ストーカー
振り返るより先に肩を掴まれ、私は体を強張らせた。あまりの恐怖に体が凍りついたように、悲鳴すら出せなかった。
どうすればいいの?
混乱する私の耳に、どこかで覚えの有る声が聞こえてきた。
「おい、どうしたんだ?!」
恐る恐る振り向いた私は、信じられない光景に目を見開いた。
片膝を着くような体制で、私の肩に手を置いていたのは、二度と会いたくないと思っていた鷺森蓮だったのだ。
「……なんでここにいるの?!」
叫ぶ私に、蓮は不快そうに顔をしかめた。
「私の事つけてたでしょ? 何のつもり?」
強い怒りを感じて、睨みながら問い詰める。
けれど、蓮はその言葉を無視して、私の足に目を遣った。
「足を痛めたのか?」
質問を無視された事で、私の怒りは更に増した。
「関係ないでしょ? それより何の用?」
苛立ちを隠しもせずに低い声で言うと、蓮は私の腕を掴み立ち上がらせた。
「離してよ!」
私は立ち上がると、蓮の腕を勢いよく振り払った。
後をつけるような真似をした蓮にも、彼と気付かずに本気で怖がってしまった自分にも、苛立ちを感じていた。
蓮は何も答えず、探るような目で向けてくる。
私は蓮に背中を向けて歩き出した。蓮が何を考えてるのか分からないけれど、こんな夜道に二人きりでいたくなかった。
痛む足に顔をしかめながら歩いていると、蓮が直ぐに追いついて来た。
「待てよ」
「何なの?」
私は、うんざりした気持ちになりながら立ち止まった。
蓮は無表情で私を見下ろしながら、冷たい口調で言った。
「お前雪香の婚約者に会ってただろ、何をしてたんだ?」
その言葉に、私は大きく目を見開いた。
「……どこからつけてたの?」
直樹と別れてからもう三十分以上経つ。その間ずっと見張られていたと思うと、恐怖を感じた。
どう考えても、蓮はおかしい。後をつけて来たのも有り得ない事だけれど、そもそもなぜ私と直樹が会っているところを見つけられたのか……まさか、私の職場まで知ってるの?
直樹との待ち合わせ場所は、私の会社の近くだった。
『これで終わりだと思うなよ』
昨日の蓮の言葉を思い出す。蓮は何らかの理由で、私に会いに会社迄来たのかもしれない。
想定外に私が直樹に会いに行ったから、声をかけずに観察していた?
真相は分からないけれど、蓮の行動はとにかく気分が悪くなるものだった。
警戒しながら睨む私に、蓮は予想を肯定する言葉を口にした。
「会社を出て来たところから、様子を見ていた」
「……何の為に?」
後ろめたさなど少しも感じさせない蓮の態度に、苛立ちが募った。
「昨日の話の続きだ、お前が逃げ出したせいで途中だったからな」
見下したような目を向けて来る蓮を、私は怯む事なく睨み返した。
「別に逃げて無いけど無礼な人と関わり合いたくないだけ。それからお前って呼ぶの止めてくれない? 他人にそう呼ばれるの嫌いだから」
一気にまくし立てると、蓮は眉を上げて面倒そうな溜め息を吐いた。
「……分かった、次からは名前で呼ぶ」
次なんて無いと思うけど。意外にも素直に頷いた蓮を見ながら、心の中で呟く。
そんな私の目の前で、
「沙雪、佐伯直樹と何をしていたんだ」
蓮は躊躇う事なくそう言うから、私は顔を強張らせた。
黙ったまま眉間にシワを寄せる私に、蓮が苛立ったように言う。
「おい、答えろよ」
「……何で名前呼ぶわけ?」
私が低い声を出すと、蓮は意味が分からないといったような顔をした。
「お前って呼ぶなって言ったのは誰だよ」
「私だけど、名前を呼び捨てにしてなんて言ってない。倉橋さんって呼んで下さい……鷺森さん」
私の言葉を聞き終えると、蓮はスッと目を細めた。
明らかに苛立ちを感じているようだった。それでも、蓮は言い返す事なく頷いた。
「それで、佐伯直樹とは何を話したんだ?」
少しの間を置いてからしつこく同じ質問をして来た蓮に、私はうんざりしながら言った。
「雪香の話に決まってるでしょ」
私が歩き始めると、蓮も当たり前のように付いて来た。
「雪香の何を話した?」
「協力して雪香を探そうって話をしただけ」
なぜ、尋問のような事をされないといけないのか。イライラとする私に、蓮が疑いの目を向けて来た。
「本当に、それだけか?」
「どういう意味?」
「佐伯直樹と随分親しく見えた。妹の婚約者って関係だけには見えなかった」
私は足を止め蓮をじっと見つめた。雪香とかなり親密そうだから、私と直樹の関係は当然知ってるものだと思っていた。蓮の様子をみる限り、わざと知らないふりをしているようには見えなかった……本当に何も知らない?
