孤独の神に選ばれたから
Attention
・羽柴兄妹の短編ですが、基本瑞紀ちゃんの独白だけでお兄さんはあまりしゃべりません。
・初見バイバイ。『絶海の孤島と魔導少女』を愛読して下さっている方向け。
・ネグレクト、家庭内暴力、鬱表現、胸糞展開、倫理から外れた過激的な発言や思考の描写アリ。
・それでも良いですか???
総文字数は10,916字です。
だいぶ長いので、作業の合間にでもどうぞ。
これほどまでに人を殺したいと思った憎悪の衝動が、私の内に劫火の如く燃え上がった。
嫌悪、怨嗟、娼嫉――そのような言葉が生温く感じるような、
人間が抱くには余りにも惨たらしく、狂おしく、残酷で陰惨な感情。
まさに狂疾の極み、基地外だと指差され狂人だと嗤われても仕方ない心理状態に幼き日の私は陥っていた。
ああ、若しもこの世に神というものが真に存在するのであれば、
私はその存在を、己の全てを賭けて否定してやりたい。
地獄の底へと突き落とされようとも、筆舌に尽くし難い拷問を受けようとも。
人間の業を超越した重罰を課されようとも、どんな艱難辛苦を背負わされようとも。
森羅万象の恥辱屈辱を味わされようとも、私は、それら全てを神より突き付けられようとも、
こんな不平等を生み出した神の存在を全身全霊で否定して、消し去ってやりたかった。
共犯者になれとは言わない。
傍観者でいても構わない。
ただ、知ってほしい。聞いてほしい。
私の味わった苦しみと悲しみを。
劣等感に満ち続けた私の一生を、ああ、どうか、私が死ぬ前に。
◆
私には、三つ上の兄がいた。
愛すべき、だが私にとっては殺したいほど憎かった兄がいた。
兄のことを一言で表すならば簡単だ。
――神童。
それも、類まれ無い才能を発揮する、紛う事なき神童だった。
天才少年などと低俗で幼稚極まりない言葉で称すことすら憚られる、まさしく神に溺愛されていると言っても過言ではない程の。
絵本を与えれば与えた先から読破し、その余りの読み込みの速さに、読み飛ばしているか読んだフリをしているのではと疑った母が、二つ三つ内容理解についてのクイズを出せば、淀みない口調ですらすらと答える。
次から次へとせがまれるままに絵本を買い与えていたが、流石に全てを買い与えられる程の財力は無く、図書館に通い詰めて借りられるだけ借りて読ませていたという。
幼稚園に入園する前年、予備知識として簡単な計算問題を教えてやれば、まるで乾いた土がすぐに水を吸い込むかのようにそれらを吸収し、また次から次へとせがむ始末。
遠出した先で迷って地図を開けば真っ先に地理を読み解き、
何の気なしに教えた頓珍漢な外国語ですら暗記してその文章を諳んじる。
流石に文法の誤りや、発音の違いを指摘出来る程の知識は、まだ蓄積されていなかった為、数日は間違えたままの外国語を得意げに暗唱していたらしい。
幼稚園に入園して以後も、その才能は遺憾なく発揮され、そればかりか次々に新しい才能が開花して、幼稚園の先生や他の保護者が我が子を差し置いて口々に誉めそやし、褒めちぎる。
一等賞や最優秀なんて言葉が、誰よりも似合う兄だった。
常ならば他の子が自分より注目されるのが嫌だという、子供らしい羨望交じりの嫉妬があるはずだが、同年代の子らは何かに取り憑かれたかのようにうっとりと頬を染め、大きな目をきらきらと輝かせていた。
ただひたすら、心の底から、憧憬し、尊敬していた。
嫉視する者はおらず、例え一人二人いたとしても、その者らの方が割を食うという異常さである。
そんな優秀な兄の、唯一の欠点を挙げよと問われたら、兄を知る者は口を揃えて言うだろう。
