7、迷い込む暗き道
ここは――どこだろう。
君恵は真っ暗な闇の中で、一人ぽつんと立っていた。
暗いところは嫌いだ。
望んでもいないのに、心まで暗くなってしまう。
思い出したくないことを、思い出してしまう。
進もうと思っていても、立ち止まってしまう。
自分の行ってきたことは無駄だったのか、間違っていたのか――。
頬に涙が伝っていく。もう流れきったと思ったのに、まだ流れるのか。
いい加減に未来に向かって進まなければ――けれど過去を見てしまっている。
未来に続く道は、そんな彼女を拒絶するかのように、非常に狭かった。
* * *
夢の中から逃げるかのように、床で寝ていた君恵は飛び起きた。全身に汗をかき、呼吸も荒くなっており、内容を振り返らなくても悪い夢を見たのはわかっている。
「嫌な夢。今日は疲れたから、夢なんか見ずに眠れると思ったのに」
美希は隣にあるベッドの上で、静かな寝息をたてて寝ている。その逆側、少し離れたところに学がタオルケットにくるまって横になっている姿が――見られなかった。
いると思っていた相手がおらず、目を瞬かせる。
トイレにいる気配はない。まだ朝日が昇りかけている時間帯に散歩でも行っているのだろうか。
君恵は足音を極力立てないように部屋を出て、静かに鍵をあけながら外の廊下に出た。空には薄らと光が現れ始めている。昼間の暑さが嘘のように、ここちよい風が吹いていた。
今日こそ何かしらの成果があればいいのだが……そう思いながら、手すりに体を預けていると、一人の青年が階段を上ってくるのに気付く。一瞬身構えたが、すぐに見知った顔だと知ると、警戒を解いた。
「君恵さん、どうしたの?」
「ちょっと早く目が覚めただけです。学さんこそ、散歩ですか?」
「そうだよ。アイディアが出てこないときは、よく歩いているんだ。体を動かすと頭が回るって聞くから」
「その話、聞いたことがあります。研究者は発想が豊かで、アイディアをたくさん出せる人の方が向いているって言いますし。私はアイディアが少なすぎるので、研究を続けるのはちょっと厳しいですね」
「でも、好きこそものの上手なれっていうよ。僕は興味のあることなら、その道に進むべきだと思う。君恵さんは将来どんな職業に就きたいの? 研究職?」
学にとっては何気ない質問だっただろう。だが、修士課程の二年の夏でまだ先が決まっていない君恵にとっては辛い質問だった。
「君恵さん?」
黙り込んだ君恵に対して、学は首を傾げてくる。君恵はぎゅっと手すりを握りしめた。
「就きたい……といいますか、憧れている職業はあります。実際になれるかはわかりませんが」
「ずっと憧れているの?」
「十歳の時にきっかけがありまして。でも、研究にも興味があって、今は修士課程に進んでいると言いますか……」
研究を通じて生きていくことにした学にフォローを入れつつも歯切れ悪く言っていると、彼は君恵の横に並んできた。
「すごいね。そこまで昔から思っていることなら、きっと叶うよ。その想いを大切にしてね」
「ありがとうございます……。学さんはどうして研究を?」
「どうだったかな……。たしか小学生の時に地元の大学の学園祭で実験を見たのがきっかけだったかな。今思うとたいした実験ではなかったけど、当時の僕にとっては感激ものだった気がする。いつかそういう研究をして、人々の役に立ちたいな……って思っていたっけ」
遠い昔を懐かしむように学は呟く。きっかけは些細なことではあるが、今の浅井学という青年を作り出したのは間違いないだろう。
「小さいころの思い出って、意外と記憶の奥深くに残っているものですよね。原点っていうのでしょうか、それはきっと生きていくうえで重要だと私は思っています」
君恵が何となく声に出すと、隣で学は虚を突かれたような表情をしていた。視線を合わせたが、彼は思わず視線を逸らす。
「どうかしました?」
「いや、意識的に声に出さないと、原点なんて忘れそうになっていた。――色褪せず、純粋に物事を見ている人が本当に羨ましい。好き勝手やっているつもりで、だいぶ社会に染まっていたみたいだ。気づかしてくれて、ありがとう」
「いえ……」
まさか感謝されるなど思ってもいなかったので、君恵は戸惑いつつ返事をしていた。
