昔語り 壱
ソオウは硬い寝台に座り、壁に切り取られ鉄格子が嵌め込まれた明かり取りの向こうの月を眺めていた。
細く白い月は、空が薄く不気味に笑う口元に見えたり、空を裂く刀に見えたり、装飾品に見えたりした。
「あれ、姫に似合いそうだなぁ」
黒と紺の間の色の空に浮かぶ、鋭く光る月に手を伸ばしてソオウは呟いた。
もちろん掴むことなど出来ない。
ソオウは宙に伸ばした手を力なく下ろし寝台から立ち上がると、壁に背を向け反対側の全面鉄格子の一部に手を掛けた。
鉄格子にはカギが無いのか、なんなく開き、ソオウは硬い寝台だけが有る狭い寝室から出た。
寝室を出たところは、更に大きな牢のようになっていた。
布だけが掛けられてるとは言え、きちんと仕切られた浴室と、少し離れたところには御手洗いも有った。
他にも小さな木のテーブルと木のイスが一つ、その上には果実が二つ乗った皿が置いてあった。
広いとは言え、牢に代わりはない。
牢の割りにこれだけの施設が必要だったのは、ソオウの身分のためだった。
囚われの王。
それがソオウの今の身分だった。
牢に入れられてからの外の世界をソオウは知らなかった。
だが、知る必要も無かったし、知りたいとも思わなかった。
いづれ処刑されるとソオウは確信していた。
それに対して不服等も無く、今の処遇も受け止めていたから、処刑に対しても異議が有りはしなかった。
身分に対しての誇りなど、ソオウには大きな問題では無かったし、また反対に、ここを出てやろうと足掻く気もなかった。
しかし、ソオウには一つだけ、今すぐ死ねない心残りが有った。
夢でしか会ったことのない、ただただ愛しい姫のことであった。
姫は、ヨウヒメといい、ソオウの領地の山の神で、二人は幾度となく夢で逢瀬を重ねてきた。
その美しさは、やはり人のものではなく、神であるがゆえの美しさであっただろうが、ソオウがヨウヒメに惹かれたのはそこでは無かった。
ヨウヒメは神だが、コロコロ変わる表情や仕草は、人と、年若い乙女のものと大差無かった。
ソオウは、夢で出会ったその山神の美しさではなく、ただ可愛らしい彼女の人柄や心に惹かれた。
照れたり、困ったり、恥じたり、拗ねたり。
ヨウヒメの表情は実に豊かだった。
武を得意とするヨウヒメには、神の中でも愛を司るもの達のような妖艶さ、色香は余り……殆ど感じられなかったが、少女のまま大人になったような純真さが有った。
国の中枢、政治の世界の真ん中で生きてきたソオウにとって、ヨウヒメの汚れの無さは癒しだった。
他人に言わせれば、それこそ神だからこそ汚れがないのだ、何を当たり前のことを、となるかもしれない。
だが、ソオウの周りには人種、役職、男女問わず、何かしら悪意を持っていた。
中には、そんなことは無いと言う者も居るかもしれないが、ソオウには出会う全ての皆が皆、大小はあれど隠しきれない悪意がちらちらと見せていた。
そんなソオウにとって、ヨウヒメは神以上に神で、誰よりも寄り添いたい人であった。
「叶うなら、一度は姫に直に触れたい」
溜め息のような細い独り言を呟くと、ソオウは皿の果実を一つ取りかじった。
水分の多い甘い果実だった。
果実で喉を潤し、ソオウはまた寝台と他の部分を区切ってある格子に手をかけ、中に戻った。
小さな空の小さな月を見上げ、ソオウは笑みを浮かべると、硬い寝台に体を横たえ静かに目を閉じた。