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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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約束

 私はまた戸口に向かって行った。その戸を両手でトントンと叩く。


「誰か、誰かいますか?」


 なるべくしおらしい声を立てる。少しでも油断を誘わないといけない。


「どうした?」


 男の野太い声が返って来た。


「ひどく気分が悪いんです。お水を飲ませていただけませんか?」


「ここを開ける訳にはいかない。そのくらい我慢しろ」


 男はすげなく答える。


「でも、私、薬を盛られてからずっと気分が悪いんです。のどが渇いて、胸もつかえているの。私はまだ人質としての価値があるんでしょう? 私の身に何かあったらあなたも困るんじゃないの? お願いです。お水を一杯だけ……」

 私はわざと消え入るような声を立てた。


「ちょっと待っていろ」


 そう言って男はその場から離れたようだ。代わりにもう一人の男が窓辺から戸口へと移っていく気配がする。女相手でもなかなか油断はしてくれないようだ。


 しばらく待っていると戸が開けられて男が木の椀に入った水を差しだしてきた。


「今、ここで飲め」


 どうやら二人掛かりで見張るつもりらしい。私はゆっくりと水を口に含んだ。


 私は途中で椀から口を放すと、着物のひもを緩めて下着と袴だけの姿になる。


「すこし、向こうを向いてもらえませんか? 胸が苦しいので」


「それはできない。こんなところに連れてこられたのが不運と思ってあきらめるんだな」


 男二人はかえってニヤニヤと薄笑いを浮かべている。私はもう一度水を口に含む。


 私は顔をあげて男の目に水を吹きかけた。もう一人の男に椀を投げつけると、全力で駆け出した。


 私を追いかけようとする男に、康行が飛び出して来てみぞおちに宛て身を食らわすのが見えた。私は林がある方角を確認しようとする。そこにもう一人の男が刀を持って私に斬りかかろうとする。殺しさえしなければ、腕の一本くらい斬り落としても良い気でいるのだろう。


 康行も刀を抜いて男に斬りかかる。私は必死に逃げていく。向こうに林がある事にようやく気がついた。


 刀を合わせる音がして思わず振り返る。次の瞬間康行が男に斬りかかっていた。私は目をつむって走り続ける。下着と袴だけなので身体はだいぶ動かしやすいが、全力で走ることなど普段は無いので、すぐに息が切れて来る。それでも懸命に走るとどうにか林の中にたどり着く事が出来た。康行も追いついてきた。



「無事か?」


 康行が聞いてきた。


「ええ、無事よ。……斬ったの?」


 私は戸惑った。康行が人を斬るのをはじめて見てしまった。


「斬った。仕方なかったんだ。あのままではこっちが危なかった」


 見ると康行は少し震えていた。全身の気が立ったような気配を感じさせている。


「大丈夫なの? 康行」


「人を斬れば平気じゃいられないさ。俺は度胸がないんでね。しかしこれが俺の仕事だ。大丈夫、心配するな」


 そう言って康行は林の奥から馬を引いてきた。私を抱き上げて乗るのを手伝ってくれる。




「暖かいのね。馬って」


 こんな時に間が抜けた言葉だとは思ったが、思わず口に登った。


「生きているんだから当然だ。生き物のぬくもりは心を安らげてくれる。だが、今は気を張っていてくれ。大納言家に辿り着かなければならない」


 康行も私の後ろに乗り込んだ。すこし、血の匂いがする。返り血だろう。


「子供の頃の願いが叶ったんだ。少し揺れがきついかもしれないが、しっかり掴まっていてくれよ」


 そういうが早いか、康行が足を動かしたとたんに、馬は矢のように駆け出していた。


 激しく揺れる馬の背で、康行に半ば抱えられるようにしながら私は馬の首にしがみついていた。そして康行が言った言葉を考える。子供の頃? 願い? 昔、何かあったっけ?


 馬、厩。そうだ、私がほんの小さな頃に子馬の出産を見せてもらった事があった。


 私が幼女の頃、子馬が生まれると聞いて私は父にせがんで厩を覗かせてもらった。ところが腹の子は逆子だったらしく、母馬は大変な難産になってしまった。私は父の腕にしがみついて脅えながら様子を見ていた。


 そうだ、そこに確か少年がいた。その子は馬の世話をしている下男の子だったと思う。


「大丈夫だ。父ちゃんは必ず無事に産ませるよ。こういうことには慣れているんだ」

 そういいながら父親の手伝いをしていたっけ。少年は母馬の腹をさすってやり、父親は出て来た子馬の足を懸命に引っ張っていた。


 子馬は無事に生まれ落ち、必死に立ち上がった。母馬は子馬をずっと舐め続けていた。可愛い子馬だった。


 私はその子馬が欲しいと父にせがんだが、この馬は後に都の若君に買われていくのだといわれた。


「こんなによろよろしているのに」


 なんだかかわいそうに見えた。


「父ちゃんが育てる馬はみんな立派に育つんだ。この子馬だって二年もすれば大きくて立派な馬になる。それにお前のお父様はお前が馬に乗るよりも、都のお姫様みたいになる方が喜ぶ」


