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死という名の偽りの希望に向かって・・・

Sin Factory 罪の工場のような世界観です。

俺は今まで自殺することは悪いことだと教えられてきた。家でも学校でも。しかし、それは本当なのだろうか。もしかしたら、死んだほうがいい時だってあるかもしれない。

では、この考えは間違いなのだろうか。ひねくれた考えなのだろうか。俺はそうは思わない。なぜなら、人は必ず死ぬからだ。

今、俺は家から自転車で十五分の所にある『生命譲渡センター』の前に立っている。

 ついに予約をしてしまった。

 自分の命を提供する予約を。

 一昔前にある装置が開発された。

その名は生命譲渡装置。

 名のとおり、人間の命を他の人体に移植し、蘇生させる装置のことである。

ことの始まりは生命エネルギーと呼ばれる物質の発見である。ある学者が人体から知なる物質を発見し、研究した結果、人体のすべてを維持している物質であることが分かった。また、他の動物や植物からも同様のエネルギー物質が確認された。しかし、物質が確認されないケースも存在する。それは死骸である。

 その未知なる物質は一般には生命エネルギーと呼ばれるようになり、テレビで盛んに報道された。それから数十年後、生命エネルギーの移植技術に成功した日本。その移植でもっとも注目を浴びたことは、死人を生き返らせたことであった。本来の研究者の予測では生体組織の再生が目標であったが、腐った細胞でもある程度身体が残っている場合、組織が再生し、死人が蘇る。

 この技術は日本でのみ利用可能となっている。他の国では宗教的問題が絡んでいるため、使用できない。しかし、アメリカでは軍事利用のために研究されているのではないかとテレビ番組で放送されていた。

 しかし、死者を蘇生させるために生きている人間を利用しなければならない。そのため、政府は生命エネルギーをより効率よく確保するために、ある法令を出したのである。

 それは・・・・自殺の合法化である。

 政府は自殺を正当化する法律を決めた。日本は世界でも屈指の自殺率を誇っていたために、自殺を利用する法律を考案し、生命エネルギーを確保することを決定したのである。死刑囚や人の命を奪ってしまった犯罪者などの場合は強制的に生命エネルギーを抜き取られる。

 生命エネルギーを確保するために、政府は各県に生命譲渡センターを設立した。各県にいる自殺者を募るセンターであったが、自殺者が殺到する事態となった。その結果、自殺率は増加し、自殺率世界一は当然の結果であった。しかし、失う命と同時に救える命も増加する。事故で死亡した人、殺害された人など。

 日本は自殺の容認と死者蘇生という奇跡を体現できる国となった。

 そんな日本に住んでいる俺、長屋満は生命譲渡の予約を済ませてしまった。そして、今俺は生命譲渡センターの前に立っている。

 ついに予約をした。自分の命を寄付することを。

 後悔などしていない。

 俺は生きていたって何の意味もない人間なのだから。

 生命譲渡センターの入り口前にあるコンクリートの階段を俺は満足気に降りる。

 普通の人間だったら、絶望の淵に立たされているところだが、俺はまったく違う。

 とてもうれしいのだ。

 別に、自分をいじめて楽しんでいるわけじゃない。生きてる意味を完全に失っている俺にとって死とは完全なる「逃げ道」なのだ。

 俺の両親は大の学力主義で勉強のできない俺を邪魔者扱いしている。

 上に兄貴がいるが、勉強ができ、おまけに運動神経もいい。そのため、物心付いたときからいつも兄貴と比べられ、否定され続けてきた。

『お兄さんは優秀なのにどうして君は成績が悪いかね?』

 これは教師から言われた言葉。

『あなたは家の恥です』

 これは母さんから言われた言葉である。

 最近では、自分が何をしたらいいのかさえ、分からなくなってしまった。将来の夢とかそういうものが浮かばない。

 一応、学校に通ってはいるが、それは義務教育だから。それだけだ。先生の話は頭に入らないし、理解できない。馬鹿で何のとりえもない人間なのだ。

 俺は生きていてもしょうがないのだ。

 だから、決断した。俺は『死』を選択することを。

 後悔はしていない。こんな生き地獄のような生活を送るくらいなら、俺は完全なる『無』になる。

 しかし、予約が殺到しているため、すぐに生命譲渡作業は行われない。数ヶ月待たなければならないが、それくらい我慢できる。

 頭の回転が悪いため、自殺の方法がこれくらいしか浮かばなかったのだ。首吊りにしてもどのように紐を取り付け、どこで首をつればいいのか浮かばない。それに、生命譲渡センターでは安楽死が約束されているため、苦しんで死ぬ必要はない。

 もう、こんな無意味な生活を終わらせよう。

 俺は死を選択した。

 家族には内緒で。

 かまわない。俺の辛さをまったく理解できない両親などもはや、家族ではないのだ。

歪んだ生活の中で、俺は歩き出した。家に帰るだけだ。他に何も思いつかない。後は死を待つだけだ。

 久しぶりのこの幸福感。

 やっと解放されるのだ。ある意味、いい時代なのかもしれない。死を肯定する世界。安楽死が認められた日本。

 しかし、それに反対する人間たちが大多数を占めているのも事実だ。

 人の苦しみを理解できない人々たちは各地で暴動を起こし、反生命譲渡運動が活発化している。そのため、各町や県に設置さていた生命譲渡センターが破壊される事態になった。そのデモに参加していたのは、生命譲渡をした人々の遺族たちで生命譲渡センターの破壊活動を行っている。そのため、センターが閉鎖される場所が続出している。

 こんなことがあっていいはずがない。自分の命を他人に上げることは本人の自由だ。自殺自体だってそうだ。自分の命は自分のためにある。それを他人や家族が勝手にその権利を奪うことは間違っている。

 しかし、マスコミはこのデモに肯定的で日本国民たちの大半もそれに賛成している。しかし、自殺希望者たちからは痛烈な批判を浴びており、結果的にセンターが減少しても自殺者は減っていないことが現状である。

 俺は頭と目の奥と肩の痛みに耐えながら、センターを後にしようとした。すると、見覚えのある女の子と出くわしてしまった。

「長屋君?」

ヘアピンで髪を束ね、耳を出している短髪の少女、黒井さとみに見つかってしまった。俺の通っている中学校では生命譲渡センターで予約をした生徒を密告するよう教師たちから言われている。告げ口されれば命の譲渡ができなくなり、自殺できない。

「・・・・やあ、」

 俺は完全に恐怖しながら返事をした。別に友達でも恋人でもないただの同じ同級生なだけだからだ。

「何怖がってるの?」

「いや・・・別に」

「大丈夫よ。告げ口なんてしないから」

 黒井は笑顔で答えた。

「その証拠に私もここ予約したから」

「・・・・え?」

 俺は普通に驚いた。

「信じてないでしょ?」

 黒井は笑顔で答えたので、俺は動揺してしまった。

 普通ならこんな命の譲渡で笑顔になれる人間はそういない。わずかだが、黒井に親近感を抱いてしまった。

「君よりも少し前に予約入れたんだ、私。これで仲間が一人増えた」

「自殺仲間か」

 俺は暗い声で言ってしまった。

「何か暗いよ。死ぬくらいいいじゃない。望んで選んだ道でしょ」

 確かに。黒井は間違ってない。

「でも、絶対秘密にしててよ。譲渡がばれたらここにこれなくなっちゃうから」

「・・・ああ」

 絶対に言わないさ。自殺を人のためにするのだから。

「私、用事あるからじゃあね」

「ああ、じゃあ」

 彼女は走ってその場を去ってしまった。

 黒井とは同じクラスだが、話したことはなく、彼女はいつも一人で本を読んでいる。内向的だと思っていたけど案外明るい女の子なんだなと思った。

 まあ、どこかおかしな明るさではあるが。


 次の日、一人自転車で中学校に向かっていた。かごにかばんを乗せて登校。いつもの日常ではあるが、どこか違っていた。違っていたのは風景とかじゃなくて俺の内面だ。数ヶ月したら、この原因不明の不定愁訴の苦しみから解放される。

