第18章
もう、本当に、最悪だ。
恥ずかしい、最悪、むかつく、死にたい、最悪!
なんだったんだ、この間のティータイムは。
セルダン伯爵との最後のお茶会。そりゃあ今更、「楽しく談笑できたら」だなんて、欠片も期待していなかったけれど。でもだからって、アレはないんじゃなかろうか!?
散々罵倒され、コケにされ、なぜか勝手に拒絶され、挙句の果てには私の気持ちを見透かしたような捨て台詞を吐かれ――本当にもう、泣きたい。
そもそも、何故セルダン伯爵がエルバートの告白のことを知っていたのか。おおかた、エルバートから報告を受けたベックフォード侯爵がセルダン伯爵に吹き込んだのだろう。ベックフォード侯爵め、今度会ったらただではおかない。
あの時は言われるがままの私だったけれど、あれから何度も思い返すうちに、何故あそこまで言われなければならなかったのかと、言いようのない怒りが沸き起こってきた。私も私だ。どうしてあの場で文句の一つも言い返さなかったのか。確かに私はあの時、ここ最近で一番焦燥していた。馴れない色恋ざたで頭を悩ませすぎて、思考回路がまともに働いていなかったのもある。――でも! でも、だからといって、あそこまで言いたい放題言われて、どうしてそのまま奴を帰してしまったの。私のプライドを打ち砕いた、あのとどめの一言が幾度となく頭の中に響き渡る。
君が好きなのは、この私なんだろう――
だああああああ、恥ずかしすぎて足が勝手に地団太を踏んでしまう。
確かに! もしかしたらそうかもしれないと、自分でも思っていたわよ。悩んでた! だけど、当の本人に真っ向から指摘されると心の底から腹が立つ。
セルダン伯爵の、あの勝ち誇ったようなしたり顔。私があなたを好きだなんて、そんなわけないじゃないのと鼻で笑ってやりたかった。だけどあの時の私は、打ちひしがれた表情で黙ってセルダン伯爵を見送るしかできなくて。きっと、やっぱりこの娘もただ安っぽいだけの女だったって思われてる。
――くやしい。
あんな男を好きだなんて、信じたくない。
エルバートの告白を素直に受け入れられないのも、セルダン伯爵の言動に振り回されているのも、彼が好きだからじゃない。あんまり腹の立つ男だから、人生でこれほどまでに忌々しい異性に出会ったことなんてなかったものから、一周まわって、もはや恋心なんだか何なんだか分からなくなって混乱しているだけなんだ。
そういうことにしたい。
でも、違う。そうじゃない。もう、分かってる。
(自分の気持ちを、自分の中だけで切り捨てる必要はないと、エルバートが言ってくれた)
受け入れがたくても、怖くても、報われないものであっても。
自分の気持ちと向き合あおうと、決めたではないか。
奇しくも、セルダン伯爵自身が言っていた。
まずは自分をよくよく見つめなおせと。
私に必要なのは、自分自身を好きになることなんだと。
そうだ、全ては少しずつ変化していく――私自身の感情も。
変化するということは、これまでのすべてを否定し捨て去ることではない。あらゆる物事は、どこまでも繋がっている。過去と繋がっているからこそ、「変化」があるのだ。
受け入れなければ。
嫌いだった自分も、認めたくない気持ちも。
受け入れて、認めて、そして前へ進むんだ。
――前へ。
私は、ごくりとつばを飲み込んだ。
今、めったに足を運ぶことのない部屋の扉の前に立ち、ノックをしようと右手を掲げている。
手が震えそうになる。
けれど、意を決して、私はその右手を動かした。
「――お義母様、失礼いたします」
返事を待たず、扉を開いた。「入らないで」なんて言われてしまったら、進むことも引くこともできなくなってしまうから。もう決めたの。絶対、前に進むって。
扉を開いた途端、柔らかい香りが鼻腔をついた。
久方ぶりに入った義母の部屋は、私の遠い記憶のとおり、昔からほとんど変わるところはなかった。私の気張った決意を和らげてくれるような、優しさに満ちた空間。明るい日差しが大きな窓から差し込み、落ち着いた色の調度品が上品に並んでいる。
