第20章
ゆっくりと、馬車を降り立った。
途端目の前に広がるのは、まばゆいばかりの光と色彩のパレード。沈みゆく太陽の光よりもなお明るくなお深い、幻想的なオレンジの照明が、惜しげもなく白亜の豪邸を照らし出していた。色とりどりの宝石のように、鮮やかなドレスに身を包んだ淑女たちが、パートナーの手を取って次々と馬車から姿を現す。ふわりと優しく揺れるドレスの裾はまさに天使の羽のよう。
私は、ほう、と息をついて、その荘厳かつ魅惑の館をそっと見上げた。
――ここが、決戦の場。
そっと指を添えて、花飾りの位置を確かめる。私の地味な茶色い髪も、今日は右に寄せてアップにしてもらい、少し肩へと流してもらっている。その毛先はすこし巻いて、貧相すぎず、また派手すぎないよう気をつけた。いつもはただ下ろしたままの前髪も、今日は斜めに流して額を出している。ドレスはお義母様のとっておき。まだ十代だった頃、一、二度着たのみだったけれど、自分の派手な雰囲気にはそぐわないと感じて蔵入りになっていたとか。確かに、華奢なレースをあしらった淡い黄色のドレスは、義母のイメージではないかもしれない。それでも捨てられなかったというこのドレスを、今私がこうして身にまとうことができて、嬉しく思う。美しいドレープが崩れてしまわないよう、そっと裾をつまみながら、私は足を踏み出した。
朗らかな笑い声やドレスの衣擦れの音が耳に響く。今までほとんど参加したことのないこんなに大きな舞踏会では、目に入る全てのものが、耳に入る全ての音が、いつもの何倍もの音量を持って私に迫り来る。これまでの私ならば、こうした状況にどれほどの苦痛を感じただろうか。でも、今晩は違う。全てが私を鼓舞する刺激剤となるのだ。臆することなく、一歩一歩、私は歩んでいく。
彼は、緩やかな階段の上に、立っていた。
少し目を細め、なんとも言えぬ表情で私を見下ろしている。ここで怖気づいたりするもんですか。私は逆にしっかりと瞳を開き、真っ直ぐセルダン伯爵の視線を受け止め、ゆっくりと階段を上った。
礼装に身を包んだセルダン伯爵には、やはり目を惹かれずにはいられないほどの端整さがある。セルダン伯爵の側を通り過ぎてゆく人々は皆、かすかに彼を目で追うのだった。密かに驚いたのは、その姿。必ずどこかしらに流行の最先端を取り入れた着こなしをすると評判のセルダン伯爵だが、今日の彼は至って普通の、伝統的な黒の燕尾服に身を包んでいた。真新しい部分はどこにも見受けられない。しかしそれでも、古臭さや野暮ったさなどは微塵も見えず、むしろ型からにじみ出る色気のようなものを感じて、私は少し頬を染めた。――どこまでも反則だ、この男性は。
少し風が吹いて、セルダン伯爵のダークブロンドの髪がさらりと揺れた。そして、まるでその風に乗ったかのようなごく自然な流れで手を差し出される。指先を重ねると、手袋越しにも彼の手の冷たさが伝わってきて驚いた。ずいぶん長い間、こうして待っていてくれたのだろうか。しかし当のセルダン伯爵は、そんな様子はおくびにも出さず穏やかな微笑を浮かべている。
誘われて、ダンスホールの中へ。
一歩足を踏み入れた途端、激しいほどの熱気が私たちを包み込んだ。磨き上げられた広い床はまるでおぼろな万華鏡のようにドレスの色を写し出し、淑女たちがしなやかに動き回るほどに、くるくるとその面を変化させた。この華やかな場に身を置くだけで私の鼓動はひどく高鳴ってくる。でもそれは、今までのように苦痛を伴うものではなかった。それどころか、わずかに喜びが勝っているような気さえする。
「すごいわ」
私は感嘆のため息をついて、あたりを見回した。
「ああ、普通の舞踏会とはわけが違うさ。なんせ、王妃主催なんだから」
同じく周りの様子を伺いながら、セルダン伯爵は私の手を引いた。あまりうるさすぎず、でも影にならない適度な場所まで連れて行ってくれる。こういう場では、全てをこの人に任せておけば間違いない。ただあまりにも手馴れているものだから、逆にこのスマートなエスコートが少し癪に障るけれど。
「今日のフィーリアは、とてもきれいだね」
出し抜けに、セルダン伯爵が耳元で囁いた。
「フランシス子爵と庭園で会っていたときよりも、もっと。――嬉しいね、私のために着飾ってくれたのかな?」
「いいえ、『私の』ために、着飾ったのよ」