 生命譲渡のメリットは他人の細胞を読みがえらせること以外にもうひとつある。それは苦しみがないということだ。首吊りや屋上からの飛び降りには一瞬といえども苦しみはつき物だ。しかし、この生命譲渡システムにはない。一酸化炭素中毒自殺と同じと考えている。一瞬で『無』になれるのだ。

 学校の自転車小屋に自転車を置き、かばんを持って教室に向かう。いつもと同じ。いつもと変わらぬ日常。学校に来るのは正直嫌いで毎日が欝でしょうがない。しかし、それもうすぐ終わる。すべてが終わるのだ。

 かばんを手に持ち、教室に向かう。教室に向かえば向かうほど欝になって行く。

 俺は学校が苦手だ。人ごみが苦手なのと同じで生徒がたくさんいると、欝になる。義務教育が許せない。こんな制度があるから、引きこもったり、いじめによる自殺が後を絶たないのだ。

 教室に入ると、多くの生徒たちが仲良し集団で固まりながら、しゃべっている。

 いいよな。人生が楽しいと思っているやつらは。どうして、俺ばかりこんな苦しみを味合わなければならないのか。

 俺は自分の席に腰を下ろし、かばんを机のフックにかけた。

 あ~あ、一体俺は何をしているのだろうか?

 勉強をしたって頭には入らないし、運動したってただ疲れるだけだ。学校に来る『意味』とは一体何なのだろうか?

 国語とか数学を勉強する必要性はなんとなく分かる。しかし、社会や理科など本当にごく一部の人間しか社会人として使わないだろう。なぜ、そのようなものを勉強する。俺は学者になるつもりもなければ、そのような頭脳を持ってやしない。

 しかし、今の社会は恵まれているのかもしれない。昔は『自殺』や『安楽死』などを否定的な見方が根強かった。切腹をしていた歴史を持つ日本が死を否定的な見方をしていたこと自体矛盾していたが、今は『肯定』されている。法律的意味合いで。

 俺は『倫理』という言葉は嫌いだ。なぜなら、それは科学を窒息させる言葉だからだ。倫理に反しているといわれれば、例え人を救う実験や研究でもすべてが否定される。非合理的な言葉だ。後、『宗教』という言葉も同様である。この二つの言葉は人間の可能性を窒息させ、圧迫する悪しき考えであると俺は思い続けている。そのため、初詣には俺はいつも参加しない。意味を感じないからだ。

 もし、この世界が『神』や『仏』が作ったと仮定する。しかし、今この地球を支配しているのは人間であって神じゃない。そんな偶像に祈ろうとは俺は思わない。世界各地では宗教戦争というのが多発しているが、それが『偶像』を信じる者同士の争いと知ってからこの世界が馬鹿らしくなった。生きている価値のない世界となったのだ。

 生命譲渡法案も可決には何年もかかった。それはそういう『非合理な人間』たちが否定していたからだ。

 エゴの塊ともいえる有名タレントたちは口々に言うのだ。

『死んでいい人間はこの世に存在しない』

 俺に言わせれば、それは詭弁だ。

 なら、なぜ死刑制度がこの世に存在するのか? なぜ、戦争が起こる。殺人事件が発生する。

 俺はこう考えている。生きなきゃいけない人間は存在する。しかし、死んだほうがいい人間だってこの世には存在するのだと。

 今は死語となった『介護うつ』などいい例だ。

 寝たきりの親族のために人生を捨て、介護という名の無意味な存在のために自殺をする人間がかつて存在した。また、寝たきりの人を殺してしまうという事件も多発していた。もし、『安楽死』が認められていればこのような事件など起こらなかったはずだ。人間は必ず死ぬ。それは避けられない。それをただ『延命』という名の不完全な医療に頼ったばかりにそういった非合理な悲劇が起こったのだ。

 生と死を決めるのはその人物であり、他人がごたごた言うことではない。

 しかし、マスコミや愚かな市民たちが生命譲渡法案を今でも否定している事実は変わらない。そして、それは学校にも起きている。

 確かに自殺率は上がったが、同時に救われる命も増えた。それはれっきとした事実であり、評価されるべきことである。

 生きたいやつは生きればいい。俺は人類など滅べばいいとは考えていない。だからこそ、死にたいやつは死ねばいい。誰も迷惑をかけないようにだ。

 しかし、この学校は生命譲渡法案に反対している。

 愚かな生徒会や教師たちは必死に『安楽死』を否定している。

 ポスターを作り、死を止めようとしている。

 たまに生命譲渡センターを見ると、生徒会長や教師たちが自殺をしようとしている生徒がいないか見張っている。

 実に愚かなことだ。人の人生はその人が決めることなのに。やつらの『エゴ』は醜い。実に醜い。そして、もっとも醜いのは、そのことに気がついていないやつらそのものだ。

 だから、俺はこの学校にいるのが苦痛でしょうがないのだ。

 アウェイという言葉を実感してしまい、気分が悪い。

 しかし、それももうすぐ終わる。俺の人生はもうすぐ終わるのだ。

 怖くはない。むしろ、幸福感を感じる。死に対し希望を抱いている自分がいる。

 歪んでいると他者は言うかもしれない。しかし、俺にとって『死』は絶対的逃避空域なのだ。俺は逃げたい。この学校から。家族から。この社会から。そして、この世界から。

 すると、クラスのリーダー的存在の女子グループたちが箱を持って生徒たちに回って募金活動をしている。

 その箱には『ライフ』と書かれている。ライフとは命という意味であるが、正確には違う。彼女らの『ライフ』とは『反生命譲渡法案の会』である慈善団体の名称である。寄付を募り、安楽死を否定してデモを起こしている団体のことである。寄付する連中の中には親族が生命譲渡してしまった者が多く、政府の法案に異論、正確には恨みを持ったものが多い。

 『合理的な死』と俺や政府は考えているため、彼らのような連中の考えが理解できない。

 人の価値観と言うものは不思議だ。自殺=罪と考えているやつらに理屈は通用しなのだろう。しかし、その団体はデモ活動だけならともかく、各世界に展開しており、生命譲渡センターを次々に破壊している。普通なら器物破損で逮捕されるが、警察の中にも信奉者が多く、見て見ぬ振り状態が多い。世界に展開しているため、当然日本支部も存在する。

 人の死を邪魔する悪しき存在。俺はそう考えている。そんなやからに寄付するなど金をドブに捨てるようなものだ。

 噂では生命譲渡で生き返った人々に嫌がらせしており、生き返った人を自殺に追いやったとも言われている。

 しかし、悲しいことではあるが、この町には信奉者が大勢いる。この学校の校長を始めとする多くの教師や生徒は『ライフ』を支持している。

 女子グループのリーダー桜井翔子らは朝っぱらから募金活動に人生を費やしているのだ。また、生徒会もライフの信奉者で構成されており、クラスでのライフ寄付を行事の一環として行っているのだ。どのクラスの寄付が一番が多かったか。そうやって、クラスの対抗心をあおり、金を吸い上げるという悪意に満ちた行事なのだ。

 しかし、この年の女子生徒はこういった行事に燃える。特に学校のヒエラルキーにいる女子になればなるほど行事に燃え、やる気のない生徒を無理やり参加させる。

 桜井らは生徒から募金を吸い上げている。数人の女子が迫ってきたら嫌でも出してしまうのが生徒というやつだ。それに関しては男女間の差はないだろう。逆らうことはそのクラスを敵に回すことだ。空気の読めない反逆者の烙印を押される。それが学校だ。

 二人でいた女子生徒の前に桜井らは悪魔の箱を持ちながら、迫ってきた。

「募金、お願い」

「・・・あ、はい」

 二人の女子生徒はどこか覚えながら制服のポケットから財布を取り出し、小銭をテキトーに取り出し、箱の中に入れた。

「ありがとう」

 二人の女子たちは安堵していた。

 本当は募金などしたくないのだろう。募金は強制ではないが、それは所詮表向きの話だ。暗黙の了解という考えが人間には存在する。特に日本人は。

 しかし、俺は絶対に寄付しない。あんな悪しき偽善団体に寄付などするものか!

