プロローグ 2
「ふっざけんなよ! 誓約書って言ってたじゃねえか!」
「まだまだ甘ちゃんやな京介くん。他人の前で簡単にサインしちゃあかんで、こうやって騙されるからな。ま、いい勉強になったな」
ミカエルは承諾書をひらひらと揺らして見せつけてくる。何度も紙が翻っても俺の名前が消えることはない。消えるわけがない。
1億リールってのが日本円に換算してどのくらいなのかは分からないが、連帯保証人を結ぶばせるくらいだ、きっと大金なんだろう。ジンバブエドルと同じような貨幣価値だったら結ぶ必要すらないだろうからな。
兎に角あの承諾書を奪い返さないとやばい。
俺はちゃぶ台を乗り越えて承諾書に手を伸ばす。
「俺は保証人にはなる気はねえ! 破り捨ててやる!」
「そうはいくか! 折角見つけたカモ――じゃなかった、保証人を手放すわけ無いやろ! 必殺、エンジェル・腕十字固め!」
「あぁ、痛ってえ――! ギブギブ!」
ミカエルは承諾書を空中に投げると、目にも留まらぬ速さで俺の足を払って転倒させてきた。そもそも手足のリーチでミカエルに勝てるわけがなく、畳に叩きつけられた俺は腕を取られ、そのまま腕十字固めを喰らう。手の甲にミカエルの胸の柔らかさが伝わってくるけど、そんなものを楽しめないぐらい兎に角痛い。
俺は半泣きになりながら畳を叩いて解放するように訴えることしかできなかった。
「はん! 人間風情が天使に歯向かおうなんざ百万年早いわ。それに乙女に暴力振るおうなんて最低やぞ自分!」
「詐欺師は乙女とは呼ばねぇ……」
「もっぺん乳の感触を味わいたいようやな?」
「失礼しました、ミカエル様」
ミカエルは鼻を鳴らして畳に座りなおす。その手には空中に投げていたはずの承諾書がいつの間にか握られている。
あれじゃあ奪えない……、どうすれば良いんだ……。
「まぁうちも罪悪感が無いわけやない。京介くんには辛いことをしてしまったと思ってる」
「じゃあ返せよ」
「それとこれとは話が別や。――別に全部肩代わりしてくれなんて言っとる訳やない……、ちょっと援助してほしいだけなんや」
ミカエルは涙目を作って、小さく啜り泣いている。女の武器は涙と聞くが今の俺にはまったくもって無駄な行為だ。この女がやってくることは全て嘘と悪意で塗り固められている、という偏見を最大限に使って対応しなければならない。さもなくば俺は騙されてしまうだろう。
「1億リールってのは異世界での通貨の事か。日本円で幾らなんだ」
「そのまんま1億や」
「払えるわけねえだろそんなもん! 生きていた時でもそんな大金見たことねえよ!」
「だから別に1億そのまま払えって言うとるわけやない! 8割ぐらい負担してほしいだけや!」
「なんで俺が8割なんだよ! 逆だろ逆! つか天使とあろう者が何をどうしたらそんな借金抱えるんだよ!」
「それは……、そのー……」
お、急にしとやかになったな。押せば行けるか?
「なんの借金なんだよ。まずはそれを教えてくれ」
「いやー、色々あってなぁ……どれから話せばええか」
「全部だよ全部。借金の内訳を教えてくれよ」
「お酒と……タバコと……天使衣装のレンタルとか……競馬とかかな」
「俺、アブラムシでいいっす」
「あーまってえな! お願いだから見捨てんといて!」
呆れてものも言えん。酒とタバコにギャンブルだと? 完全に自己責任のダメ人間じゃねえか。もっとこう、なんというか人を助けるために――とか大層な理由なら共感も同情もできた。だがこれは救いようのない天使だ。堕天している。
なんで俺がこんな堕天使女の借金の片棒をかつがなきゃいけないんだ。アブラムシは嫌だが、借金地獄に陥るぐらいならアブラムシになったほうがマシだ。
「もいいっす……。早くアブラムシにでもなんでもしてください」
「はっ、まだ分からんようやな。この承諾書にサインしたってことは、自分はうちと最早運命共同体。死んだって生まれ変わったって返済するまで逃げられへんのや。ほらここ地獄って書いとるやろ? うちの知り合いが地獄の管理者をしてるんやけど、逃げ出したらそこで返済まで永遠と強制労働させられることになる。朝も昼も夜もなく休憩もない。永遠と仕事をし続けるんや。ありえへん位の真っ黒さんや。京介くんはそれでええんか?」
「いいもなにも、ミカエルさんが勝手に押し付けてきたんじゃないですか……」
「せやから、ちょっと異世界に出稼ぎに行って。たまにはいい思いをして、短い人生をやり直すんや。地獄行くより全然ましやろ」
確かに……と一瞬だけでも思ってしまった自分が恥ずかしい。結局は口車に乗せらているだけだ。しかし今の話が本当なら俺はこの途方もなくアホみたいな金を地獄で働いて返していくことになる。