それは、完璧すぎる兄の、たった一つの汚点。
――期待外れと罵るのも相応しくない程の、不出来な妹。
◆
物心ついた時から、何かにつけて兄ばかり優先されていた。
何故かは分からなかった。
冷静に自己と他者の差異を分析出来る程の自我は、まだ芽生えていなかった。
ただぼんやりと、私の方を見向きもしない父母と、私を見て申し訳なさそうに眉を下げる兄の顔ばかり見ていた気がする。
少し大きくなって、はっきりと自分の心で考え、自分の口で主張できるようになると、兄が優先される理由が少しだけ分かった気がした。
何かが出来ることは、それがどんなに小さくとも意味が無くとも特別に偉いことだと、幼心に理解したのだ。
だから私は、私を見て欲しくて、褒めて欲しくて、兄がすること為すこと全てを真似したがった。
まだ素手ですら上手に食えぬというのに、フォークを使おうとして皿ごとひっくり返し中身をテーブル上にぶちまける。
兄の使っていた小さなピアノを弾こうとして手を伸ばし、落下した衝撃で破壊してしまう。
私の知らない記号があるのが楽しくて、そうとは知らず兄の計算ドリルに落書きをした。
振り向かせたくて、私を構ってほしくて、必死にアピールしたつもりだった。
だが、兄の真似をすればするほど、それは迷惑な妨害行為へと変化し、邪魔をするなと烈火の如く怒られる。
叱られるという程の愛情は籠められていなかった。
自身の集中を途切れさせる羽虫を追い払う、悪事ばかり齎す原因を排除する、そんな機械的な動作で、ただ嫌悪と忌避の感情ばかりが向けられた。
全てを諦めて、一時、何もしなかったことがある。
ずっとベッドの上で泣いていた時、慰めてくれる者などいなかった。
淋しくなってそっとリビングルームを覗けば、楽しげにテレビを見ながら談笑している団欒の光景があった。
特徴的なえくぼをへこませて朗らかに笑う母。
大口を開けて手を叩いて大笑いする陽気な父。
そしてその中心、勉強の傍らに会話に加わり、穏やかに微笑む兄。
私の居場所など、どこにも無かった。
その光景は、洗練された完全な一家の姿だった。
私という異分子など存在することすら許されていない気がして、悲しくなった。
淋しい、なんて感情はもう湧かなくなった。
やるせなくて、どうしようもなくなって、とめどもなく溢れて来る感情を制御しきれなくなって、大声で泣いたことがある。
慟哭のような悲鳴であった。
その泣き声を聞いて母は、何の感情も貼り付けていない冷徹な表情で、ただ一言、うるさいと一蹴した。
それでも尚泣き止む気配のないのを見て、苛立った様子で口にガムテープを貼り付けられた。
いやいやと今度は身体全体を使って暴れてみれば、何事かと駆け付けた父に蹴り飛ばされ、その痛みに意識を失った。
当然というべきか、口にガムテープを貼り付けられ床に転がされた、意識の無い私を心配する者は一人としていない。
それから、私はなるべく両親を刺激しないように、こそこそと隠れて生活することにした。
極力目立たず、派手な行動も控える。
食べる、寝る、ただそれだけの行動を毎日繰り返す機械と化した。
小学校に上がる頃、遂に食事すら用意されなくなって、
兄たちの残した残飯を漁ったり、日にちが過ぎて固くなったパンを生のまま食べたりして飢えを凌いだ。
野菜の食べられない部分を、消費期限切れの牛乳で無理に流し込んで、一人トイレで吐いたこともある。
何度も、何度も吐いて、胃液が逆流する感覚に悶え苦しんだ。
楽しそうに笑う兄を見かける度、私はどうして自分だけこんなつらい思いをしなければならないのか、と叫びたい衝動を必死に抑えた。
ぐるぐると巡る激情は、やがて、殺人衝動へと形を変える。