学は手すりから離れると、美希が眠っている家のドアノブに手を触れる。そして静かに微笑みながら、ドアをひいた。
「技術総合研究所に行ってみないかな?」
朝食後、三人で小さな卓袱台を囲んでいる中で、学が話を切り出してくる。エキゾチック物質はそれなりの実験環境が整っていないと作り出すのは難しいため、必然的に大きな総合研究所に目が向けられる。学が挙げた研究所は実用化を第一と考えて研究を進めている所だが、まだ基礎研究であるタイムトラベルに興味を持っている研究者がいるという噂らしい。
「僕も変装して行ってみようと思う」
「けどもしこの時代の学さんと出会ったら――」
「この日は教授に個人的に話をしに行っている。その後は校内の敷地を散策して、家で休んでいたかな。教授以外の誰かと会おうと思っていなかったはずだ」
学のどこか陰りのある表情と、昨晩真美に当時の彼が話をしていたという事実。おそらく今日は門上にタイムトラベルのことを話に行き、結果としては相手にされなかった日――。
心中を察すると、胸が痛くなりそうだ。だが学は淡々と話を続けていく。
「僕の従兄弟で研究に興味があって来たという、適当な設定で行けば大丈夫――」
『次のニュースです。昨夜遅く、東波市にある技術総合研究所に何者かが侵入したという事件が起こりました』
アナウンサーの声を聞くと、三人は一斉に顔をテレビへと向けた。そこには大学街から少し離れたところにある研究所が映っている。
『厳重なセキュリティを突破し、侵入されましたが、すぐに警備員会社の者が来たため、何も盗られずに犯人は逃走した模様です。警察では聞き込み調査などを繰り返し、犯人を特定し、不法侵入の疑いで逮捕する見通しです。では、次は――』
「何が目的で侵入を? 変な人がいるものね」
美希が食後の麦茶を飲みながら、ぼんやり眺めている。
「けど研究所としては少しでも機密情報が漏れたら、大きな損失だ。先に論文や特許を取らないとそれまでの研究の意味がなさないから」
「そんな日に研究所の中に入れるの?」
「夏休みは基本的に一般公開されているから、ある程度中までは入れると思うけど……。公開休止していたら、報道を知らずに来たっていうところで無理矢理押し切ろう」
「浅井さんって、結構行き当たりばったりなんだ」
「発想がどんどん出てくるって言ってくれないかな?」
照れ笑いをしながら、学は残っていたミニトマトを食べる。
君恵は横顔を見つつ、彼の行動を思い出していた。
――学さんは早朝いなかった。散歩とは言っていたけど。まさか――!
一瞬脳裏に嫌な考えがよぎったが、それを振り払うのかのように、一気に麦茶を飲み干した。
今はとにかく六年後に戻ることだ。それは何よりも最優先しなくてはならない――。
その後、三人は簡単に打ち合わせをした。表向きは軽い研究所見学、そして交渉して研究所の内部まで入れるようにする。あくまでも今回は見学、それ以上でもそれ以下でもないということを付け加えられて。
技術総合研究所は大学付近にあるモノレールの駅から二度乗り継ぎ、大学とは逆側の方向に進んだところにある。その間に見た移りゆく風景は君恵が東波大学に来たばかりと同じの、まだ発展途中の市であった。
学はいつも使っている眼鏡よりも縁が太いものを購入し、髪型もよりぼさぼさにする。そして服装も人目に付かないシンプルなものにすると、かなり若返って見えた。
「あとは少し声色を変えれば、従兄弟ってことになるだろう」
学の立場は三人の中で最も危険であるはずなのに、その表情は非常に生き生きとしている。何度かそこの研究所には訪れているらしく、毎回違う発見があって面白いと言っていた。つまりただ単に見学が楽しみなだけのようだ。
研究所の最寄り駅に着くと、親子連れの団体も降り、共に研究所に向かっていた。今日の一般公開は中止かと思われたが、訪れてみれば特に何もなかったかのように振る舞われている。話を聞いてみると、侵入された場所は裏口であり、見学コースには犯人の形跡がなかったため、通常通り運営していると言われた。
逆にそれ以外の部分は警備が厳しくなっているということが、察することができる。