それなら、異世界で暮らしながらちまちま返していくのも悪くはない……、もしかするとそのまま踏み倒せる可能性もある。目の前の女は一目見ただけで分かるガサツ野郎だから、その内承諾書をどっかに忘れて失くしてしまうかもしれない。
「……分かりました。異世界行ってやろうじゃないですか」
「よっしゃ! 話がわかる子は好きやでうち。そいじゃま、転移祝でも渡そうか」
「転移祝? そんなものくれるんですか」
「まぁ無一文で異世界に飛ばす訳にもいかんしな。転移早々野垂れ死なれても困る。――えっと、どこやったっけな。あれー、引き出しに入れといたはずなんやけど」
ミカエルは四畳半の和箪笥をあさり始め、中身をどんどん取り出していく。中からは着古した洋服や下着に見たことのない人形に派手な色の扇子、箪笥の容量をとうに超える量の品々が畳に散らばっていく。
なるほど、四畳半が汚いのはこういうのも理由か。
「あった!」
ミカエルはタンスから取り出した物体をちゃぶ台の上に置く。細長い歪曲した筒のようなものは、青紫に塗られて鈍く光っていて、瀟洒な彫刻が彫られている。筒の下部には引き金が付けられている。初めて見る形だが一目見てこれが何なのか理解できた。
「銃……っすか」
「メルツシポネっていう銃や。しかし、ただの銃と思ってもらったら困るで。これはな、撃った相手を命令に従わせられる弾が入ってるんや。射抜いた相手に金を要求すれば喜んで渡すし、服を脱げと言えば脱ぐ。もちろん……死んでほしいと命令しても守る。色んな使い方が出来る銃なんや」
「そいつはすげえ……。でも俺、銃なんて一度も使ったこと無いけど大丈夫なんすか?」
「かまへん。時間はたっぷりあるんや、練習すればそれなりに当たるようになるやろ」
俺は銃を手にとって眺めてみる。銃と聞いているがそんなに重くはなく、俺にでも簡単に振り回せる。
しかし見たことのない形だ。弾倉思えるところはなく、リボルバーのように弾をこめる様な穴も見つからない。本当に銃なのかこれは。また騙されていて、本当は水鉄砲の類なんじゃないのか。
「これ本当に銃なのか? 第一に弾はどこにあるんだ」
「弾は自動補充になってるんや。一発撃ってみ」
俺は銃口を四畳半の外に向けて引き金を引いてみる。ズドンと音を立てて赤い色の弾丸が発射されたように見えた。本来撃ち出された弾丸なんてものは見える筈はないのだが、弾丸の軌道がテールランプのように伸びて見えたのだ。
撃った衝撃はかなり強くて、俺は後ろに転がってしまう。
「ま、これでちゃんと銃だって証明されたな。有効に使いな」
「まてまて、自動補充って言ってたが弾もう出ねえぞ?」
二発目を撃とうと引き金を引くが、カチッカチッと鳴るだけで弾は出ない。
「ああそれ、一日一発なんや。一発撃ったら次の日まで次の弾は撃てません」
「はぁ!? そんなんどうやって使えば良いんだよ!」
「だから、一発一発大事にしろって言う天使からのお告げやろうが! そもそも相手を洗脳できるだけでも強いのに連発できたらチートやろ。お前はただの人間であってチーターじゃないんや!」
「それじゃあ、今撃ったから明日まで撃てないのかこれ……?」
「せやな、明日までそいつはただの鉄の塊や」
「そんな大事なこと先に言えよ!」
「自分が本物かどうか確認したいって言うたから、撃たせただけやんけ。 天使を信用しなかった罰や、罰!」
「今更あんたを信用出来るわけ無いだろ!?」
「なら諦めんかい! 必殺、エンジェル・ラリアット!」
ミカエルに掴みかかろうとしたがラリアットで返され、またも俺は畳の上を転がる。さっきから何なんだ、天使はプロレス技しか使ってこないのかよ。
ミカエルはちゃぶ台の上に腰掛けるとメルツシポネを俺に投げつける。
「ほらここ、残鉄の場所に一本赤い線がはいっとるやろ。これが残弾数や。この線が消えてると弾は無いってことになる」
「妊娠検査薬みたいだな」
「あ、それうちも前からそう思ってん」
「やだよそんな銃。いらねえよ」
「もう貸したもんは返せません。ええからもうさっさと転移して金稼いできて」
ミカエルはちゃぶ台の上から俺の顔面を蹴り飛ばす。蹴られた俺はそのままバランスを崩して背後に倒れ込む。例の如く四畳半に壁はないため俺はそのまま畳を踏み外して落ちてしまった。
もっと普通のやり方無いのかよ、あの暴力詐欺天使!
「うわあああ!」
「んじゃ頑張ってなー」
「永遠に呪ってやるからな!」
謎の空間を真っ逆さまに落下しながらミカエルの事を呪い続けた。願わくばあいつが天使として更に堕落して地獄へ落ちることを願う。
そして俺はまた意識を失った。