包丁で刺し殺して、家の棚にある拳銃で撃ち殺して、丈夫な紐で絞め殺して。
とにかく殺して殺して殺してぐちゃぐちゃにして、
生きているのを心の底から後悔するような地獄を味わせてやりたかった。
こちらは枯れる程の涙で枕を濡らしているのに、涙一つ流さない兄が憎たらしくて仕方がない。
私の受けた苦しみ、そのほんの一部でも体感させてやりたい。
でもその憎悪に満ちた願望は叶わなかった。
どこまでも、いつまでも、兄は燦然と煌めき続けた。
◆
「――なあ」
ようやっと中学校に進学した私は、帰宅して真っ先に飛び込んだ自室で、自分が働いて買ったサイズぎりぎりのセーラー服を脱ぎ捨てる。
掛けられた声は、当然のように無視した。
落ちこぼれと馬鹿にされぬように、勉強しなければならないのだ。
暇人に構っている場合ではない。
「なあって!」
肩に手を掛けられ、強引に振り向かされる。
そこには、本当に血の繋がった兄妹なのかと、本気で疑いたくなるほどの美貌が間近にあった。
垂れ目であるが弱々しい印象は決して感じさせない、意志と信念の籠もった瞳。
柔和のようでいて、どこか凛々しく、強く誇り高い貫禄に満ちた体躯。
筋の通った形の良い鼻に、肉付きがいい唇。
俗に言うイケメンを絵に描いたような、それはそれは美しい顔である。
「なに」
振り向かされたうえに、力はあちらの方が強い。
碌な抵抗は出来ないだろうと潔く諦め、私はぶっきらぼうに答えた。
この期に及んで、何が言いたいというのだろう。
「一つ、聞きたいことがある」
大人しく傾聴姿勢を取った私を見て、一つ溜息を吐いた兄が言う。
もう一度、なに、と覇気のない声で返事をすると、信じられない言葉が耳に降りかかった。
「お前、このままでいいと思っているのか?」
曖昧で具体性の無い指摘だが、誰に、何を、どういう意図を以て発せられたものなのかはすぐに察しがついた。
それくらい単純なことが分からぬほど、馬鹿でも間抜けでもない。
ただこの発言に問題があるとするならば、それは、根底の部分から履き違えているところだ。
私にその質問をしたところで、有意義な答えなど返って来ない。
それは、あのクズの権化と罵倒しても過言ではない両親を一緒に見てきている兄なら、考えればすぐに分かるはずだ。
「逆に聞くけど、どうにかなる問題とでも思ってるの?」
だから私は言い返した。
私の境遇を一番近くで目撃して、理解しているであろう兄への反論として、至極当然の主張だった。
だが、あれだけ地頭が良い癖に、あれほど神童と持て囃される頭脳を持っている癖に、それが分からないらしい。
何か考える素振りは見せているものの、あれは間違いなく、なぜその反論に至るのかが理解出来ていない表情だ。
否、違う。自分の想定していた答えと正反対の言葉が返ってきて、軽くたじろいでいるのだろう。
残念だけど、もう『なんとかしよう』と思うだけのエネルギーは燃え尽きてしまっている。
何年も前に。
「――ああ、でも、あんたが頑張れば何とかなるかもね?」
未だ言い澱んでいる様子の兄に対して畳みかける。
ここは2階で、しかも自室の室内だ。
多少大声を出しても、階下に居る母の干渉を受けることはあるまい。
「ほ、本当? どうすればいいんだ?」
その言葉を聞くや否や、ぱあっと顔を輝かせる。
この顔を眼前に受けて、ときめかない女が一体どれだけいるだろう、と頭の片隅でどうでもいいことを思いつつ、恐らくこの世で最も残酷な言葉を口にした。
「あんたが死ねば」
躊躇いなんて無かった。
酷く冷め切った声で、冷淡な口調で、そう言い切った。
相手に対する遠慮も、容赦も、何一つ無かった。