「都のお姫様? 亡くなったお母様みたいに? でも私は馬に乗ってみたいわ」


 けんもほろろな父をあきらめ、私は少年にせがんだ。


「お前は小さすぎて危ないよ。それならお前が大きくなってお姫様の様になったら、俺が馬に乗せてやるよ」


「本当? それなら私も都のお姫様になる。そうしたら私に馬を頂戴。この子馬みたいな可愛い馬を」


「お姫様に馬は似合わないよ。その代わりにもっと綺麗なものをやるよ」


「それなら私に櫛を頂戴。お母様の櫛はとっても綺麗なのよ。漆で綺麗な蒔絵が書いてあるの。あんな櫛なら私も欲しいわ」


「分かったよ。俺が大人になったら櫛を買ってやる。馬にも乗せてやる。だからこの子馬は若君に譲ってくれ」


「ええ、我慢するわ。でも、櫛も馬に乗せてくれるのも忘れないでね。約束よ」



 約束。そうだ、その時少年とかわした約束。今思えば、あの少年は康行ではなかったか?


 そして私は都人になる事を夢見て暮らし、厩に近付くことは無くなった。少年の事も忘れてしまった。もうあれから十年ほど経つだろう。


 康行は私に櫛を買ってくれた。馬にも乗せてくれた。私がすっかり忘れていた約束を、康行は果してくれた。


 私はお姫様のようではなく、薄汚れた下着姿で、康行は返り血を浴びて異様な状態になっているけれど、それでも遠い日の約束は、今、果たされたんだわ。


 馬の首にしがみつきながら、私は康行を仰ぎ見る。真剣な顔で馬を操っている。もう、震えてはいなかった。


 馬はまるで飛ぶように田園の中を駆け抜けていく……




 しばらく走り続けると目の前に桂川が見えて来た。意外と都は近かったようだ。橋を渡ると向こうに馬の集団が見えた。奥には男車の牛車もある。私達の姿を見ると、牛車の中から大将様が顔を出した。


「康行! 花房は無事か?」


 大将様がお声をかける。


 康行は慌てて馬から降り、私を抱き下ろしてくれた。そのまま地面にかしこまる。大将様は私の姿を見ると


「おお、無事であったか。康行、よくやった。花房はこちらの車に乗りなさい。その姿では身体が冷える」


 そう言って私にご自分の着物をはおらせて下さる。


「大丈夫です。それよりも、検非違使の役人に、以前越後の守の娘と結婚話の持ちあがった方はおられませんか? 鳥辺野送りにかかわる方で」

 私は大将様にお聞きした。


「ああ、そういえば以前そんな話があったな。たしか私の叔父の元につかえている男だったと思うが」


「越後の守の娘が内通者でした。彼女の父君が都に戻れなくなり、彼女の結婚もその役人に一方的に流されてしまったようです。そういった事が重なって、大納言家や中納言家に恨みを抱いていたようです」


「そうでしたか。これから康行に場所を聞き、あなたをさらった者達を取り押さえに行かせます。もう、大丈夫なのですよ。安心なさい」


「違うんです。越後の守の娘は、桜子さんは、ただ、捕まえて処罰を受けるだけではダメなんです。父君が都に戻れなかった苦しみ、結婚を裏切られ、誇りを踏みにじられた苦しみを、中納言様やその役人に知っていただかなければ、何らかの遺恨をまた誰かにつなげてしまうと思うのです。彼女を処罰しただけでは解決しないのです。彼女のような苦しみを持った人が、きっとほかにもいるんです……」


 話しの途中で、私は足元が怪しくなるのを感じた。薬を飲まされ、寒い中を下着姿で走りまわり、馬の背にゆられ続けていた緊張が、緩んできたに違いなかった。私はそのまま気を失ってしまった。



 気が付くと私は中納言家の局の自分の部屋に寝かされていた。そばでやすらぎが見守っていてくれたようだ。


「ご気分はどう? 顔色は随分良くなったみたいだけど」


 やすらぎが私のひたいに手を当てて聞いてくれた。


 弱っていた身体を寒風にさらしていた私は、あの後ひどい熱を出して、一晩中眠っていたらしい。


「姫様の典薬の助(医師と薬剤師を兼ねた役目)が、皆に解毒のお薬を調合して下さったの。あなたには熱さましの薬も用意して下さったのよ。今夜には姫様もお戻りになられるわ。何か召しあがる事が出来る? あなたはあまりお食事もとらずに薬を飲んでしまったから、一層深く影響を受けてしまっていたの。何か食べれば回復が早まるそうよ」


 そういえば空腹感が襲って来た。昨日から殆んど物を食べてはいなかった。私は用意されていた食事をありがたく頂いた。確かに身体は回復しているのが分かる。


「桜子さんは? 他の一味とともに取り押さえられたのかしら?」


 やすらぎの表情が曇る。


「桜子さんは……。自害なさったそうよ」


 自害!


「検非違使の役人が駆け付けた時にはすでに自分の喉を刺してこときれていたそうよ。彼女は自分の誇りだけは守り通したかったみたい」


 やすらぎの伏せた眼には涙が光っていた。




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