Page 13 すっごいこれが好きだった
《当機は間も無く成田空港に到着します。》
ふぅ。
ようやく流れたその機内アナウンスを聞いて、思わず息が溢れた。いよいよだわ。もうすぐ日本に到着する。そして、やっとあの子に会える。
……あの子は知らないのよね?
母親が私だってこと。
上手くいくかしら。いえ。こんなチャンスを与えられたんですもの。上手くいくようにしないと……またあんな思いをするのは絶対に嫌。
脳裏に浮かんだ光景を打ち消すように頭を振り、今まで読んでいた日記帳を急いで手荷物にしまった。
シートベルトを締め、着陸の準備をする。
もうすぐ。もうすぐ会える。あの子の母親として。私は、今度こそ間違えない。
◇
◇
◇
学校から帰ってきて門をくぐると、家の中から美味しそうな匂いが漂ってきた。
あれ?
結衣は、今日は部活見学で帰りが遅くなるって言ってたよな? 疑問に思いながら玄関ドアを開けると、玄関の三和土に見知らぬ女性用の靴があった。ローヒール? パンプスっていうんだっけ、こういうの?
えーっと、これは……! あっそうか。もしかして、海外出張中だっていう母親が帰ってきたのか!
だよな。
いくら何でも、ずっと親が姿を現さないって変だし。俺も結衣も、まだ未成年な訳だから。
うわっ! 初対面だ。どうしよう。
あっちは、俺のことを当然「武田 結星」だって思っているんだよな? その辺りの認識はどうなっているんだろう?
結衣は、この俺が武田結星であることに全く違和感を感じていないみたいだった。
けど、母親は?
「あなた誰?」とか言われたらやだな。そんなの居たたまれないっていうか、ポキッって心が折れちゃいそう。この家にいられなくなるのも困るし。
……でも、会わないわけにもいかない。ちょっと、様子を覗いてみるとするか。
そーっと、リビングと、その向こう側にあるキッチンの方に近づく。
そして、リビングの入口からこっそり中を伺うと、
「あら? 誰か帰って来たの?」
よく通る、はきはきした女性の声がした。
「やだ。結星じゃない。なにコソコソしてるのよ。こっちに入って来なさいよ」
コソコソって言われちゃった。してたけど。
仕方ない。呼ばれちゃったし。第一印象を悪くしないように、ちゃんと挨拶はしておこう。
この場合は……
「ただいま、母さん」
「……おかえりなさい」
そうして対面した俺たちの母親だという女性は、えくぼの似合う、若々しい……でもそれなりの年齢と思われる大人の女性だった。
これが母親? すっごい美人じゃん。あっ、でも、この身体の母親なんだから、美人なのは不思議じゃないか。
「着替えてらっしゃいよ。今日は、久しぶりに家族団らんだから、いろいろ作ってるのよ。楽しみにしていてね」
なんか、明るくて優しそうな人だな。明朗な喋り方の中にも柔らかい調子が声に含まれていて、なんだか、ふわっとした気分になった。いいかも、こういうの。
「わかった。着替えてくる」
部屋で制服から部屋着に着替えて、ベッドにゴロンと横になる。
可愛い妹に、美人で優しい母親か。
この新しい生活は、凄く恵まれている。まだこのイケメンが自分だっていう気は全然しないけど。……誰がこうしてセッティングをしてくれたのか分からないけど、ありがとうだな。
俺の心の声に応えるように……でも、なぜか俺の顔の真横で、赤い光がピカッと光った。
えっ!? なんでここにあるわけ?
寝転がる前は、ベッドの上には布団と枕以外に何もなかったはず。
この日記帳、もしかして神出鬼没なの?
慌てて身体を起こし、赤い日記帳を手に取る。
今日の日付。
◆6月17日◆
〈可愛い妹に美人で優しい母親ができた。俺って凄く恵まれてる気がする。誰だか分からないけどありがとう。〉
いやいや、ちょっと待て。
確かに思ったよ。でも、なんでまるで俺が書いた風に記述が増えてるわけ? 微妙に文面が編集されてるし。
……この日記帳が存在する意味って、いったいなんなんだろうな?