言ってやると、おや、とセルダン伯爵が目を開いた。
「今日はお誘いくださってありがとう。とても驚きました、まさかあなたが私を誘ってくださるなんて」
「私のほうこそ驚いたよ、君がこの手を取ってくれたんだからね。誘ったはいいが、おそらく断られるだろうと覚悟していた」
「あら、覚悟? おそらく断られるだろうと『楽観』されていたのではないの? 形式的に誘いの手紙は出しておいたものの、まさか本当にのこのこやってくるとは思わなくて辟易しているんでしょう」
「いや。もし断られれば、家に押しかけて君を連れ去ってこようと考えていたよ」
セルダン伯爵は軽く笑った。答える代わりに、私は軽く肩をすくめてみせる。その時、華やかな音楽がホールに響き渡った。いよいよ舞踏会が始まったのだ。男女が手を取り合い、ホールの真ん中へ集まってゆく。
「私たちも行きましょうか」
「喜んで。――しかし君の方からダンスに誘ってくれるとは、本当にどういう風の吹き回しだ? どうも君らしくない」
「そうでもないわよ」
ニヤリと笑って、私はセルダン伯爵の手を取った。
「これも、フィーリア=アーヴィングなの」
カドリーユもこれだけの人数で踊れば圧巻である。うまく列に割って入り、私たちもステップを踏み始めた。全く見も知らずの人たちとパートナーを入れ替えて、どこまでもダンスは続いてゆく。途中、セルダン伯爵と手を取り合ったお嬢さん方は、皆が皆、実に嬉しそうに頬を染め上げていた。そんな様子を横目で見ながらも、私自身、この場の雰囲気にますます胸が高鳴っていくのを感じていた。顔を上げれば、今しがたパートナーとなった男性が、穏やかな微笑みを向けてくれる。私もなるべく自然に微笑んで、つかの間のパートナーとのダンスを楽しんだ。とてもダンスが上手な男性だったので、すぐに彼が波に押しやられてしまったのは少し残念だ。――すると、新しいパートナーにぐっと手を強くつかまれた。視線を向けると、また元に戻ってセルダン伯爵が目の前に立っている。
「一曲目でもう浮気かな?」
「まさか、とんでもない。あなたと私の間じゃ『浮気』なんて成立しないじゃない? 付き合ってもいないのに」
「つれないことを。私たちの付き合いももう長い」
「あら、そう言うのなら――エルバートとは、もう十六年間付き合っているわ」
曲が変わり、賑やかなワルツが始まった。途端にセルダン伯爵は、一歩踏み出しぐっと私を引き寄せる。
「で? 私の助言どおり、彼のプロポーズは断ったんだろうな?」
「どうだったかしら。あまりに舞い上がっていたから、彼になんて答えたのか、今すぐには思い出せないわ」
「舞い上がっていた? あの時見た君は、ひどく思いつめたような顔をしていたが」
「あの時って、どの時かしら」
「私が君の家を最後に訪れた日」
「ああ、セルダン伯爵が、婚約者と別れ話をしに来た、あの日」
「意地悪な言い方だな。だが確かにあの日、君は真っ青な顔をして放心状態だった。フランシス子爵のことで悩んでいたのだろう」
「そんな私にあなた、いろいろと厳しいことを言って追い討ちをかけてくださったわね」
殺伐とした会話とは裏腹に、機嫌のいいメロディーがホール全体を包んでいた。皆楽しそうに身体を揺らし、会場を色鮮やかなドレスの波で埋めてゆく。私たちも、形だけは、確かにその一員だった。
「言わねばならなかった。あのままの君には、本当に伝えたいことなど何ひとつ言えなかったからね」
「伝えたいこと?」
「そう――」
「それならば、私にもあるわ。とても大切なことよ。きちんとあなたに伝えなければと思っていたの。聞いてくださる?」
「……喜んで」
返事を聞いて、私はにっこり微笑んだ。
「――私、あなたのこと、大っっっキライよ」
ぎょっとしたのは、目の前のセルダン伯爵ではなく、私たちの隣に流れてきたカップルだった。にこやかに踊りながら一体何の話をしているんだと驚いたに違いない。だが、当のセルダン伯爵は驚く風でもなく、逆にニヤリと笑みを浮かべた。
軽やかなワルツに乗って、色とりどりのドレスがくるくると回る――。
「あなたの口をついて出るのは、いつも甘い口説き文句か嘲りを含んだからかいばかり。それって、最高に女性をバカにしてるわ。人とまともに向き合わないのは私だけじゃない、あなたも同じ。私は、自分を卑下することで人と向き合うことを避けてきた。でもあなたは逆に、他人を見下すことで自分を守ろうとしていたんだわ。――そういうあなたを見ているのは、非常に不愉快だったの」
