元恋人
始業十五分前に自席に着き、今日の仕事の確認を始めた。直樹との待ち合わせは夜の七時だから、遅くても六時半には仕事を終わらせたい。
この会社は派遣社員の残業を許可しているから、仕事量もそれなりに多い。だけど、今日はそれ程忙しくはなさそうだった。この分だと、六時半どころか定時の五時半には会社を出る事が出来そうだ。
ホッとしながら早速仕事に取りかかった。時間に余裕は有るけれど、突発的な仕事をふられる可能性も有るから、早めに片付けていく。
私が働くのは売掛金の回収処理をする部門で、取引先から銀行口座に振り込まれたお金を、一件一件処理していくのが主な仕事だ。これといって特別な知識は必要無いけれど、一応経理経験者という事で採用された。
四年前商業高校を卒業した後、小さな企業に就職し、経理部に配属された。働きやすく良い会社だったから辞めたくなかったけれど、直樹にどうしても辞めてくれと懇願され退職をした。
今となっては後悔しかない。
営業先に妻が居るのはやり辛いからと、執拗に退職を勧める直樹の言葉を疑いもしなかった当時の自分は本当に愚かだった。
その頃、直樹は既に雪香と付き合っていたというのに。
私に辞めて欲しかったのは、捨てる予定の女が取引先に居るのは都合が悪いから。ただそれだけだったのだ。
そんな思惑に少しも気付かず、私は直樹に言われた通り家庭の事情として退職した。
後日、真実を聞かされた時にはもう何もかも手遅れだった。
私は恋人も仕事も、そして少しは残っていた、妹に対する家族の情も全て失った。
絶望を味わい私は決心した。もう誰にも心を許さないと。二度と、惨めな思いはしたくない。
誰も私の領域に踏み込ませない、自分の事は自分で決める。そう強く誓ったのだ。
特にトラブルもなく、六時過ぎには仕事が終わった。
簡単に身だしなみを整えると、会社を出て直樹と待ち合わせをしている店へと向かった。
「沙雪!」
約束の時間より十分早く着いたのに直樹はもう席に座っていて、私の姿を見つけると手を上げて合図を送ってきた。
「……随分早いんだね」
既に半分空になっているグラスに目を遣りながら言うと、直樹は真面目な顔で頷いた。
「ああ、早く雪香の事を話し合いたかったからな」
昨日は眠れなかったのか、直樹の目の回りは黒ずんでいた。とても疲れているように見える。
私は労りの言葉をかける事はなく、直樹の前に座り適当に注文をした。
「雪香から何か連絡は有った?」
店員がいなくなるのと同時に問いかけると、直樹は憂鬱そうな溜め息を吐いた。
「雪香から連絡が有ったとしたら、こんなところにいる訳無いだろ?」
直樹の無神経な発言に苛立つよりも、雪香が直樹に何の連絡もしていないという事に驚いた。
婚約者である直樹に、何故連絡しなかったのだろう。
大して仲良くなかった私には、電話をして来たのに。
「沙雪?」
黙り考え込む私を、直樹は怪訝そうな顔で見つめてきた。
「……念の為聞いただけ、直樹は本当に何の心当たりも無いの?」
「ああ、思い付く所には全部確認した。親戚関係はお義父さんが連絡している。雪香はどこにも居なかった、それから……」
「ちょっと待って、心当たりって言ったのはそういう意味じゃないの」
暗い表情で話す直樹の言葉を、最後まで聞かずに遮った。
「え?」
「雪香を恨んでそうな人に、心当たりは無いの?」
「は? 恨んでるって……どういう事だよ?」
意味が分からないといったように、直樹は怪訝な表情をする。
話の通じない直樹に、私はイライラとしながら答えた。
「昨日直樹が言ったんでしょう? 雪香は事件に巻き込まれたのかもしれないって。私もその可能性が有ると思う。雪香の人間関係はどうだったの? 直樹ならよく知ってるでしょ?」
直樹は私の言いたい事を理解したのか、大きく頷きながら言った。
「……ああ……確かに昨日は動揺して、そう言ったけど」
「言ったけど?」
歯切れの悪い直樹の言葉に、私は答えを急かす。
「雪香が、誰かに恨まれてるなんて考えられないんだ。何かに巻き込まれたんだとしたら、突発的な何かだと思う」
私は失望し、大きな溜め息を吐いた。
「雪香は教会の控え室に居たのよ。突発的な何が起こるっていう訳? 教会の中への出入りは制限されていたんだから、知らない人が入ってきて雪香を連れて行ったなんて考えられないと思うけど」
「それはそうだけど……」
「……直樹、本当に雪香を探す気あるの?」
私は直樹に疑いの目を向けた。
「有るに決まってるだろ! なんでそんな言い方をするんだ?」
「だって真剣に考えてるようには見えないもの。直樹は現実を見てないように見える。雪香の身に何かトラブルが有ったと思うのが普通なのに、否定的な事ばかり言ってるじゃない」
「それは……」
直樹は怯んだように口籠もった。
「それは何?」
「雪香は明るくて、優しくて、いつも人の中心にいた。それが俺の知ってる雪香だ。恨まれるような事が有るんだとしたら、それは俺の知らない雪香でそんな事、事実だとしても知りたく無い」
直樹の言葉に溜息が漏れそうになる。
結局は真実を知って自分が傷つくのが怖いだけ。直樹がどうしようもなく情けなく見える。付き合っている時は、もっと頼もしい人だと思っていたのに。
「沙雪こそ、どうして事件に巻き込まれたと断言するんだ? 昨日は否定的だったのに」
直樹が私に不審そうな顔を向けながら言った。
