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雪香の事情

「……おい、いい加減泣き止めよ」


 いつまでも涙が止まらない私に、蓮が困ったような顔をして言った。時折通り過ぎる人達の何か言いたそうな視線が気になるのか、蓮は居心地が悪そうだった。


「そんな事言われても……」


 今迄、泣いて無かったせいか一度溢れ出した涙はなかなか止められない。


「仕方ないな……こっちに来い」


 蓮は私の手を引き歩き出した。

 どこに連れて行かれるのか分からなかったけれど、不安は無かった。


 しばらく歩くと、蓮は止めてあった車の助手席に私を乗せて、車を発進させた。


 ずいぶん走っているようだけれど、一向に目的地にたどり着かない。


「どこ行くの?」


 涙も渇き落ち着きを取り戻して来た私が問いかけると、蓮はチラッと横目を向けて来た。


「もう大丈夫か?」

「あ……うん」


 今更だけど、散々本音を言い泣き顔まで見せてしまった事に恥ずかしさを感じる。


 気まずさでいっぱいになりながら頷くと、蓮は急にも感じる車線変更をした。


「今からリーベルに行く。あそこならゆっくり話を聞けるし、飯も食えるからな」

「リーベルに? 道、全く違うじゃない……」


 かなり無駄に遠回りしたと思う。怪訝な顔をする私に、蓮は特に何も言わなかった。何を考えてるのだろうか。


 蓮の行動は、よく分からない。そう思いかけたけれど、すぐに考えを改めた。


 蓮は、私が泣き止むのを待っていたのかもしれない。そんな気遣いをする人とは思っていなかったから、意外だったけれど嬉しくもあった。




 リーベルに着くと、蓮は自分用のスペースに車を止めた。


 車から店内に向かう途中、私は最後にリーベルに来た時の事を思い出して足を止めた。


 リーベルには蓮の彼女が出入りしている。


「ねえ、中に彼女居るんでしょ? 誤解されたりしないかな、揉めたく無いんだけど」


 私がそう訴えると、蓮は足を止め振り返った。


「大丈夫だ、あいつは来てない……何日も前に別れた」

「え?……そうなんだ」


 彼女は、かなり蓮の事を好きそうに見えたけど。


「いろいろ考えてちゃんと別れた、それより今は沙雪の話が先だろ」


 蓮はそう言うと以前ミドリと会った時に使った部屋に私を通して、自分はスタッフのところに向かった。



 部屋のソファーに座って待っていると、それ程待たされる事無く戻って来た。


 手には湯気の上がったカップを持っている。


「紅茶でいいんだよな?」

「……ありがとう」


 蓮は続けて自分のコーヒーのカップを置くと、私の正面に座った。


「それで何が有ったんだよ」


 早速本題に入る蓮に、私はいつもより回らない頭を必死に働かせながら経緯を話し出した。


 突然海藤が訪ねて来た事。無茶な要求をされた事、必死に雪香を探したけれど、見つからなかった事。


 蓮は黙って話を聞いていたけれど、雪香の義父に会いに行った話をすると、顔色を変えた。


「どうかした?」


 蓮の変化に私は戸惑い話を止めた。


「いや、何でも無い。それより続きを話してくれ」


「……義父に何か問題が有るの?」


 私の言葉に、蓮は少し考え込んでから答えた。


「その話は後でちゃんとする、今は海藤の件のが先だ……話を続けてくれ」


 腑に落ちないながらも、蓮の言う通り、今解決しないといけないのは海藤の件だった。


 私は蓮に義父に言われた事、母の取った態度。そして落ち込みながら帰って来たところに、蓮が待っていたところ迄を全て話した。


「分かった、海藤の事は俺が何とかしておく」


 私の話が終わると、蓮はあっさりとそう言った。


「え……なんとかするってどうするの? もしかして二百万円を代わりに払ってくれるの?」


 蓮の家はかなりの豪邸で資産家の様だし、このリーベルも繁盛してるように見える。彼にとって二百万円なんて、大した金額じゃないのかもしれない。そう考えたけれど、蓮はすぐに否定した。