それに、どう考えても勝手に現れたり消えたりしてるよね、これ。
学校に持って行ってもいないのに《声》も聞こえた。
超自然的な存在には違いないんだろうけど、あまりに非常識過ぎて、どう扱っていいのか分からない。
そして、書いてある内容は、絶対に他人には見られたくなものだし。
今まで、この家には結衣しかいなかった。そして、結衣はこの部屋の中には入ってこない。いつも部屋の入口から声をかけてくるだけだ。だから、そこら辺に放っておいたわけだけど。
これからは、ちゃんと保管した方がいいよな?
……でも、どこへ? 消えてる時はどこに行ってるんだろう、これ。そこに、俺の意思でしまえたりするのかな?
《収納しますか?》
できるのか。うん、ならしまっておいて。
そう思った途端、フッとかき消えるように日記帳が目の前から姿を消した。いったい、どこに収納したんだ? 全然わからん。これって、自由に取り出すこともできるの?
《取り出しますか?》
いや、いい。そのまま収納しておいてくれ。とりあえず、どこかに出し入れできることは分かった。
ちょっと、心の整理が必要みたい。
目をつぶって、この世界でこれまで起きた出来事を振り返る。
・朝起きたら、武田 結星だった。
・結衣という妹がいた。
・新しい学校に転入した。
・電気街と美容院に行った。
・母親という女性が家に帰ってきた。
この世界は、以前過ごした世界と非常によく似ているが、いろんなところで違っている。ここは男性が少なく、男性は女性に大事にされている。生活は国に保障されていて一生困らない。
そして今日、俺たちの母親という人と会った。俺は、この世界で何をすればいいのかな? それとも、何もしなくてもいい?
そうやって、あれこれ思い出し、考えを巡らせている内に、俺はいつの間にかウトウトしていたようだった。
「お兄ちゃん、起きて。夕御飯にしようって、お母さんが言ってるよ」
結衣の声で目が覚めた。
「夕御飯?」
「そう。お兄ちゃん、お母さんとさっき会ってるでしょ。今日はお母さんが作った御飯だよ。降りてきてね」
そうだった。家族団らんって言ってた。
グー。
そう意識した途端に、お腹が減った合図か。俺の腹時計は素直みたいで、かなり規則的に腹が減る。
んーっと。身体を伸ばして伸びをする。
じゃあ、御飯食べに行こうっと。今日のメニューは何かな? 楽しみだ。
*
おー凄い。
ハンバーグにオムライス、鶏の唐揚げ。海老グラタンにコーンスープ。俺の好きなものばっかり。思わず頬が緩んで、フニャッとなる。唐揚げは、ちゃんと骨が付いていて、チューリップの形にしたやつだ。そうそう、やっぱりこれだよな。
「お兄ちゃん、凄く嬉しそう。家で揚げ物なんて久しぶりだものね」
そう。結衣の御飯も美味しいけど、ほぼ和食か、カレーとかシチューみたいな煮込み系で、揚げ物やオーブン料理はなかった。そりゃあ、火傷とかしたら、危ないもんね。
「やっと3人揃ったわね。長いこと留守にしてごめんなさい。当分、長期出張はないはずだから、安心してね」
「お母さん、いつもお仕事お疲れ様。お兄ちゃんも私も、新しい学校にはちゃんと行ってるよ。ね、お兄ちゃん」
「うん。お帰り、母さん。学校はみんな親切で楽しいし、今のところ順調」
「そう。それはよかったわ。じゃあ、冷めない内に食べましょうか?」
「「頂きます」」
何からにしようかな? やっぱり唐揚げかな。
お皿に山と積まれた唐揚げを1本手に取る。揚げてから、まだあまり時間が経っていないのか、ほかっとした熱気が残っている。がぶりと齧り付くと、ジュワッと肉汁と緩んだ脂の旨みが口の中に溢れた。
美味い。鶏肉の旨みを堪能。下味バッチリだし、ニンニクと生姜がしっかり効いていて味が濃いめ。まさに俺好み。
