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第16章

 どうすれば、この気持ちをかき消すことができるのだろう。


 あのダンスの後、早々に会場をあとにした私は、疲れ果ててすぐに眠ってしまった。

 セルダン伯爵と久々に顔を合わせて、気まずさのあまり気疲れした、もちろんそれもある。けれど、次の日も、また次の日も、体中にまとわりつく倦怠感や無気力感は一向に引いてはくれなかった。どころか、日に日に頻度の減っていくセルダン伯爵からの見舞いの品を眺めるたびに、気分はますます沈んでいく一方だ。


 あの時のセルダン伯爵の表情が頭から離れない。

 エルバートと冗談を言い合う私を見ていた、彼の表情。驚いている風でも、軽蔑している風でもなく。もちろん、悲しんでいる風でも喜んでいる風でもなかった。いつも通りの涼し気な微笑みに、どんな感情が込められていたのだろうか。


 私はすぐに会場を出てしまったけれど、セルダン伯爵はどうだったのだろう? 私を見かけたことなどすぐに忘れ、会場で愛想を振りまくのに忙しかったのかもしれない。彼がエスコートをしていたのは、やはり例の公爵家の令嬢だったのだろうか。それとも、また別の女性だった? 令嬢との関係は一体どうなった?


(私、セルダン伯爵のことばかり考えてる)


 窓辺に座って、ぼんやりと庭を眺める。

 秋も深まり、咲き誇る花の姿は少ない。でも、今の私には、この静かで穏やかな風景が優しかった。

 落ち着いた景色とは裏腹に、私の頭の中はひどく混濁して不安定になっている。考えまいとしてもどうしてもセルダン伯爵のことを考えてしまうし、どうにか落ち着こうとすればするほど、うまく言葉に表せない焦りを感じてしまうのだ。


(もう全部、忘れてしまいたいのに)


 眉根を寄せて窓の外を見下ろしていると、ちょうど門から一台の馬車が入ってくるのに気がついた。まさかセルダン伯爵が、と身体をこわばらせ、やってくる馬車を注視する。


 だが、やがて止まった馬車から姿を現したのは、セルダン伯爵ではなく従兄のエルバートだった。私は無意識に固く結んでいた拳の力を抜いた。それと同時に、しっかり栓をしていたはずの涙腺まで緩んでしまったのか。家の中へ入ってくるエルバートを見つめているうちに、なぜか涙がこみ上げてきたのだった。


「フィーリア、こんにちは」

「お兄様」


 いきなり涙を流している私を見て驚いたのだろう、エルバートは少し目を見開き、それから穏やかな笑みを浮かべてハンカチを差し出してくれた。


「部屋に入っていいかな?」

「ええ、もちろん」


 ぐずぐずと泣きながら、私はエルバートに席を勧めた。エルバートは微笑を礼に代えて、ゆっくりソファに腰掛ける。


「……どうしたんだい?」

「お兄様、どうしよう、私、なんだかもう怖くって」


 エルバートがここへやってきた用件すら尋ねる余裕も無くて――私はただ、こみ上げてくる胸の想いをそのまま打ち明けることしかできなかった。


「――私、セルダン伯爵のことを、好きになってしまったのかもしれないわ」

「フィーリア……」

「最初は間違いなく大嫌いだった。絶対、一生そりが合わないって、確信してた。それなのに、こんなことになるなんて」


 今でも彼とは合わないと感じている。けれどそれでも、惹かれているのだ。


「あの人は、私のことなんか何とも思ってないわ。くだらないやりとりの数々も、共に過ごすお茶の時間も、いつの間にか失いがたいものになってしまったのは私の方だけ。そんなこと、嫌っていうほど分かっているのに、勝手に期待してしまうの。セルダン伯爵と会わなければそのうち気分も落ち着くかと思っていたけど、全然だめ。逆に、日が経つほどあの人のことばかり考えてしまうし、この間の舞踏会でセルダン伯爵を見かけたときには、息ができなくなるくらい驚いたわ。すごく動揺して、もうどうしようかと思った」