 すると、教室から昨日出会った同じ自殺願望者の黒井さとみが教室に入ってきた。

 生命譲渡センターで会ってから妙に親近感がわいていた。同じ自殺仲間だからだろうか?

 黒井さとみはクラスから浮いた存在だ。それは今から見れば分かる。

 桜井たちは箱を持ちながら黒井の所へ足を運んだ。

「黒井さん。今日はちゃんと募金してくれる?」

 桜井がプレッシャーをかけながら言った。

「私、ライフの支持者じゃないから嫌!」

「あなた、それでも人間。人の命を物としか考えていない政府に対抗するためなのよ」

「募金って強制じゃないでしょ。私は一銭も払わない」

 黒井は頑として引かない。俺は心の中で応援していた。

「他の皆はちゃんと募金してくれたわ。あなたみたいな人がいると、クラスの和が乱れるの。だから、協力してくれないかな」

 そんなことで和が乱れるならこのクラスは初めから終わっている。

「私は入れない」

「そう、じゃあ、あなたは人の死に賛成なんだ。最低」

「最低、最低」

 桜井とその他の取り巻きたちが大声で言い、その場を去っていった。

 黒井は顔色変えずに席に座り、腰を下ろした。

 肝が据わっていると言えばそれまでだが、俺は少し違うと思う。これは『死』を選択した者にのみ得られる『強さ』なのだ。矛盾な考えであることは分かっている。しかし、死ぬと分かった人間は失うものが何もない。将来がすでにない人間にとって、空気を読むとかそういった日常のストレスとはかけ離れた場所に存在する。死ぬのに今更募金だのくだらないことに対し、対抗できるのは、将来のない、死を宣告された人間の特権なのだ。生半可な人生を送ろうとしているやつは目先の未来しか見えない。周りに左右されるだけの俗人と同じだ。

 歪んだ考えであることは分かっている。しかし、幼稚な言葉で言えば、一種の『無敵状態』と言える。

 しかし、桜井たちのような存在に逆らえば、いじめなどを手段が学校では発動される。現に、いじめの標的が黒井にされるという話を盗み聞きしたことがある。しかし、彼女ならそんなことに屈することはないだろう。『死』という名の絶対的味方がついているのだから。

 桜井たちは次から次へと募金を強要していき、ついに俺の所にまで来た。

 桜井たちは俺を嫌っている。なぜなら、俺もクラス内の反逆者だからだ。今までも募金の催促をされたが、すべて断ってきた。

 誰がそんな愚かなことをするものか!

 頑固といえばそれまでだが、俺も自分の意思を曲げることはしない。それにだ。俺も無敵状態なのだから。『死』という名の無敵の鎧を身にまとった男だ。期間限定ではあるが。

「ねえ、長屋君。募金お願い!」

 どすの利いた声で桜井が強要してきた。

「嫌だ! 俺は募金しない」

 俺は引かない。

「いい加減にしてよ。何回頼めば募金してくれるのよ」

「何度言われても嫌なものは嫌だ」

「いいでしょう。十円とかそれくらいでいいんだから」

「一円も持ってきていない」

「何回そういう言い訳をすれば気が済むのよ」

「お前こそいい加減にしろよ。俺はライフなんかに金を出したくねーんだよ。それに募金ってのは強制するもんじゃねーだろーが」

「それじゃあ、他の人と不公平じゃない」

「そんなこと知るか!」

 俺と桜井はまさに犬猿の仲といっていい。こいつの顔を見ると虫唾が走る。

「ねぇ、翔子。もういいじゃない。こいつ、言うこと聞かないよ」

 桜井の親友である岸川由紀が呆れ顔で言った。

「分かったわ。由紀。もうこいつには頼まない」

 桜井はそう俺に言い放つとその場を後にした。

 本当に気分が悪い。俺は何も悪いことなどしていないのに妙に罪悪感を抱く。しかし、ライフなどの偽善団体に金を出すことこそ悪であり、俺は間違ったことはしていない。

 けれど、クラスの視線が俺に向けられ、まるで獣を見る目であった。

 だから、学校は嫌いなのだ。

 早く、この世界から去りたい。この悪しき現実から逃避したい。絶対的逃避。

 今までも自殺を考えたことはあった。しかし、ただ、死ぬだけではもったいないと考えた。なら、生きたいと願うもの。生きるべき人間でありながら、死が近づいているものを助けたいと思ったのだ。

 勉強はできず、運動もできない何の取り柄のない俺が唯一できることは『生命譲渡』であったのだ。

 この歪んだ社会で生きる意味を見失っている俺にとっての最後の選択肢であり、一種の抵抗でもあった。両親に対する当てつけ。俺を否定し続け、未来を絶望に変えた存在。それは学校もそうだ。今のような連中は数多く存在する絶望の社会。それでも生きたいと願う者のために俺は命を渡す。

 すると、教室に担任の数学教師である大崎秀雄がやってきた。

 俺はこの教師も大嫌いだ。ライフの信奉者の一人だからだ。

 嫌いなものが多すぎて本当に嫌になる。

「おはよう!」

 身長は百八十センチくらいでメタボリックの体系ではあるが、しゃべりがうまく、数学の授業も分かりやすい。そのため、大崎先生は多くの生徒に好かれている。

「おはようございます」

 桜井たちはその他の生徒が返事を返した。もちろん、俺は言わなかったが。

 すると、桜井は大崎先生に近づき、何かを話している。

 一体何を話しているのか? 俺には検討もつかなかった。しかし、嫌な予感がした。

 けれど、何もできない俺は朝の読書をするためにかばんから本を取り出した。

 俺は今では絶版となってしまった『ヘブンズロード』というタイトルの本を朝読書している。

 絶版になった理由は決して古い本だからではない。『死』を助長させる本として販売自粛に追い込まれたのだ。マスコミや『ライフ』たちのネガティブキャンペーンのせいで、作者は非難を浴びた。マスコミはこれを『ヘブンズ事件』とタイトルをつけ、自殺した著者を死してなお非難し続けたのだ。『ヘブンズロード』という本のストーリーはこの世を同じ時間に去った死者たちが天使の導きによって天国までの旅を描いた作品であったのだ。その描き方はファンタジー要素が強かったために、『死を美化している』と非難されたのである。

 まだ、本を読んでいる途中なのでなんとも言えないが、決して死を美化したり、自殺を助長するような内容にはとても思えない。

 この本はベストセラーになったファンタジー小説であったが、今では入手困難となってしまったのである。俺は小さな書店に行ったときに最後の一冊を購入することができたのだ。

 この社会はどこまでも俺の人生を邪魔する。俗人たちはどこまで『死』を恐れているのだろうか? 生と死は隣り合わせなのだから、それを受け入れなければならない。

 生命譲渡法案は決して死を切望している案ではなく、人の命をボランティアし、人を救うための法案なのだ。

 本を開き、早めの朝読書を始めた。

 今いる学校から逃避するには読書に限る。今俺は本の世界で生きている。それを否定するやつらは存在しない。本の世界は裏切らない。今の現実社会のように俺の人生の邪魔をしない。