「君に私の何が分かる?」
突き放したような物言い。だが、その表情はむしろ明るかった。
「さあね。何もわかってないかもしれないわ。言ったじゃない、私たちの付き合いは、まだたったの半年程度」
「だったら、私たちはもっとお互いを知る必要があるな。これから、じっくり時間をかけて」
「いくら時間をかけても無駄かもしれないわよ。なにせ、運命的なほどに気が合わない私たちですもの」
「どんなものでも運命を君と分かち合えるなら、大歓迎だよ」
「よくもまあ、次から次へそういうセリフが出てくるものね」
呆れながらも、私は肩を揺らして笑った。
「でも、今夜で全て終わりにしましょう」
一言一言を大切に、はっきりそう告げると、セルダン伯爵の色が瞳が変わった。深いグリーンの瞳に、さっと強い力が宿る。
「そのために私は来たのよ。――賭けの、決着を」
それからしばらく、セルダン伯爵は無言のままだった。けれど瞳だけは真っ直ぐ私を捉えたままだったので、私もうまく言葉が紡げず口をつぐんだ。束の間、ダンスに専念する。気付けばいつの間にかもう三曲目のワルツに入っていた。
「――賭けの決着、ね。大いに望むところだ」
「思えば、あの賭けに乗ったときから、あなたの手のひらでずっと踊らされていた。さぞ滑稽な娘だと、あなたは思っていたでしょうね」
「君が私の手のひらの上で踊らされていた? もし本当にそうならば、私も気が楽だったんだがな」
「今更取り繕ってくださらなくても結構よ。いつだってあなたは、私が一人空回る様を見て楽しんでいたんじゃないの」
「やはり君は分かっていない。確かにあれは馬鹿げたゲームだったが、それが全てと私は思っていなかったよ。馬鹿げたゲーム以上のものだったと思えたのは――いつも君が、まっすぐ私にぶつかってきたからだ。君が本当に一人で空回っていたというなら、私はとっくに賭けを降りていた」
「そうかしら。あなたからは何も手を下さずに、いつも私ばかりが躍起になっていたわ」
「私が何もしなかったと、君はそう言うのか。ならば私が毎日のように君に会いに行ったのは何だというのだ?」
「言わせたかったんでしょう、独りよがりなあなたへの愛の言葉を。そうして、紙くずのように掃き捨ててしまえば、あなたは満足だったのよ」
「ああ――、それはまた素晴らしく屈辱的な評価を下してくれたものだ! 君にとってのキースレイ=セルダンは、どこまで行ってもその程度の人間でしかなかったわけだな」
「そうよ、そう。あなたにとってのフィーリア=アーヴィングが、根拠のない自信を振りかざす根暗な引きこもり少女でしかなかったようにね。私とあなたは、そういう肩書きを持ってしか向かい合えない二人だったのよ」
明らかに険悪なムードになった私たちの様子に、周りの皆が気付き始めていた。怪訝な様子で眉を寄せ、ちらちらとこちらを窺っているカップルもいれば、私たちの剣幕に押され怯えた風のカップルもいる。ワルツのテンポだけがどこまでも陽気に響き渡っていた。
「――その、はずだったの。それで良かったの。そして愚かな茶番を繰り広げていれば、ただの笑い話になったのよ」
そう、ただの茶番で終わらせてくれれば。
「しかしそうではなかった――と、君はそう考えている?」
私は頷いた。
「あなたは、もっとしっかりと私のことを見てくれたわ。つい最近、やっとそのことに気付いたの。――だってセルダン伯爵、本当に意地悪なんだもの。でもとにかく、あなたは私と向かい合ってくれた。『根暗な引きこもりフィーリア』じゃなくて、私自身とね。馬鹿げたゲームを超えた付き合いをしてくれたこと、私も今は、多少は感謝しているわ」
セルダン伯爵は、私の言葉に答える代わりに、そっと私の額にキスを落とした。
「もう、また簡単にそういうことをする。男の人って皆そうなのかしら。それとも、あなたやそのご同類だけの話なの?」
「……というと?」
「ベックフォード侯爵も、あいさつ代わりにこういうことをする人でしょう」
「君、彼にこうしてキスを受けたと?」
「しれっとそういうことをしてしまうんだから、罪深いわ」
笑って言うと、逆にセルダン伯爵は不機嫌そうな顔をして黙り込んだ。
