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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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お文

 私は姫様の御櫛を使うのが申し訳なくて、この櫛を懐に入れていたのだ。中将様はそれをじっとご覧になった。


「康行。どこに隠れている?」


 大将様がどこへともなくそう、お声をかけられた。


 すると塗籠の中から何と康行が現れた。なんでここにいるのだろう?


「今日の私は振られたようだ。夜が明けるまで部屋を出ることはできないが、ここにいる事もはばかられる。お前はここで姫君を守っていなさい。私は塗籠で休ませてもらおう」


 そう言って大将様は少し微笑まれながら塗籠の中にこもられてしまった。


「やすらぎさんが俺を通してくれた。若君に言われていたらしい。さすがに今夜は人すくなになってしまうから、寝所の中で賊が侵入しないか、見張っているように言われていたんだ」

 康行はうつむいたままそういった。


 私は顔も上げられずに「そう」とだけ言った。


「俺は御格子のそばにいる。御簾の中には入らないから、安心してくれ」


 安心? 何が安心だというの? こんなやり取りの後で、康行に全部聞かれてしまっていて、何処をどう安心しろって言うのよ。私は何故だか泣きたい様な気持ちを抑えるだけで精いっぱいだった。


 塗籠の中から時々衣擦れの音が聞こえる。大将様は起きていらっしゃるようだ。康行は私に背を向けて御格子の方を見ているらしい。固まったようにピクリともしない。緊張しているのだろう。


 その夜は三人三様が、まんじりともせずに夜を明かした。賊が侵入した気配はないようだった。



 夜が明ける頃、大将様は塗籠からお出になられて、康行に寝所から出るように促した。侍が建物の中にいたと知れたら厄介だからだ。中将様ご自身も帰り支度をなされる。康行はやすらぎに掛金を外してもらった御格子から外へと出ていった。帰り際に大将様がおっしゃった。


「あの櫛は康行からもらったものですね?」


「……はい」


 康行はこの櫛を大将様にお見せして、良いものだといわれたと言っていた。大将様もすぐにお気づきになった。


「あの男は優しい男です。あなた達は真っ直ぐに目を見て話してお互いを知る事が出来るのですね。私などは女人と目を見かわせれば、そこですべてが決まってしまう。そうできなかったのは、あなたが初めてです」


 公達に顔を見せて目を合わせれば、それは互いに関係を結ぶ条件の様なもの。女人は顔を隠すか、全てを受け入れるか二つに一つしか道が無い。それはどれほど不自由な事なんだろう。


「たしかに彼の身分は低いが、彼には馬を育てる才能が飛びぬけている。地元でも馬を売ってそれなりの生活が出来ているはずです。彼もあなたと同じように私のために身体を張って警護を務めてくれている。彼なら馬の世話だけで、十分暮らせるはずなのだが。彼もあなたと同じなのですよ」


「私と、ですか?」


「ええ、彼も五年ほど前に大納言家に初めて勤めに来ました。馬の事だけでも十分なのに、彼は気の合う私のために、懸命に使えて、性に合わぬであろう侍者となって私を守ってくれています。彼はあなたを昔の自分に重ねてしまい、放ってはおけないのですよ」


 そうか。だから大納言家のろく(手当て)をまるきり私の櫛につぎ込んだり出来たんだわ。康行は決して経済的に苦しい立場ではないんだ。何度も都に訪れるのは、生活のためだけではなく大将様への友情があるんだわ。私が姫様を気に留めているように、康行は大将様を気に留めているんだ。


「正直、あなた方が私は羨ましくなる事があります。真っ直ぐに見つめあって、真っ直ぐな言葉をかけあう。私には望めない事です」

 大将様は軽くため息をおつきになった。


「後で後朝の文を差し上げますが、あなたは読んで下さるでしょうか?」


 後朝の文とは、男女が契りを交わした後に贈りあう手紙の事である。本来なら新婚の朝には、当然送りあうのだが、私達はどうすればよいのだろう。勿論、姫様が書き残していかれた儀礼的な文は用意してある。表面上はこれを贈りあわない訳にはいかない。今、大将様がおっしゃっているのは、結婚を示唆された私に対してのお文の話だろう。私はこのお話に一言もお返事を差し上げていないのだ。


「返事を急ぐのはやめましょう。私もあせるつもりはない。では、今宵、またお会いしましょう」


 そう言って大将様は朝霧の立ち込める中に姿を消してしまわれた。




 その日、私はぼんやりとしたままため息がちに過ごしていた。やすらぎも私に声をかけてはこない。


 康行や大将様が出ていく時の様子から、何か察するところがあったのだろう。私も口を開く気にはとてもなれない。


 朝食もろくに取らずにいると、大将様から後朝の文が来た。開くと姫様宛のきちんとしたお文の中から、小さく折りたたまれた、もう一つの文が出て来た。私宛のお文だろう。



「藤なみのまだ咲かぬ夜ほととぎす鳴くべき時を今だ知るらむ」


 万葉の古歌にかけていらっしゃる、歌だった。


 元の歌は「藤なみの咲きゆく見ればほととぎす鳴くべき時に近づきにけり」という、古くからの有名な歌だ。藤は「花房」という私の名前を現している。実際私の名前は藤にちなんでつけられている。生まれた時には満開だったそうだ。


 ほととぎすは藤に寄り添って鳴くもの。遠い昔からの取り合わせで、中将様が私に言い寄る様子を現している。しかし、恋の花は昨夜咲くことは無かった。そもそも藤は夏の花。今はまだ春の初めだが、ほととぎすはいつ鳴けばよいのですか? そんな意味あいの歌だ。