「それは……」
今度は私が口籠もってしまった。雪香から電話が有った事を、直樹に話すかどうかを決めかねていた。
彼は雪香の婚約者なんだから、大きな手がかりである、電話の事を話した方がいいに決まっている。けれど、
「一晩考えて気が変わったの、結婚式に居なくなるなんて異常だもの」
迷った結果、私は直樹に電話の事を伝えない事にした。
やはり直樹を、信用する事が出来ない。私の身に何も起きていなかったら、話していたと思う。けれど、今は状況が違った。
私は雪香を見つけ出して、何が有ったのか聞き出したいけれど、直樹に昨夜の出来事を話したら、雪香を守る為隠してしまうかもしれない。
それはは避けたい。
「俺も有り得ない事だと思う。何とかして雪香を連れ戻したい。けどどうすればいいのか……沙雪は雪香と双子だろ、居場所と感じるものはないのか?」
私の言葉を疑う事なく真に受け、深刻そうな顔で言う直樹の言葉に、私は思い切り顔をしかめた
「分かるわけないでしょ」
直樹と有ったのは無駄だったかもしれない。雪香を探すのに、役に立ちそうにない。
「もういいわ。私帰るから」
「沙雪? 待てよ!」
立ち上がろうとする私に、直樹が慌てたように言った。
「何?」
「どうしたんだ? 突然帰るだなんて」
怪訝そうな顔を向けて来る直樹を、私は細めた目で見返した。
「時間の無駄だから。こんな事していても雪香は見つからないし」
冷たく言い放つと、直樹の顔が強張った。
「……悪かった……でも少しは理解してくれ。結婚式当日に花嫁が消えたんだ、周りには逃げられたと思われている……有り得ない屈辱だよ。現実逃避したくもなるだろ?」
打ちひしがれる直樹を、しばらくの間見下ろしていた私は、小さな溜め息を吐いた後、再び椅子に座った。
同情する気にはなれないけれど、直樹の気持ちはよく分かる。誰よりも信用していた相手が突然去っていった時の衝撃は、私も半年前に味わったばかりだから。
私がそうだったように、直樹も今、精神状態がおかしいのかもしれない。
「直樹……確かに雪香はみんなに愛されていたけど、だからこそ誰かに妬まれていても不思議じゃないと思うの。逆恨みって有るでしょう?」
穏やかな口調で言うと、直樹はハッとしたような表情になり、大きく頷いた。
「ああ、それなら有り得るな」
上手く直樹の気持ちを誘導出来た事に、気をよくしながら私は言葉を続けた。
「直樹は雪香の友達に会った事有るでしょ? 連絡とって聞いてみて欲しいの。雪香が何かトラブルに関わってなかったか、様子がおかしな事は無かったかって」
「ああ、雪香の友人とは何度か会った事が有るから聞いてみる。何か分かったら沙雪にも知らせる」
はっきりとした口調で答える直樹の様子に、私はホッとして微笑んだ。
「良かった、私は雪香の知り合いって言ったら、鷺森蓮しか知らないから」
「え……鷺森蓮って誰だ?」
私の言葉に、直樹は眉をひそめた。
「……雪香の知り合いだけど、直樹だって名前くらいは知ってるでしょ? 昨日の式にも来てたんだし」
「いや……披露宴には招待していなかったし、雪香からも聞いた事は無かった」
直樹の言葉に、私は内心ひどく驚いていた。
雪香は私には、しつこいくらいに蓮の話を聞かせたのに、直樹には名前すら出さなかったなんて。それに昨日の蓮の態度から、蓮と雪香は相当親しい関係だと思われた。
直樹が、蓮の存在すら知らなかったのは何故なのだろう……わざと話していなかった?
披露宴に呼ばないのは、男友達だから直樹に遠慮したのかもしれないけど、それでも式に迄来る程親しい相手の事を一言も話していなかったのは不自然に感じた。
「沙雪?」
「……私も昨日初めて会ったから詳しくは知らないけど、雪香が居なくなった事を心配していたわ」
「……そうか」
納得いかないような表情で、直樹は頷いた。自分の知らない雪香の知人が男ということに、不快感を持っているようだった。
直樹の様子をぼんやりと眺めながら、私は蓮の事を考えていた。
雪香と蓮は、ただの知り合いではないのかもしれない。もっと深い関係……婚約者には決して言えないような。そう考えると、蓮を疑わしく感じる気持ちが芽生えてきた。
昨日、私を責めるような事を言ったけれど、蓮の方こそ何かを知っているのかもしれない。
また連絡する事を約束してから、直樹と別れた。
電車に乗りアパートの最寄り駅に着くと、いつもの帰り道ではなく、遠回りだけれど、明るい大通りから帰る事にした。
アパートまでは、徒歩で十五分かかる。少し遠いけれど、部屋の住み心地を重視してアパートを選んだ結果だから仕方ない。
部屋自体は、小さいながらもバストイレは別だし、居間もそれなりの広さが有って快適で気に入っていた。早く自分の部屋に帰り休みたい、寝不足も有り、体がとてもだるかった。
夜の町を十分程歩いたところで、後ろから人がついて来ている事に気が付いた。気のせいかとも思ったけれど、私が立ち止まると足音も止まる。歩き出すと足音もついて来た。
昨日の事が思い浮かび、背筋が凍る。強い恐怖を感じながら歩き続た私は、角を曲がると同時に勢いよく駆け出し逃げようとした。けれど、
「……あっ!」
昨日痛めた足首に激痛が走り、その場に倒れこんでしまった。
早く逃げなくちゃ!
急いで立ち上がろとするのに、足に力が入らず上手くいかない。
焦る私の背後に、足音が迫って来た。