9、過去と共にあるもの
“もし”とか、“だったら”とか、“であれば”とか、人生の中で何度も考えたことがあった。しかしその言葉は何も意味をなさずに、ただ呟いた後は切ない空虚感が漂うだけだった。
無意味だというのは知っている。
そこからは何も生み出せないのは知っている。
呟いたら、過去に戻れるわけではないと知っていた。
けれども、もし過去に戻ってやり直せることが可能なら、やり直したい――そう思ってしまうのは、おそらく未だに過去に執着しているからだろう。
どれくらい気を失っていたかわからないが、目覚めた瞬間には君恵の自由は奪われており、近くにあった机の脚と共に両腕が結ばれていた。目の前には何やら得体の知れない機械があり、中央はガラスに覆われている。そしてその中には薄らと黒ずんでいる、人の顔ほどの石のようなものがあった。
「エキゾチック物質?」
「君、いったいどこまで知っている?」
田原が太い電源を持ちながら、不思議そうな顔をして君恵を覗き込んでくる。
「これは僕が作りだした、ワームホールを大きくするために必要な物質。ようやくこの量までできた」
鼻歌をしながら、田原はコンセントに差した。
「今まで物とかマウスでやったことはあったけど、人を移動させるのは初めてだ。どういう結果になるかな」
段々と周りの状況が見えるようになってきた君恵は、その言葉を聞いて顔色を変えた。
学は言っていた、タイムトラベルの理論は構築されているが、実証までは程遠い。この時代から六年後を生きている学でさえ、そう言っているのだ。必然的に君恵の口からは次の言葉が出てきた。
「そんなの、できるわけ……!」
「時間がない」
田原は冷めた目で見下ろしてきた。
「一刻も早く過去に戻って資源を得るか、未来に行って知識を得るかしないと、この市はエネルギー資源管理都市から外れ、負のスパイラルに陥ることになるぞ」
「……はい?」
急に飛び出した彼の発言に首を傾げた。確かにこの年は近年稀にみる猛暑であり、翌年更新予定だったエネルギー資源管理都市の多くが更新できなかった。だが東波市は更新できているはずだ。
「今、東波市はエネルギー供給と需要状況が、逼迫した状態にある。それはどの自治体もそうだろう。だがな、我が国の研究の最先端を走るこの都市が更新できなかったら、国民はどれほどの絶望感に陥ると思う?」
田原がこの部屋の光源の一つであるランプの明かりを大きくした。それにより、今まで見えなかった多数の張り紙が目に飛び込んでくる。そこにはいくつもの式が書かれた紙が張られており、英語でのディスカッションが書き連ねられていた。
「年々環境は変わっていく。人間にとって住みにくい場所となっていく。それをよりよくするためには、人間の知識だけが唯一の対抗策だ!」
そしてある張り紙を勢いよく叩くと、壁が振動した。赤いペンで書かれた文字は日本語で訳すと、“知識こそ唯一の武器”。
「前回の更新直後、環境の変動から、このままでは維持し続けるのは困難だという意見が出た。そのため再生可能エネルギーに関する研究がさらに盛んになり始めた。しかし、技術的にはある一定の水準までいっていたため、思うように伸びなかった。そこで思いついたんだ。この時代に資源がなければ、他の資源がある時代、場所に行って入手すればいいと」
突飛な発想に君恵は目を丸くした。その考えにまで発展したことに対して、思わず感嘆してしまう。
「タイムトラベルの理論が実証できるかもと思われた時期があったから、不可能ではないと思った。それを受けて、極秘のプロジェクトチームを発足したが……ある人の声によって解散。その後は僕だけがその研究に身を捧げて、ついにここまできたんだ!」
田原は君恵の目の前にある装置をまるで我が子のようにそっと撫でた。
「マウス実験で一度はこの場から消すことができた。きっとどこかの時代で生きているはずだ。――まあ、あとは死んだが、一度でもできれば充分だ」
「なっ……! 一度だけの実験で、しかも消えただけって……生きているかどうかも不明確じゃないですか。それで人を使って実験をする気ですか!?」
あまりの確率の低さに驚きを通り越して呆れてしまった。そんなの始めから人を殺すことに変わりはない。
「実験はやらなければ、何も始まらないのだよ!」
田原が狂ったように叫び始めた。その隙に君恵は結ばれた縄をほどこうとしたが、固くてびくともしなかった。