当然である、物心ついた頃から胸をドス黒く染めてきた、紛れもない本心なのだから。
「――――」
それに対し兄は絶句していた。
ひゅっと息を吸い込んだまま、その息が吐き出されることは無かった。
数秒経ってやっと、深く長い溜息が、肺腑の奥底から吹き出る。
もし幼少の頃よりの私の敵愾心を知っていたならば、彼は呆れの含んだ乾いた笑いを張り付けただろう。
だが兄がそんな反応をすることは無かった。
「…………」
双方黙り込み、その場に沈黙の帳が降ろされた。
誤解の無いように弁明しておくが、私は兄が何かしらの反応を返さない限り、口を開く理由が無い。
ついに言ってやったという充足感と征服感に満たされ、心底愉快な気持ちでいたことを覚えている。
その実兄がどう出て来るかなんてどうでもよくて、自然に緩んでしまう口角を引き締めることに全力を注いでいたように思う。
そんなことに労力を割いているのだと夢にも思っていない兄は、激昂して怒ることも正論で諭すこともせず、ただ黙っていた。
むしろ、この場合取った兄の選択は、世間一般論的には正しいものであった。
自分に対して敵意を顕わにしている人間がいるとして、理論的な説明がされない限りは、相手の出方を待っていた方が良い。
感情のままに怒鳴り散らしても、かえって相手の神経を逆撫でするだけだ。
関係の改善が見込めないどころか、絶望的になるだけだろう。
兄はそのまま私の反応を伺っていたが、先の通り私は兄の反応を待っている状態だ。
膠着した場だというのに兄は焦らず、だがしかし自分が何か行動しなければ事態は解決しないと踏んだのか、
ゆっくりとしゃがみ込み視線を合わせて、肩に優しく手を添えて、ぽつりと、ごめんな、と謝った。
この瞬間、かっと全身が熱くなるのを感じた。
頭の天辺から足の小指の先にまで血液が駆け巡り、先ほどまで兄の出方を伺っていた沈着が憤怒と憎悪に支配され、緩みそうになっていた口角が一気に引き締まった。
「はあ!? 何それ!? その程度の謝罪で溜飲が下がるとでも思った!?
私が、今まで、どんな思いでいたか、どんな思いを抱いていたかなんて知りもしない癖に!!」
もはや階下のことなど思考から吹っ飛んだ。
私がどれだけ辛酸を舐めてきたか、舐めさせられてきたのか、分からせてやりたかった。
「あんたがいたせいで、どれだけ辛い思いをしてきたか分かる!?
私だって決して馬鹿な訳じゃない!! あんたが優秀なせいで、勝手に期待されて、勝手に失望されて!!
どんな気持ちでいたか、分かる!?」
変わらず反応はない。
それを良いことに、兄に当たり散らして、叫び散らして、怒鳴り散らした。
そうすることでしか、心の安定を図れなかった。
「あんたがいなければ良かったんだ!! あんたなんか死んでしまえばいいんだ!! あんたなんか――!!」
碌に息もせず叫んでいたせいで、そこで怒号がプツリと途切れた。
息を整えているうち、頭だけが冷静になり、やがてどうでも良くなった。
ここで私がいくら叫んでも、兄が考えを改めることは無いだろうし、非力な私には殺すどころか、傷一つつけることが出来ないだろう。
以前ならばやるせない気持ちがとぐろを巻いて、やがて怒りへと昇華していったのだろうが、あいにくそんな気力と体力はもうない。
「……もういい、もういいから……出て行って」
狼狽えている兄の身体をぐいぐいと押し、部屋の外へ追いやる。
完全に力が抜けている身体は、いとも容易く押しのけることが出来た。
頭上から戸惑ったように、おい、と呼び掛ける声が聞こえて来るが、無視する。
私が今まで受けてきた仕打ち――その欠片だけでも、味わせてやりたかった。
