14、彼方の先にあるのは
何もない真っ白な空間の中に、誰かが目の前に立っていた。私より少し背が高くて、活発的な女の子。
振り向けば向日葵のような明るい笑顔を振りまき、動き始めれば軽やかにどこかに行ってしまう。勉強も運動もでき、人付き合いも良く、私にとって彼女は憧れの対象の一人だったかもしれない。
そんな彼女は背中越しから微笑み、口元を動かした後に歩き始めてしまった。
“さようなら”、そう読みとることができた。
どことなく寂しい表情を浮かべたまま彼女が行ってしまう。追いかけようとしたが、足が石のように重くて動かない。叫ぼうとしたが、何かが詰まったのか喉から声が出ない。
ただ、私は行ってしまうのを見送るしかできなかった。
永遠なる別れ――それが最後に見た彼女の姿だった。
* * *
目を開くとぼんやりと薄暗い天井が視界に入った。冷房がきいているのか仄かに涼しい。長く息を吸い、吐くと、徐々に視界が鮮明になってきた。そして君恵は自分が置かれている状態に気づき、飛び起きた。
ソファーで横になっており、薄手の毛布が掛けられていた。どこかの休憩室のようで、冷蔵庫や火の元、机や椅子が完備されている。カーテンが閉められているため外は見えないが、おそらく光がまったく入ってこないことを考えると夜の時間帯だろう。
小さな机を挟んだ向かい側には、学が胸を上下させながら眠っている。とりあえず彼も生きていることに安堵した。
「ここはどこ?」
「ようやく目覚めたんだね」
聞き覚えのある優しい声に君恵は視線を向けた。白髪が目立つようになってきた初老の男性――門上が微笑みながら立っていたのだ。
「門上教授……? 私、結局戻らないで、教授の元に帰ってきたんですか。――そうだ真美さんは無事ですか!?」
「真美は私ですけど……」
門上の後ろから、若干困惑した表情の真美が現れた。なぜだろうか、さっき会った彼女より、さらに大人っぽくなっている気がする。
「思い出したかい、矢上君」
「そうですね……六年前の出来事なんて、しかもあの事故の前後ですよね? 記憶が曖昧で正直わかりません」
「君を工場から連れ出したときは、かなり衰弱していたからね。一酸化炭素というのは思った以上に怖い存在なのだよ」
門上は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだのを君恵に手渡した。
「お帰りなさい、存在するべき時代に」
その言葉を聞いて、大きく目を見開いた。
門上はそれ以上何も語らずに、麦茶を自分と真美の分も注ぎ、彼女に渡すと、彼は美味しそうに飲んだ。君恵もつられて飲む。とても冷たく美味しかった。
視線を近くにあった日付も載っている電波時計に向ける。そこはさっきいた時代から六年後――つまり君恵と学が本来いる年を示していた。
ふと、ポケットの中にある携帯電話が振動しているのに気づく。中身を確認すると大量のメールや不在通知が流れ込んできたのだ。
「本当に戻って来られたんだ、元の時代に……」
携帯電話の日付は丸々三日進んでいる。君恵たちがあちらの時代で過ごした日数と同じだ。
手を握れば確かに感触はあり、コップ越しから冷たさが伝わってくる。生きてこの時代にいることが、信じられなかった。
「門上教授がここまで連れてきてくれたんですか?」
「そう。さっき君たちが建替え中の棟の中で気を失って、横たわっているのを発見してね。いつ戻るかと心配していたけど、案外早く戻って来られたようで良かった」
その内容を聞いて、君恵は耳を疑った。門上はタイムトラベルについて研究をしているのは、過去に会った経験からわかっている。だが今の口調はまるで――。
「――ちょうど三日前、私は浅井君が来る前にかつて使用していた居室に忘れていたものを取りに来ていたんだ。そして戻ろうとしたときに、二人が光の中に消えていくのを見た。さすがにあれは驚いたね、忽然と姿を消してしまった二人、探しても見つからないから、神隠しとかでも起こったかと思ったよ」
不可能と思っていたことを科学で証明したい――そう言っていた人からその言葉が出て、君恵は正直唖然としてしまった。逆を取れば、それほど君恵たちが体験したことは非常に不可思議なことだったのだろう。
「そんな中で矢上君と再会し、行方を考えている時に、『光の穴を通じて空間から空間へ移動することは可能ですよね?』と彼女から助言をされて、君たちは別の場所に移動した、もしくはタイムトラベルしたのではないかという、結論になったんだ。あの日は別の研究室で大規模な衝撃を与える実験をしていたしね」
門上の言うとおり、タイムトラベルをする直前に、体が振動する程の衝撃実験が行われていたことを君恵は思い出した。あの時の衝撃によって、ワームホールが現れたのだろう。