「女の敵ではあるけれど、いい人だとは思う。あなたにとっては、良き理解者であり、本物の友人といえる人。そういう人がいるというのは、羨ましいことだと思うわ」
「君だって、これからたくさんの人と出会うだろう。その中にはそういう人物がいるさ」
「ええ、私もそう思うわ。――だから、『これから』を胸を張って迎えるためにも」
決着をつけなければならない、と、強い意志で口にした。ちょうどそこで優雅なワルツは終盤を迎えた。
「認めるのは、少し悔しい気もするけれど、きちんと言うわ。私、セルダン伯爵にはさんざん腹が立ったし呆れもしたし、今でも大嫌いだけど、でもそれ以上に、あなたのことが――」
つ、とセルダン伯爵の人差し指が私の唇に触れ、言葉をさえぎられた。
「皆まで、言わないでほしい」
私は唇をかんで、セルダン伯爵のどこか翳りのある表情を見上げた。――どうして、言わせてくれないの? 伝えるだけでいいのに。私がそれ以上のことを求めるだろうと恐れているの? だからといって、振られる権利すら私にはないの?
釈然としない気持ちでいっぱいになった。しかし言葉にすることすら拒絶されては、無理にその先を続ける勇気なんて湧き起こってはこない。
ホールに響いていたワルツが途絶え、ダンスは激しいギャロップに切り替わった。
「少し、あちらの影で休もうか」
何曲も踊り通しで疲れていた私は、その提案に素直に頷いた。
――ああ、体が重い。心が重い。振られることは初めからわかりきっていたのに、それでもこんなに心が沈んでしまうなんて。けれど、このまま気まずくなってセルダン伯爵を困らせたくはない。今晩だけは、例えどんな結果になろうと最後まで楽しもうと決めていたのだ。
「……久々にこんなにたくさん踊ったわ。たまにはいいものね」
私は気を取り直して、話題を変えた。
「たまには? ここのところは、『しょっちゅう』なんじゃないか。ついこの間も、フランシス子爵と仲良さそうに」
「もうっ、またそういう意地悪を言うんだから。こんなに大きな舞踏会は、本当に、ほとんど初めてなの」
「と、いうことは、社交界デビューの時以来ということになるのかな?」
「そうね、王妃主催の舞踏会は、確かにデビューの時以来だわ。私がデビューしたのは十六歳になったばかりのころだったから、もう一年半ほど前になるかしら」
当時のことを思い起こしながら答えると、セルダン伯爵は何故か苦笑を漏らした。
「フィーリア、私たちが初めて出会ったときのことを憶えているかい?」
「ええ、もちろん。忘れられるはずがないわ。半年少し前、義母が『この人と婚約したの』って、午後のティータイムに突然あなたを連れてきた」
「やっぱり、しっかり忘れているんじゃないか」
「……え?」
私たちの最初の出会いはね、と、セルダン伯爵はホールの真ん中を見つめながら呟いた。
「一年半前の、この舞踏会の、この場所だったんだよ」
「……ええ?」
「本当に綺麗さっぱり忘れられているとはなぁ。純白のドレスに身を包んだ君に、ダンスを申し込んだんだよ、私は。ワルツを二曲踊ったところで、君は去ってしまったけどね」
「……嘘?」
「そんな嘘をついてどうする。踊っている間、まるで君は恋する娘のように瞳を潤ませて、一生懸命私を見上げていたよ。まだ子供らしいあどけなさの方が勝っていたが、それでも私は君を愛らしいと感じたんだ」
「……」
「名を尋ねようと思っていたのに、引き止める間もなかった。君は随分緊張していたんだろう、曲が終わると同時にさっさと逃げられてしまった。それから舞踏会に参加する時は、時折君の姿を探したりもしたけれど、ついに一度も逢えずじまいだったんだ。が、不思議な巡り会わせもあったもので、その一年後に自分の将来の義娘として再会することになった。私は驚いたが、君の表情には再会の喜びなど塵ほども見えず――それどころか、ガンを飛ばしてこられたんで、私は多少めまいを憶えた」
「……」
ぐうの音も出ませんとも。
「となれば、私も穏やかな性格の男ではない、どうにかしてもう一度あの時のような潤んだ瞳を自分に向けさせたいと思うようになった。最初のうちは、暇つぶし程度のつもりだったから、それほど熱心ではなかったがね。だが、君の瞳がどんどん険しくなっていくのを眺めているうちに、なんだか本気で面白くなってきた」
それから先はもう、聞くまでもないわね。