 次から次へと言葉があふれだしてくる。

 今まで必死になって目を逸らし、胸の奥底へ押し込めてきた私の気持ちが、外へ外へと解放されたがっているみたいだ。


「私ね、セルダン伯爵と出会って、自分の世界があまりにも小さすぎるって気づいたの。……ううん、違う、前からそれは自覚してた。このまま自分の世界に閉じこもっているだけじゃ駄目だと、思い知ったというか」


 要領の得ない私の話を、エルバートは頷きながら聞いてくれる。


「だから、もっと世界を広げたいと思ったの。最近はよく舞踏会に顔を出したり、意識して色んな人と接点を持つようにしていたわ。そうしたら、外に出るのもいいかなって、少しずつ思えるようになってきたのよ。自分が社交的な人間に生まれ変わったような気さえしていたわ」


 こんな私でも、変われるんだと。

 一歩ずつ、歩みは遅くとも、確かに前進しているんだと。


 ――でも。


「それがこの間、舞踏会でセルダン伯爵と再会してしまって、すべてが崩れてしまったみたいなの。何も変わらないセルダン伯爵の微笑みが怖かった。あの人はもう関係ない、たとえ私を陰で笑い者にしていたって、私は私のために前へ進めればそれでいいって、ずっと自分に言い聞かせてきたのに。でも、あの人は出会った当初から何も変わらない。本心をまるで窺わせない取り繕った笑みを、今でも私に向けるのよ。それを思い知ったら、全身から力が抜けたみたいに、立ち上がるのも億劫になってしまって」


 とにかく私は、ひたすら一人でまくし立てた。今すべて、胸に淀む思いを言葉にしてぶちまけてしまうことで、どうにか平静を取り戻したかった。自分でも、何を言いたいのかよく分からない。

 そして、とうとう次の言葉を見つけられなくなった私に、エルバートは優しく語りかけた。


「……フィーリア、一度、肩の力を抜こうか」


 はっとして、私は顔を上げた。


「フィーリアは間違っていない。自分を変えようと努力することは大切なことだよ。でも、同時にとても大変なことでもあるんだろうね。だからこそ、毎日が順調にいくわけじゃない。頑張り続けて疲れたら、今みたいに少し休んでもいいし、こうして私や誰かに話をして、心を軽くすることだって何も間違っていない。いつでも私を呼んでくれて構わないよ。フィーリアがどれだけ真っ直ぐで、頑張り屋で、我慢強い子なのかを知っているからね。たくさん君を褒めてあげるし、慰めてあげたいと思う」


「……お従兄様……」


「でもね、フィーリア。そういったことと、セルダン伯爵のことは、多分、切り離して考えた方がいい」

「切り離して?」


 うん、とエルバートは頷いた。


「フィーリアのことだから、きっと最初から、彼との関わりを良くないものだと思い込んでいたんじゃないかな。彼はお義母さんの婚約者だし、そうでなくても私達とは住む世界が違う人だ。フィーリアの気持ちはよく分かるよ。でもね、そうと決めてかかることこそ、良くない結果に繋がることになると思う」

「それは……」

「フィーリアは、自分の心の中だけで、セルダン伯爵への気持ちを片付けてしまおうとしているね。良くないものだから、不毛なものだからと、まるで自分を罰するように。だけどそうじゃなくて、まずは自分の想いを、自分自身が受け入れてあげたらどうだろう」


 自分の想いを、受け入れる。

 それはとても恐ろしいことのように思えた。


「で、でも……! セルダン伯爵は、お従兄様が思っているような誠実な人ではないのよ。いつも私をからかって、鼻で笑っているような人で」

「彼を、誠実な人だと思ったことはないよ。噂は色々聞いている」

「……」

 存外に冷静な言葉が返されて、私は思わず唇を結んだ。

「それでも、フィーリアは彼と過ごす時間を失い難いと感じたんだよね? だったらきっと、セルダン伯爵も、ただ噂通りの軽薄な気持ちでフィーリアに接していたわけじゃない。彼は彼で――君に対して思うところがあったんじゃないかな」


