第1章
最近、私には平穏な時間というものがない。
心の休まる時がない、と言ったほうがいいかもしれない。
とにかく、「あの男」のせいで、私は四六時中イライラし通しの生活を送っているのだ。
「あの男」――私の義母の婚約者、キースレイ=セルダン伯爵その人。その甘い容姿と穏やかな立ち居振る舞いとは裏腹に、悪魔の顔を持つ男、それが彼。
・ ・ ・
私は、中流貴族の家庭に生まれた、ごくごく平凡な娘だった。
大金持ちとは言えないまでも、日々の暮らしに困らない程度の財には恵まれて。使用人も、それほど多くはないけれど、気の置けない人たちばかり。私自身だって、特別美人というわけではないものの、幸いにも五体満足で生まれついた。
何もかもが普通、でも、それが私の幸せだったのだ。
その「普通」が歪み始めたのは、いつからだっただろう。
いつから――、ああ、それはもう、ずいぶん遠い昔からだったのかもしれない。
私の生母は、病弱な人だったという。
伝聞なのは、私自身が母の記憶を持っていないからだ。
母は、私を生んでほんの数年でこの世を去った。産後の肥立ちが悪かったということだが、それもやはり聞いた話だ。
そして、私に生母の記憶がないままに、新しい「母」が我が家にやって来た。
私が五歳になる前のことだったと思う。父は、新しい母をどんなふうに私に紹介したのだっただろうか。覚えていない。その時の父の台詞も、新しい母の様子も。
とにかくも、その新しい母というのが曲者だったのだ。
別に、悪い人間ではない、と思う。
何か嫌がらせをされたわけではないし、必要以上に構われることも、逆に無下に扱われることもなかった。一つ屋根の下に暮らす同居人。それが、私と義母の関係のすべてだった。
では、何が問題だったのか。
彼女は――継母は、あまりに美しすぎたのだ。
父と結婚した当時、まだ十八そこそこだったという彼女は、社交界にデビューした頃から評判の美人だったそうだ。聞いたところでは、百に手が届くほどの男達から求婚された経歴の持ち主だったのだとか。本人も生来男好きなタチだったようで、色んな男性をとっかえひっかえして遊びまわっていたらしい。
そんな社交界きっての花形美女を、よりにもよって、私の父が手に入れた。
優しく穏やかな人ではあるけれど、正直、人目を引くような美男子とは言い難い我が父である。その上、婚姻歴と子供つき。どうしてこうなった、と、娘の私ですら唸ってしまう。当時の世間の驚きは、その比ではなかっただろう。
でも、他人の評価なんて関係ない。
気の多い義母は、それでも確かに父を愛していた。
そして父も、偽りのない愛を彼女に返した。
それでよかったのだろうけれど。
――父が、亡くなった。
それは、今からちょうど二年半ほど前のことだった。
流行り病に倒れた父は、あっという間に帰らぬ人となってしまった。
残されたのは、まだ若く美しい未亡人と、どこか冴えない年頃の娘。血のつながらない、赤の他人が二人きりだ。父という鎹を失ってしまえば、もはや繋ぎ止めるものは何もない。
義母は、さっさと籍を抜いて実家にでも帰るのだろうな、と思っていた。
もしくは、喪が明けた頃を見計らって、新たな男と再婚でもするか。
いずれにせよ、このアーヴィング家とは早々に縁を切るものだと思い込んでいた。
だから、父の死後も義母がこの家に留まり続けたことに、私は内心とても驚いたのだ。
旦那を喪い、見るからに焦燥していた彼女は、あれだけ人の注目を浴びて華やかに遊びまわるのが大好きだったというのに、家に籠りがちになり、あまり人と会わなくなった。日々涙に明け暮れる彼女はやはり憐れであったし、私にとっては、ほんの少しだけ、救われる気持ちでもあった。
義母は、本当に父を大切に思っていたのだと、実感することができたから。
けれど。
最近、風向きが大きく変わった。
父を亡くしてから初めて、どうやら義母に、好きな男ができたらしい。
それが件の、キースレイ=セルダン伯爵というわけだ。
