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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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人質

桜子はとっさに手の傷を隠そうとしたが、私の目を見ると「ふっ」とあきらめたような表情をして、私に文を返してきた。


「ついにお気づきになったのね」


 まるでため息のように言う。


「何故あなたが姫様を裏切るような事を……」


 私はまだ信じられない。こんなに人が良くて優しい人柄の人が、自分の主人を裏切るとは思えなかった。


「あなたには分からないわ。豊かな国で自由に育った人に私の気持ちは」


 桜子は私の前で胸を張るしぐさをする。


 私には薬の影響が残っていて、身体の自由が利かなかった。どうしてもうつむきがちになる。


 姿勢は人の心に影響する。こんな状況では受ける影響も大きい。私は桜子に支配されてしまったような錯覚を起こしていた。これも薬の作用なのだろうか?


「あなたは武蔵の国の出だったわね。山があり、広い平野があり、温暖な気候に恵まれた国。私の暮らした越後とは大違いだわ。一年の半分近くは雪に閉ざされ、その雪が時には人の暮らす家さえも押しつぶしてしまう。豊作に恵まれればよいけれど、夏の実りに恵まれなければ長い冬に閉ざされて、どうすることもできなくなる国。私の父はそんな国の国司になった」


 桜子は遠い目をして自分の暮らした国を語る。


「本来なら父は若狭のようなもっと豊かな国の国司になれるはずだった。それなのにあの、帝の急な退位がきっかけで任地が越後に変更されたわ。武蔵や相模、あずまもあらえびすの国といわれているけれども、それより越後はもっと厳しい国。そんな国の国司に父は突然据えられてしまったのよ。それでも父は国司としての務めに励んだわ。けれども運が悪いのか、父が赴任した後の越後は凶作が続いてしまった。そして冬には雪に閉じ込められる。私達はどれほど都を恋しく思い、苦しい思いをしたか、あなたには分からない」


 桜子は立ち上がり、まだ体の自由が戻りきらない私を見降ろしている。



「私は父の任地が変わったら、都に戻って結婚することになっていた。でも父は凶作の影響と、その対策に追われてなかなか都には戻れなかった。その時の越後は飢えと寒さで餓死する者も多かったから」


 桜子は私に意地の悪い視線を送る。


「あなた、知ってる? 京の街にもたくさんの餓死者がいる事を。あなたは牛車に乗って都大路を眺めるだけでしょうけれども、その路地を一歩入れば道端にはたくさんの子供の死骸が転がっているのよ。そして何日かすると役人達が死骸を集めて鳥野辺で、まとめて焼くの。それも荼毘に伏すんじゃなくて疫病が起こって高貴な方々にうつったりしないように、まるで物のように焼かれるのよ」


 桜子は私の顔色が変わるのを楽しむように眺めている。普段とは別人の様な顔つき。


「父が私に選んだ結婚の相手は、そんな仕事をしている役人だった。それでもその男はさる高貴なお方にお仕えしていて、前途は有望だったから父は私にその男との結婚を望んでいたの。ところが父が都に戻れなくなった事をいい事に、向こうは私よりも家柄のいい姫と結婚してしまった。しかも父が都に戻っても、次の国司には選ばれなかった。親が任官できない娘なんて、男にとってうまみはないわ。私は結婚もできないまま捨てられたの」


 桜子の表情に、一瞬の陰りが浮かぶ。しかしその影はすぐに消え、私を見下す表情に戻る。


「幼い姫様が吉野で子供に情けをかけた話しなんて、私から見れば偽善もいいところ。虫唾が走るわ。たまたま姫様の目にとまっただけのその子が良い目を一時見ただけで、日常の中でどれほどの貧しい人たちが死んで行っているか、誰も気に留めずにいるのよ。あなた、誰にも振り返られず、打ち捨てられる気持ちが分かる? 越後に放っておかれてしまった、私達のような者の気持ちが。なのに役人は威張りかえり、人々は見て見ぬふりをするばかり。中納言様達は、その役人の力をより強くしようとしている。検非違使を増員したり、彼らの地位を上げようとしたりしているの」


 桜子の目の色が変わる。私に対してねたみと憎しみをぶつけて来る目だ。


「私が中納言家に勤めに出たのはあなたの様な行儀見習いと違うわ。親に迷惑をかけないように、結婚相手が決まるまで、自分が自立をする為に勤めに出たの。あなたは都見物の延長の様なものだろうけれど、私は違う。自分で身を立て、自らの夫となる人を得るために勤めに出たの。それなのにまあ」


 桜子は私に返した手紙を睨みつける。


「人によって、運ってこうも違うものなのね。自分の力で生きる他にない、私のような者には誇りを踏みにじられるような事ばかりが起こるのに、身分はずっと下でも恵まれて甘やかされてきたあなたのような人に、大将様からのそんなお文が来るなんて。本当に不公平だわ」




「でも、それでも姫君様達には何の罪もないじゃないの。お二人ともご自分が与えられた中で、精いっぱい生きようとしているだけじゃないの」


 私は喘ぐように言う。今や薬の毒よりも、桜子の言葉の毒に私は苦しめられていた。


「そうね。姫様達には関係ないことかもしれない。それでも私は大納言家と中納言家がこれ以上繋がりを深くして、力をつけていくことが許せないの。彼らが下々の者を見る時はいつも傲慢だわ。前の帝の味方をしたい訳ではないけれど、今の帝や貴族の人たちの鼻を一度は明かしてみたいのよ。この結婚を失敗させて両家に溝を作り、役人ばかりが威張りかえる今の状態を壊してみたい」