神様に溺愛された少年は、きっと、誰かから冷遇を受けるなんて産まれて初めての経験だろうから、さぞ堪えたことだろう。
最後にありったけの力でドンと押し、フローリングの廊下へ突き飛ばした。
情けなく尻餅をついてこちらを見上げる兄の姿は、とても愉快で滑稽だった。
先ほど以上の征服感で満たされる感覚。
ああ、なんて素敵なことだろう。
ついに、ついにしてやったのだ。
だが私はこの程度で満足しない。
生きているのを後悔するほど、死にたくなるくらいの生き地獄を味わせてやりたい。
狂気の光にギラついた瞳で兄を一瞥するや否や、素早く部屋の扉を閉ざす。
一度感じた征服感と充足感は瞬く間に消え、復讐心だけがドス黒く燃え滾った。
いつか必ず、必ず地獄へ堕としてやる――。
◆
路傍の雪山が次第に崩れ、溶けていく時節になった。
各所に冬のツンとした香りを残しつつも、ある所では溶けた雪から流れ出た水を糧に新緑が芽生え、またある所では一面の銀世界だった場所で、眠りから覚めた若々しい葉が心地良さそうに風に揺られている。
まだ冷たい空気を纏った風は、私の脇を通り抜け、どこまでも吹いていく。
長かった冬が終わりを告げ、短くも暖かい春が訪れようとしている、そんな時節である。
「はあ……」
とはいえ、太陽を覆っている黒雲のせいで滅多に光が差し込まない。
さしづめ冬が戻ってきたかのようだった。
氷点下を容易に下回る極寒の最中、私はとある一軒家の前で息を手に吹きかけていた。
吐く息も白むどころか、まつげが凍るほどの寒さに背中を押され、手の甲で二、三回ノックする。
小気味良い音が響いた後、家の奥からパタパタと誰かが近づいてくる音がした。
気配の主はドアの向こうで訝し気な雰囲気を纏わせたものの、客人を寒空に放置してはいけないと思い直したのか、手早くチェーンを解除し扉を開いた。
「――――!」
まるで死人を見たかのように、家の主は口を手で覆い息を大きく吸い込んで驚愕する。
それはそうだろう――。
私は自嘲の笑みを浮かべ、相手に同情をした。
まるで死人のように、この世に存在しないモノのように扱っていた我が子が、目の前に立っているのだから。
だが同情はしても遠慮容赦はしない。
煩わしい金切声を発する喉を締め上げ、魔力で構築したナイフで脅し上げる。
「びっくりした? そりゃあびっくりするよねえ」
胸の底からふつふつと沸きあがる怒気を悟られぬよう、幼子に語り掛けるかの口調で言う。
声を発する手段を奪われ、そして命すら奪われるやも知れぬ状況に置かれた老女は、恐怖心から震えていた。
開けっ放しの扉から入り込む冷気が、彼女の頬を伝う涙を凍らせていく。
「ねえ――私のこと、覚えてる?」
何も分からぬ赤ん坊の頃からずっと私を虐げてきた諸悪の根源である、私の母親。
否、母とも思いたくない、年老いた一人の女。
その人は必死に頷いた。
――相変わらず、正直な人だ。
今の今まで、忘れていたくせに。
「お母さん、中に入れてくれる?」
流石に締め上げたままでは死んでしまう。
簡単に殺すつもりのない私は、腕を抑えつけ身動きを封じ、もう片方の手でナイフを突きつけながらそう問うた。
彼女は震えながら私を招き入れ、痙攣でもしているかのような手で扉を閉める。
どれだけ努力して成果を上げても見向きもしなかった母親が、今や己の支配下にある。
こいつは何でも言うことを聞く。
彼女の一挙手一投足は全て私のものなのだ。
残忍な感情が心を埋めたのは暫くの間のみで、途端に興味が失せた。
白髪交じりの髪の毛を束で掴み、グッと一瞬こちらに引き寄せたあと、反対方向に力を誘導し倒れ込ませる。