一方で真美が腕を組みながら、君恵のことをじっと見つめているのに気づく。
「あの、顔に何かついていますか?」
「どこかで会ったことがあるかなって、思い出しているんだけど……」
「美希の友達でしたので、通夜や葬式の時に顔を見たっていうのもありますよ」
「違う、あの時は人の顔を見ている余裕なんてなかった。だからもっと違う時」
「――六年前の事故前とか」
「……記憶が曖昧だから、はっきり言えない」
ほんの少し前まで名前で呼び合っていた仲であったが、覚えていないというのは少し寂しかった。ただそれは君恵にとっては数時間前のことであり、彼女にとっては六年前のこと――時の差は埋められるものはない。
「さて、次に君たちはどこに行ったのだろうと考えていた時に、六年前に時沢君恵さんという、不思議な女性にあったのを思い出したんだ。なぜかこの世界に“二人”存在し、タイムトラベルについて妙に詳しく知っていた女性を。――タイムトラベルについて研究していたことがあったとはいえ、事実を認めるのは彼女の言動を見るまではわからなかった」
目を細めて、記憶を探りながら言葉を紡いでくる。門上にとっても、違う時代の人と出会う初めての体験だったのだろう。
「そして彼女と一緒にいた彼の顔を思い出して――今と繋がったわけだ。確証はなかったが、可能性の一つとして信じたかった。その後は二人が戻ってくるのをただ待っていようかと思ったが、六年前の浅井君が進んで私や矢上君に助言を求めてくるはずがないと気付き、少しでも状況を変えようとしたんだ」
門上はちらりと真美に視線をやる。
「そこであの事故の時に、一緒にいた矢上美希君に、君たちの道案内を頼もうと思った。物を違う空間に送るのは成功したことがあってね、一か八かだったが……矢上真美君からの手紙を当時の彼女はもらっていたかい?」
「……はい。六年後からの真美さんの手紙、私も読みました」
君恵が答えると、門上と真美は感嘆した声を漏らした。
「上手く行って良かった」
「こちらこそ、ありがとうございました。美希のおかげで助かりました。最終的には六年前の門上教授や真美さんと会い、土壇場の状況でしたが戻ることができました――懐中時計の中に入れられたエキゾチック物質の塊により」
「浅井君が握っていたものだね。大切に持っていてくれて、嬉しかったよ。あれは私から彼への称賛と詫びのつもりで贈ったものだ。あの歳であそこまでのタイムトラベルの理論をはじき出すものだから――。意外な所で役に立って良かった」
門上から学への想いがこの時代に戻してもらったと言っても、過言ではないかもしれない。
やがて隣のソファーで眠っていた学がうめき声と共に瞼を開いた。最初は君恵と同様にぼんやりとしていたが、君恵、そして門上や真美を見ると飛び起きる。同時に自分が帽子も被らず、顔を二人に晒しているのを知り、慌て始めた。
「ぼ、僕はこれで失礼――」
「浅井学君、落ち着きなさい。私と君は同じ時を過ごしている者同士だ。何も慌てることはない」
学は眉を顰めながら、二人を眺めると、さっきとは容姿が変わっていることに気づく。一方は歳を取り、一方は大人びた様子に――。
視線は自然と君恵の方に向かれる。
「君恵さん、僕たちは戻って来られたのか? タイムトラベルできたのか?」
「そうみたいです……」
「なら、六年前のバイオ燃料工場での事故はどうなったんですか!?」
門上と真美に向かって叫ぶと、二人は数瞬思い出す時間を要したが、あまり間を置かずに答えてくれた。
「私も含めて重軽傷者は多数、死者は三名、そのうち身元不明者が二名ほど――」
「あれだけ大爆発だったのに?」
「火の周りが速かったけど、運が良かったみたい。私も、美希や門上教授、そして学に助けてもらわなければ危険だったでしょうね……」
「本当か? 僕が知っている過去はもっと小規模の爆発で、真美も軽い一酸化炭素中毒に……」
「学、何を言っているの? あれを小規模と言ったら、いったい他の小さな爆発はどうなるの? 私も重篤な中毒よりだったの、覚えてないの?」
学と真美の発言がまったく噛み合っていない。これは君恵たちが戻ってしまったことにより、過去が変わってしまったのだろうか。
「これはパラレルワールド――並行世界が原因かな。二人が知っている過去はおそらくこの世界の過去と少しだけ変わっている。浅井君が知っている過去と、矢上君が体験したことに違いがあることからわかるように。まあ根本的なことには影響はないと言われるから、あまり深く考えなければ大丈夫だろう」
すらすらと仮定を述べる門上の姿に学は呆然と眺めていた。
それはそうだろう。かつて指示を仰いでいた教授がタイムトラベルの研究に興味がない人間だと思っていたが、実は積極的に研究している人間だと知ってから一日も経っていない。すんなりと受け入れられるはずがないだろう。君恵も真美も、彼から発せられる沈黙を破ることはできず、黙ったままだ。