 俺は現実世界から逃げるため、本の活字を脳に焼き付けるように読み続けた。

 そして、入校終了のチャイムが鳴り、生徒たちは全員席についた。そして、皆も本を取り出し、読書をし始めた。

 俺はヘブンズロードを読み、死後の世界を堪能していた。

 しかし、俺は天国など信じていない。

 そもそも、天国とはどういう所なのか? 今まで考えたことがなかったな。

 俺はいったん本の世界から抜け出し、現実へと戻ってきた。天国について深く考えたくなったからだ。きっと、死が近づいているせいであろう。

 俺は死ぬことは『完全なる無』になることだと考えている。よって、天国など存在するはずはない。しかし、仮に本当にあったとするなら一体どういう構造になっているのだろうか。

 俗っぽく考えているといくつかの案が浮かび上がってきた。

 天国には階段があり、それを果てしなく上っていくと扉があり、そこが天国という場所である。そこにはいると、永遠の幸せが待っている。

 これは俺なりにポジティブに考えた案の一つに過ぎない。

 では、これならどうだろうか。

 天国に行くと長い行列が待っている。それは来世で生まれ変わるための順番待ちでその行列をクリアすると、新しい生命として生まれ変わる。

 う~ん・・・・嫌だな。

 なぜなら、俺は生まれ変わりたくないし、この社会に戻りたくない。運が良ければ再び日本人として、運が悪ければどこかの貧困と戦争に明け暮れた中東の子供として生まれる。それは不幸だ。

 待て・・・俺は前提の所で天国にいけると決めてしまった。

 人の死に方によっては天国に逝けないという考えもある。

 例えば、俺のように自殺をした人間。もしかしたら、天国ではなく、地獄に堕ちてしまう例もあるはずだ。たぶん、キリスト教だったと思うが、自殺は罪と考えると聞いたことがある。もし、間違っていたら、狂信的なキリスト信者に糾弾されそうだが。

 まあ、そういう風に考えるとして、今度は『地獄』について考えなければならない。

 地獄と聞いて最初に思い浮かぶのは閻魔大王だ。

 舌を抜かれたり、今までの人生を調べ、判決を下す地獄の裁判官。しかし、地獄というものを安易に考えると、一生苦しみを受ける場所と解釈できる。それは非常に恐ろしい。もし、これが本当であるならば、現世でも苦しみ、地獄でも苦しむことになる。けれども、そんな苦しみが待っているとして、一体何の得があるのだろうか? 苦しみが生産性のあることに繋がらなければ何の意味もない。

 やはり、俺は完全な無が正しい答えだと思う。別にこの本を否定するわけではない。ただ、死んだら、生物は土に返る。それが正しい生き物の生体サイクルであり、そこに天国だの地獄といった非科学的なものを入れるのは間違っている。

 所詮、天国や地獄とは人間が『死』を受け入れるために作った偽りの空間に過ぎない。もし、天国が存在するなら、多くの人はとっくに死んでいるし、死を恐れたりしない。やはり、人間は『死』に対して否定的なってしまう生き物なのだろう。天国など『死』を恐れた人間の醜く歪んだ『エゴ』の結晶体と言えよう。

 では、俺が唱える『完全なる無』はどうなのだろう。これは理論的に説明がつく。それに『無』とは何もないことであり、見たり、感じたりすることもできない。喜びも苦しみも感じる必要がない。自分の意思すら持ち合わせていない。それが『無』だ。

 そうだ。やはり、俺の考えは正しい。天国や地獄など存在しない。死んだらそれでおしまい。それが正しい自然のサイクルだ。

 ただ、今読んでいるヘブンズロードを否定するつもりはない。読んでいてとてもおもしろいし、死を美化している作品だとも思わない。この作者はどのようなことを考え、この本を作ったか興味があるが、それを知る者は、今は亡き著者だけだ。この作品は死を美化しているのではなく、単に世界観を美化している。設定が非常に美しいのだ。頭の悪い俺でもイメージすることができる。非常に美しい風景が頭を過ぎる。

 反生命譲渡派はこれを『死の美化』と勝手に決めつけ、否定したのだ。これは許せない行為だ。この作者を死に至らしめ、書けたはずの他の作品を失ってしまった。俺は許さない。マスコミやライフのようなやからを。そして、この学校の存在自体も。

 その後、再び本を開き、ストーリーを描いている活字を読み続けた。そして、チャイムが鳴り、朝読書が終了した。

 すると、椅子に座っていた大崎先生が立ち上がり、教団の前に立った。

「起立」

 学級委員長の桜井が号令をかけ、全員が立ち上がった。俺も遅れて立ち上がる。

「礼!」

 体勢を傾け、頭を下げる。

「着席!」

 そして、全員が席に座る。

 死を決めてから、この動作が実にくだらなく感じてしょうがない。

なぜ、いちいちこんなくだらないことをしなければならないのか? 数秒でも時間の無駄である。礼儀を覚えるためか? それとも、先生を敬えという大人のエゴか? しかも、毎回の授業でも同じことをしなければならない。ただでさえ、この学校が嫌いのなのこのような無駄なことをしなければならない。

死を意識してから俺の中で価値観が少しずつ変わってきている。

見えていたのに見えていなかったものが今では見える。学校にはこれだけの無駄が存在する。授業内容もそうであるが、学校は非合理的な空間だ。こんな鳥かごのような所にいる俺は実に馬鹿だ。早く、『死』という扉を開き、解放されたい。

しかし、更なる不幸が俺を襲った。

 大崎先生が不機嫌そうな顔で言った。

「皆さん。おはようございます。今日は君たちに『死』について考えてほしい」

 そう言うと、大崎先生は教壇を降り、教室の後方へと足を運んだ。

 その瞬間、俺は大崎先生が何をしようとしているのかが手に取るように分かった。

 大崎先生は後方のロッカー上にあるライフへの募金箱を手に取った。そして、中を調べ、どのくらいの金額が箱の中に入っているかを確認した。

「皆さ。この金額はないよ。十円とか一円しか入っていない。確かに募金は強制ではないけどさ。人の命を物としか考えていない政府に対抗するためにわざわざ行事の一環としてライフへの募金活動を行っている。その意味をもう一度考えてほしい」

 大きな声でしかも聞き取りやすい言い方で言った。それがあの人のやり方なのだ。あたかも、自分は正しいことをしている、だから、皆もそれに従おう。皆を説き伏せているが、俺からすれば、ただの『エゴイスト』だ。

 俺はふと桜井の方を向くと、しめたとばかりに笑顔でいる。実に憎たらしい。大崎先生と桜井グループは非常に仲がよく、友達のようによく話している。

「俺の言っていることに反論のあるやつはいるか!」

 反論ならいくらでもできる。しかし、それをしないのには理由がある。今の俺は精神的に無敵状態を誇っている。しかし、あの先生と対等に討論できる頭はないし、それに言うだけ『無駄』なのだ。早く、学校から抜けたい俺としてはこのまま先生の『エゴ』を聞き流すしかない。

 耐え抜いてみせる。ここで変なトラブルはごめんだ。

「強制はしないが、人の命をもっとよく考えてほしい。俺が言いたいのはそれだけだよ。だから、命をよく考えて募金してくれ。本当にお金がないとか家の事情があるとかなら話は別だ。しかし、ほとんどの生徒はお金に困ってはいないだろう。それなのに十円、五円、一円ってのは適当に募金すればいいんだろと命を罵倒している。なら、一銭も入れないほうがいい。正直私は気分が悪い。千円、一万入れろなんて言わない。でも、募金するならもっとまじめになって考えて寄付してくれ」