硬いフローリングに叩きつけられ、惨めに転がった母親に向かい、力の限りの足蹴りを喰らわせた。
ぎゃっと醜い悲鳴が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。
何度もそうして蹴り飛ばしていたら、次第に命乞いをしてきた。
助けて、許して、もうしないで。
それは十数年前、私が叫んだ言葉だった。
ただ助かりたい一心で悲痛に叫んだ悲鳴を、お母さんはあの時、聞こえないふりをして笑っていたよね。
「っふざけんな!!」
背中を蹴っているだけなのに、もう音を上げるのか、笑わせてくれる。
足の先でごろりと身体を転がし、仰向けに寝転ばせた。
腹を目がけて力一杯踏みつける。
耳障りな悲鳴が聞こえたが、すぐに掻き消えた。
蚊の鳴くような声で、ごめんなさい、ごめんなさい、と壊れたラジオのように繰り返し呟いていた。
物分かりが悪く耳も遠い母親ですら、なぜ私がこんなことをしているのかすぐ見当がついたらしい。
元々弱い相手に一方的な暴力を振るうのは好きじゃないし、反省の色があるのなら、それを無下にするのは可哀想だ。
是非話を聞いてあげよう。
「お母さん、どうしたの?」
顔を覗き込み、貼り付けた作り笑顔で問いかける。
老いた身体に鞭は堪えたのか何度か咳き込んだあと、母親は一言、ごめんなさい、と呟いた。
なにが?と訊いても、ただ震える声で謝り倒すのみ。
これじゃあ私が悪人みたいではないか。
相変わらず被害者面だけは得意なようだ。
無性に腹が立った私は、もう一度髪の毛を掴み身体を持ち上げる。
ぶちぶちと髪の毛が抜ける音がして、よほど痛いのか彼女は苦痛を顔に滲ませた。
「――元はと言えば、お母さん、私を生むつもりなんて無かったんだよね」
生を望まれぬ赤ん坊はいないと言うが、それは当てはまらない。
私は生まれて来るはずのない子だった。
当時うちは両親共働きで、家に一人ぽつんと兄が残されることは珍しくなかった。
いくら神童とはいえ、寂しさに打ち勝てるほどの強靭な精神力を持ち合わせているはずもなく。
まるでペット感覚のように、淋しさを紛らわす道具として私を望んだのだ。
それならそれで、素直にペットを飼えばいいものを。
3歳児の気まぐれのせいで、私がどれだけの地獄を味わったのか。どれだけの辛苦を耐え忍んだのか。
並大抵の人間には想像すら出来ない残酷な仕打ちを受けた、哀れな娘の生涯。
それを思い知らせてやった。
髪の毛で体重を支えているせいで痛みに顔を歪める母親の耳元で、今までの恨み辛み、その全てを吠えた。
きっと彼女の思考は、いかにしてこの状況から解放されるかの1点で埋まっていて、私の慟哭など聞こえてすらいないだろう。
そうと分かり切っているのが何よりも歯痒くて、パッと手を離し母親を解放してやった。
ドスンと鈍い音がして、彼女は床に崩れ落ちた。
俯いて呼吸を落ち着け、ようやっとこちらを見上げた瞳は、怒りに燃えていた。
元より謝罪は期待していなかったけれど、まさかこんなにクズだとは思いもしなかったな。
彼女は震える身体を支えながら、ぴっこを引き引き棚まで辿り着き、その引き出しから拳銃を取り出した。
「っ!?」
家族の団欒団欒の場である居間で、似つかわしくない乾いた銃声音が響く。
ぶわんと煙が巻き起こり、軽い音を立てて薬莢が床に転がった。
余りの恐怖に痙攣を起こした手で握った拳銃でも、狙いが驚くほど正確だったのと、的が大きかったのが幸いして、鋼の弾丸はめでたく私の右胸に命中した。
ふかふかのカーペットの上に、鮮血が飛び散っていく。
晴れていく視界の隅で、してやったりと微笑む母親の顔があった。
