承◆転移
「――ッ!」
俺がハッと飛び起きると、そこは見慣れない場所だった。
視界に広がるのは、巨大な一枚ガラスに映る、ギラギラとした太陽光に照り返る高層ビルの乱立する街。そして、異様にだだっ広い生活感の無い白い部屋だった。俺はその部屋の、窓の側に置かれたグレーのソファに寝かされていた。
俺は窓から広がる外の景色を呆然と眺める。
「ここ……何階だよ」
地上に居る筈の人の姿も、この高さからは確認することが出来ない。登ったことはないけれど、東京タワーからの景色はこんな感じだろうか。
そしてそんな俺の問いに、一拍置いて俺の背後から答える声。
「100階だよ。少年」
「――ッ!?」
少し低めの落ち着いた女性の声。俺がその声に振り向くと、俺より少し年上に見える女性が立っていた。
――美人だな。
それが俺の最初の、その人へ感じた印象だった。
さらりとした肩にかかる程の黒髪と白い肌、すらりと長い手足、くびれた身体。そしてそれを隠す気も無いような、白い無地のVネックのTシャツと、水色のショートパンツを身に付けている。
しかもそのシャツからは下着が薄く透けていて、俺は思わずそこを凝視してしまった。
けれどその人は俺のそんないかがわしい視線など気にも止めないかのように、その右手に持った缶チューハイを自然な動きで口に運ぶ。そしてそのまま、ニヤリと笑った。
「君、名前は?」
それはどこかからかうような口調。けれど俺は彼女の雰囲気に呑まれ、ただ呆然としたまま答えることしか出来ない。
「――秋月……要」
俺の言葉に、彼女は少しだけ目許を細めた。そしてゆっくりと口を開く。
「要、要ね、いい名前。私は千秋。佐倉千秋」
そう言って彼女――いや、千秋は、野に咲くひまわりのように明るく笑った。
*
そして俺は、自分の置かれた状況もわからないままに、千秋から衝撃的な事実を聞かされた。
それは今が、俺の居た時代より遥か未来の、西暦2087年だということ。そしてこの時代には既に、タイムマシンが存在しているということだった。
「居るんだよね、たまに。過去にタイムスリップしたは良いけど、戻って来るときにその時代の人を引き連れて来ちゃう人が」
千秋は平然とした口調でそう言って、不謹慎な笑顔を浮かべる。
「君もそれで連れて来られた口かなぁって思ったんだけど、違う?」
千秋は俺にそう尋ねるが、俺は先の千秋の話が理解出来ず、ただ呆然とすることしか出来なかった。だって信じられるか?タイムマシンだぞ?
「はい、いい反応。タイムマシンなんてびっくりだよねー。私も最初あり得ないって思ったし。でもこれが本当なんだよねぇ」
そう言ってニヤリと笑う千秋は、俺の反応を心底楽しんでいる様で……。俺はようやく、口を開く。
「俺、ただ本をめくっただけなんだけど……」
「だからぁ、それがタイムマシンだったのよ。ページに行きたい日にちを書くと飛べる様になってるの。――ん?でもおかしいな。周りに誰もいなかった?」
俺の言葉に、千秋は怪訝そうに眉をひそめた。
何だろう。何がおかしいのか。
「俺一人だったよ。日付も、俺が書いたんじゃないし」
「あー、じゃあその本壊れてたのね。きっと元の持ち主が過去から未来へ戻ろうとして失敗したんだよ。それを要が見つけて――どう言うわけか起動しちゃったのね。災難だったねぇ」
そう言った千秋の顔は全然深刻には見えなくて、俺は思わず言葉を返す。
「笑い事じゃない」
けれど俺の視線の先の千秋は、飄々とした態度を崩さない。
「でも大丈夫、安心していいよ。私がちゃんと帰してあげるから」
千秋は笑顔でそう言うと、冷蔵庫からペットボトルを一本取り出し、俺に差し出した。
「まぁ飲みなよ。ただねぇ、私の本、昨日メンテナンスに出したところで、一ヶ月後しか戻って来ないのよね。要、一ヶ月待てる?」
「一ヶ月!?」
そんな――一ヶ月もここに?いやでも、タイムマシンで元の日付に戻ればいい訳だから……。
「夏休みが延びると思えば、悪くないか」
「じゃあ決まり」
千秋は俺の言葉に、どこか嬉しそうに目を細め――笑った。
