憎しみ
今日、雪香と結婚するはずだった花婿佐伯直樹は、半年前まで私の恋人だった。
私の働いていた会社に出入りの営業マンで、整った容姿と爽やかな笑顔で彼を気に入っている女性も少なくなかった。そんな彼が、私に目を留め声をかけてくれた事から交際が始まった。
私にとって初めての恋人で、本当に幸せな日々を過ごしていた。
だから結婚しようと言った彼の言葉を少しも疑わず、会社を辞めて家庭に入る準備を進めていた。
それなのに……彼は私を裏切っていたのだ。
私と別れることもなく雪香と付き合いはじめ、そして結婚まで決めていた。
私が彼に別れを告げられ真実を知ったのは、何もかも決まった後の事だった。
今までの事は忘れてくれという残酷な言葉と共に、彼はあっさりと私を捨て去って行った。
雪香は、私たちの関係は知らなかった事だからとだけ言い、一言も謝る事は無かった。
仕事も恋人も失いボロボロになった私の前で、幸せそうに結婚準備を進める直樹と雪香。
彼らの無神経さが許せなかった、憎かった。
けれど、二人の前で泣き叫ぶ事は、自尊心が許さなかった。傷付いている姿を見せたくなかった。
私は二人の前では無関心を装い、けれど心の中では抑えきれない憎しみを募らせていった。
思い返せば、雪香は昔から私の欲しいものを奪っていった。心の内を上手く口に出来ない私と違って、雪香は自分の欲求をはっきりと伝える子供だった。
だから一つしかないおもちゃや、お菓子、仲の良い友達。私の欲しかったものは、みんな雪香のものになっていた。
そして、最後には母親までも。
両親が離婚を決めた時、泣きながら母親について行くと言った雪香に対して、私は何も言えずに黙っていた。
私も母と行きたかったけれど、打ちひしがれる父を目の前にして、そんな事は言えなかった。
私が母と行けば、父はひとりぼっちになってしまう。幼かった当時、私は本気でそう思った。
あの時が人生の分かれ道だった。
もし、心のままに行動していたら、雪香と私の立場は逆だったのかもしれない。
何不自由無いお嬢様として生活し、直樹の妻になったのは私だったかもしれない。そう考えると、やりきれない気持ちになった。
私の暗い嫉妬心は際限無く膨らんでいき、いつの間にか雪香さえ居なければと思うようになっていた。
消えて欲しい。
ウェディングドレスを着た美しい雪香を目にした瞬間、今までに無い位強くそう願った
過去に想いを馳せていると、いつの間にか義父の話は終わっていたようで、親族達が部屋から次々と出て行くところだった。
義父と母も、私の隣を通り過ぎ部屋を出て行った。母は青ざめ、私に声をかける余裕は無いようで、こちらをチラリとも見なかった。
二人が出て行くのを見送ると、私も部屋を出る為立ち上がる。そのタイミングで「沙雪」と遠慮がちに声をかけられた。
ゆっくりと振り返ると途方にくれたように立ち尽くす直樹の姿が目に入って来た。
条件反射のように湧き上がる苛立ちを堪え、私は無表情で返事をした。
「何?」
直樹は、私の答えに少し驚いたのかポカンとした顔をしてから、言い辛そうに口を開いた。
「何って……雪香の事を相談したくて」
「相談されても、私は役にたてないと思うけど」
冷たく答えると、直樹は今後は不快そうに顔を歪めた。
「その言い方は冷た過ぎないか? 妹が行方不明になったって言うのに、心配じゃないのか?」
声を荒げる直樹を見ていると、苛立ちは更に大きくなっていく。
「私に出来る事は何も無いから。警察に連絡するって話だから、見つかったら連絡が来るでしょ」
これ以上直樹と話していたら、感情的になりそうだった。
「私、もう帰るから」
立ち去ろうとすると直樹は慌てた様子で、私の手首を掴んで来た。
「何?」
うんざりしたように言うと、直樹は睨むように私を見据えた。
「雪香を探すんだ! もしかしたら何か事件に巻き込まれたのかもしれない。警察だけに任せてないで、君も出来る事をやれよ」
責めるような直樹の言葉は、弱り切っていた私の心を更に傷付ける。深い闇に沈んで行くような気持ちになった。
こんなに無神経な人だっただろうか?
二年間も付き合い、そして裏切った恋人相手に言う言葉とは、とても思えなかった。
もう私に対する優しさや気遣いは、何一つ見られない。それどころか、私に家族として付き合って行く事を当たり前のように求めてくる。
自分がどれだけ残酷な事を言っているのか、本気で気付いて無いようだった。
黙り込んだ私を、直樹は眉間にシワを寄せながら見つめていたけれど、しばらくすると強い口調で言った。
「沙雪……お前、まだ雪香の事恨んでるのか?」
軽蔑するような目を私に向けながら、直樹は早口で言葉を続ける。
「そうなんだな? お前本当に執念深いな。いい加減にしてくれ、もう半年も前に終わった事だろ!」
私は無言で、直樹を睨み付けた。あまりに勝手な直樹の言葉が許せなかった。
私にとっては、まだ半年前の事。決して終わってなんていない。
私はまだこんなに傷付き、苦しんでいるのだから。
今日、この場に来る事がどれだけ辛い事だったのか、想像すらしない彼に強い怒りがこみ上げた。
「まさかお前が雪香を消したんじゃないだろうな?」
しばらくの間、私を睨んでいた直樹は、ハッとしたような表情になり、そう言った。その信じられない言葉に、私は思わず笑いそうになってしまった。
こんな男だっただろうか?
怒りと失望と蔑みが入り混じったような、自分でも良く分からない気持ちになった。
耐えきれずに、口元に笑みを浮かべた私に、直樹は苛立った声を上げた。
「何がおかしい!」
私はそれには答えずに、直樹を真っ直ぐ見つめた。
「ねえ直樹、本当に私が雪香を消したと思ってるなら、こんな風に二人きりにならない方がいいんじゃない?」
「……どういう意味だ?」
怪訝な顔をする直樹を見ていると、私の心は醜く歪んでいく。
自然と口から言葉が、零れた。
「私が恨んでるのは、雪香だけじゃないって事。直樹も身辺気をつけたら?」
薄く笑いながら言うと、直樹は動揺したように顔を強ばらせ、私の手首を離した。
「さようなら」
私は冷たくそう言うと、唖然とする直樹を残し部屋を出た。