義母は、その部屋の窓際に座って、窓の外を眺めていた。
ここから見える彼女の横顔は、鼻筋がすっきりと通って、人形のように美しい。誰もが羨むブロンドの艶やかな髪はゆるりと結い上げられていて、ドレスから覗く白いうなじや華奢な手首などは、まるで陶器でできているかのよう。窓から射す日の光に身を委ねている様は、三十どころか、十代の少女のようにすら感じられた。
「……いつの間にか、花が咲いていたのね」
唐突に声をかけられて、私は目を瞬いた。
「ほら、あそこのアリッサム。毎年、冬にあの花が咲き始めるのを楽しみにしていたの」
つ、と細い指で窓の外を指差す。
部屋の入り口からでは彼女のその美しい指先しか見えないけれど、白い花が庭一面に咲き誇っている姿は容易に思い浮かべることができた。アリッサムは、義母が大好きな花だ。それでお父様が、彼女の部屋から一番綺麗に見える場所にたくさんの苗を植えさせたのだっけ。もう、遠い昔のこと。
「そういえば、去年はアリッサムのことをすっかり忘れていたわ。もう少しで今年も忘れたまま一年を過ごすところだった」
「……」
「今年は気づくことができてよかった」
初めて義母はこちらを振り返り、にこりと微笑んだ。
正面から彼女を見ると、その華やかな顔立ちに、つい視線が惹きつけられる。アリッサムのような地味な花を好む彼女は、けれど、自分自身は色鮮やかな大輪の花のような人だった。
「フィーリア、そんなところに立っていないで、こちらへお掛けなさいな。一緒にお茶でも飲みましょう」
手招きされるがままに、私は義母の側へ寄った。そして目に入った窓の外一面の白い花に胸を打たれた。――お父様の面影が、あまりにも強く感じられて。
「とても綺麗な純白よね。あなたのお父様のように、優しくて大らかで、素朴だわ」
「……ええ」
ああ、彼女がこの花を好きだと言った理由が、今更分かった。
私達「親子」の間には、もうずっと、おおよそ親子らしい会話などは存在しなかった。
特に、父が亡くなってからは、会話をする機会自体がぐっと減った。それが今、義母は、こんなにも柔らかい表情で、いとおしげに父のことを話している。
「――庭師も」
気づけば、私は自然に口を開いていた。
「あの花が好きだと、言っていました。一つ一つは小さな花なのに、こうしてたくさん集まると、人の心を大きく動かす力を持ってるって」
「そう、庭師がそんなことを。彼の名前はなんといったかしら?」
「サムです。長年我が家の庭師を務めていたマーティンの息子で、一年ほど前から庭造りに携わるようになりました」
「まあ、そうなの。親子でこの庭を守ってくれているのね。そんなことも知らずに任せきりにしていたなんて、恥ずかしいわ」
「お義母様、気付いておられません? アリッサムの花、去年よりもずっとたくさん咲いているんですよ。この秋、サムが例年よりたくさんの苗を植えたんです。同じ花だけど、去年とは違う姿を見せてくれている。……サムは他にもいろいろと新しい花を植えているようですから、今度の春はまた違った庭になっているかもしれません。少しずつ、この庭も変わっているんですよ。以前の美しさはそのままですけれど」
望むべきは、この庭の在り方だ。
「お義母様、私たちの関係も、これから少しずつ一緒に変えていきませんか」
この一言を伝えるには、勇気が必要だった。
義母の正面に腰を下ろした私は、背筋を伸ばし、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。私自身が逃げ出しそうになるのを押しとどめるためだった。
「――ごめんなさいね、フィーリア」
窓の外の白花に視線を移しながら、義母は静かに呟いた。
私は、拒絶されたのだと思った。目の前が真っ白になった。次の言葉も見つけられずに、ただ義母の横顔を眺めていた。
そのサファイアのような瞳から、涙が一筋頬を伝い落ちていく。
