな態度を崩さない千秋に、俺は少しずつ彼女を――そして本当の自分を、受け入れられるようになっていった。
*
とうとう約束の一ヵ月。明日、千秋のタイムマシンが戻ってくる。
でも俺は、まだ帰りたくなかった。千秋といられるのが嬉しくて、知識を深めるられることが楽しくて。だから俺は深く考えずに、つい口走ってしまった。
「もう少しここにいたら駄目かな」
だけど千秋は、即答する。
「ダメ」
それは予想していた筈の答え。けれど俺は、千秋のいつもより低いその声に狼狽えてしまった。
「で、でも――タイムマシンでいつでも帰れるわけだし、ちょっとくらい……」
「うん。そうだね。だけど……」
千秋は、天井にまで届きそうな窓ガラスにそっと左手を添える。――そこには。
「私、来月結婚するんだよね」
「――、は……?」
唐突にそんな言葉を口にした千秋の左手には、涙の様にきらりと光る銀色のリング。
「……けっ……こん?」
俺は茫然と呟く。それはあまりに予想外で。あまりに、理不尽で。
だってあり得ないだろ。結婚するのに、俺を部屋に泊めたのか?恋人がいるのに、俺を受け入れたっていうのか?……おかしいだろ、そんなの。
「おかしい……だろッ」
「……うん。おかしい、よね」
俺の言葉に、千秋は泣きそうな顔をして。
……何だよ、それ、泣きたいのはこっちだよ。
千秋は窓から外の景色を見下ろして、呟く。
「私ね、親いないんだ。ずっと家族が欲しかった。だから――結婚しようって言われて、いいかなって」
その瞳は、切なげに揺れていて――それはまるで、陽炎の様に。
「何……だよ、それ」
「うん。だから……」
彼女は、悲しそうに目を細める。
「ありがとう。一ヶ月、楽しかったよ」
そう言って、今にも泣き出しそうな顔で笑った。
*
そしてとうとう、その時が訪れた。
「要は、何時から来たんだっけ」
千秋は、見開かれた本の白い一ページに視線を落としたまま、独り言の様に呟く。
「……1987年7月16日」
だから俺も、自分にしか聞こえないくらいの声で、答えた。でも千秋は、そんな俺の小声をちゃんと聞き取ってその白く細い指で書き綴る。
“1987/7/16”
その文字は少しだけ震えていた。
そして千秋はゆっくりと、どこかためらう様に、俺の左手を握る。けれどそれはほんの一瞬のこと――。彼女は、自身の白い右手にそっと添えられた俺の左手を、何かを確かめるように力を込めた。
「目を、閉じて」
その声は、水面に揺蕩う葦の様に穏やかで――その瞳はもう、出会った日の美しい女性でも、あの夜愛し合った彼女でも、そして昨日の孤独な少女のものでも無かった。
そんな千秋に――未だ俺だけが取り残されて、まだ何も理解できずにいる。
それでも俺は、彼女の言葉通りゆっくりと目を閉じた。瞬間、降りた瞼の向こう側に、淡くも眩い白い閃光が立ち昇る。それはあの日と同じ……けれど、あの時よりもずっと白く、ずっと眩しい。
「――さようなら、要」
俺の耳元に響く、まるで愛を囁くような彼女の声。それは愛し気に、悲し気に、切な気に、――そして。
俺が意識を失う間際――ちりん、と――何処かで聞いたことがあるような鈴の音が、一度だけ響いた。