「金はやらない。そんな事したら調子に乗らせるだけだからな、適当な理由をつけていつまでもたかられ続けるだろ?」

「じゃあ、どうするの?」

「話し合いで解決する」

「え……それは無理でしょ?」


 海藤は、普通の生活を送っている様に見えなかった。暴力で何もかも解決するように見え、とても交渉出来る相手には見えなかった。


「心配すんな、任せておけ」


 不安になる私に、蓮は余裕の顔で言う。


 同時に部屋の扉が開き、食事を持ったスタッフが入ってきた。


 なんとなく追求しそびれて、私としてはうやむやのまま海藤の話は終わってしまった。


 でも気分は大分楽になっていて、運ばれた多すぎる位の料理を、一気に食べた。


 以前も思ったけれど、この店は料理が美味しい。だから人気が有るのだろうか……紅茶のおかわりを飲みながら、そんな事を考えていると、蓮が話しかけて来た。


「沙雪は好き嫌いないのか?」


「食べ物の事だったら、コーヒーが苦手な位かな」


「双子でも違うものなんだな……雪香は野菜が嫌いだった」


 蓮は、過去を思い出す様に目を細めながら言った。


「雪香が?」


「野菜は殆ど食べなかったな、肉ばっか食べてた」


「……知らなかった」


 意外だった。華奢で色白の雪香のイメージと合わない気がするし、子供の頃は食べてたような気もする。


 けど、蓮が言うなら間違い無いんだろう。私より蓮の方が、ずっと雪香と親しかったんだから。


 そういえば義父の話を聞いていなかった。


「ねえ、さっき途中だった雪香の義父の事話して」


 そう言うと、蓮は顔を曇らせながら話し始めた。


「……雪香と義父の関係は上手くいってなかった……というか最悪だったんだ」


「……え?」


 その事実は思いがけないものだった。


 教会で消えた雪香の身を彼はとても心配していたのに。


「香川さんは厳しい人だから、雪香もおばさんもかなり気を使って生活してたんだ」


「確かに厳格そうな人に見えたけど。じゃあ雪香は私が思ってた程、自由には暮らして無かったって事?」


 蓮は真顔で頷いた。


「雪香がそれなりに自由になったのは、ここ一年位の事だ。それ迄は香川さんの干渉が強くて父親の決めたルールに縛られた生活だった」


「ルール?」


「ああ。帰宅時間、交友関係、素行や成績、全て厳しく管理されていた」



 それでは、自分の意思なんて何も無い。


 雪香は何不自由なく生活していたと思っていたけれど、実は違っていたようだ。


 裕福でお金に困った事は無くても自由は無かった。


 きっと苦痛だったはず。


 十年ぶりに再会した時、成長した雪香は美しく輝いて見えた。嫉妬してしまう程、幸せそのものに見えたのに。


 気付かなかった、見えていなかった雪香の本当の姿を初めて知り、私は戸惑ってしまう。

 蓮は更に話を続ける。


「それから香川さんは、子供の頃から雪香に手荒な事をしていた」


「え?! まさか……虐待されてたの?」


 それは、信じられなかった。だって雪香の側には母がついている。


「いや、義父はいつも躾だって言ってたそうだ。実際発言の筋は通っていた、けどあれはやり過ぎだった」


「……雪香が怒られてるのを見た事あるの?」


 確信を持ちながら聞くと、蓮は憂鬱そうな表情で答えた。


「ああ。初めて見た時は驚いた。ただ成績が下がったってだけなのに、異常な怒りに見えた」


「……怒る理由がちゃんと有るから、母も止めなかったの?」


「多分な。それで雪香も家に居辛くて、俺の家で過ごす事が多くなった。雪香は気軽に遊びに行く事が出来なかったから、他に行き場は無かった」


「……そうだったんだ」


 雪香が何故、蓮に執着したのか。蓮が何故、雪香を恋人よりも気にかけるのか、少し分かった気がした。


 雪香にとって蓮の側は、唯一安心出来る逃げ場所だったのかもしれない。


 私にも手を貸してくれる位だから、蓮はきっと面倒見の良い性格なんだろう。頼って来る雪香を気にかけて、守っていた。


 二人の間には、長い時間をかけて築いていった絆が有る。雪香が蓮に恋したのは当然の事に思えた。でも蓮はどうして、雪香を恋人として受け入れなかったんだろう。


 蓮には彼女がいたけれど、客観的に見て雪香より大切にしていたとは思えない。あっさり別れてしまったようだし、執着していなかったのだと思う。


 そんな風に大した気持ちが無くても恋人関係になれるのなら、雪香の気持ちを受け入れたって良かったんじゃないの?


