ソウタの夢 弐
次に彼女に会ったのは中学三年の冬、高校受験を間近に控えた2月だった。
ソウタは塾の休み時間、夜食を食べ終え、休憩前の授業のプリントを眺めていた。
冬休み以降の塾の休み時間は、同じ中学の子や、同じ学校を受験する塾で仲良くなった子と、さっきの問題がどうだったとか、苦手なところを互いに教えあったりと、自分でも結構やる気になってるなと思えるくらいには、勉強に集中していた。
だが、今日は陽が落ちてからやたらと眠かった。
「昨日、徹夜したっけ?」
ぼんやりした頭で昨日の事を思い出そうとするが、いよいよ眠気は限界まで達していた。
ソウタは眠気を振り払うように、強く目を瞑り、頭を2~3度振ってみた。
そして深呼吸し、そっと目を開けると、そこは塾では無かった。
「えっ?」
ソウタは辺りをぐるりと見てみたが、何も無い。
ただただ広がる無。
ソウタは自身が立っているのかどうかも分からなくなりそうだった。
何となく息苦しさも感じられた。
何も無いと認識したソウタの脳が、無意識に空気の存在も否定したのかもしれない。
その何も無さが、自身の存在すら否定してしまいそうな虚無感がソウタを襲った。
「落ち着けっ」
ソウタは腹の底から大声を出してみた。
その声がソウタの耳に届いた。
自身の存在を強く念じるように、両手を固く握りしめる。
手のひらに食い込む爪の先の痛みを感じた。
その痛みは、決して強いものではないが、ソウタが自身の存在を自ら感じるには充分な痛みだった。
「よし、いける」
何が、かは分からないが、ソウタは言った。
自分を取り戻したような感じがした。
そうした落ち着いてくると、周りを意識する余裕が生まれた。
ゆっくり辺りを眺めていると、何故かこの空間を懐かしく感じた。
突然、小さな笑い声がソウタの耳に飛び込んできた。
ソウタは声の方を見た。
さっきまで確かにここに彼一人しか居なかったはずだった。
だが、ソウタの視線の先には、一人の女の人が居た。
テレビでも観たことがない程キレイな人だった。
キレイという単語が、ソウタの記憶を呼び起こした。
「夢じゃなかった?」
ソウタは自身にか彼女にか、呟くように問いかけた。
「夢……ね。ソウタ、貴方は夢で在って夢ではないところに居るの」
なぞなぞのような彼女の言葉は、その声の美しさに遮られソウタの脳まで届かなかった。
彼女の声が紡ぐ音は、ソウタの心を震わせるような、心地好い酔いを与える音楽のように、ソウタの耳に届いた。
彼女はクスリと笑うと、ソウタの頬に手を伸ばし、人指し指で頬から首筋をなぞり、心臓の辺りで止めると、掌をあててそっと目を閉じた。
ソウタはされるがままじっとしていた。
彼女は静かに目を開けると、手はそのままで、更にソウタとの距離をつめ、首を傾げてソウタの瞳を覗き込んだ。
「私を覚えてる?」
「うん。さっきまで忘れてたけど」
彼女の問いに、ソウタは苦笑を浮かべて答えた。
「ひどい人」
愉しげな表情をして彼女は言った。
彼女はソウタから手を離したが、離れていったその手を、ソウタは素早く掴んだ。
彼女は驚いたように目を大きく見開いた。
「怒ったの?」
ソウタは訊ねた。
彼女は違うと言う変わりに、首を振って俯いた。
「なら、離れないで」
そう言って、掴まえたままの彼女の腕を引くと、ソウタは彼女を自分の腕の中に閉じ込めた。
「ソウタ」
俯いたまま彼女はソウタの名前を呼んだ。
「何?」
「大人になった?」
「まだ、もう少し先」
彼女はソウタの腕の中で、ソウタを見上げた。
少し寂しそうな顔をして、それでもキレイに彼女は微笑んだ。
「分かった、もう少し先ね」
そう言うと、彼女はソウタの腕の中から消えた。
ソウタはゆっくり腕を下ろすと、大きく息を吐き出した。
「もう少し、か」
ソウタは静かに目を閉じ、次に目を開けると塾の机が目の前にあった。
ソウタは自分の胸に手をあて、その早い鼓動を握るかのように、着ていたパーカーを強く掴んだ。
「今の、誰?ぼく?」
どこからだろう、まるで自分であって自分でなかったような感じがしていた。
ソウタは服から手を離し、両手を合わせ握りしめると、自分の額に充て、祈るように目を閉じた。