即死には至らずとも、並の人間ならば苦痛で倒れ込むほどの威力だった。
だからこそ母親は勝利を確信して、あんなににこやかだったのだろう。
――でも、私は、並の人間じゃない。
「ああ、もう、痛いなあ」
「え、は……」
私が右手で胸を抑えると、忽ちのうちに修復されていく。
銃痕は消え、床に飛び散ったはずの鮮血も、跡形なく消え去っていった。
それを見て、面白いように青ざめていく母の顔。
スーッと血が引いていく流れが分かるようなその豹変っぷりに、思わず笑いがこみ上げてきた。
「な、なんだ、どうした!?」
春のまにまに轟いた銃声に、滑り落ちるように兄が2階から降りて来た。
心配せずともこちらから出向いていく予定だったのだけれど……。まあいいや、手間が省けた。
「母さん!? ――ミズェーリ!? お、おまえ――」
「ミズェーリって、だあれ?」
指を鳴らして手早く構築したナイフを手に取り、冷徹に告げる。
「私は、もう人間ではない。魔導師ですらない。
人の道を踏み外して神になった断罪人――『獅醒の屠り手』羽柴瑞紀。それが、私の名」
一歩、また一歩と威圧感を以って歩み寄ると、その雰囲気に押されたのか兄は後ずさった。
あらあら、さっきまでの威勢はどこにいっちゃったのかな?
「お前、3年もどこに行ってたんだ!?
中学を卒業して高校に入ったと思ったら、家出しやがって!! 俺も母さんたちも、凄く心配して――」
「嘘だよ、あんなクソ親が私のこと心配する訳ない。むしろ清々したんじゃない?」
ぐ、と返答に詰まるところを見るに図星らしい。
全く、母親と言いこの兄と言い、もう少し嘘が上手くてもいいんじゃないのか。
いくら何でも詰めが甘すぎる。
「簡単に殺すつもりは無いんだけどさ……、なんかもう、どうでも良くなっちゃった」
言いながら、戦闘態勢を纏った。
命を懸けて護り抜くと誓った、崇拝するあの人を模した、私の戦闘装束。
その象徴である紅蓮が、大きく翻った。
「じゃあね――ばいばい」
手にした宝刀『蒼眼ノ太刀』から噴き出た炎が、目の前に縋り付いていた兄を、部屋の隅で震えていた母を、この家の全てを燃やし尽くした。
炎によって崩れ落ちるというよりも、一瞬で燃え尽きたと表現した方が適切なくらいの劫火で消滅させた。
ミズェーリ・ハシェントルではなく、羽柴瑞紀として生きていく。
その証に、この家とは決別する必要があったのだ。
正確には家を燃やすのは当初の予定に含まれておらず、せいぜい兄と両親に復讐が果たせればそれでいいと思っていたのだが――。
今となっては、後の祭りである。
破壊神となった私は、思う存分神の力を振るい、全てを燃やし続けた。
燃やすものが無くなっても、ひたすらに、がむしゃらに、延々に。
紅蓮の大火が、いつまでも、いつまでも、燃え盛っていた――。
◆
繰り返す。
私は、何度でも。
この生は終わらない。
輪廻転生しながら、いつまでも、いつまでも、繰り返しの人生を生きる。
それが、愛する人を救いたいと思った罰。
ただ、愛する人と一緒に、ずっとずっと一緒にいたいと思った、思ってしまった罪人の罰。
いや、これはもしかするときっと、神に見放され、親にも愛されなかった忌み子へ向けられた天罰だったのかもしれない――。
◆◆◆
――誰よりも愛を渇望していた少女は、やがて深みへ堕ちていく。
歴史改変という禁忌を犯し、手に入れた希望も、ようやっと掴み取った幸運も、全てを振り捨てて。
人理を外れた、神への道へと、深く、深く、取り戻すことが出来ないくらいの深みへと。
――孤独を誰よりも忌み嫌った少女は、望んで孤独の神へと成り果てる――