彼の名を、今の社交界で知らない者はいない。
名家の長男で、すらっとした長身の美青年。博識で、誰にも優しく紳士的、そしてその甘い微笑みひとつでどんな女でも腰砕けにしてしまうと、もっぱらの噂だ。
義母が彼と出会ったのは、彼女が久方ぶりに出向いたとある晩餐会だった。
十七の義娘がいるとはいえ、まだ彼女自身は三十歳だ。世間的には「もういい歳」と言われようとも、その美しさは健在も健在である。先に熱を上げたのはセルダン伯爵の方で、義母も最初は取り合わなかったようだが、彼の情熱的なアプローチに、ついに陥落してしまったのだという。
はっきり言って、気に食わない。
いや、誤解のないように言っておくが、私だって、義母にずっと独りで生きていけなどと思っているわけではない。この家に縛り付けておく気もないし、私のことだって別に気にしてくれなくて構わない。
だけど、よりによって、相手があの男でなくてもいいではないか。
セルダン伯爵は、私の父とはおよそ共通点のない男である。
まず、若い。
今年二十三歳だったか。父は義母より十以上年上であったが、セルダン伯爵は義母より十近くも年下ということになる。未亡人の再婚相手とするにはあまりに若すぎる。
そして、セルダン伯爵の家系はこの国でも有数の大貴族だ。彼も、ゆくゆくは由緒ある侯国を父親から譲り受けることになるはずだし、私の父とは文字通り「格」が違う。
なにより――彼は、社交界きっての美男子である。
義母は父の人となりに惹かれたのだと昔言っていたけれど、それじゃあ、セルダン伯爵の一体どこに惹かれたのか、さあ言ってみろと義母に詰め寄りたくなってしまう。
何だろう、どうしようもなく、空しい。
私は義母と特別仲が良かったわけではないけれど、彼女の父への愛を疑ったことはなかったのに。むしろ、日々涙に明け暮れている彼女に、初めて母娘めいた情を感じたのだ。それが今、セルダン伯爵に惹かれている彼女を見ると、私の父は一体何だったのだろうと感じてしまう。
……分かっている。
そんなもの、私の自分勝手な感傷に過ぎない。相手が誰であれ、ようやく前に進みだした義母に幻滅するなんて、最低なのは私の方だ。分かっているからこそ、余計に気持ちは沈んでいく。それで私は舞踏会にも行かず、自分の部屋に引きこもる毎日を送っている。
でも、でも。だけど。
(やっぱりセルダン伯爵だけは、止めてほしかった!)
実は、ここ最近、彼は足繁く我が家に通っているのだ。
それは何故か。
なんと、全く懐こうとしない婚約者の「娘」と打ち解けるためである。
その「娘」とは、もちろん私のことだ。
母との再婚に反対する娘の気持ちを思いやり、日々足を運んで、対話の時間を作ろとする。世間がこんな逸話を聞けば、彼の肩書きに「誠実」の二文字も追加されることだろう。
でも、現実はそう美しいものじゃない。
要は、ただの暇つぶし。
もしくは、三十路を過ぎたオバサンを相手にするのに飽きての気分転換。
もしくは、仕事に疲れたときの単なる逃げ場。
私を訪れる本当の理由は、そういったところだろうと踏んでいる。
―――つまり、セルダン伯爵は、誠実でも何でもない、極悪人なのだ。
何故そんなことが断言できるのか?
簡単だ、私に対する彼の態度が全てを物語っているからである。
あの男、実はめちゃくちゃ性格が悪い。
それはもう、裏社会を取り仕切る詐欺集団の親玉もかくや、というほどだ。
あの美しい顔に張り付けられた微笑みは、完全に人を小馬鹿にした時に浮かべるそれだ。義母の前で見せるとろけるような笑顔など、初めて目撃した時には、思わず二度見してしまったほどだ。
それに、私の部屋で椅子にふんぞり返ってくつろぐあの男の姿といったら。まるでこの部屋の主は自分であるとでも言いたげな、傲岸不遜な様子なのである。
当然ながら、セルダン伯爵は、私と打ち解けようなどとは毛の先ほども思っていない。どころか、そもそも義母のことだって、本気で愛してなどいないのだ。彼の日頃の口ぶりからして、恐らく他にもたくさん女がいる。