「どう? 美味しい?」
母さんが、俺の方を見ながらちょっと首を傾げた。
「うん。これ凄く美味いよ。ジュワッときた」
「結星は、唐揚げが好きだものね」
母さんが嬉しそうに笑う。そうなんだ。結星、俺と味の好みが一緒じゃん。まあ大抵の若い男は唐揚げが好きだけどな。
「お兄ちゃん、このハンバーグも美味しいよ。お母さんの御飯は、やっぱりひと手間かかっていて違う」
そうだよ。ハンバーグも食べなきゃ。確かにこれもすっごい美味そう。表面にしっとり脂が滲んでいて、テカってしていて、さらに全体にふっくらしている。これも、箸を入れたらジュワッと来そうだな。肉汁肉汁。
「私が留守してた間、結衣が御飯を作ってくれていたんでしょう? ありがとう、結衣」
「私が作るのは、簡単なものばっかりだよ。お兄ちゃん、わりと何でも食べてくれるから何とかなったけど、もっとレパートリーを増やさなきゃ。やっぱり男性って、揚げ物とか好きだよね」
「でもまだ、1人で揚げ物はしちゃダメよ。やるなら私と一緒にね」
「うん。私、料理が上手になりたいんだ。やっぱり男性は胃袋を掴むのが大事だっていうし」
ハンバーグうめえ。何これ。肉汁ヤバ。合挽き肉だよな、この味。豚肉と牛肉のダブル攻撃。それに玉ねぎのみじん切りも沢山入っていて、いろんなアミノ酸に舌が喜ぶ。この脇についてる人参、甘くバターで煮たやつだ。これも好き。
「ふふ。結衣は新しい学校で気になる人でもいたの?」
「まだ女子クラスだから分かんない。でも、絶対に混合クラスに行きたい」
次は海老グラタンにいくか。海老でかっ。そしてクルリンって丸まってる。
海老の食感はプリップリ。もうプリップリ。
プツっ、プツって噛むたびに音がする。鼻に抜ける海老特有の香ばしい香りに、びよーんって、柔らかく伸びるチーズ。バターたっぷり、牛乳たっぷりの濃厚ホワイトソースに絡めて食べても、これまた美味い。
「結衣は女子クラスなのね。あの学校は難関校だから、最初は仕方がないわよ。でも、やればきっと結果がついてくると思うわ」
「うん。頑張る」
よし、じゃあいよいよオムライスだ。
オムライスは、俺の好物ベスト3に入る料理なんだよ。ふんわりとろりんと絶妙に火が入った贅沢卵の上に、ケチャップじゃなくて、手作り感のあるトマトソースがかかってる。これだよ、これ。このひと手間かけたのが上手いんだよな。
思い切って真ん中からパックリ割る。なんとなく。これが癖だから。
だって……えっ!?
パックリ割ったところから、濃い黄色のトロリとした液体がゆるっと溢れて出てきた。たぶん仕込んであった卵黄が潰れたんだろう。これって。じゃあ……もしかして。
卵黄と一緒に、切り口からのぞく赤い色がついたライスをスプーンですくう。
……やっぱり。これ、普通のチキンライスじゃない。
スプーンを口に持っていき、パクッと食べた。
モグモグ。モグモグ。
モグモグ……。
モグ……美味い。これ、たぶん母さんのオムライスだ。
挽肉とよく炒めた玉ねぎで作ったケチャップライス。俺、すっごいこれが好きだったはずだ。誕生日の度にこれを作ってもらって……
「あれ? やだ、お兄ちゃん、何で泣いてるの?」
気づいたら、ポロポロと涙が溢れてた。
「結星、美味しい?」
御飯を咀嚼しながら、無言で頷く。
「よかった。結星は、挽肉のオムライスが、昔から好きだったものね」
何で、同じレシピで同じ味なんだろう。以前の記憶は失ってしまったけど、分かる……子供の頃、母さんが作ってくれたのと全く同じ味だ。
俺は武田結星で、この人はその母親のはずなのに。
どうしてなんだろう?
懐かしい味を噛みしめながら、俺はしばらく温かい涙が止まらなかった。