しばらく沈黙の時間が続くと、ようやく俯いていた学はぼそっと呟いた。
「……教授」
それを聞いた門上は彼に近づいていった。穏やかな笑みを浮かべているが、どことなく緊張しているようにも見える。
「久しぶりだね、浅井君。君の活躍は聞いているよ。海外で博士号を取り、論文も既にたくさんの本数が雑誌に掲載されていると聞いた。かつて教えていた身としては非常に嬉しいよ」
「ありがとうございます。門上教授も元気なようで良かったです」
「まだまだ後任に譲る気はないからね」
ぎこちなく挨拶をしている二人が、君恵にとっては複雑な気持ちだった。ここで助け船を出してもいいが、それでは心の底から吹っ切れないだろう。
そして学は何度か躊躇いながらも、ようやく確信を突いた話をし始めた。
「――教授はタイムトラベルの研究をしていたんですね。僕、全然知りませんでしたよ」
「誰にも話す気はなかった。矢上君には偶然にも知られてしまったが、学生には誰にも話さないつもりだった」
「どうしてですか。僕も多少ですが研究をして、それを教授に説明した……なのに!」
震える手で机をばんっと叩いた。君恵はぎょっとしたが、彼の崩れていく表情を見て、声が出せなくなっていた。
「僕は教授のことを信用していた。誰よりも信用していた。だからタイムトラベルについての自分なりの理論をすべて話した。それに修士論文を元にしたエネルギーに関する投稿論文もすべて書ききって、教授に託したのに、どうしてあんなことをしたんですか!」
「――君を守りたかったからだ」
即座に帰ってきた予想外の返答に、反論しようとしていた学は言葉が出てこなかった。
「浅井君、君の投稿論文が雑誌に掲載され始めて、何か変わったことはなかったかい? 例えば名も知らない企業からの執拗な勧誘、講演会の頼み、無駄に豪華な研究所への勤務の誘いなど――良さそうな条件に見えるが、よく考えれば穴だらけの話を聞いたことはないか?」
「……あります。まだ僕はそのレベルではないと思い、すべて断っていますが。特に実践に近いエネルギー関係の論文を出したときは多かったですね」
「無理矢理どこかに連れ去られるというのはなかったかい?」
学の顔はどんどん渋くなっていく。
「……ありました。すぐに警察が来てくれて、難を逃れましたが、あれにはびっくりしました」
「そういうことが起きるのを恐れて、君を第一著者として論文を投稿することをやめたんだよ。世界中、特に国内ではエネルギーに関係する論文は敏感だ。また珍しい研究――タイムトラベルも悪用される恐れがあるから同様なことが言える。もし優秀な人材が現れれば、その知識を奪いにやってくる。最悪たいした設備のない研究所で一生を過ごすことになるか、馬車馬のように働かされて、若くして死を迎えるだろう」
そう言って、門上は持ってきていた鞄から、パソコンの外部メモリと印刷された論文を学に手渡した。そこの第一著者は“Manabu ASAI”と書かれている。
「君を第一著者にしなかったのは本当に悪く思っている。君が成長するのを待ってから、投稿することも考えたが、それでは遅すぎる。この知識や君自身の存在を、いち早く世界に広めさせたかったから、海外に出る前に無理矢理第二著者として雑誌に載せさせたんだ」
「やけに速かったのはそのせいですか……」
学は渡された論文を受け取り、黄ばんだ紙に目をやった。
「君が成長して、自らが書いた論文とそれに付随する世界を受け入れる器になったら、これを返そうと思っていた」
そして門上は学に視線を向け、諭すように優しく微笑んだ。
「おそらく君が決めた道は、非常に険しい道になるだろう。だが、浅井君なら大丈夫だ。私の研究室に入った頃のように、はっきりとした信念を持ち続けている限り――」
そう言って、軽く学の肩を叩いてから、彼に背を向けて歩いていった。
呆然としていた学の目から、僅かであるが涙がこぼれ落ちる。それが床に着く前に門上に向かって叫んでいた。
「教授!」
「なんだい?」
口をパクパクさせながら、僅かに躊躇っていたが思い切って声を発する。
「また……教授から教えを請いて頂いてもいいですか? 僕がやりたいのは、この国のエネルギー改革、海外での研究では少し的外れなんですよ」
門上は目を丸くして振り返った。そして柔和な笑みを浮かべたのだ。
「こちらこそ、君のような若手からぜひとも刺激を受けたい」
それは学にとって最大の賛辞の言葉であった。流れそうになった涙を拭い、彼もようやく微笑んだ。
「ありがとうございます」
外が少しずつ明るみ始めていた。長かった夜は終わり、始まりの朝を迎える。
長きに渡ってあったわだかまりが解け、それぞれの新たな道が作り出された――。