「本を見ながら、丁寧に固く縛ったからほどけるはずがない」
それを行えるほど長く気を失っていた自分に対して、心の中で舌打ちをした。
田原が近づいてくると、動ける足で思い切って蹴り上げる。まったく警戒していなかったのか急所にあたり、田原の顔も歪んだが、次の瞬間足を持たれてしまう。
「成功したマウスも元気のいい子だったよ。君ならいけるんじゃない?」
田原の爪が露出した肌に食い込んできた。血が若干滲み出る。足を持たれたまま顔を寄せられ、空いている手で手加減なく頬を叩かれ、床に倒れ込んだ。
「痛っ……!」
「さて、話すことは話した。もし成功したら戻って報告するんだよ? あとエネルギー資源も持って帰ってきてよ? 無理なら論文とかの知識だけでもいいから」
「仮に行けたとしても、戻って来られる保証はありません」
「それは自分でどうにかしなさい。肉親や友人に知られないまま死ぬのは嫌だろう?」
その内容に言葉が詰まった。君恵たちが必死になって戻ろうとしているのは、まさに田原が言った通りであり、その理由が第一にあるからだった。
もし元の時代に戻れなかった場合、共に来た学や事情を知っている美希くらいしか、君恵のことを看取ってはくれる人はいないはずだ。また万が一、この時代の両親や友人に会おうとすれば、この時代の自分とも会わなければならない。そういった矛盾した展開になれば、何らかの不都合は起こるはずである。
「――どうして私なんですか」
「見てはいけない物を見たから。ここでこの研究を続けていることは絶対に知られてはいけない。知られたら、僕はここから追い出されるからね」
田原が機械のスイッチを押す。少しずつ光を発していき、部屋全体が明るくなっていく。
――どうして私がこんな目に。ここでどこかに消えても、誰も気づかないじゃない。だって私はこの時代の人ではないから。
好奇心でここに来てしまった、自分の選択に恨んだ。本当は引き返す予定だったのに、それがこんなことに――。
目には涙が溜まり、唇を噛みしめた。とんでもない状況の中で、急速に最近の出来事を思い返していく。
憧れの職に就くための試験に落ちた。理由はわかっている、勉強量が他の人よりも足りなかったからだ。それでもほんの僅かの差で落ちたと知り、途方に暮れていた。
そんな中で学と出会ったのだ。心の底から研究が好きで、好きなことを職としている彼の姿が眩しかった。そんな彼と出会ったのは些細なきっかけ。偶然が重ならなければ起こらなかったことだ。
ふと突然耳の奥に何度も君恵を導いてくれた、オルゴールの音が再び聞こえてきた。優しくも、どことなく激しさも感じる綺麗な音色。ようやくその音がどこで聞いたか、君恵は思い出しつつあった。
力が入っていなかった手をぎゅっと握る。今までただ漂っているだけだった意識が、そこに集中し始めた。
同時によぎる、永遠の眠りについたある人の顔。
もう話すことも触れ合うことも、できなくなってしまった。
死に顔を見た時、君恵は思ったのだ。人の死はいつかはやってくる。だから生きているうちに精一杯やらなければと――。
だが数年たち、その思いは忘れかけていた。しかし自分が死ぬのかもしれないという事実に直面して改めて思ったのだ。
ここから脱出して、学たちのもとに行かなければ。
そして幼いころに憧れた職に就いて、人生を歩みたい。
再会した友人に、今度こそ悔いのない最後の言葉を伝えたい。
ゆっくり、ゆっくりと確実に脳内に引っかかっていたものが繋がってくる。
目にも力が入ってきた。そして歯を食いしばり、縄をどうにかほどこうと、捻り始める。田原は機械の方に見入っており、君恵の抵抗には気づいていないようだ。縄が擦れて、痛みが手首から全身に響く。捻るだけでは厳しいと判断し、今度は机の脚を使って、切れ目を入れ始めた。
ようやく君恵の行動に気づいた田原は眉をひそめた。
「何している? あと数分で機械は温まるよ。そしたら君は未知の世界へと行けるんだ。わくわくしないかい?」
君恵は大きく息を吸い込み、睨み返した。
「あいにく今を生きるので精一杯で、これ以上欲張れません」
「けど過去に戻ってやり直したいとかは思わないのかい?」
君恵は口元を緩めた。
「過去があるからこそ、今の東波市があり、今の私がある。過去を否定することは、今を否定することになる。だから――戻りもせずに目の前の道を進むのですよ、人間は」