 頭の悪い俺には『強制はしないが金を入れろ』としか聞けない。

 俺が間違っているのか? いや、それがあの先生のやり方だ。自分を見失うな。自分の意思は自分だけも物なのだ。

 俺は憎しみの眼差しを大崎先生に向けた。

 しかし、クラスにいる大半の生徒は先生の言うことを真剣に聞いていた。

 一種のマインドコントロールのようなものなのか? 考えても見れば、教育=洗脳だからな。しかし、慈善団体ライフの信奉者を育てるような教育方針は間違っている。しかも、大崎先生は直線的に洗脳しているのではない。回りくどいやり方で洗脳している。頭の悪い俺ですらそういうことに気がつくのに、どうして回りは反感を抱かない。

 そうか・・・・学校生活に満足しているからか。

 俺のように不満ばかりの人生を送っているわけではない。ただ、この二重社会を何のためらいもなく受け止め、その流れのただ進んでいく。勉強や人間関係、他の楽しみだけを考えて生きていく。今の生徒たちはそれがすべてだ。俺のように流れに逆らえば、すべてを失う。反逆の代償とはそういうものだ。工場の部品のように生産された生徒が大人になり同じことを繰り返す。それが俗物というものだ。

 だからこそ、政府が打ち出した生命譲渡法案のようなものが誕生したのだ。この流れに身を任せられない人間は『社会からの逃避』を求めてしまう。それが生命譲渡法案に繋がったのかもしれない。

 すべての反生命譲渡法案者たちに求めたい。どうして、この法案が誕生したのかを。しかも、それは維持し続けられていることを。それを考えずにただ否定するだけなど何の意味もないことを。

 しかし、自殺=罪としか考えられない国民たちにそれはできない。しようとしないだろう。自殺者を生んでいるのはそれが分からないお前たちだと。お前たちがすべての現況なのに被害者である自殺願望者たちを否定する。

 一方的な見方であるが、そう考えると腹が煮えくり返る気持ちになる。

 追い詰める者が悪いのではない。追い詰めていることに気がつかない者こそ真に罪ある人間だと俺は思う。

「もう一度、箱を回すから考えて募金しろ」

 そう言うと、大崎先生は箱を持ち、窓際の一番後ろ端に座っている女子生徒に箱を渡した。

「後ろから順番に回しなさい」

 結局、募金の強制かよ。ふざけたことを!

 女子生徒はかばんから財布を出し、中を開けた。生徒たちがその女子生徒を一斉に凝視していたため、女子生徒は明らかに緊張していた。そして、その女子生徒は財布から百円玉をありったけ出し、募金箱に入れた。そして、前にいる男子生徒に渡した。

 最初の彼女の行動は周りの生徒に影響を与えた。大崎先生や生徒の目が『悪魔の箱』を受け取る生徒にとってプレッシャーとなっていた。しかも、女子生徒が百円玉をそれなりに入れたために、次に受け取る人もそのくらい入れなくてはならないという雰囲気を作り出してしまったのだ。

 次に受け取った男子生徒も百円玉を五、六枚募金した。この悪循環のまま、下手をすれば俺の所まで『悪魔の箱』がやって来る。

 次に受け取った女子生徒も同じくらいの金額を入れ、そのパターンが続いていく。そして、桜井が箱を受け取ると、千円札を投入したのである。これは最悪のパターンであった。学校のリーダー的存在の彼女が千円札を入れたことは次の人間にさらなるプレッシャーを与える。彼女と比べられるのだ。

「桜井、お前の命の思いが伝わるよ」

「いいえ、そんな」

 大崎がそう言うから他の生徒の緊張が増す。最低の教師であり、桜井は最低の生徒だ。

 どこまでも俺の生活の邪魔をする。

 頭に血が上った状態の俺は必死に怒りを抑えていた。

 そして、箱を黒井が受け取ったのである。

 俺は息を呑んだ。緊張の一瞬である。

 黒井はその箱を手に取ると、そのまま前の生徒に渡したのである。これは俺にとっては非常にうれしい態度であったが、周りにいる生徒はどよめきを隠さなかった。

「黒井、お前は募金しないのか?」

 大崎が大声で言った。

「はい。私は募金する意思はありません」

「そうか。命に対するお前の価値観は理解したよ」

 大崎先生は納得したかのような表情になっていた。しかし、俺には分かる。ちっとも納得していない。クラスに反旗を翻す存在であると示したのだ。

「せっかく、募金したのに」

「あういうやついると白けるよな」

 とひそひそ声でクラスが黒井の態度に不満を抱いている。

 結局、周りにいる生徒たちは空気を呼んで行動するだけの無能なやつらだ。自分の意思がないのだ。そういう人間を学校は育てている。それが分からないのだ。教師たちは。

 俺は心の中で黒井の行動に敬意を表した。俺も決心した。募金はしない。まあ、一銭も持っていなかったので募金のしようがない。

 次第に俺の所にまで箱を回ってくる。

 異常なまでの緊張感。ただの箱一つにこれほどまで恐れたことはない。生命譲渡センターに入ろうとした時もかなり緊張した。しかし、この緊張感はまた別の感じがする。まるで、敵に囲まれ、独りぼっちになったような緊張感と絶望感。

 すると、箱に募金をし終わった男子生徒が次の人に回すために席を立った。その生徒の前は空席であり、清水博一という男子生徒の席だ。彼については良く知らないが、不登校でほとんど顔を知らない。なぜ、不登校なのかも定かではなく、噂では小学時代にいじめられ、小学校卒業間近で登校拒否したと聞いている。

 不登校者には生命譲渡者が多い。もしかしたらと思ってしまう。

 しかし、時に不登校ができる清水博一がうらやましいと思ってしまう。俺の親なら、俺を引きずっても学校に連れて行くだろうし、両親は周りの目を木にする人なのでヒステリーを起こすであろう。

 もし、登校を拒否できるなら、このくだらないことに関わる必要もなければ、学校の洗脳教育を受けずに済む。嫌味無しでうらやましい。

 気がつけば、箱は俺の所に運ばれてきた。俺は箱には何も入れずにそのまま次の人に渡した。

「長屋、お前の募金しないのか?」

 大崎がプレッシャーをかけてきた。本当に嫌な教師だ。

 お金がないので募金できないんですと答えるのが普通なのだろうが、怒りが頂点に来ていた俺は本音を言った。

「俺はライフになんかに募金したくないんです」

 すると、クラスが一瞬静まり返った。今の発言は学校中を敵にまわすことを意味しているからだ。

 結構だ。もう、歪んだ縛りを受ける必要はないのだ。俺は近いうちに命を他者にささげる。もう、どうにでもなれだ。

「裏切り者!」

 桜井が俺にそう叫んだ。

「裏切り者! 裏切り者! 裏切り者」

 クラス中から非難の嵐だ。しかし、俺は初めから見方になった覚えはないのだ。

「はい、皆静かに。長屋の命に対する考えがよく分かったじゃないか。次、回せ」

 大崎先生は毒のある言い方でクラス中に言った。

 俺は何も悪いことはしていない。しかし、あの先生は俺に罪悪感を与えるようなことを言う。本当に不愉快だ。

 その後も、箱渡しは続き、廊下側の生徒が箱に募金すると、先生が回収し、教壇の前に立った。

「皆さん。よく募金してくれました。でも、他のクラスの募金箱はもっと重いからな」

 結局、募金を強制したかったんじゃないか。そういう発言をするということは。

 朝の連絡の後、クラスは授業の準備をした。

 

 社会の授業は学校で一番嫌いだ。なぜなら、退屈で眠くなるからだ。

 社会の担当、須川敏明先生の授業は、ただ教科書に載っている言葉をそのまま黒板に書くだけの頭の悪い教師だ。そのため、大勢の生徒が眠気に襲われている。

 今は社会の日本史を勉強している。

 須川先生はあいかわらず、教科書の太文字をただ、チョークを使って黒板に記入する。実に短絡的でつまらない授業だ。ノートをとる気すら起きない。しかし、ノートをとらないでいると、須川先生に叱られるのでしかたなく、記入する。

