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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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憎しみ

 冗談じゃないわ。こうなったら簡単に殺されたりなんかするもんですか。


 正直この山寺に来た時には、康行が無事に逃げきってくれたなら自分はどうなってもいいって思ってたけど、気が変わったわ。


 康行は「助けに来て」という私との約束以上の事をしてくれた。こんな短い時間でここに来るなんて、普通に山を下りたとは思えない。きっと考え付く限りの手を打って、急ぎ駆けつけてくれたんだわ。


 しかも仲間と大将様を連れて来てくれた。邸の役人があてにならない事も、大将様に急ぎ知らせる必要がある事も、もしかしたら私が真っ直ぐに院様のところに向かった事も、見当をつけていたのかもしれない。全てを予測して、ありったけの最善策を考えたうえで助けに来てくれたんだ。


 私は自分に言い聞かせた。院様にやすやすと殺されてたまるもんですか。ここまでしてくれた康行の労に、ちゃんと報いるのよ。


 私が捕まったままじゃ、康行と大将様は動けない。私が自分で院様から逃れなくっちゃ。


 私はなんとか逃れる方法は無いものかと、院様の隙を窺っていた。



 先に動いたのは院様の方だった。私の衣をしっかりと捕まえ直して、私の身を引き寄せる。さらに私の手に近づけていた太刀を、自らつかもうとして私の手を緩めた。


 私はこの機を逃すものかと緩められた手を引っ込めて、院様から離れようとした。


 しかし院様は私の衣をグイッと引っ張り、私を抱え込もうとする。私はさらに抵抗し、院様が太刀を握ったまま御顔をそむけた隙に衣の紐を解き、袖から腕を抜いてしまう。


 滑りの良い絹を幾重にも重ねた女房衣装。肩をはだき、腕を抜いてしまえばその身を自由にできるはず。私は思い切って衣を脱ぎ捨て、院様の腕から逃れようとした。


 力任せに衣を脱ぎ捨てたので下着の小袖の片袖が破れてしまったが、身体が自由になる。しかし、院様は私を逃すまいと手を伸ばされる。その手は私の髪にかかり、しっかりと捕まえられる。


 だがその時、私の髪が私の頭からずるりと離れた。


 そう、私の髪は長さを補うためにかもじをつけていたのだ。お義母様から贈って頂いたかもじを。


 院様が唖然となさっているうちに、私は康行の懐に飛び込んだ。康行はしっかりと私を受け止め、私をかばうように前に出て太刀を構えた。


「院様、もう、あらがうのはおやめになってください。院様の御名誉が傷つくばかりです」


 康行が太刀を構えながらも院様に話しかけた。


「名誉? そんな物はとうに失っているではないか。女人への寵愛がすぎて帝の地位を失い、幼い帝に追いやられたまま影のように暮らし、恨み心を恐れられた私だ。これ以上都人が何を言おうと、傷つく物など何もないではないか」


 院様は皮肉な笑みを漏らされる。


「私の様ないやしい侍でさえ、太刀を握る時には自分の主人や大切な者を守る侍としての誇りを持って太刀を握ります。それが無ければ私は人を斬る苦しさに耐えられません。都人が何と言おうとあなた様はこの国の帝だったお方。ご自分をお支えになる誇りをお持ちになっているのではありませんか?」


「今更私が自分を支える必要など、あろうはずもなかろう」


 院様はますます自虐的な言葉を言われる。


「院様、ご自分のお心と闘って下さい。そうすれば必ずご自分の中にある誇りに気付かれるはず。院様は本当は帝に認めていただきたいのでしょう? 弟宮であられる帝に誇れる御自分でいたいのでしょう? そういうお心を取り戻して下さい」


 私もそう、院様に言う。


「私は帝を憎んでいる」


「そして、気に留めておいでです。憎むという事はそれだけお心にかかっているという事。院様は帝を羨みながらも、帝のお苦しみを共に感じておられるのです。帝もきっと同じです。院様のお心を想い、共に悲しんでいらっしゃるに違いありません。もう、このような事はおしまいにして良いではありませんか。これ以上ご自分を傷つける必要はないのです」


「私が帝に苦しむ事など無い。帝が私を苦しめているだけだ」


「院様が苦しむ事が、帝のお苦しみなのです。それが分かっているから院様はご自分を苦しめている。本当は院様も苦しみから逃れたいはず。苦しめ合う罪から許されたいはずです」


「許される? 私は死んだ母上以外に誰にも許された事など無いのだ。誰も、私を許す者などいない。……おそらく、御仏でさえも」


 院様は暗い顔でおっしゃった。


「誰に許されるのではありません。それでは院様は救われません。院様ご自身が、ご自分をお許しになるのです。それで初めて院様は救われるのです。ご自分の弱いお心と闘って下さい。そして勝って、ご自分をお許しになって下さい」」


