第4章
「フィーリア!」
一人夜空を見上げていると、今一番聞きたくない男の声が背中にかけられた。
「こんなところにいたのか。それならそうと、誰かに一声かけなさい。どこへ行ってしまったのかと心配したじゃないか」
振り返ると、珍しく少し慌てた風のセルダン伯爵がこちらへやって来るところだった。その姿が何だか白々しく感じられて、私は冷めた目で彼の様子を見守った。
「ずっとここにいたのか?」
「ずっと、というほど長い時間でもありませんわ。ホールの熱気にあてられてしまったので、少しここで涼んでいただけです」
「だからといって、その薄着では風邪を引くだろう」
そう言いながらセルダン伯爵は私に上着を貸そうとしてくれたけれど、私はそれを片手で制した。
「一人にしてすまなかったね。ホールは楽しくなかったのかい?」
「気になさらないで。私が、友人を作るのが苦手なだけですもの。お芝居はとても素晴らしかったわ。今日は連れてきてくださってありがとうございました」
「……フィーリア?」
どこか怪訝な表情のセルダン伯爵。
どうやら、私の様子が少しおかしいことに気づいたらしい。でも、気づかれたくない。さっきの話を聞いていたのだと悟られたくない。
「一応、素直にお礼は言っておきます。でも、こんなことで私があなたに懐くと思ったら大間違いなんだから」
つん、とそっぽを向いてやった。
セルダン伯爵はようやく口元を緩める。
「君らしいな」
そうよ、これがフィーリア=アーヴィングなの。
私はくるりとセルダン伯爵に背中を向けて、もう一度夜空を見上げた。――今の私の顔は、きっと本心をそのまま映し出しているだろうから。
「もう少し、一人で涼んでいってもいいかしら。あと少しで部屋に戻りますから」
「そうは言ってもね。君を寒空の下に残して、私一人だけ戻るなんてできないよ」
「そんなこと」
私はつい失笑した。
「誰も、あなたをひどい男だなんて思ったりしませんわ。こんな娘の相手をいつまでもしていたくないという気持ちは、みな理解してくれますもの」
「……そうやって自分を卑下するものじゃない」
「卑下なんてしていません。客観的に妥当な評価を下しただけよ」
「フィーリア」
「……わかりました、私も部屋へ戻るわ」
ふう、と一息ついて、私はバルコニーの敷居をまたいだ。
――ああ、もう。今の私は、明らかに不機嫌な態度をとっているではないか。どうしてもっと自然に返せないんだろう。
自己嫌悪に陥りながらも扉を閉めた。セルダン伯爵は無言だ。この人の無言は、どんな言葉を口にするよりも重圧を感じさせる。何か、しゃべってほしい。
しかし、次に口を開いたのは、セルダン伯爵ではなかった。
ちょうど階段を上ってきたベックフォード侯爵が、私たちの姿を見つけて声をかけてきたのである。
「ああよかった、彼女、見つかったんだな」
この様子だと、もしかしてかなり大々的に私のことを探していたのかもしれない。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。少し風に当たりたかったものですから」
「いや、いいんだ。ところで、これから夜食会が始まるらしいぞ。軽食を中心に甘いデザートなんかも用意されているようだ。二人もホールに降りてくるといい」
これは、断れない。げんなりする気持ちが表情に出ないよう、私は微笑してうなずいた。
しかし、予想に反して、セルダン伯爵が階段を降りようとする私を押しとどめる。
「いや、私たちはもう失礼するよ」
「なんだ、このあと何か予定でもあるのか?」
「まあ、少しな」
「なら、フィーリア嬢だけでもここに残ればいい。帰りは私が家まで送ろう」
う、と私は言葉を詰まらせた。
ただでさえ残りたくない。その上、セルダン伯爵まで帰ってしまうとなれば、ますます肩身が狭くて辛いところだ。でも、せっかくのベックフォード侯爵の好意を無下にするのもいかがなものか。
答えを出せないまま、あいまいに頷こうとしたときだ。
「フィーリアも私と帰るよ」
というセルダン伯爵の助け舟が入った。
……なるほど。どうやら、私に気を遣って、もう帰るなどと言い出したらしい。
「それはお前、勝手というものだろう。せっかくの機会なのに」
「連れて来るだけ連れて来ておいて、そのまま置いて帰るなんて無責任なことはできないよ。それに、この子を送りがてら、エレナと会う約束もしているからね」