「これまでずっと、本当にごめんなさい。私こそが、もっと早くに変わるべきだった。そして、私の方からあなたに歩み寄るべきだったわ――お父様が亡くなるよりも、もっと前に。私は、母親として、娘のあなたに何ひとつしてこなかった。だからもう二度と、あなたがこの部屋の扉をノックする日はやって来ないと思っていたわ」
「お義母様」
「彼が亡くなって、それでも私はこの家にいていいものか、ずっと迷っていたの。だって私はあなたの母親にはなれなかった。そうなる努力を何一つしてこなかったのだから当然ね。でもねフィーリア、私は、彼を亡くした悲しみと苦しみを、勝手にあなたと分かち合っているような気になっていたのよ。彼はいなくなってしまったけれど、あなたは変わらずこの家で静かに暮らしていた。あなたの存在だけが、私を孤独から救ってくれる唯一の拠り所だった」
義母の瞳からは、次々と涙があふれてくる。
彼女がそんな風に思っていただなんて、私は全く知らなかった。
「けれど同時に、ずっとこのままではいられないと分かっていたわ。あなたもやがて、結婚をして、家庭を持ってこの家を出ていくでしょう。そうなる前に、私は私自身が独り立ちしなくてはと焦っていたの。それで、年甲斐もなく、セルダン伯爵に夢中になろうとして」
ああ――、そういうことだったのか。
ずっと静かに喪に服していた義母が、急に色恋に目覚めたように見えた理由がようやく分かった。単純にセルダン伯爵にのぼせ上っていたわけじゃない。彼女はずっと、何か縋るものを探していたんだ。
「でも、駄目だった。セルダン伯爵は私の浅はかな考えをすぐに見抜いてしまったわ。それで急速に、彼は私に興味を失っていった。だから本当は、初めから、何も始まってなどいなかったのよ、私とセルダン伯爵の関係はね」
「でも、婚約までして……」
それは一体どちらが言い出したことなのか。思わず口をついた疑問に、義母は涙をぬぐいながらも軽く肩をすくめて答えてくれた。
「私から持ち掛けた話よ。彼、とある公爵令嬢にずっと言い寄られていたのを知っているかしら? 私との婚約を隠れ蓑にすればいいと言って、偽りの婚約を迫ったの」
「どうしてそんなこと……、不毛だわ」
「本当にね。でも私は、とにかく、一人きりにはならないという保険が欲しかった。そして彼は、もはや公爵令嬢からのアプローチを断り切れないというところまで追い詰められていたわ。そういう意味では、私たちはお互いに利害が一致していたの」
理解不能だ。
私の顔に、そう書いてあったのだろう。義母は寂し気に微笑んだ。
「愚かな選択だったというのは分かっているの。言い訳にしかならないけれど、婚約したところで、実際に彼と結婚するとは思っていなかったし、そのつもりもなかった。でも、セルダン伯爵には申し訳ないことをしてしまったわね」
「あの人については自業自得です。お義母様との婚約をしっかり隠れ蓑として活用していたみたいだし」
「でも、そのせいで、あなたとセルダン伯爵にとっての障害になってしまったわ」
……ん?
「ええと、お義母様?」
今、ちょっと理解できない台詞が。
「安心してちょうだい。もう決してあなたたちの邪魔をしたりしないわ。もちろん、今さら私が何を言っても許されないし、意味のないことだとは分かっているけれど。でも、母親として、あなたたち二人が結ばれてくれればと、心から思っているわ。それだけは信じてほしいの」
ちょっと待って。
「あの、話がよく見えないんですけど。私とセルダン伯爵が、何なんですか?」
義母は、とても鮮やかな、美しい笑みを浮かべた。
「惹かれ合っているんでしょう? お互いに」
――――。
あまりに驚いて、私は言葉を失った。
「気付いていたわ。でも、一人孤独に追いやられるのが恐ろしくて、ずっと気付いていないふりをしていたの」
それももうおしまい、と、にっこり笑った義母は、まるで恋の話が大好きなあどけない少女のようだ。
「お、お義母様。それは何かの間違い……」
「あら? そうかしら。だって二人とも、毎日のように会っていたじゃない。セルダン伯爵が我が家に足を運んでいたのは、私ではなくあなたが目当てだっていうのは、当然分かっていたわよ」