でもどうして、雪香は蓮に話さなかったのだろうか。
「ねえ、昨日私と雪香の仲が良くない事知ってるような口振りだったけど、その理由も知ってるの?」
小さな反応も見逃かさないように、蓮を見据える。
「は? 先に質問に答えろよ」
「先にそっちが答えたら、答える」
即答した私に、蓮は鋭い目を向けてきた。それでも、言い合っても時間の無駄と思ったのか諦めたような溜め息をついた。
「具体的な理由は聞いて無い。ただ長く離れていた双子の姉にひどく恨まれていると悩んでいて、最近は塞ぎ込む事も多かった」
「……どうして理由を聞かなかったの?」
「一度聞いたけど、雪香は言葉を濁した。言いたく無さそうだったから、追求しなかったんだ」
確かに、理由なんて言いたく無いに決まってる。
雪香が蓮を気に入っていたのは確かだし、マイナスイメージを与えるような事は隠しておきたかったのかもしれない。
なんてずるい雪香。
薄笑いを浮かべる私を、蓮は怪訝な表情で見た。
「何がおかしいんだ?」
「……別に」
私は蓮をチラッと横目で見ながら、短く答えた。
「おい、いい加減聞いた事に答えろよ」
忍耐も限界に来たのか、蓮は低い声を出した。
ちょうどアパートの近くのコンビニエンスストアに着いたところだったので、私は足を止め蓮に向き合った。
「昨日から思ってたけど、そもそも雪香とはどんな関係なの? 直樹はあなたの事知らないと言ってたけど、婚約者に言えないような関係って事?」
「……お前! いい加減にしろよ、くだらない事言ってないで早く答えろ」
本気で怒ったのか、蓮は凄むように言った。
鋭い目に見据えられ背筋が冷たくなる。それでも、私は引き下がらず強気で蓮を見返した。
「いい加減にするのはそっちでしょ? 自分がどれだけ非常識な事してるか分かってないわけ? いきなり絡んで来たり、後をつけたり……しかもちゃんとした身分も明かさない。そんな人に答える事なんて無いから早く帰ってよ」
コンビニの目の前だという事で、多少の安心感もあった。
強気で言うと、蓮は僅かに目を見開いた。
蓮は黒いコートのポケットから、何かを取り出した。
……名刺? 何をするつもりなのかと不審な目をする私に、蓮はそれを差し出して来た。
「……何?」
「俺の名刺だ」
「……」
怪しく思いながらも受け取り、印刷された文字に素早く目を通した。
―鷺森 蓮―
シンプルな白の台紙にそれだけが印字されていた。
「なんなの、これ?」
「おま……倉橋が身分を明かせと言うから渡した。俺の名刺だ、これでいいだろ?」
私は腕を伸ばし、蓮の名刺を突き返した。
「良くないし、更に印象悪くなったけど……何これ? 連絡先どころか会社名すら書いてないじゃない」
蓮は受け取らずに、顔をしかめた。
「連絡先は裏に書いてある。会社名が無いのは仕方ない、就職してないんだからな」
「……」
名刺をひっくり返すと、確かアドレスが記載されてた。
「後は何が聞きたいんだ?」
別に蓮について知りたくて言ったんじゃないけど。
そう思いながらも、私の口は勝手に開き、蓮に疑問をぶつけていた。
「年は? 私より上に見えるけど就職してないのはどうして? それから雪香との関係は? 付き合ってたの?」
一気に投げられた私の質問に、蓮は淀みなく答え始めた。
「年は二十五。就職してないのは不動産収入なんかが有って働く必要が無いから。それから雪香との関係は幼なじみみたいなものだ。家が隣で、十年の付き合いになる」
雪香の幼なじみ。意外な答えだった。
二人の関係が、そんな健全なものだとは思っていなかった……本当だろうか?