まあ、要は、彼は義母には手に負えないほどの遊び人で、狡猾な奴だということだ。
セルダン伯爵に関する浮いた噂はいくつもあるが、そういったものをうまく丸め込んでしまえるほど、彼は頭も要領も外面もいい。だから余計にタチが悪い。
こんな男が、かつて私の父が立っていた場所に、今まさに足を下ろそうとしているなんて。
絶対、許せるはずがない。
――コンコン
その時、控えめなノックの音がして、そのあとに「お茶のご用意ができました」というメイドの声が続いた。
引きこもりの私にそうたくさんの娯楽があるはずもない。ティータイムは、そんな私にとっては、とても大切な、唯一心安らぐ時間だった。
つつがなくお茶の準備は整い、一礼したメイドが部屋を立ち去ろうとする。
と、それとすれ違うように、新たなメイドが顔を出した。
その瞬間、私は事態を把握した。
なんせ、ここのところの日課のようなものだったから。
「お嬢様、セルダン伯爵がお見えです」
「今日こそ追い返し」
即座に返事をした。……しようとした。
しかし私の台詞は途中で途切れざるを得なかった。もうすでに、セルダン伯爵が扉の向こうで控えていたからだ。
「『追い返して』と言おうとしたね、フィーリア。それはひどいよ」
甘い苦笑を浮かべて、そのくせ全く遠慮は見せずに、セルダン伯爵が部屋に入ってきた。
癖のないダークブロンドの髪に、ほんのわずかに緑がかった美しいブラウンの瞳。身にまとう深い茶色のスーツは、体のラインを拾いすぎず、けれど決して野暮ったくもない。上着とベストの間からちらりと覗く懐中時計の鎖の金色や、タイのえんじ色が、また上品でいいアクセントになっている。
懐古趣味の気がある私の部屋に、流行りのものなど何もない。だから、この古臭い部屋にセルダン伯爵のような「流行りの」人がやってくると、一気に部屋の空気が変わってしまって落ち着かない。メイド達も、そわそわしながらセルダン伯爵の麗しい横顔を盗み見している。
「こんにちは、フィーリア。ご機嫌はいかがかな?」
「あなたがいらっしゃらなければ悪くはなかったのですけれど、セルダン伯爵」
私はつんとそっぽを向いたまま、言ってやった。
けれどセルダン侯爵の方はくすりと笑っただけで、全くこたえた様子はない。
「これは早速、手厳しい。そんなに私が迷惑かい? 確かに、こうもしょっちゅう訪ねられては迷惑にもなるだろうけれど。でも、私はフィーリアと仲良くなりたいから。ただそれだけなんだよ」
ぞぞぞぞぞ。
背中を悪寒がつっ走る。
まだメイド達が部屋にいるから、セルダン伯爵は思いっきり猫をかぶって私に語りかけてくるのだ。本当にやめてほしい。気持ちが悪い。
私が青い顔で黙っているのを見て、セルダン伯爵はかすかにほくそ笑んだ。
……分かってやっている。
「まったく、あなたも意思の強い人だ。こうと決めたらてこでも動いてくれないんだから」
それってつまり、頑固って言いたいわけ?
むっとするけれど、それを顔に出すのはなんだか負けたみたいで嫌だから、すました顔は崩さないように注意する。
ここへきてようやく、メイド達は下がっていった。
でも、本来それもどうなのだ。年頃の娘を年頃の男と二人きりにするなんて、なにかあったらどうするつもりなのだろう。母親の婚約者とはいえ、私とセルダン伯爵の方が、年齢の釣り合いだけをとれば「無難な」男女なのである。
でも、この家の人間は表向きのセルダン伯爵にすっかりほだされて、心配など露ほどもしていない様子だ。もしくは、今を時めく伯爵様が、私なんかに手を出すはずがないと思われているのかもしれない。――まあ実際、今まで一度もなんっにもなかったけれど。
「それで、何のご用です?」
「今更それはないだろう。毎日のように逢瀬を重ねているっていうのにね」
「おっしゃる意味がよくわかりませんわ」
ふん、と鼻息も荒く紅茶のカップを口に運んだ。