いや、でも、お義母様が想像しているような甘い理由は微塵も存在しないんですが。
「憶えているかしら。一度、あなたがどこかのバラ園に出かけてしまって、セルダン伯爵とすれ違ってしまったことがあったじゃない。その時の彼ってば、もう本当に不機嫌で、大変だったのよ。あの人、機嫌が悪くてもそれを完璧に隠し通すことができるような人でしょう? それがあのときばかりは、なんて分かりやすい人なのかと呆れてしまうほど、あからさまに拗ねてしまってね」
そういえばそんなこともあっただろうか。どんな形であれ、女に適当な扱いを受けたのが屈辱的だっただけだと思うんだけど。
「確かに私たちはよく会ってはいましたけど、毎日言い争いばかりしていたんですよ」
「セルダン伯爵は、あなたと会うのを楽しみにしていたみたいだったわ」
「それはそうでしょうね! いつも私を小馬鹿にしては楽しんでいたんですから。私はそれが悔しくて、いつか一泡吹かせてやろうと思っていたんです。ついに叶わなかったけれど」
「それじゃあ、フィーリアはセルダン伯爵のことが好きというわけではないの?」
くすり、とお母様は笑った。
……いえ、実は今現在は、好きになってしまったみたいなんですけども。まぁ、そんなことをわざわざ付け加えなくてもいいか。
「それじゃあ、あの人にとっては初めての片想いになるのかもしれないわね」
「――は?」
「セルダン伯爵はね、あなたのことが好きなのよ」
さらり、と言ってのけたお義母様。
いやあの、待ってください。
「あの人も恋愛経験は豊富なんでしょうけどね。同じ恋愛体質でも、私のほうが十近くも年上なのよ。様子を見ていれば、彼の本心がなんとなく分かるのものなの」
ですから、待ってください。
「フィーリアも、どんな形であれ、彼とは随分一緒にいたから分かるんじゃない? あの人は、紛い物が大嫌いな人だわ。きっと本当は、遊びの恋愛なんてくだらないと彼自身思ってるのでしょうね。だけど、そういった『くだらないもの』でさえ、自分の武器にできてしまう。そうしながら、自分が本当に求めているものを探しているのよ」
そんな、節度のない女遊びを、まるで崇高な思想ゆえの戯れみたいな感じで言われても。
「フィーリアは、お父様に似て、素朴なのにどこか高貴なところがあるわ。それに包容力もあって、とても真っ直ぐだし。私はセルダン伯爵と似たもの同士だからわかるの、彼はあなたに惹かれてる」
とても頷けるような話ではなかった。当の本人である私には、そんな様子はこれっぽっちも感じとれない。そもそも、私とセルダン伯爵では、何もかもがあまりに違いすぎる。こんなただの小娘のどこにセルダン伯爵が惹かれる要素があるというのだろう。そんなことは絶対にありえない。
「だめよ、フィーリア」
私の心のうちを見透かしたように、お義母様は人差し指で私のおでこを軽くついた。
「セルダン伯爵とちゃんと彼と向き合わないと。ありえないという理由で彼を突き放してはだめ」
「でも……、実際、ありえませんから、そんなこと」
「もっと自分に自信をもってもいいはずだわ」
その言葉に、先日のセルダン伯爵の言葉が重なる。
だからと言って、セルダン伯爵に関して、わけの分からない自信を持っていいという意味ではないはずだ。これでは、自信を持つ、というより、ただ自惚れているというだけだ。
神妙な面持ちで黙り込む私を見て、義母はやれやれと息をついた。
「それじゃあ、フィーリアがもっと自分を信じられるように、一つ教えてあげるわね。この間、セルダン伯爵が婚約破棄の話をしに来たのは知っているでしょう。そのとき私は、最後に『きっともう会うことはないのでしょうけど、お元気で』って言ったの。そうしたら彼――、『いいえ、また毎日のようにお目にかかれることを、願っています』……って」
なにそれ!
「信じられない! 別れたその日に、ヨリを戻すつもりでいるなんて!」
「違う、違うわ、フィーリア」
よく考えてみて、とお母様は笑った。
「その時のセルダン伯爵の中には、もう別の誰かさんのことでいっぱいだったのよ。ねえ、ようく考えてごらんなさい」