 頭が悪い上に歴史に興味がないので、歴史上の重要人物や建物、年などを覚えるのが非常に苦手だ。

 すると、須川先生が眠っている生徒に気がつき、癇癪を起こした。

「おい、起きろ! 今は授業中だ。勉強に集中しろ!」

 須川先生は大きな声で眠っていた生徒を起こし、授業を再開する。しかし、チョークをただ使っているだけのつまらない授業に俺は身体的・精神的に疲れてきた。しかも、まだ書き終わっていないにもかかわらず、須川先生は黒板の半分を消してしまったために、記入できない箇所ができてしまった。

「先生! まだ、書き終わってません」

 桜井が大声で言うと、

「俺と同じように書いていれば書き終わらないはずがない!」

 と言ったきりでそのまま黒板に記入する。

 俺がふいに桜井を見ると、不満そうな顔でシャーペンを持ち直していた。

 学校は行事も嫌であるが、やはり勉強が一番の苦痛だ。

 ぜんぜん、おもしろくもなければ興味も無い。まして、死が確定し、先のない俺にとっては実に意味のない行為だ。五教科と実技科目のすべてができない俺は学校にいること自体、苦痛なのだ。毎日、劣等感と不満でいっぱいのこの人生の現況である学校を辞めたい。義務教育を作ったやつらを恨んでしまう。

 だからと言って、不登校になることもできず、一芸に富んでいるわけでもない俺は他にやることがない。

 今の俺には死ぬこと以外の目標がないのだ。

 しかし、本当にこんな無駄なペン書きを繰り返すだけではノートと人生の無駄遣いだ。早く、命を他者に譲渡したくなる。予約が月単位だったとは最初は思わなかったからな。

 俺のように目標のない人間や、老い先短く一人ぼっちの老人が生命譲渡するケースが多いとテレビで放送していたのをふと思い出した。俺のように若い命は貴重であるが、老人からの生命譲渡はほとんど行われない。やはり、年齢差があり、若ければ若いほど生命エネルギーの『質』がいいらしく、老人から生命譲渡されても死者が蘇らないケースが多い。仮に蘇ったとしても、すぐに死亡してしまうらしく、老人たちは純粋に薬による『安楽死』を望むらしい。

 そういう知識は頭に入るのだけれど、勉強になると駄目なのである。割とドキュメンタリーが好きなのが幸いしているのかもしれない。

 ついこの間、アルツハイマーになった老人についてテレビで放送されていた。

生命エネルギーは臓器や手足、眼球などを再生させる力を持っている。そのため、ある程度腐敗している死体でも再生させることが可能である。それを踏まえて、アルツハイマーの患者についてであるが、その老人はお金持ちと目標を持った人物だったらしく、ある生命譲渡志願者の生命エネルギーを吸収し、病気を治し、しかも若返った。しかし、『どうして安楽死を選ばなかったんだ』『生命エネルギーの無駄遣いだ』などの批判を受け、その患者はエネルギーを抜き取り、この世を去ったのである。

 生命譲渡における欠陥があるとすれば、生命エネルギーを抜かれた身体は灰化し、再生不可能になってしまうことだ。大やけどを負ったり、手足がなくなったとしても生命エネルギーの力で再生できる。しかし、完全に灰化したり、骨になってしまうと再生不可能になる。また、マフィアのボスなどやとある国の独裁者が生命譲渡で長生きしているなどの『悪の延命』の手助けをしてしまっているケースもある。

 誰を救えばいいか? 

 今俺がこの退屈でくだらない勉強をしているふりをし、考えるとしたらそのテーマだ。

 俺はできれば、生きる価値のある人間にこの命を捧げたい。しかし、俺にはその選択肢はない。命を寄付している身だからだ。

 では、どのような人間が『価値のある人間』なのだろう?

 社会の退屈な授業の暇つぶしにはなる問いだ。むしろ、そのほうが有意義に『残りの時間』を使える。

 例えば、医者になる知能を持ちながら事故や病気で今にも死にそう、もしくは志望してしまったパターン。医者は頭がよく、人を救う職業であり、一見非の打ち所がないかのように思う。しかし、見方を変えると、『人の命を救う』を『人の不幸を扱う』と考えられないだろうか? 実際、どこかの国ではそういう考え方をすると聞いたことがある。

 では、インテリではなく危ない職業についている人間ではどうだろうか?

 日本は憲法九条で戦争が基本的にできない国なので、戦争ばかりしているアメリカ軍人に問いを当てはめてみよう。

 アメリカのために戦地へ向かったアメリカ一般兵。しかし、自爆テロに遭い、死亡。しかし、生命譲渡により、復活。そしてまた、戦地へと向かう。

 ・・・・・なんか、損したみたいな気分だ。

 軍人は人を守るために人を殺す職業だ。反生命譲渡派は生命譲渡法案のことを『命の弄び』と言っているが、軍人にもそれが当てはまる。人殺しをするために命を渡すのはどこか矛盾している気がする。

 一言に価値ある人間を定義するのは非常に難しい。ましてや、頭の悪い俺には難問である。それでも、考える余地とおもしろさはある。勉強するより有意義に感じる。

 価値のある人間とは何か? 深いテーマだ。

 俺が好感を持てる人間とは誰だろう? 例えば、黒井さとみか。彼女とは同じ自殺願望者で親近感を抱いている。しかし、好感というよりは共感と言った方が正しいだろう。それに彼女は価値があるない以前に人生を捨てる選択をした人間だ。命を与える『資格』がない。

 では、価値ある人間とは、生きようとする人間のことなのか。結局、きれいごとで正論過ぎるつまらない答えに行き着いてしまう。それは嫌だ。

 生きる価値のない人間は必ずいる。俺もその一人だ。この社会に適応できず、逃避するために命を売り渡す。価値のない人間。

 では、命とは何なのだろうか。動く物体。肉の塊。ロボットは命を宿っていると言えるのか? 

 ああ、どんどん小難しい哲学にはまっていく。数学などの計算とは違い、こういった類の問いは数値化できないので『正しい答え』が見つからない。

 どんどん、底なしの沼にはまっていくようであった。

 そんな、頭のよさそうなことを考えていると、ますますこの歴史の暗記授業がくだらなく感じる。

 小学校時代、道徳という授業があったが、内容が陳腐できれい事すぎて『国語の劣化版』と解釈していた。本当なら、今俺が考えている深いテーマを道徳の授業で行うべきではなかったのだろうか?