「その『本気』が、いつの間に違う意味での『本気』になったのかは自分でも分からないが――」
ふと言葉を切り、セルダン伯爵は少し目を細めた。
「人の心というのは、本当に分からぬものだ。自分自身さえも例外ではない。この私が、毎日同じ女性のもとへ通うことになるなんてね。しかもそれが、案外苦痛でもなかった。むしろ楽しみの一つでさえあったよ。君以外の女性のところへ通うこともあったが――君に会いに行く時が一番心弾んだ。キスの一つさえすることもない相手だというのにね」
褒めているつもりなんだろうけれど、全然嬉しくない。
「女性のことで嫉妬するというのも、今までの私にはないことだった。過去、私にすっかり熱を上げていた女性の心がだんだんと離れていくのを感じたとき、面白くないと思ったこともあったさ。だが、こと君に関すると、その程度の感情では収まらなかった。サンクローゼの庭園で、君とフランシス子爵が仲睦まじく談笑しているのを見かけた時、私はあれでも動揺していたよ。同時に、君の瞳があの舞踏会で私に向けられたものと同じだと気付いて、怒りにも似たものさえ湧き起こってきた」
そうまで言う割には、ものすごく冷静だったと思うのだけれども。
「あの時の全てがオーウェンに仕組まれていたと分かっていただけに、奴に乗せられるのはプライドが許さなかった。だが、そんなくだらないことを気にしていた私は愚かだったよ。君からクッションとともに決別宣言を投げつけられて身に沁みた」
そこを蒸し返さないでほしい。
エルバートまで奪わないでとか何とか、あれは、私としても後悔しているのだ。
「だがそれと同時に、私の中で決心がついた」
「――決心?」
問いかけながら、私は胸がざわつくのを感じていた。
先ほどから薄々感じていたけれど、何かおかしい。
なんだか、あらぬ方向に話が進んでいるような。
「まずは何より、私に対する君の目線を変えさせる必要があった。君は一人の人間として私に接してくれはしたものの、やはりどこか下の立場から物を考えていたからね。私が何を言っても何をやっても、上からの押しつけとしか捉えてくれなかっただろう。それでは君の心を手に入れられるはずがないと分かっていた」
ちょ、ちょっと待ってよ。
「君とはまっすぐ目線を合わせて、語り合える立場になりたかった。だから私はあの時」
「私をけしかけるようなことを言って、煽ったのね。でも、その先にあなたが望んだのは、私に言わせることだったんでしょう。あなたを――」
「本当に分かっていないよ、君は。そんな賭けのことなんかもうどうでもいいんだ。まだ分からないかい? 私が何を望んでいるのか――」
「待って」
とりあえずストップをかけてみた。
セルダン伯爵は、渋い表情をして口をつぐむ。……あれ? なんだかさっきと立場が逆転してるぞ? なんだこれは? なにが、どうなってるの?
気付けば、周りの人たちも密かにこちらの様子をうかがっているようだった。そしらぬ風に世間話なんぞをしているようだが、今のストップに皆一様に肩を落としてみせたのである!
なに! 私たち、見世物みたいじゃないっ!
「あの、セルダン伯爵。とりあえず、場所、移しましょうか。と、隣の部屋で軽く食べ物つまみたいなぁ~なんて……」
「後にしてくれ」
後に! いや、それはまずい。いろんな意味で、今すぐこの状態から抜け出さないと。
「でも私、喉が渇いたの。今すぐ何か口にしないと、我慢できないわ!」
一体私はどこのわがまま令嬢だ。
「なぜそううろたえる? まるでこれから死の宣告でも受けるかのような顔をしているよ。どうしてなんだ? 先ほど、君が言葉にしようとしてくれたこと――私が思い描いている言葉は、自惚れでしかないというのか?」
「あの、待って。ちょっと、待って」
「待たない」
力強くセルダン伯爵が言った。同時に、そ知らぬ顔のギャラリーまでもが明後日の方向を向きながらも力強く頷く。ワルツの音楽だけが平和そうに響いている。
「私は君のことが――」
「ダメだってば!!!」
私まで力いっぱい叫んでしまってから、はっと息をのんだ。まさか。まさかまさか。こ、こんな展開が。――キースも君のことが好きだと言ったら? あの時のベックフォード侯爵の言葉が不意に蘇る。そうしたら、それはその時に考えますよ……って、私のバカ! ちゃんと考えときゃよかった!!