でも適当にごまかす為に、完全に嘘を言っているとは思えない。
雪香の家は高級住宅街に有る。隣に住んでいるという蓮の家も資産家だと想像出来た。働かなくてもお金が有るというのは、本当だろう。
「……他は?」
考え込む私に、蓮が聞いてきた。
「雪香はどうして、あなたの事を直樹に話さなかったの? 幼なじみなら隠す必要ないでしょ? それから、こうまでして私に関わろとするのは何故?」
蓮は今度は少し考えてから答えた。
「雪香が俺の事を話さなかった理由は分からない。婚約者に隠すような後ろめたい関係じゃなかったからな」
「本当にただの幼なじみならね」
少し嫌みっぽく言うと、蓮はうんざりしたような表情になった。
「雪香とは、兄妹のようなものだ……それで、あんたにこうやって絡むのは雪香を見つけ出したいからだ」
「私をつけ回しても見つからないと思うけど。私だって雪香の居所が分からなくて困ってるんだから」
私の言葉に、蓮は怪訝そうな顔をした。
「さっきから思ってたんだけど、なんで雪香を探す気になったんだ? 昨日は雪香が消えた事喜んでただろ?」
「……どうだっていいでしょ? とにかく私は雪香に何もしていない。私に絡んでも時間の無駄だから」
私は冷たく言い放った。蓮の言っている事の全てが真実とは思ってないけれど、雪香を探したい気持ちはきっと本当だろう……本当に雪香は皆に大切にされている。
湧き上がった醜い感情を吐き出すように息を吐いてから、私は不満そうな蓮を真っ直ぐ見据えた。
蓮にばかり答えさせたから、少し不公平な気がして来た。
少しだけ情報をあげよう。
さっきまで蓮に怯えていた事も忘れ、優位に立っているような気分で言った。
「一つ教えてあげる、雪香と私が不仲な原因。直樹が原因なの……私達、直樹を取り合って揉めてたのよ」
私の言葉に、蓮の顔色が変わっていく。
「……妹の婚約者に手を出したのか?」
汚いものを見るように、顔を歪めて私を見た。
「……最低だと思う?」
険しい顔をしたまま答えない蓮に、私は更に言い募る。
「でも、初めは雪香の婚約者だって知らなかったんだから仕方ないでしょ?」
「そうだとしても、分かった時点で身を退くべきだ。お前、最低だな」
軽蔑するように言う蓮を見ていたら、ひどく楽しい気持ちになって、私は声を立てて笑った。
「何がおかしい?!」
私の態度に、蓮は声を荒げた。私は笑うのを止め、蓮に答えた。
「だって、最低とか言うから……」
「あ?」
意味が分からないといったように、蓮が顔をしかめた。
「ねえ、あなたは今雪香の事最低って言ったの……今の話は私と雪香の立場が逆なのよ。元々直樹と付き合っていたのは私なんだから」
その言葉を聞いた瞬間、蓮は顔を強張らせた。
「そんなにショック? 雪香の本性を知って」
蓮の顔を覗きこむようにして言う。
「……雪香も悩んだはずだ。簡単にあんたの彼氏を奪った訳じゃない」
蓮は、私を睨むようにしてそう言った。
「さっきは最低だって言ってたじゃない、雪香の場合は特別に許せるわけ?」
すぐにそう言い返すと、蓮は言葉を失い黙り込んだ。
私はどこか悔しそうにも見える蓮を、冷めた目で見ながら言った。
「とにかく、私達の不仲が決定的になったのはそれが原因。雪香の事は許せないけど、でも私は雪香の失踪には関わってないから」
「……本当に何も知らないのか?」
蓮はしつこくも、まだ食い下がろとする。けれど、さっきまでの様な勢いは無くなっていた。蓮が迷い困惑しているのが伝わってきた。
「知らない、だからもう付きまとわないで。雪香の事許せないって言ったでしょ? 雪香と親しいあなたとも、もう顔を合わせたくない」
私は一気に言うと、蓮から数歩離れた。蓮は呆然としていて、追って来る様子はなかった。
「さようなら、鷺森さん」
愛想の欠片もなく言うと、私は急ぎその場を立ち去った。