 思い出す、中納言様が私に入れ替わりを依頼した時の見下した態度。言葉は丁寧であったが、そこにはインギン無礼な匂いがあった。きっと下々の誰もが大なり小なり一度はこんな思いを味わっている。だけど


「それは世間へのやつあたりだわ。あなたや前の帝がやっているような事で世の中が変わるとは思えない。もし変わったとしても、今度は帝の首を挿げ替えられるだけで、また、誰かの思うがままの世の中になるだけ。こんなことしても誰も幸せにならないわ。あなたは姫様が不幸になってもいいというの?」


 桜子は私にじっと視線を向ける。そして挑戦的に言う。


「私は姫様やあなたの不幸を心から望んでいるの。私と同じ苦しみを味わうことをね。あなた、少し言葉に気をつけた方がいいわよ。あなたの命運は、今、私達の手の中に有るんだから」


 桜子の目は何処までも冷たい。あの、人の良い笑顔の下にこんな目の色を今まで隠していたのだろうか?


「良かったわね。あなたにはまだ利用価値があるわ。殺されずには済みそうじゃない? 大将様のお気持ちが本物なら、あなたをこのまま捨て置くことはできないはず。でも、やっぱり初瀬の観音様くらいには祈っておいた方がいいかもしれないわ。高貴な方って気まぐれな方が多いから」


「私を大将様への人質にするつもり?」


「すぐに殺されなかっただけでもありがたく思ってね。ニセの姫君様」


 桜子はそう言って小屋の戸をあけて出て行ってしまう。私は何とか体を引きずるようにしてその戸に向かって行くが、当然戸には鍵がかけられていた。私はその場に横たわった。これ以上無駄に体力を消耗できない。



 身体のしびれは残っているが、頭はかなりはっきりしてきた。もうしばらく待てばしびれも治まるに違いない。薬の効果は間違いなく薄れてきている。


 やすらぎ達も同じ薬に苦しめられているはず。屋敷の中とはいえ、薬の効き方にも個人差があるだろうし。やすらぎは大丈夫かしら?


 桜子の考え方は間違っている。これは世の中への仕返しなんかじゃない。自らの不運を嘆き、幸せをつかもうとする努力をあきらめただけの泣きごとでしかない。ただのやつあたりだ。


 そうは思う一方で、私は北国の厳しい暮らしを知らない。南国の激しい疫病の襲ってくるさまも、恐ろしい海辺の嵐も、深い雪に閉じ込められる息苦しさも経験したことはない。桜子のような人の、苦しみを理解することは出来ない。




 桜子の様な不満を持つ者が、この国にはどれほど多くいるのだろう? その考え方を弱いと切って捨ててよいのだろうか? 私は気が弱くなっていく。


 いけない。桜子の言葉に呑まれてしまっている。


 だんだん身体に力が戻ってきた。しびれも感じなくなっていく。身体の自由を取り戻すと、心の強さも取り戻す事が出来るようだ。そうよ、こんな理不尽な憎しみなんかに負けちゃいけない。


 姫様は周りがどうあろうが、優しく生きていく覚悟を決めてらっしゃる。世の中にはこんな憎しみの感情が渦巻いている事も、きっと知っていらっしゃるのだろう。その姫様を守り続けることをやすらぎは覚悟している。大将様だって自分の出来うる限りの生き方をしてらっしゃる。私に感謝もしてくれている。


 父は私に愛情を持って育ててくれた。康行だって私を気に掛け続けてくれている。どんなに世の中が理不尽でも、桜子にだってこうした身近な愛情や友情があったはずなのだ。憎しみでその目を曇らせてしまっただけで。


 私は負けない。私を愛してくれる人々がいる限り、つまらない憎しみの悪意になんか負けていられない。


 このまま人質として利用されたくなんかない。何とかしてここを抜けだすことは出来ないだろうか?


 高い所に小さな窓がある。私はやっと動くようになった身体を精いっぱい伸ばして、外の様子を見ようとする。


 外には見張りがいた。侍崩れのような郎党が二人、扉とこの窓を見張っている。普通の手段では逃げ出せそうにない。周りは広い田園で、外に出てもすぐに身を隠せそうなところは無い。どうしようか?


 すると何処からか、ごく小さなささやき声が聞こえて来た。


「花房、花房」


 私の名前を呼んでいる。


 声のする方にそっと近付いて見る。板張りの小屋の、木目の小さな節穴から聞こえてくるらしい。


「薬を盛られたそうだな。大丈夫か?」


 康行だ。康行の声がする。私は心から安堵した。


「大丈夫よ。よく、ここが解ったわね?」


 私も小声でささやき返す。


「あの櫛はお前がわざと落としたんだろう? 流石はじゃじゃ馬、こういう時に、はすっこい奴だ。良くやった。櫛の先に車のあとがあった。それを馬で追って来たんだ。お前何とかここから出られないか?」


「馬があるの? 私も乗せられる?」


「この向こうに小さな林がある。馬はそこにつないであるんだ。二人なら十分に乗れるさ」


 逃げ切れるかもしれない。心の中に一気に希望が沸いてきた。


「何とかするわ。でも反対側に見張りが二人いるの。一人は気をそらすわ。もう一人は康行で何とかできない?」


「やってみよう。なるべく騒ぎを起こしたくない。外に出たら林に向かって全力で走るんだ。俺もすぐに追いつくから振り返らずにまっすぐ走るんだぞ」

 康行はそういうと、じっと息を殺していた。




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