その言葉を発するのと同時に、左右を繋いでいた縄は切れる。
そして外と繋ぐ空間も突然開かれた。
眩しい光が目に飛び込んできたため、つい目を瞑りそうになったが、光の中にいるシルエットを見て、逆に見開かれた。
「君恵さん!」
「なんだ、お前は!?」
学は頬が腫れている君恵を見ると、顔をひきつらせたまま田原の方へ向かった。そして急に現れた人物に驚き、呆然としたまま突っ立っている彼に対し、右の拳で一発殴ったのだ。
無抵抗の状態で殴られたため、そのまま後ずさって机に当たり、その衝撃で上に乗っていた本が崩れ落ちた。
「君恵さん、大丈夫!?」
学は駆け寄り、君恵を優しく支えた。
「大丈夫です。逃げるために少し無茶をしましたが……」
両腕を前に出すと、案の定血が滲んだ縄と擦り切れた手首が露わになった。
「少しって女性なんだからもっと体を大事にしなきゃ……。もっと自分のことを大切にしてくれよ。君の身に何かあったら、悲しむ人はたくさんいるだろう!」
力強い声で言われて、君恵はぎょっとした。怒っている学など初めて見る。彼は無言のまま、持っていたハンカチで君恵の右手首を包んでくれた。見る見るうちに血に染められていく。もう使い物にならないはずなのに、嫌なそぶりはまったく見せなかった。
「くそう、いったい何なんだ……」
田原が頭を抱えて、立ち上がろうとしている。二人はその前に立ち上がり、学に促されて出口の方へと後退し始めた。
「学さん、あの人、タイムトラベルについて研究しているらしいんです」
少し背伸びをして下がり際に耳打ちをする。学の眉間がさらに険しくなった。
「嘘だろう?」
「あの機械が時空移転装置と言えばいいのでしょうか。嘘か本当か知りませんが、マウスを一度消したことがあるらしいと……」
学は目を細めて、機械の中心部を見た。そこにあるやや黒ずんだ大きな石を見ると、目を瞬かせる。
「まさか、本当に――」
「お前いったい何者だ! 邪魔をしやがって!」
田原の口調がより荒々しくなってくる。学はとっさに君恵を背に隠した。
「随分と連れに迷惑なことをしてくれたみたいですが」
「なんだ、彼氏か。なら、こんなところに来ないよう、注意してくれよ」
「すみません、初めて来た建物だったので、迷ってしまったみたいです」
真摯に謝った学であったが、表情は警戒心丸だしであったため、逆に田原の機嫌をより損ねたようだ。目元がぴくぴく動いている。
「お前ら、ここから出られると思うなよ。二人ともバラバラに過去と未来へ送ってやる!」
君恵は思わず学の袖を掴んだ。彼もそれに応えるかのように、腕を伸ばしてきた。
「モルモットは大人しく――」
「――私の研究室を出てから、随分と大胆な行動に出るようになったんだね」
さらなる突然の乱入者に、君恵は思わず振り返る。落ち着いた声であるが、若干棘のある言い方をしたのは、昨日会った初老の男性――門上であった。その後ろには真美と美希の姿が。学は声を聴きつつも、決してそちらに向かって振り返らなかった。
田原は門上の顔を見ると、半歩だけ下がる。
「どうして教授がここに……」
「所用で来ていた。タイムトラベルに関しての資料が一番残っているのがここだと思い来たら、焦った表情をした顔見知りの少女と出会ってね。まさかと思って降りてみたら……」
門上はちらっとタイムトラベルで使用する機械を見た。
「まだやっていたのか、君は」
「まだとはなんですか! これがあれば、東波市……いや、日本は……!」
「その気持ちは分かる。だが、技術的に成立しなければ、厳しいというのはわかるだろう」
門上が肩を竦めると間もなくして装置から妙な音がし始める。そして若干だが煙も発生し始め、田原が慌てて駆け寄る時には、破裂音と共に装置は壊れてしまった。
あんぐりと口を開けた田原は縋るように装置を触る。
「どうした、煙なんか出して。これからだろう……」
「――おそらく彼女をタイムトラベルさせようと思っても、同様のことが起こっただろう。その装置は所詮予備実験ぐらいしかできない。実機にするなら、もっと検証を重ねなさい」
門上が諭すと田原はその場に崩れ落ちた。そして他人の目も気にせず、泣き始めたのだ。
ただ彼は研究に没頭していただけだろう。しかしそれが思わぬ方向に行ってしまった。誰かが止めれば良かった。だが――残念ながら、彼にはいなかった。