 命が存在することが当たり前すぎるからこそ、『命の交換』のやり取りが行われるようになったのではないか。俺としてはありがたいことではあるが、生きたいけれど死ぬしかない境遇のものにとってこの法案は導感じるのであろうか。

 生命譲渡システムは先進国では当たり前になっているが、発展途上国ではそのシステムは確立されていない。むしろ、路頭に迷った発展途上国の子供たちが生命エネルギーの材料として売り飛ばされている事実が存在する。

 時代は確実に変化している。それに変動して、人類の価値観も変わるべきなのだと俺は思う。生命譲渡に反対なら自殺願望者をなくすために何をしたらいいのか? 反対派はそれを考えなければならないのに、それをまたいで『譲渡の否定』にたどり着いた。目の前のもっとも困難な哲学的課題を放棄し、ただ否定するだけ。それが生命譲渡反対派であり、慈善団体『ライフ』の考え方だ。死を止めるのではなく、死を考えさせないためにどうすればいいのか? 彼らはそれを考えない。なぜなら、考えるのが面倒だからである。

 面倒かつ難しいであろう『自殺願望をさせない社会』の構築を思いつける人物はそういない。ましてや、この学校の教師たちにはなお無理であろう。

 自殺=罪と位置づけてしまい、完結してしまった彼らにはそれはできない。それこそ、真に『罪』だと俺は思う。

 須川先生の授業をほとんど聞かずに『命』について考えてしまった。それだけ、この授業が退屈でしょうがなかったからだ。

すると、須川先生が急に怒鳴ってきた。

「お前たち、どうしてそうやる気がないんだよ。俺は一生懸命授業しているのにさ?」

 そんなことを言われても・・・・・と思っているのは俺だけではないだろう。

「他のクラスもそうなんだけどな。社会は本当に人気のない科目だ」

 勝手なことを言いやがる。自分が駄目教師であることに気がついていないのだろう。本当に馬鹿なのだ。よく、教師になれたなと思ってしまう。きっと、コネか何かで教師になれたのだろう。そういう大人の汚いことのつながりが、教育を腐敗し、生徒を駄目にするのかもしれない。

 しかし、社会が不人気なのは確かかもしれない。覚えることが多すぎるからだ。数学なら、公式を何とか覚えればある程度の点は取れるし、国語や英語は単語を分かっていればそれなりの点数は取れる。理科は生物の神秘にふれることができる。しかし、社会はただ覚えるだけだ。興味のある生徒ならそれでいいのだろうが、将来役に立つのか不明な社会、特に歴史はつまらない上に、ノートに書くことが多すぎる。

 だからこそ、おもしろい授業にしなければいけないのに須川先生にはそれができない。

 一体俺は何のために勉強しているのだろうか?

 この授業を受けると、毎回考えてしまう。

「やる気を出せ! 義務教育なんだ。国から勉強をさせてもらっているんだからシャキッとしろ!」

 国民の血税で食っているならもっと、おもしろく、頭に入るような授業をしろよ!

 俺は心の中でそう叫んだ。

 周りの雰囲気も俺と同じような気持ちになっていた。

 須川先生はその後も、チョークの音を響かせるだけの授業を続け、ようやく終わった。


 昼休みになり、給食の時間になった。俺にとっては憂鬱な時間だ。

 理由は二つある。一つは俺がかなりの偏食であること。もう一つは六人くらいで班を作っていっしょに食事をしなければならないことだ。

 クラスで仲のいい人間がいない俺は一人で食事をしたいのだが、この学校ではそれはできない。まあ、何もしゃべらずに嫌いなものを残して食事を終えればいいのだが、そうもいかないのが学校というやつだ。

 机を移動させ、クラスの男女といっしょに食事の準備をした。お盆を持ってくる人。牛乳を持ってくるし人などを分担で用意し、給食の時間になった。

『いただきます』の合図でクラスが一斉に給食に手を伸ばした。

 今日の給食は牛乳、ご飯、コーンスープ、ほうれん草のゴマあえ、鶏肉とオレンジゼリーであった。この時点でコーンスープとほうれん草のゴマあえは口につけずに残すことにした。見事にビタミンCが不足する体になる。しかし、それでいい。体が本当に受けつけないのだ。俺は牛乳瓶についている牛乳パックをあけ、半分ほど飲み干し、次にご飯を口に入れる。そして、鶏肉を食べる。班の皆が仲良く会話をしながら、食事をしている。その中で食べるものが少なく、偏食の俺は会話もせずに食事を誰よりも早く終えてしまう。

 これが俺の日常だ。別に気にしてはいない。ただ、クラスで一番早く食事を終えてしまうために暇な時間ができてしまうことがネックだ。

 すると、同じ班の生徒たちが黒井の話をし始めたのである。俺は腕を組み、狸寝入りをしながら、その話を聴くことにした。

「黒井さんってなんか浮いてるよね」

「そうそう、誰とも話そうとしないし、なんて言うのかな。自分には関係ないっていうオーラはなってるしね」

「あいつ、マジうざくねぇ」

「あ、私もそう思う」

「そういえば、桜井さんたちがいつか黒井をいじめのターゲットにするって言ってたっけ」

「マジで。うわぁ、まあ、自業自得ってやつ」

「黒井さん見てるとなんかいらつくんだよね」

「ああ、分かるぅ、それ」

「あの人、死んでくれないかな?」

「案外、生命譲渡予約してんじゃないの?」

「ああ、それいいね」

 一体何がいいのだ! だから、このクラスは嫌いだ。くだらない理由で黒井を追い詰める。こんなやつらが大人になるのだから恐ろしい。お前たちこそ、命捨てちまえと思ってしまった。

 しかし、黒井はなぜ命を寄付することにしたのだろうか? 俺はあいつとほとんど話したことがないので検討がつかない。黒井の人間関係は知らないし、性格や趣味も知らない。それ以前にこのクラスで黒井のことをよく知る人物はいるのだろうか?

 人の内面というものは誰にも分からないものだ。俺は人生に希望を見出せず、逃避するために死を選んだ。黒井も俺と同じように何かから逃げたいのだろうか? それとも、単純に生きている目的を見失い、生きることを面倒と感じたからだろうか? 

 最近の生命譲渡者の中にはそういった生きる目的がないから死ぬという安直な理由の若者が多いそうだ。確かに、親からすればそんなことでわが子を失う辛さは計り知れないだろう。

 今の社会は確かに簡単に死ねる。もしかしたら、ちょっとしたきっかけで救えたかもしれない人々が大勢いるのかもしれない。しかし、それは死んでしまった本人にしか分からないことだ。

 しかし、救える命も同時に存在することも忘れてはいけない。死んだ分だけ生き返る人がいる。この法案が始動してから数年が経過して、自殺率は増加した。しかし、ほとんどは生命譲渡による安楽死であり、それによって救える命は増え、人口は少しずつではあるが増加傾向だ。また、生きる方法を失った生活保護を受給している人間が生命譲渡する傾向や寝たきり老人による介護うつなどもほとんどなくなり、政府の財政の圧迫は最小限に抑えられている。

 これだけ考えると、良い事ずくめのように感じるが、遺産目当てによる偽装安楽死事件が多発している。親族が健康であるにも関わらず、医者に賄賂を渡し、アルツハイマーなどの診断書を書いてもらい、強制的に安楽死させるということが起こっている。

 生命譲渡や単純な安楽死を合法化した結果の代償と言えるのであろうが、俺はこの法案を否定するつもりはない。合理的には理にかなっており、無駄に年金や生活保護による財政圧迫を回避するには一つの手段であり、その成果は出ている。

 それに生命譲渡や安楽死は強制ではない。死は自由であり、ただいつでも死ぬことができる環境があること。それが今の社会だ。死ぬことがいかに簡単であるか。そして、人間の可能性も簡単に消えてしまう。もし、生命譲渡法案に欠点があるなら、『安易に死を選ぶ人が増えた』ことではないだろうか?

 俺は死=罪とは考えていない。死にたいやつは死ねばいいし、死にたくなければそれもいい。人類が滅んでしまえとも思わない。ただ、俺は自由がほしいだけだ。絶対的自由。それは同時に『無』であることも忘れてはならない。

 だから、俺は死を強要するようなことはしないし、できない。

 何が正しくて何が間違っているのか? 俺は分からない。ただ、絶対に自殺はいけないという考えは間違っていると思うし、つい出来心で死んじゃったというようなことも正しいとは思わない。死ぬのなら本気で死ね。俺はそう考えている。

 テキトーに死ぬやつはある意味で罪だと思う。覚悟と理由なき死は生きるもの、そして死した屍に対して無礼である。

 だから、俺は気になっているのだ。黒井がなぜ死を選択したのかを? 