研究所の見学コースに入ると、親子連れ以外にも東波大学の学生と見られる人たちもいるため、三人が混じっていても特に違和感はない。
君恵は展示物に思わず見入っていた。研究のことを一般の人に対しても分かりやすく説明をしたり、実物も置いてあるため、畑違いの研究をしている君恵にとっても興味のそそられるものが多い。
「職員がお疲れ気味の人が多い。表情も暗いから、まだ犯人の目処はたっていないと見ていいね」
学は展示物を見つつそう指摘してくる。知らない人から見たら研究で疲れているのかと思うのだろうが、何度か出入りをしている彼らの普段の様子を知っている学がそう言うのだから、正しいのだろう。
やがて順路の一番奥まで来ると、学は近くにいた若い研究員に話しかけた。
「すみません、実験をしている姿を生で見たいのですが、そういう場所はないのですか? 以前、友人が見たと聞いたのですが」
「申し訳ありませんが、今日はこれ以上見学することはできません。また後日来て下さい」
「どうにかなりませんか。それを楽しみに来たんです。次にいつ来られるかわからないんです!」
「すみません、上からもそう言われており……」
「そこをどうにかお願いします!」
「ですから――」
しばらく学と研究員のやりとりが続いていると、次第にその場にいた人たちの視線が集まり始めた。研究員はその視線に気づき、表情を一転させる。学に耳打ちをし、順路から離れて、小部屋へと案内された。もちろん君恵と美希も一緒に来ている。机とテーブルはもちろんのこと、研究関係の雑誌が脇に置かれている、来客用のスペースらしい。
「上司を呼んでくるので、少し待っていて下さい」
自分では判断ができないと思い、上に判断を仰ぐのだろう。研究員の後ろ姿を見届けると、学がにやりと笑みを浮かべる。それを見て、君恵は溜息を吐いた。
「初めからこういう展開を狙っていたんですね」
「だいたいの人が体裁を保ちたがるから、少し強めに押しておけばどうにかなるものだよ」
学のことを敵にしたくないと誓った君恵であった。
十分ほど待っていると、さっきの研究員が白衣を着た背の高い女性を連れてきた。
「貴方たちが研究室見学をしたいと言った人たちでしょうか?」
「はい、そうです。非常に勉強になると聞いて訪れたのですが……何かあったのですか?」
「少し立て込んでいまして。――ニュースをご覧になっていないのですか?」
「ニュースって何のことでしょうか?」
どうやらまったく知らない状態でいくらしい。そんな立場で学はやりとりを始めた。
いくら無理だと言っても、どうしても見たいとひたすら言い続ける。そのやりとりが幾度となく続き、また後日と言われても、どうしてもと言い続ける。やがてとうとう根負けした女性研究員が大きく息を吐いた。
「……わかりました。警察の現場検証が終わった中で、通常時は公開している場所がありますので、そこだけご案内します」
「すみません、無理を言ってしまい」
「いいんですよ。これほど熱心に研究のことについて興味を持ってくれる人がいるということは、有り難いことですから。では、ご案内します」
小部屋から出て、順路の先にある道へと進んでいく。子供たちの喧噪で騒がしかった広間から、照明が少しだけ落とされた廊下に入ると、別世界に入ったような印象を感じた。どちらかというと、馴染みの空間に来たという言葉が正しく、君恵が普段研究室に向かっている雰囲気と似ていたのだ。
「一つお聞きしたいのですが、こちらの研究所ではタイムトラベルについて研究をしている方がいらっしゃると聞いたのですが、本当ですか?」
静かな空間に来ると、学は知りたいことを素直に聞いてきた。表情は穏やかで、ただの純粋な好奇心で聞いている風に見せている。
「タイムトラベル? そうですね……昔はいたらしいです」
「本当ですか?」
「ええ。ただ結果が出なかったので、必然的にそのチームは解散しました。今は行っていませんよ。――では、これからご案内する場所の説明を致しましょう」
女性はそれ以上のことは知らないようで、説明の合間に学がさりげなく聞いても、すべて首を傾げるだけだった。学だけでなく、美希まで加勢しているが、いい情報は得られそうにない。研究所の奥に来たが、これでは無駄足になりそうな状態だ。