「フィーリア――」
「いやあの、その。は、早まってはダメよ」
「私が早まっているとでも?」
「まずは落ち着きましょう」
「落ち着いている」
「お願いよ、セルダン伯爵」
「何も言うなと?」
「お願い」
「この気持ちを、言葉にするなと」
「だって」
「なんだね」
「分かってよ」
「何を分かれと言う」
「そっちだって、さっき私の言葉を遮ったじゃない」
「それは私から伝えたかったからだ」
「そんなのズルい!」
「先に言わせれば満足なのか?」
「私だけ言って別れましょう」
「バカにしてるのか」
「してない」
「している」
「してない」
「している」
「それがお互いのためよ」
「少なくとも私のためにはならない」
「きっとなるから」
心から懇願しまくっていると、セルダン伯爵はひどく傷ついたような顔をした。――ううっ、初めてのそんな表情、こんなところで見せないでほしい!
「つまり――君には迷惑ということか」
「その、迷惑というか」
正直、私にもよく分からない。だって、私だけがセルダン伯爵のことを好きで、それを伝えてすっきりして、一歩前に進めればいいと思っていただけなんだもの。そんなに単純にはことが進まないとなると、どうすればいいのか私も分からない。ただ一つ言えることは、私はセルダン伯爵のことが好きだけれど、付き合ったり、結婚したり――そんなこと、想像もできない! それだけは確かなんだ。
「まさか、フランシス子爵のプロポーズを受け入れたのか?」
はっと険しい表情をして、セルダン伯爵が迫った。あぁ、という悲嘆にも似たため息がギャラリーからかすかに漏れる。
「ちっ、違う! 断ったわ」
ほーっ、という幾多もの安堵の声。
「それなら」
「でもそれは、断じてセルダン伯爵とどうこうっていうつもりがあったわけじゃ」
「断じて」の部分をことさら強調すると、セルダン伯爵は大きく息を吐き、もういい、と低くうめいた。
「――とにかく、この気持ちを口にせず去れと言うんだな」
そうなの、と私は頷いた。そして、ごめんなさい、と言葉にしようとしたその時――
顔に影が差し、気付けばセルダン伯爵の澄んだ瞳の色が余りにも間近に迫って――激しく唇を奪われた。
「!!??」
おおっ、とギャラリーから小さな感嘆の声が湧き上がった。かくいう私は、あまりの出来事に「ギャーーーーー」と心の中では大声をあげている。だが実際は、深い口づけのせいで息をつくことすら許されなかった。
なに、これ、なに!?
どうにか逃れようと、身体をよじり両手でセルダン伯爵を押し返すが、頭と腰をしっかりと抑えられてしまってびくともしない。無力な抵抗を続けるうちにも口づけは深められ、もうどうしたらいいのか。一度かすかに唇が離れてほっとするが、それも一瞬のことで、更に角度を変えて唇が吸い付いてきた。しかも今度は私の口を割って、なにか押し入ってくる、温かい――ひええええええ!
「――――っ!」
私はまさに、声にならない悲鳴をあげ続けた。こんな、こんな、こんなことって。
いったいどれほどの間そうしていたのか、もはや何も分からなくなった頃になってようやく、私は解放された。涙目で恨みがましくセルダン伯爵をねめつけると、一方の彼はどこか満足そうに、そして心なしか愛しげに私の頬を撫でた。
「これが、私の気持ちだよ」
こんなの――それこそ反則だ!
憤然として食ってかかろうとしたものの、うまく言葉が出てこなかった。声の紡ぎ方を忘れてしまったようだ。自分でも理解しきれない様々な感情の波が私を覆いつくし、眩暈さえ覚える。でも――ああ、でも、今一番胸の奥底から溢れ出るこの感情は、この上ない喜びなのだ――。
何か、何か言わなくては。
でも、何を言えば。
――わあっ!
その時辺りを包んだのは、観客たちの色めいた歓声だった。
祝福の声。
温かい拍手――。
そうして私の世界は、あまりにも奇跡的に変化した。