ちょうどその時、先ほどのメイドがセルダン伯爵のお茶を持ってきた。これがあると私の向かいに座られてしまうし、長居する口実にもなってしまうから、本当は嫌なんだけれど。
やはり彼は、さも当然のように私の向かいに座って、カップをもてあそび始めた。
「それにしても、君はいつ来てもこの家にいるんだね。母親のように舞踏会や晩餐会に行ったりしないのかい?」
「たまにお誘いは頂きますけど、外にはあなたのような方が大勢いらっしゃるんだと思うと、全く参りたいとは思いませんわね」
にっこり笑って言ってやった。
皮肉がこの男には効かないと分かってはいるが、言ってやらねばこちらの気が済まない。
「でもそろそろ舞踏会くらいには顔を出さないと、いき遅れてしまうよ」
「なっ……!」
さらりとかわされ、しかもしっかり皮肉を返されてしまった。
――いけないいけない、こんなことで反応していたら相手の思うツボだ。
すんでのところで出かかった文句を何とか喉元で止めて、私は再びそっぽを向く。くやしいけれど、私にはそれが精一杯だ。気の効いた皮肉はそうそう浮かんできやしない、このセルダン伯爵とは違うもの。
「おやおや、ご機嫌を損ねてしまったかな」
にやり、という表現がぴったりな、嫌な笑顔を浮かべるセルダン伯爵。それでも絵になっているんだから、末恐ろしい男だ。
「あなたがこの部屋にいらした瞬間から、私の機嫌は最悪です」
「そう怒らないでほしいな。せっかくのティータイムなんだし、一緒に楽しもうよ、ね?」
「一緒に? あなたと? お茶を? 楽しむ? ――ホホホ、面白いご冗談! すこぉぉぉしだけ、楽しい気分になりましたわ。――さあ、また私の機嫌が奥底まで落ち込んでしまわないうちに、お引取り願いましょうかっ?」
「うん、なかなかうまい言い回しじゃないか。男を追い返す話術にはだいぶ長けてきたみたいだ。でもそれより、男を惹き込む話術を勉強した方がいいんじゃないかな? まずはね」
むか―――っっ!!
ああ言えばこう言う男!!
やっぱりこいつは、名門貴族の紳士なんかじゃない。その減らず口が利けないように、紅茶をティーポットから思い切り口に流し込んでやろうか!
などと、私が一人で空恐ろしいことを考えている間、当の本人はつまらなそうに私の部屋を一瞥した。
「いつも思っていたけど、殺風景な部屋だね。君の母親の部屋とはえらい違いだ」
「母と比べないでくださる」
「これは失礼」
にっこり、と巷で言われる「麗しい笑顔」を浮かべ、彼は口をつぐんだ。
「……」
ひがんでいる、と思われたのだろうか。
誰もが褒め称える、美しい義母と比べられて。
そして、心の中で私を憐れみ、蔑んでいるのだろうか。
「私と義母は、ご存じの通り、血の繋がりはありませんから。私たちの部屋の好みが違っていたって、それは当たり前のことですわ。比較するなんて無意味なことです」
「そう?」
「別に、それだけの話ですから」
「そう?」
「……」
何よ、その、流してやってる、みたいな気のない返事は。なんだか、これじゃあますます私がひがんでるみたいじゃないか。私が無言で睨んでいると、セルダン伯爵は軽く肩をすくめた。
「まあ、血の繋がりはないとはいえ、長く共に過ごしてきた家族じゃないか。母と娘、今では二人きりだ。その二人がすれ違ってしまうのは残念なことだよ」
私は本気で腹が立ってきた。
「よくそんなことを仰いますね。その『母』は、間もなくあなたのものになろうとしているのに。そうなれば、義母はこのアーヴィング家からは籍を抜き、私とはもはや母娘ではなくなります。分かりきったことを、わざわざ言わせないで」
「でもね、それじゃあ君は一人きりになってしまう。私はそれがあまりに忍びない」
「だから義母と婚約はしても、結婚までは踏み切れないと?」
「これは私と君の母、二人だけの問題ではないからね。慎重になるのは当然だ」
「物は言い様、ってやつね」
私は鼻で笑ってやった。
「私が諸手を挙げて賛成しても、結婚なんかしないくせに」
「……へえ?」
すっ、とセルダン伯爵の目つきが変わった。
きた!