君恵は二人が並んでいる姿を見ると、美希が真美とダブり、学と真美で並んで歩いているように見えてしまう。ゼミなどでお互いに言い合いつつ、切磋琢磨に向上していく姿が自然と思い浮かぶ。非常にお似合いの組み合わせだ。
ぼんやりと考えごとをしていると、冷房や人が廊下を歩く音以外に、また別の音が耳に僅かだが入ってくる。どこかで聞いたことがある音色――それはオルゴールの音だった。
「あの時の音?」
立ち止まって耳を澄ますと、ワームホールを潜る時に聞いた、あの音が確かに耳に入ってきたのだ。
前方にいる人たちは話をしていて、この小さな異変に気づかないのだろうか、それともまた君恵だけが聞こえるのだろうか。一人で突っ立っていると学が振り返ってきた。
「どうかした?」
「……すみません、お手洗いに行きたいので、先に行ってもらってもよろしいですか? すぐに追いつきますので、だいたいの場所を教えてもらえれば行きます!」
女性研究員がすぐ右の通路を指で示した。
「お手洗いはその先にあります。これから向かう研究室はこの廊下を道なりに進んだところですので、わかると思いますが……別に待っていますよ?」
「いえ、先に行って下さい、お願いします!」
何気なくお腹の辺りを触りながら主張すると、彼女は何らかの意図として察してくれたのか、先に進んでくれたのだ。ほっとする間もなく、いそいそとお手洗いの方に向かった。
「学さんの演技癖がうつってきたかも……」
お手洗いに行きたいなど、もちろん嘘。けろっとした表情で廊下を移動する。
通路の先に進むと、オルゴールの音は鮮明になってきた。そして地下へと続く階段のところで音はさらに大きなものとなっていたのだ。
この先に何かあるかもしれない――ただの直感であったため、これだけを学に報告するのは躊躇われた。
――この先に何の部屋があるのだけ確認したら戻ろう。時間的にそれが限界だ。
知りたいという好奇心が、躊躇っていた想いを上回った。誰もいないのを確認してから、階段を降り始める。
地下は二階まであり、一階よりさらに奥から音は聞こえてくるようだった。照明がどんどん暗くなっていく。鼓動が次第に速くなってくる。
地下二階に着くと、正面と左右、そして階段の脇と、四方にドアがあった。階段の下で立ち尽くしていると、正面のドアの奥側から足音が聞こえてきたのだ。君恵は慌てて、その逆である階段脇のドアに向かった。最も古びている、改修された後もないドアだったため、何かの音が漏れるならこういう条件であると思ったのだ。
ドアを開けると予想通りオルゴールの音がはっきりと聞こえた。ここまでくれば一音、一音まで把握できるが、何の曲かはまだ思い出せなかった。
よく見ればもう一枚ドアが奥にある。明かりは点滅している蛍光灯のみ。
ゆっくりと近づき、ノブを回して引くと、軋んだ音と共に開くことができた。
中は中央にランプが僅かに灯っているだけで、ほぼ真っ暗だった。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
小さく声を発するが、さすがにこんな明かりの中では誰もいないらしく、反応はない。そして気づけば、あのオルゴールの音は聞こえなくなっていた。
首を傾げつつも、時間的にもう厳しいと思い、ドアを閉めようとした瞬間、突然両手で背中を押されたのだ。勢いそのままに部屋の中に押し込まれる。何も構えていなかったので、地面に転がり込んでしまった。
「いったい何ですか!」
すぐに振り返ったが、光と闇の中を隔てていたドアが閉まり始めている。その後ろには人の姿が――。
「ちょっと何するんですか!」
立ち上がり、ドアに近づいたときには、拒絶の音を立ててドアを閉められた。そしてドアの前につっかえ棒のようなものが置く音が聞こえる。
顔面蒼白になり、慌ててノブを回して押すが軋んだ音がするだけだった。
ドアを必死に叩いて、叫ぶが何も反応はない。
人が階段を登っていく音が聞こえたが、やがて聞こえなくなった。
「そ、そんな……」
崩れ落ちるように君恵は座り込む。目にはうっすら涙が浮かんでいる。
僅かな明かりしかない空間に、君恵は閉じこめられた。