「ああ、そういうことか。……だが、フィーリア嬢は構わないのか?」
「え、ええ。セルダン伯爵と一緒においとまいたします」
「そうか、わかった。残念だが、また次の機会に」
「はい、ぜひ」
ひそかに、私はほっと息をついた。
夜食会などに参加すれば、またしばらく帰れなくなるのは必至である。セルダン伯爵の配慮には助かった。どん底にまで落ち込んだ彼の評価も、ほんの少しだけ、浮上したかもしれない。
・ ・ ・
「……ごめんなさい」
馬車に揺られながら、私は向かいに座るセルダン伯爵にぽつりと呟いた。
「ん?」
「私のせいで早く帰ることにしたんでしょう。申し訳ないことしたわ」
「構わないよ。別に私も、あれ以上長居したいとも思わなかったしね。君こそ、美味しいデザートにありつけなくて逆に怒っているんじゃないかい?」
「そんなに卑しくありません! ……じゃあやっぱり、私を送り届けたあとに義母と会う約束があるというのも、嘘?」
「そうだよ。確か今日は、誰かに誘われて別のサロンへ行ってるんじゃなかったかな。それなら、まだ家には帰ってないだろう」
「まあ、そうでしょうけど」
そこに別の男の影がちらついていることは、セルダン伯爵も恐らく承知しているのだろう。
義母は、セルダン伯爵と付き合うようになった頃から、ちらほらと他の男の存在を匂わせている。私にとってはまずそこからして信じられないのだが、セルダン伯爵の方は全く気にも留めていない様子だ。
男女の駆け引きというものは、どうにも複雑かつ難解である。
例え自分が遊びで付き合っている女性であっても、相手には自分ひと筋でいてもらいたいとか、そんな風に思わないのだろうか?
分からない。
全っ然、私には分からないけれど。
「義母は、生まれついての恋愛体質なのだと思います。――でも、たまに本気で誰かを好きになることがある。その相手が、例えば、私の父でした」
「……うん?」
何の話を始めたのか、と、彼は片眉を上げた。
でも、私は気にせず話を続ける。
「恐らく、あなたのことも本気です」
「へえ?」
「もしも今、他に男性の影が見えるから、婚約破棄などいつでもできると高をくくっているのなら、それは大きな間違いですわ。義母は二年、亡き父のことを想い続けていたのです。その間は、他のどんな男性からのアプローチにも心を揺らすことはありませんでした。そこから一歩を踏み出させたというのは、並大抵のことじゃない」
「……」
「私からの助言は一つだけ。あなたに本気で義母と結婚をするつもりがないのなら、一刻も早く婚約を解消して、決別するのが身のためですわよ。――この、アーヴィング家とは」
これは、助言というよりは脅しだった。
今、彼が弄んでいるのは、本人が思っているよりも、もっとずっと重いものだ。夫を亡くした妻の、そして父を亡くした娘の、歪んだ家族の成れの果て。それを遊び感覚でかき乱そうと手を伸ばせば、必ずその手もひどく傷つく。
しかし、当のセルダン伯爵は、にっこりと笑みを浮かべるばかりで、一向に怖気づく気配を見せなかった。
「それは、君との決別も含めているんだろうね?」
当然だ。私は答えず、ただ真剣にセルダン伯爵を見つめた。
「エレナとならすぐにでも決別しても構わないよ。でも、君とはまだ楽しいお付き合いを続けていきたいと思っている」
「楽しいと思っていられるうちに赤の他人に戻る方が、あなたのためになると言ってるのよ」
「生憎だが、私のためになるかならないか、それはどうでもいいことだ。最初から、何か有益なものを得られるなんて思っていない。いいかい? これはゲームなんだよ」
「ずいぶんと悪趣味なゲームもあったものだわ」
「そう、私は恋愛の仕方に関しては悪趣味なのさ。君には想像もつかないような修羅場なんて、いくつも経験してきてる。だから心配は無用だよ」
「……あきれたわ、本当に」
セルダン伯爵と実りのない会話をするのに疲れてしまい、私は目を閉じて眠ったふりをすることにした。
きっと彼は、近い将来、自分の判断が間違っていたと気づくことになるだろう。
その時にどれだけ後悔しても、もはや手遅れなのに。
こんな馬鹿げたゲームの、一体何が楽しいの。
答えを授けてくれるものはなく、ただ馬車がゴトゴトと揺れ動く音だけが、帰路を辿る私の頭に響き続けたのだった。