 今俺は死の理由を聞きたくてしょうがなかった。しかし、安易に黒井に近づくと、周りの人間が変な誤解を抱く可能性がある。俺は別に気にしない。死ぬ運命が決定している俺にとって、そんなことはどうだっていい。周りのくだらない干渉ごときさほど苦ではない。しかし、黒井が迷惑に思う可能性がある。

「あんな人、クラスにいるとうざいしね」

 班のメンバーたちは黒井の悪口をまだ言っている。

 どこまで幼稚なやつらなのだ。馬鹿の一つ覚えのようにしゃべっている。こういう人間こそ、命を差し出すべきではないだろうか?

 お前たちこそ死んでしまえ!

 俺は心の中で叫んだ。

 狸寝入りして数分が経ち、班のメンバーたちは黒井からまったく別の会話に切り替わっていた。

 彼らにとって黒井はただの『ネタ』にすぎないのであろう。会話すためのネタ。楽しむための道具。中学生は所詮この程度の存在だ。では、大人はどうなのであろうか? 他人をネタにすることをテレビでは放送されている。芸人などがその一例だ。いじられきゃらで周りと視聴者を笑わせる。しかし、いじめを笑いに変え、生きている者をテレビで放送すれば、子供を同じことをするに決まっている。子は大人の背中を見て育つ。いじめがなくなるわけがない。そして、いじめを受けた人間は生命譲渡による安楽死をする。その後、生命譲渡をいじめたやつらが批判し、またいじめのターゲットを決め、同じことが繰り返される。

 愚かな負のスパイラルだ。

 給食の時間がそろそろ終わろうとしていた。俺は狸寝入りのまま自分の世界に浸っている。やはり、黒井と話してみたい。同じ死を選択した者同士として。

 

 給食の時間が終わり、班のメンバーといっしょに食器等を片付け始めた。俺はみんなのお盆を集め、特定の場所に持っていき、それで終わりだ。その時、黒いも俺と同じようにお盆を持ってやってきた。一瞬、声をかけようとも思ったが、やめた。そして、自分の机に戻り、机を元の位置に移動した。そして、机に座った。

 昼休みになると、クラスの生徒の半分くらいが教室を離れ、外に遊びに行く。俺は友人がいないので教室で一人、『ヘブンズロード』を読もうと本を取り出した。しかし、尿意を抱いたために、椅子から立ち上がり、トイレへと向かった。

 トイレに入ると、体育会系オーラ全開の男子生徒が数人ヤンキー座りで会話をしていた。

俺は目を合わせないように便器の前に立ち、用をたした。

 いつも思うことであるが、どうして、トイレに群がる生徒がいるのだろうか。深いには感じないか? においもそうであるが、とにかく狭い。そんな場所になぜ集まる。俺にはまったく理解できなかった。

 手を洗い、トイレから出ると、何人かの生徒が廊下を走っていた。彼らにぶつからないように体を避け、教室に戻った。すると、教室に黒井の姿がなかったのである。

 どこへ行ったんだ?

 恋愛感情を抱いているわけではないが、妙に気になっていた。

 友達がいなそうな黒井に行く場所があるのだろうか。

 俺は黒井の姿を無性に探したくなったので、教室を後にし、廊下を歩き始めた。

 これではストーカーのようだ。しかし、他にやることもないので別にかまわない。死を意識した人間は強いのだ。

 俺は各教室の中を確認した。しかし、黒井の姿はない。では、別の学年のクラスにいるのかもしれない。そう思い、俺は二階に続く階段に登った。すると、普段見ることのない上級生たちが数多くいた。俺は何事もないかのような顔で上級生がいる廊下を歩き、一つ一つ教室の中を覗く。すると、俺の行動に不信を抱いた上級生たちがことらを見ている。

 知ったことではない。何が上級生だ。何が先輩だ。

 俺は一切気にせず、そのまま進んで行く。

 ここにもいない。

 しかたがないので、三階の下級生がいる教室に足を運んでいった。

 学年が違うだけで、妙な違和感を抱く。同じ人間のはずなのに。

 俺は先輩・後輩という考え方が大嫌いだ。後輩はともかく、一つ上なだけで礼儀を払わなければならない『先輩』という存在。実にくだらない。長生きしているやつがそんなに偉いのか? もちろん、目上の人に対しては敬語を使うが、えらそうな態度をとられると無性に腹が立ってしまう。

 上級生の廊下を後にし、階段をさらに登ると、少し幼さが残る中学一年生たちが廊下ではしゃいでいた。

 まだ、心が黒くならない時期かもしれない。いや、腹黒いやつは小学時代にたくさんいたか。

 上級生とは違い、下級生に気を使う必要はないので気楽に廊下を歩くことができる。

 しかし、いくら探してみても黒井の姿はどこにも見当たらなかった。

 一体どこへ行ったのだろうか?

 俺は少し考え方を変えて思考した。

 そうか。一人になれる場所か!

 そう考えた俺はさらにもう一つの階段を登っていった。そこは屋上へと続く階段。そして、屋上の扉までたどり着いた。階段をいくつか登ってきたために少し疲労した。そして、俺は屋上の扉を開いた。

 かつては屋上から自殺する人が多く、屋上には鍵がかかっており、理科か何かの実験以外は立ち入り禁止となっていたそうだ。しかし、生命譲渡装置の開発で屋上自殺する人がいなくなったために、今は解放されているのだ。

 屋上の外に出ると、空一面が青く輝いていた。ほどよい風が吹いており、とても心地よかった。

 辺りを見渡すと、何人かの生徒たちが集団で固まり、会話を楽しんでいる。しかし、黒井の姿はなかった。

 屋上だと思ったのにな・・・・・しかし、時間はある。それにまだ学校の校舎をすべて回ったわけじゃない。

 俺は屋上を降り、二階に向かった。別校舎に繋がる道が一階と二階にしかないため、階段をおり始めたのだ。

 二階に下り、別校舎に繋がっている廊下を歩き出した。

 そこ校舎には職員室や社会科教室などの教室が存在する。そこのどこかにいるはずだ。それに昼休みが終わるにはまだまだ時間がある。どうせ、暇なのだ。やるからには徹底的に調べるか。

 探偵にでもなったかのような気分で俺は彼女を別校舎で探し回った。職員室、化学室、社会科教室。しかし、どこを探しても彼女は結局見つからなかった。

 もしかしたら、トイレに行っていて教室に戻っているという入れ違いパターンかもしれない。そう思った俺は階段を下り、自分の教室へと戻っていった。

 教室のドアを開けると、生徒の大半は外や別のクラスに行っており、人口密度は小さかった。しかし、黒井の姿はなく、俺はベランダに出て、校庭を見回したが結局発見することができなかった。

 意味のないことをしたのは分かっているが、それでも気になってしまう。女性としての魅力というのとは違う何かが俺をひきつける。一体何なのであろうか?

 今日はいろいろな物事に疑問を抱く日だ。もう疲れた。

 俺は自分の席に座り、残り少なくなった昼休みを一人読書で使いきった。

 五時間目は大崎先生の数学の時間だ。

 大嫌いな先生ではあるが、正直授業の進め方はうまい。生徒の心情をよく理解している。俺は数学の教科書とノート、鉛筆と消しゴムを用意して授業に備えた。

 授業のチャイムが鳴る少し前に黒井が教室に戻ってきたのである。

 一体どこにいたのであろうか? 不思議な女の子だ。

 すると、クラスの視線がすべて黒井に集中していた。

 この雰囲気は嫌なやつが来たというときのしぐさだ。もしかしたら、給食中に班のメンバーが話していた『いじめ』が本当に実行されるかもしれない。

 しかし、黒井はクラスからの冷たい視線を気にしていないのか、顔色一つ変えずに自分の席に座った。

 気にしていないのか? それとも、気にしないようにやせ我慢しているのか?

 どちらにせよ、黒井がクラスで浮き始めていることは分かった。


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