 セルダン伯爵が、本当は私をどう思っていたのかなんて。

 一生かかっても答えの見つけられない難問のように感じられる。


「彼に直接問いかけてみてもいい。どんな答えが返ってくるかは分からないけれど、仮にどんな答えが返ってきたとしても『答え』は『答え』だ。きっと、そうして心の整理をつけていくべきなんだろう。少なくとも、フィーリアがたった一人で思い悩んで、その思いを切り捨てる必要はないはずだよ」


「……私は」


 何かを言おうとして、でも、すぐには言葉が出てこなかった。

 自分がどう思っているのか、どうしたいと思っているのか、未だ答えが見つからない。考えを巡らせながら曖昧に口を開いた私を、エルバートは忍耐強く見守ってくれた。


(そうか)


 この感情を、悪と決めつけて切り捨てなくてもいいんだ。セルダン伯爵に心惹かれつつあるという事実から目を背けたくて仕方がなかったけれど、むしろそうした気持ちとじっくり向き合って、私自身が受け入れてあげるべき、なのか。


「……私は、セルダン伯爵に、この想いを受け入れてもらいたいわけじゃない、と思うの」


 私は訥々(とつとつ)と話し出した。


「うん」

「セルダン伯爵とお付き合いをするとか、全然想像もできないし、そんなことを望んでいる訳じゃない。そう、そうなの。私は、彼のたった一人の特別な女性になりたいというわけではないんだわ」

「うん」

「彼にとっての唯一でなくていい。だけど、『婚約者の義娘』という肩書でもなく、『引きこもりの可哀想な娘』という肩書でもなく、『暇つぶしのおもちゃ』という肩書でもなく――フィーリア=アーヴィングとして、ちゃんと一人の人間として、私のことを見てくれたらと思う」

「……うん」

「そしてできれば、対等な人間として、これからも付き合っていきたいわ」


 エルバートは、深く頷いた。


「その気持ちを、そのまま彼に伝えればいいんだよ」

「そんなこと……」


 できない、と思う。想像が、つかない。

 どんな場面にどんな顔をして伝えればいいのか。彼にとって、今の私は『婚約者の義娘』で、『引きこもりの可哀想な娘』で、『暇つぶしのおもちゃ』に過ぎないのだ。もしも彼が、エルバートの言う通り、そうではない理由を見出して私と接してくれていたのだとしても、あくまでそれは一過性のものでしかないだろう。これから先もずっと一人の友人として付き合っていきたいだなんて、彼が考えてくれているはずがないのだ。


 ああ、だからこそ、思いの丈を彼にぶつけて、はやくこの気持ちを清算してしまうべきなのだろうか。


 ――考え込んでしまった私に、エルバートは優しく微笑みかけてくれる。


 その微笑みは、右も左も分からない暗闇を照らす、光の道標のようだった。エルバートには、きっと一生かなわない。彼こそ、「従兄」というただ一言で片づけることなど到底できない、かけがえのない人だった。どんな時でも私の気持ちを受け止めてくれる。こういう人が、すぐ側にいてくれて本当に良かったと思う。


(……うん。お従兄様の言うとおりね。私が一人で答えを出さなくてもいいんだわ。例えどんな結果になろうとも、この気持ちを、素直にセルダン伯爵にぶつけよう)


 意地を張っていた気持ちも、逃げ出したくて怖気づいていた気持ちも、エルバートが優しく取り除いてくれた。まだ少し怖いけれど――きっともう、大丈夫。


(もう逃げない。ちゃんと、セルダン伯爵と向き合おう)


 そう決めたら、不思議なほどに心が落ち着いた。


 そして感謝の気持ちを込めて、私はエルバートに笑顔を返す。

 でもそのとき、エルバートの笑顔にどこか淋しさが混じっているのを、感じ取った。


「フィーリア」


 エルバートは、私の名前を呼んだ。今までの諭すような声じゃなかった。優しさの中に、とても強いものを感じさせる、声だった。


「僕は、伝えることにするよ」


 お従兄様。お従兄様?


「ずっと、君のことが好きだったよ、――フィーリア」

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