こうして、俺と千秋の奇妙な同居生活が始まった。
*
千秋の朝は早い。6時には起き、身支度を整えると朝食も食べずに仕事に向かう。最初はただ朝食は食べない派なのかと思っていたが、しかしそれはどうやら違っていた様だ。
デリバリーの夕食が三日連続で続いた夜、俺は千秋にそれとなく尋ねてみた。料理はしないのか、と。すると彼女は笑って答えた。自分には料理――その他全般家事の才能が無いのだと。それを聞いた俺は、次の日から掃除や洗濯、そして夕食を作り、彼女の帰りを待つようになった。
しかしそれだけでは時間が余るだろうからと、千秋はようやく気が付いた様な顔をして、俺に暇つぶしとして良いものを貸してくれた。それはノートなんかよりもずっと薄い、パソコンと言うものだった。
そして気が付けば、俺がここに来てから10日ほどの時間が経っていた。
「……すげぇな」
俺は千秋のいない間、家事以外の時間はずっと、千秋に貸してもらったパソコンで、ひたすらに調べ物をしている。それは俺の時代には無かった通信機器。世界中の情報が一瞬で、しかもタダで手に入る。そしてその中には勿論、タイムマシンの情報も含まれていた。
「これ、面白すぎるだろ」
俺は素粒子物理学の論文に視線を走らせながら、一人ほくそ笑んでいた。――ああ、この感覚、久しぶりだ。そうだ、俺が知りたかったのはこういうことなんだ。
そうやって、真夜中になっても毎日パソコンに向かう俺に、ある日千秋がこう尋ねた。
「要は研究者になりたいの?」
その声は、いつもの様なからかうようなものではなく、至極真面目なものだった。俺はそんな千秋の声に、思わず手を止める。――図星だった。けれど。
「……いや、別にそんな気は無いよ。ただ、面白いなぁって思っただけ」
俺は正面に光る青白い画面を見つめたまま、なるべく自然な口調になるように努めて答える。そんな俺の背後に立つ、千秋。
「嘘。だってそれ、ピーター・アングレール博士の論文でしょう?そんな難しい論文、普通の人は読まないよ」
俺は千秋のその言葉に、声を詰まらせた。
千秋はそんな俺を背後から見下ろしたまま、続ける。
「なるほどね。やけに冷静だなって思ってたんだ。そっか、要は研究者になりたいんだね」
その声は酷く落ち着いていて、俺はどうしてか、心臓を締め付けられたみたいに苦しくなった。
「……やめろ」
「――?」
「わかった様なこと、言うなよ」
俺は千秋に背を向けたまま呟く。――だってそれは、叶わないから。
「ウチ、神社なんだよ。代々神主でさ。俺、長男だから……」
“お前は跡継ぎだから”――両親からも、親戚からも、ずっとそう言われ続けてきた。大学までは好きにしていい。けれど卒業したら、神社を継ぐのだぞ、と。それはまるで、呪いの言葉みたいに。
どんな賞を取ったって、どれだけ知識を学んだって、結局のところ本当にやりたいことはさせてもらえない。そんな現実に、いつの間にか俺は全てを諦めてしまっていた。
「……要」
千秋の声が、震える。
――あぁ、カッコ悪い。俺、何で知り合ったばかりの人に、こんなこと言ってるんだろ。……あぁ、そうか、他人だから……。すぐに別れるってわかっているから、話せるんだな。
俺は椅子から立ち上がり、ゆっくりと振り向いた。
「――要?」
俺の顔を見つめて、驚いた様に瞳を揺らす千秋。彼女の顔はオレンジ色のペンダントライトに照らされて、どこか淡く陰っていた。その困惑気な彼女の表情に、今の俺の顔はそんなに酷いのだろうかと、俺は自嘲ぎみに口角を上げる。
「……何で俺、諦めなきゃいけないんだろう」
思わず口をついて出る、本心。それは重く暗く、夜闇に交じって消えてしまいそうな声で。俺はそんな自身の擦れた声に、呆れかえる。
「……要」
千秋の腕が、俺に向かって伸ばされる。それは同情か、それともただの憐れみか。
だがそんなことはどちらでも構わない。今だけは誰も俺を縛らない。今だけは、俺は本当に自由だ。
俺は、そんな不安定な感情に心を支配されながら、いつの間にか、千秋の腕の中で静かな眠りについていた。