第13章
天国から地獄とはこのことだと思う。
普段着たことのないような素敵なドレスに身を包み、化粧をして、エルバートに「綺麗になったね」と声をかけてもらえるなんて、まさに夢のような出来事だった。
それが一転、セルダン伯爵という悪魔が、全てをぶち壊すことになろうとは。
夢心地だった私の気持ちは、奴のせいで完全に冷め切ってしまった。セルダン伯爵と談笑なんぞしてしていたエルバートを恨めしく思ったくらいだ。恨めしいだなんて、もはや、花も恥らう乙女の持つべき感情ではない。
翌日も、その時の衝撃を引きずったまま、私は非常に不機嫌だった。
衝撃を引きずった、というよりはむしろ完全に悪化していたので、セルダン伯爵がまたしても私の部屋に姿を現した瞬間などは、その顔面にとび蹴りを食らわしたい衝動に駆られてしまい大変だった。
「ご機嫌はいかがかな、フィーリア」
「とりあえず帰ってください」
開口一番、はっきりと拒絶を示したのだが、この男は相変わらず気にもしないようだ。腹立たしいほど爽やかな笑顔を見せ、優雅に歩み寄ってくる。
「おや、今日はめかし込んでいないんだね? 昨日のフィーリアはとっても綺麗だったのに、残念だな」
何を今更!
だいたい、この男の口から出る私への誉め言葉は、総じて口先だけのお世辞であると重々承知している。義母を思いやって沈痛な面持ちをしてみせた昨日の方が、よほど説得力のある様子だったというもの。私みたいな小娘には、安っぽい口説き文句で十分だということだろう。
私が額に青筋を立てていることに気づいているのかいないのか、セルダン伯爵は楽しそうに笑みを浮かべてソファに腰を下ろした。
「普段のフィーリアも十分可愛らしいが、たまには私のために着飾ってくれると男としては嬉しいんだがね。そうだ、今度は私がドレスを見立ててあげようか」
「結構です! それよりご用件は一体何ですの? 公爵令嬢とのお約束があってお忙しいんでしょう。こんなところで油を売っている暇などないのではなくて?」
「ああ、それなんだが」
もったいぶるように言葉を切って、セルダン伯爵はティーカップを口元へと運んだ。
「おかしいと思わないかい?」
「何が」
ここまでのやりとりで相当怒りの溜まっていた私は、不躾な態度で彼に応じた。こういうもったいぶった話し方は、大嫌いなのだ。
「昨日のことさ。めかし込んだ君、久々に逢う憧れの従兄。そしてその再会の場に、『たまたま』私とステラが出くわす――。都合が良すぎる展開だ、と私は思うのだがね」
……う、そう言われてみれば、確かに。
「あの庭園を待ち合わせ場所にしたのは君か? どうせオーウェンが提案したんだろう」
「え、ええ……まあ」
「となれば話は決まった。昨日のことは、オーウェンに嵌められたんだな」
「はあ!?」
嵌められたって! なにそれ?
昨日のことは全部、ベックフォード侯爵が仕組んだことだっていうの? だとして、一体それでベックフォード侯爵に何の得が?
「君とフランシス氏があの庭園で感動の再会を果たしているところへ私とステラをおびき出して、ひと悶着させようと思ったんだろうね。恐らくステラも一役買っていたんだろう。思えば、妙にサンクローゼの庭園へ行きたがっていたし、君たちと遭遇しても全く動じた様子が見られなかった」
「ひと悶着って」
「簡単なことだ。君とフランシス氏が仲睦まじくしているのを目撃して、私は面白くないと思う。特に君はいつになく美しく着飾っていたしね。この男のためになら、フィーリアは美しくあろうとするのか、と私はやきもちを焼いたかもしれないよ」
かもしれないよ、って、そんな他人事みたいに。自分のことでしょうが。
「その逆も同じさ。一度は別れたはずの私とステラが二人仲良く庭園を散歩しているのを見た君は、『私を口説き落とそうとしているくせに、別れた女とよりを戻そうだなんて』と少しは腹を立てたんじゃないか? それだけじゃない。フランシス氏も、私とフィーリアの様子から、二人がどういう関係なのかといままでにない胸騒ぎを憶えたかもしれない」
ぺらぺらと、セルダン伯爵は道化のように軽い調子でまくし立てた。
何を馬鹿な、と、とっさには思った。
思いたかった。
けれどもその一瞬のちに、なにもかもが思いあたる節の連続であることに納得せざるを得なくて、私は、激しい苛立ちと――絶望感に襲われた。
「……なによ、それ」
「大方、オーウェンは私たちのやりとりを楽しんでいたんだろうな。まったく、ステラまで巻き込んで。あいつにも見くびられたものだ。そんな茶番に、私たちが乗せられるはずもないのにね」
茶番。――そう、茶番。
それほどぴったりくる言葉は見つからない。あまりにもばかげた茶番だ――。
そっとセルダン伯爵の顔を見てみると、彼は嘲りにも近い表情で薄く笑いながら、用意されたティーカップに視線を落としているところだった。
一方の私は、あまりにも惨めな顔をしていたと思う。
だって、昨日の私は、どんな様子だった? あれが全て仕組まれた「茶番」だと気付きもしないで――。
ステラと一緒に現れたセルダン伯爵に、少なからず衝撃を受けて。精一杯着飾った私を、褒めるどころかけなしもせず、まったくの無反応だったセルダン伯爵に密かに傷ついていた。それに私、セルダン伯爵とエルバートが私のことでいがみ合うことすら期待していたのかもしれない。仲良く打ち解けてしまった二人を見ていて、面白くなかった。
そして、なによりも。今のこのセルダン伯爵――。