今までの彼はまだまだ序の口。――これが、セルダン伯爵の本性だ。
「心外だな。どうしてそう考える?」
「どうしてもこうしてもないわ。だって、そうでしょ?」
「君が私を認め、母君を心から送り出してくれる時を、待っているんだよ、私はね」
くっ、と自分の三文芝居を楽しむかのように、彼は笑った。
「もう目的は達成したんでしょう。だったらさっさと次の標的を探したら?」
「目的?」
「絶世の美女と謳われて、いろんな男たちを虜にしては掃き捨ててきた義母が、唯一本気で好きになった男がいる。彼が死んでもなお想いを寄せ続ける義母を、今度は自分が落としてみせよう――なんて。本当に趣味の悪いゲームだわ。それで、どうだった? 意外につまらなかったんじゃないかしら? ゲームの終着点の『婚約』まで、とんとん拍子に事が運んで」
私が一人毒をはき続けているうちに、セルダン伯爵の瞳はどんどん冷えたものになっていった。口元に浮かんだ笑みはそのままだったけれど、私は不安になってくる。絶対に負けるカードゲームをしているような、そんな気分だ。そもそも彼は、尊い爵位を持つ貴族というより、裏社会きってのいかさま賭博師と言ったほうがずっとしっくりくるような人間なのだから。
「言うね、フィーリア」
ふっ、と彼の雰囲気が和らいだものに戻った。
彼はどっかりとソファの背もたれに背を預け、その長い足を大きく組み直す。
「あなた、いつまで『誠実な婚約者』を演じるつもりなの。もうとっくに、義母に興味なんて無くなっているはずでしょう」
「君はずいぶんと聡い子だ。でも、そこまで分かっているのなら、なぜその先が分からないかな」
「どういう意味?」
人を見下すようなセルダン伯爵の笑みが、一層深まる。これが本当に癪に障るのだ。
「気が変わったんだ」
「なんですって?」
「確かに、君の言うとおり。君の母親を落とす軽いゲームだよ、これは。婚約までこぎつけたら、もう彼女には用はない。……つもりだった」
「つもりだった?」
「まだ、君が残ってるじゃないか、フィーリア」
――は? 何を言い出すのだ、この男は。ますます意味わからない。
「あまりにあっさり決着がついてしまったから、延長戦のつもりで、君を適当に手懐けてみようと思っていた。だが、どんなに愛想よくしても、君は全然私に懐こうとしなかったからな。それどころか日増しに私を見る目が鋭くなっていく。そんな君をからかいに来るのが、最近は面白かったんだけど」
「……」
「もう潮時かと思っていたのは事実だよ。だが、やっぱり気が変わった。ちゃんと君を手懐けてみせよう。まだもうしばらく時間がかかりそうだけどね。君の母親よりよっぽど強敵だからな、意外に」
セルダンはわざとらしく小首をかしげてみせた。
「――でも本当に面白いよ、おかげでね」
「ふっ、ふざっ――」
一貴族の娘として、どうにか言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「私が! あなたな・ん・か・に懐くと思ってるの? そんなひねくれまくった本性を曝け出した、今さら! ずっと紳士ヅラでも続けていれば、今頃義母との結婚も認めていたもしれないのに!」
不適な笑みをたたえたまま、セルダン伯爵は席を立った。
――どうするつもりなのだろう、帰るにしてはまだ早い。
「君に対してそんなやり方じゃ生ぬるいだろう。ま、それに、今さらあの人との結婚を認めてもらいたくもないしね」
「はぁ? じゃどういうつもり……」
「女心ってのは随分と複雑なようだから、嫌い嫌いと思ってもすっかり当てられてることもあるらしい。実際、そういうのを体験してみるのも面白そうだ」
セルダン伯爵は片手を挙げて、扉のところでにっこりと、例のとろけるような「作り笑い」をしてみせた。
「まあ覚悟してるんだね。今度はフィーリア、君を落としてみせる。――『女』を落とすのに宣戦布告したのはこれが初めてかな。それじゃ、また明日」
あっけにとられて何も言えないでいるうちに、セルダン伯爵は部屋を出て行ってしまった。
……
…………
ちょっと、それってどういう意味?
まさか、ねぇ。いくらあの女好きのセルダン伯爵といえど、女の趣味くらいはあるだろう。と、思いたい。
意外すぎる展開に、しばし呆然として、その場に突っ立ってしまった。
でも。
もしかしたら。
これは、私が頑張れば、あいつに一泡吹かせる絶好の機会かも、しれない。
きっとどんな女でも手中に落としてきたであろうセルダン伯爵に最後までなびかなければ、彼はどんなにプライドを傷つけられるか。
そうだ、これは我がアーヴィング家の汚名を返上するいい機会に他ならない。父を想い続けてきた元・遊び人の母が、現役遊び人のセルダン伯爵にいとも簡単に落とされてしまったという、汚名を返上する、機会。
―――受けて立ってやる。
これからは毎日あいつのためのお茶も用意しよう。
歓待に歓待を重ね、存分にへこませて、立ち直れないくらいにしてやるから。
私はにっと挑戦的に微笑んで、もう冷めてしまった紅茶の残りを飲み干した。