「どうして雪香と付き合わなかったの? 雪香の気持ちに気付いて無かった訳無いよね?」


 私の言葉に、蓮は困ったような表情になった。


「前にも言ったけど、雪香は妹のようなものだ、女としては見れない」


 確かに出会って間もない頃に、蓮はそう言っていた。私は信じなかったけど。


「でも、付き合ってみたら気持ちが変わる事も有るかもしれないのに、どうして雪香に限っては慎重だったの? 他の女性とは派手に遊んでたって聞いたけど」


 以前、雪香の友人に聞いた話を思い出しながら言うと、蓮は不快そうに顔をしかめた。


「誰がそんな事言ったんだよ?」


「噂で聞いただけ、でも彼女への態度見た時、噂は本当だったんだって思った。あの態度は酷かったもの、まさに遊びって感じだった」


 私が一気に言うと、蓮は返す言葉が見つけられ無いのか、ふてくされたような顔をして目をそらす。けれどしばらくすると、真剣な表情で口を開いた。


「雪香に対しては、適当な事出来なかった。恋愛対象にはならなくても、俺にとって雪香は誰よりも大切な存在だったから」


 蓮の雪香への誠実な思いが伝わって来る。なぜか少し胸が苦しくなった。


「……そうなんだ」


 言葉を見つけられず、私は相槌をうつ事しか出来なかった。


「雪香が、比較的自由に行動出来るようになってからも心配だった、あいつは世間知らずだから。夜遊びたいなら、俺の店にしろと言ったし、彼女より優先してて、それが不自然な事だなんて思ってなかった」


「……」


「この前沙雪におかしいって言われて、初めて自分の行動が間違ってたんじゃないかって思い始めた」


「それで彼女と別れたの?」


 この店に入る時に聞いた言葉を思い出しながら言うと、蓮はゆっくりと頷いた。


「あいつにも悪い事したと思ってる」


「彼女、可哀想……」


 蓮が彼女に別れを切り出したのは、自分の不誠実さに気付いたから。今のままじゃいけないとけじめをつけたんだと思う。


 でも彼女は蓮を想っていた。大切にされてなくても、一緒にいたいと願っていたのかもしれない。


「もういい加減な気持ちで、誰かを傷付けたりしない」


 蓮は気まずそうな表情で言う。


「そう……」


 それなら蓮はもう誰とも付き合え無いんじゃないの?

 蓮にとって、雪香はいつまでも一番大切な妹なんじゃないかと思う。


 今この時だって、蓮の心の中には、雪香を心配する気持ちでいっぱいなんだろう。


「どうしたんだよ? 怖い顔して」


 強張った私の表情を見て、蓮は怪訝そうに言う。



「……何でもない」


 私は蓮から目をそらした。


 今日、私の見えていなかった雪香の本当の姿を沢山知った。幸せだと思っていた雪香の苦しい環境、叶わなかった恋。


 きっと雪香は私が思っていたより、ずっと苦労したし、辛かったはずだ。


 でも……それでも私は雪香を羨ましいと思う。


 蓮に……誰かに、何よりも気遣い大切にしてもらえる雪香が、泣きたくなる程羨ましかった。




 その後、少し話をしてから蓮にアパート迄送ってもらった。


 車から降りて、アパートの階段迄ついて来てくれた。


「海藤の件は、もう心配するなよ」


 別れ際、蓮は軽い調子で言った。


「……本当に大丈夫?」


 助けて貰えるのは嬉しいけど、海藤が相手だと思うと心配になる。


 私に代わって、蓮が酷い目に遭ってしまうかもしれない。


 浮かない顔をする私に対して、蓮は余裕の表情を崩さなかった。


「大丈夫だって言ってるだろ? うじうじ言ってないで早く帰れよ」


「……うじうじって」


 言い方は気に入らなかったけれど、気持ちは軽くなった。


 蓮に言われた通り、階段を上がり部屋に向かう。


 途中思い立ち、私が部屋に入るのを待っている蓮を振り返った。


「今日はありがとう……蓮」


 私がそう言うと、蓮は驚いたように目を見開く。


 何も応えない蓮に、私は控えめに手を振ってから、部屋に入った。


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