 流石に手なれた読みぶり、私の名にかけ、季節をわざとずらしたお歌。筆跡も墨の濃さ、淡さ、かすれ加減まで良く整えられた美しい文字だ。全体に品格が漂っている。私などが太刀打ちできるお歌ではない。


 それでもこれだけきちんとしたお歌を大将様は送って下された。昨夜の言葉はその場の勢いではないとおっしゃっているのだ。これに返事をしないのは、あまりに失礼だろう。仕方なく私も返事を書いた。


「わがやどのいけのふじなみ」


 女のかな文字、しかも決して筆跡は美しくない。まして芸術的品位を添えるなんて逆立ちしたって私にはできない。


 だから、せめてやわらかい文字で丁寧に、女の最低限の教養と言われる「古今集」の歌の、はじまりの部分だけを書いた。この後には藤の花が咲いた、いつかは山からほととぎすが鳴きにくるだろう。という意味が続く。あくまでも花が咲けば、という意味も込めて私はその部分をわざと書かずに表現をぼかしたのだ。歌は苦手でもその程度のたしなみはある。大将様ほどの方なら、これで通じるだろう。


 この文を私も大将様のように姫君の御手紙の中に小さく畳んで添える。奇妙なやり取りだ。



 朝食をあまり食べなかったので、やすらぎが「体によくないから」と、暖かい甘蔓の湯(甘い飲み物)と柑子みかんを用意するように言ってくれた。暖かい物は心を落ち着けてくれる。


 ところが柑子を口にしようとすると、指先が思うように動かない。良く見るとやすらぎや他の女房も様子がおかしい。ここに来て私は甘蔓の湯に何かが混ぜられた事に気がついた。身体はすでに軽くしびれていて動かせない。どうやら隙を狙うには警護が厳しくなりすぎて、内通者が思い切って一服盛ったらしい。油断した。




 白昼堂々と、こんな荒っぽい手口に出るとは思っていなかった。私は前のめりに伏せったまま動けなくなってしまい、誰かに大きな布をかぶせられた。どうやら、袋のようだ。そのまましばらくは引きずられ、途中から担ぎあげられる。


 外がだんだん騒がしくなる。どうやら下人達が出入りするところまで来たらしい。助けを呼びたいが声が出ない。身体のしびれもひどくなる一方だ。ついには外に連れ出されてしまったようで、物売りの声なども聞こえる。私はしびれる身体を必死に動かし、懐から康行の櫛を出した。


 袋の隙間を探り、思い切って外に放り投げる。地面にカラリとモノの落ちた音がした。私は牛車か何かに荷物のように放りこまれ、だんだん意識が遠くなっていった。


 康行。落とした櫛に気付いてくれたら、あんたを少しは見直すわ。


 最後にそんな事を思った。



 目が覚めるとひどく頭が痛かった。身体もまだ少ししびれているようだ。薬の影響があるのだろう。身体を起こし、回りを見回すと農作業の小屋の様な所にいる事に気がついた。都からは大分離れてしまったのだろうか?


 反対側に振り向くと、そこに桜子がいた。


「気がついた? 大丈夫?」


「大丈夫。少し頭が痛むけど。桜子さんも連れてこられたの?」


「そうみたい。気が付いたらここにいたの。ねえ、何故あなたがお屋敷にいたの? 姫君様はどうしたの?」


 そうか、桜子は事情を知らないんだっけ。


「実は中納言様に頼まれて姫様と私は入れ代っていたのよ。姫様が何処にいらっしゃるのかは私も知らないの。知らなくて良かったわ。こんな事になるのなら」


 私は痛む頭を押さえながら答えた。まだ少しぼんやりとしている。


「そうだったの。あの、とても申し訳なかったんだけど、これがあなたの懐から出てきていたの。私、つい読んでしまって」


 桜子は大将様のお歌のお文を手にしていた。櫛を落とそうとした時に出て来てしまったのだろう。


「このお手って、もしかして大将様のものじゃないの? あなた大将様と何かあったの?」


 この状況で隠しても仕方がないだろう。


「私に結婚を申し込まれたの。感謝の気持ちだと言って下さって」


 桜子が驚いた表情で私を見つめる。そりゃあそうだろう。私だって実感がないくらいだ。


「じゃあ、まだあなたには利用価値があるのね」


 桜子の様子が変わった。利用価値?どういうことだろう?


 そう思って桜子の手紙を持つ手を見ていると、その手のひらの傷に気がついた。何かにかみつかれたような……。


 私ははっとした。前に連れ去られかけた時に、私は思いっきり相手にかみついた。一人はうめき声で男と分かったが、あの時もう一人いたはずだ。あの、闇の中にいたのは桜子だったのか?


「あなたが内通者だったの?」私は驚いて桜子を見つめていた。



当時のラブレターは、今よりもずっと深い意味がありました。

女性は顔や姿さえ見せないのが奥ゆかしいと言われたのですから、男女が「逢う」と言うのは深い仲を示します。


ですからその前の交際も、その後の関係でも、男性が手紙を送り、女性に文通する意思があるという事は、やり取りが続けばそう言う仲になってもかまわないということです。まずは顔を見て、お茶とおしゃべりから・・・なんて事が通用しなかったんですね。


一夜を過ごし、朝を迎えて相手の顔が分かって、悲喜こもごも・・・も多かったことでしょう。

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