私なんかのことで自分が動じるなどありえないという自信に満ちた彼の態度が、私の心をきりきりとしめつけるのだ。
私は一人、この茶番に踊らされていたんだ。
「このままオーウェンのいいようにされるのは面白くない。どうだい、フィーリア。騙されきったふりでもして、あいつの屋敷にでも二人で遊びに行こうか。私たちの報告を聞いて満足そうにしているオーウェンを、逆に笑ってるのも面白そうだ」
「やだ」
腹の底から出たその一言に、セルダン伯爵はかすかに驚いたようだった。
つ、と形のよい眉を動かし、顔を上げる。でも私は自分の表情を見られたくなかったから、その顔めがけて思い切りクッションを投げつけてやった。命中する直前でうまくそれを掴まえて、それでもセルダン伯爵はむっとした表情でこちらを睨んだ。
「一体なにをするんだ」
「――ああぁ、もうっ! やだって言ったの!」
突然奇声を発した私に、セルダン伯爵は驚いた様子だった。でも、一度爆発してしまったら止まらない。
「もう何もかも嫌よっ! ベックフォード侯爵は、ちょっとはいい人かもしれないって思っていたのに。人をからかって楽しもうだなんて、結局は、まさしくあなたの『ご友人』だったってわけね。ステラだって、ついこの間、泣いてあなたのこと相談しに来たのよ。それで可哀相だと思った私ってなに? 数日後にはうまくよりを戻して自慢しに現れてりゃ、世話ないわよ。――それに、セルダン伯爵! 私から、エルバートまで、奪わないで!」
「フィーリア」
「うるさいっ! もう二度と、私の前に姿を現さないで!」
「……嫌だと言ったら?」
この期に及んで、この男は。
あまりの怒りで、気が変になるかと思った。
本気で彼を睨みつけると、セルダン伯爵も、いつの間にか軽薄な笑みを引っ込め真面目な顔つきで私の視線を真っ直ぐに受け止めている。
「――あんたが、私の目の前から、消え失せないというのなら」
もう、もう、もう、いい加減にして。
「私が、ここから出て行くわよっ!」
思い切りまくし立てて、私は息も荒く部屋を飛び出した。
そして行き着く先は?
隣の、部屋。
――だって私には、どこにも居場所が無いんだもの。
ここにしか、居場所が、無いんだもの。
私は乱暴にドアを閉め、部屋の片隅のベッドに身を投げ出した。
情けない。何をやっているのだろう、私は。
セルダン伯爵と関わるようになってから、ひどく心が不安定になっている気がする。ううん、前々から胸の奥にため込んでいたものが、ここへ来てあふれ出ているみたいだ。最近は今までになく感情的に振舞うことが多くなっている。
これまでは、平気だったのに。
お父様がいなくなって、確かに辛かった。苦しかった、悲しかった。でも、そうした負の感情に呑み込まれて我を忘れることなんてなかったのだ。ちゃんと、自分の中で折り合いをつけてやって来れた。これからもそのはずだったのに。
私はもう大人だと。
一人でも大丈夫だと。男に縋らないとやっていけない義母とは違うのだと。
だというのに、今のこの私の体たらくは何だ。
セルダン伯爵もさぞかし驚いたことだろう。「私からエルバートまで奪わないで」って、なによそれ。他になにを奪われたっていうんだろう? というか、セルダン伯爵にしてみれば、エルバートのことだって、奪った覚えなど微塵もないだろうに。
――それにむしろ、あの人は、根性がひん曲がりまくっているのは揺るぎない事実としても、実は私に色々なきっかけを与えてくれているんじゃなかろうか。
今だって私は、どこにも行くあてがなくて、自分の屋敷から動けずにいる。私の世界はあまりにも小さい。ずっと、部屋に一人で閉じこもってばかりいたから。
でも、セルダン伯爵がこの小さな箱庭を出入りするようになってから、私の世界は確実に広がった。ステラやベックフォード侯爵との出会いもそうだ。それに、義母のことをしきりに考えるようになったのも、あの人が婚約者として現れてからだった。
認めたくはないけれど、セルダン伯爵との付き合いをきっかけに、私の世界は少しずつ広がりはじめている。……そしてきっと、これからも。
だけど、その代償も大きい。
私とセルダン伯爵との間に横たわる余りにも大きい隔たりを実感せずには、あの人と接せられない。あの人の考えてることが分からない。私一人が振り回されているのが恐ろしい。勝手に手を差し伸べられているような気分になって――その手を掴もうとした瞬間に、空振りしてしまうのが恐ろしい。
(だからって、私はこのままでいいの?)
この、小さな箱庭の中で。こうして一人で拗ねているだけで、本当にいいの?
(――答えなんて、もう分かってる)
それでも、まだ動き出せない。
私はあまりにも長くこの小さな世界に浸りすぎていたみたいだ。いつの間にか、周りの水はすっかり濁って泥と化してしまった。そして私の自由を奪うのだ。もがいても、その泥は私の体にまとわりついて離れない。とても、動けない。
(手を差し伸べてくれたのが、セルダン伯爵じゃなければよかったのに)
差し伸べられた手が本物なのか、幻なのかもわからない。彼を信じて必死に泥の沼から這い出たところで、その幻は消え失せ、たった一人きり、私は途方に暮れることになるかもしれないのに。
でも――ああ、そうじゃない。
ずっと閉ざされたままだった、この箱庭の門を開け放つのは――。
私しか、いない。
私が一人で泥の沼から這い出し、そしてそこから歩き出さねば。
変化を望むのなら、自ら動かなければ。