「自分を許す? 私が?」


「そうです。院様は許されなかったんじゃない。命婦様も、御爺様も、帝もとっくに院様をお許しになっていた。でも、院様はそれを認めて下さらない。ご自分をお許しになっていないからよ。誰かが自分のために苦しんでくれる心に甘えて、誰かと幸せを共に分け合おうとなさらないから。幸せに手を伸ばそうとする心を許さずにいるから苦しいのよ。それを許さない限り御仏だろうと誰だろうと、院様を救うことはできないのよ」


「私が、私を許す。それで私が、救われる……」


 院様はそう言われると、しばらくその場で考え込まれてしまった。


「院様はここまで私の言葉を聞いて下さったんです。もう、いいじゃありませんか。ご自分を許されても」


 私は出来るだけそっと言った。なんだか院様が幼子のように見えたから。




 やがて院様は修験者たちに、武器を納めるように言った。そして、


「……そなたは確かにあの右大臣の孫なのだな。このような言葉、久しく聞いていなかった気がする。私は憎しみに疲れてしまったようだ。自分を許す事がこれほど自分を楽にするとは」


 院様はため息交じりにつぶやかれた。


「違います。院様は勝ったのです。ご自分のお心の闘いに」


 私はそう言った。すると院様は、


「大将。車を用意していただきたい。帝の元に参るのに、罪人としての姿を下々の者に晒したくないのだ。願いを聞いてもらえぬか?」


 と、お尋ねになった。


「すぐにきちんとした男車を用意させましょう。帝の元においでになるならあなた様は帝の兄宮。罪人ではございません。それは帝の決めること。私は付き人としてお供させていただきましょう。御兄弟でゆっくり話し合われるのがよろしいと存じます」


 そう言って大将様は膝をつきかしこまった。私達も遅ればせながら皆、ひざまづいてかしこまった。




 大将様は院様に付き添われ、山賊と悪僧たちは侍たちと役人に取り押さえられて私達と先に山を降りる事になった。


 康行は私を抱えて馬に乗り、正成と小雪の事、正成の命が助かったこと、邸の侍が忠長様に事情を伝え、大将様が東宮様の御命を守られていたことを教えてくれた。命婦も実は生きていて東宮様にも害が無かった事は、大将様が教えてくれていた。


「お前は無茶をしないという約束を簡単に破ってくれたな。俺にはあんなにうるさく言っていたくせに」


 康行はむくれた。


「無茶じゃなかったじゃない。ちゃんと康行が助けに来てくれたんだから。勇ましくて素敵だったわよ。康行」


 私はにっこりとほほ笑んだ。康行は照れたような顔になる。


「おだてて誤魔化していやがる。しかしお前、なぜあんなに院様のお気持ちが分かったんだ? お前が院様をあれほど説得できるとは思わなかった」


「説得したわけじゃないけど。実は私もね、お父様を疑っていた時は、お父様の事がとても憎く思えていたの。でも、憎めば憎むほど自分の心も傷ついていったのよ。そして傷つくほど自分に負けそうになったの」


 そう、あの時は苦しかった。お父様を憎み、自分に流れるお父様の血を憎み、自分が生まれた事を憎んだ。そうやって傷ついた心は上手くいかないことすべてが、宿命のせいに思えて一層憎らしかった。お方様の事、院様の事、康行の事。そして憎む心に甘えてしまっていた。


「でも私は大将様に救っていただいた。康行もそばにいてくれた。みんなを信じる心がお父様や御爺さまを信じる心を呼び起こしてくれた。結局、私自身の中にある憎しみという敵に勝つより他に、真実を知る方法は無かったの。康行が故郷に帰る勇気をくれなかったら私、自分のふるさとも自分自身も失っていたかもしれない。そう思ったらなんだか院様のお苦しみも分かる気がしたの」


「きっと、救われたさ。院様も」


「うん。帝も救われたでしょうね。命婦様の事にお気づきだったのだから、院様のお苦しみも感じていらしたことでしょう。院様がお心を開いて下されば、いい方向に向かうはずね」


「ああ、お前は頑張ったよ。太刀を持った院様から逃れようとした時はヒヤリとしたが」


「私も髪をつかまれた時はもうダメかと思った」


「あの時かもじが取れたのは、お前のお義母上のお心が、お前を守って下さったのだろうな」


「こんな、親不幸な娘なのにね」


 私は思わず笑ってしまう。


「それは俺も同じだ。特にお前の両親の前では大口をたたいたからなあ。それがこのザマでは」


「本当ね。私達、故郷にいなくて良かったのかも。親たちの寿命がいくらあっても足りないものね」


 そう言って私達は笑いあっていた。


 まさか、帰る先の大将様のお邸に、以前出した文を見て旅立った、自分たちの親が待ち構えているとも知らずに。





次回で最終回です。

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