心の音
私の前に琴が据えられ、用意が整えられた。私は少し音を確認すると、
「では、弾かせていただきます」
と言って、まずはあまり抑揚のない、単調な曲を弾き始めた。
「弾きながらお話してもよろしいでしょうか?」
「そなたがそうしたいのならば、私はかまわない。そなたの本音を聞きたいと言っているのだから」
「ありがとうございます。では、院様はなぜ直接大后様や帝に手を出さずに、お方様や東宮様、私に手を伸ばしてこられたのですか?」
院様は一層底意地の悪い表情をする。
「人というのは自分が何かをされるより、身近な者が自分の手の届かぬところで苦しむのをもっともつらく思うからだ。私はそれをよく知っている。大后は帝が苦しむ事が一番こたえるはずだ。そして帝は兄の私がそなたや、愛妾の君、親友の妻に恐怖を与える事を最も嫌がるはず。その命を奪われればさぞかし嘆く事だろう。下々の者の苦しみに、帝は直接手を出す事は出来ないだけに、その苦しみは大きいはずだ」
「院様のお可愛がっていた、猫のようにですか?」
「その通りだ」
「なぜ、そのように残酷になれるのでしょう?」
「言ったであろう? 非道には非道で答えるのが私のやり方だと。私はそれほど残酷だとは思っていない。残酷なのは変わることなく繰り返される内裏でのありようだ。どうする事も出来ぬ宿命だ」
「どんな宿命があろうとも、人の心は自由です」
「そんな事は無い。悪意は人の心をゆがめるものだ。人の世を生きる以上、心に自由はもたらされぬ」
「誠に、そうでしょうか?」
私は曲調を変える。少し、ゆるやかでのびのびとした流れのある曲を弾く。
「私は身分のないまま田舎で育ちましたから、高貴な方々の不自由なお苦しみなど知りませんでした。特に女人が存在その物を罪深く扱われていることが、どれほど苦しい事かも知りませんでした。むしろ、そう言った事に物憂げでいられる様など、お美しく、羨ましくさえ思っておりました」
「羨ましいか。実情を知らず、みやびやかな姿だけを目にすればそのようにも感じるのであろうな」
「そうですね。でも、私は知りました。身の重い方々がどれほど御不自由な中で日々を暮らされているか。女人が自らの心を現す事がどれほど難しい事か。そういう部分だけを見れば、確かにそう言った方々のお心は自由が無いのかもしれません」
「そなたにどの程度理解できるかは判らぬが、多少は理解しているという事にしようか」
「たしかに理解が浅いかもしれません。けれど、私はそれでも人の心を信じます。私の仕えるお方様は御身の上が重くなられようとも、ご自分の出来る事がどんなに限られようとも、その中で精いっぱいなさって生きていらっしゃいます。大将様もそうです。ご自分の宿世がどうあっても、最初からあきらめたりなどなさいません」
そう、この音色は自由を求める心。そしてそれを諦めない心。明るくしなやかな心。
「だが、最後には諦めるより仕方がないのが宿世であろう」
「たとえそうであろうとも、出来る限りのことをする。それが心の自由でございます。ご自分の力及ばぬことを嘆かれるのではなく、出来る事を少しでも多く叶えようとする心。それこそが本当の自由でございます」
「力及ばぬことの方が多くてもか?」
「自由は数の多さで計るものではありません。自分の心の計りにかけるものでございます」
私はそう言うと曲を変えた。お方様と大将様の三日夜で演奏した曲だ。あの、桜子さんの心を現した曲だ。
だが、私はあの時とは少し弾き方を変える。今は目の前にいらっしゃる方の鏡になった気持ちでその心を現そうと弾いた。
「院様が私を最初に連れ去った時に利用した女房。桜子さんは私に強い嫉妬を持っておりました。下司とさげすまされているはずの私に。もしかして、今の院様も同じようなお心をお持ちなのではございませんか? 多少罵られようとも自分の思うがままに生きようとする私に」
「そうかもしれん」
「今弾いているのは桜子さんが自害した後、私が彼女の心を現そうと弾いた曲にございます。自らの思うに任せぬさだめ。誇りを踏みにじまれ、そんなものとは縁のない暮らしをしていた私に大切なものを奪われる。どなたにも届けることのできない、女人の声……。彼女は身分ある女人の心を映し出す鏡の様な方でした。哀れな方でした」
私は悲しく琴を掻きならす。怒り、苦悩、悲しみ、恨み。そんな心の音を哀切な音で現す。
「ですが、私は彼女が自害に逃げた事を許してはおりません。彼女を憐れみはしますが、彼女が心の自由を手放した事を許す事は出来ないのです。それは院様も同じ。なぜ、簡単にお逃げになるのですか? 他の方を御恨みになる心に逃げ込んで、ご自分の心と闘おうとはなさらないのですか?」
琴の音は一転し、激しさと強さを表す。怪しく、強く掻きならされる音は、高い音も低い音も絃よ切れろとばかりに強くはじかれる。
「なぜ、私が自分と戦わねばならぬのだ。変わらなければならぬのは人の世の方であろう。命を軽んじ、人の心を踏みにじる、この現世の方であろうが」
「違うわ。私たち人が闘わねばならないのは自分の心。 院様だって、ご自分のお心に負けた揚句、命を軽んじて桜子さんや、命婦の命を奪っているじゃないの!」
「それはこの現世が非道であるからだ!」
「その心が現世を非道にしているのよ! 院様はご自分に負けて大切な方々のお心を踏みにじっておられるわ。命婦様のお心、亡き乳母様や女御様のお心、そして、憐れな猫の心も」
「言うな! それならばこの現世に生きる者達は、皆、自分の心に負けておるではないか! だからこの世は、このように狂っているのではないか!」
「そうではない人もいるわ。自分の心と戦い、負けたくないと思う人もいるわ。祖父や、父や、お方様はそうだわ。人生や、人の心をあきらめたりなんかしない」
私は絃を弾く指を早める。より早く、より激しく。
「私もそうだわ。私はここに祖父の名誉を晴らしに来たのではありません。院に憎まれる宿命を背負った自分の心と、闘うためにここに参ったのです」
激しく琴を弾き続ける。本当に絃が切れてしまいそうだ。それでも私は手を緩めない。
「やめよ……。その琴の音を今すぐ止めよ」
「止めません。これは私の心の闘いの音色です。そして院様のお心の闘いの音でもあるのでしょう。院様は昔の事を恨んでいらっしゃるんじゃないわ。帝に甘えていらっしゃるのよ」
「私が何故、あの憎い者に」
「いいえ。院様は帝に甘えられてきた。帝をお苦しめになっても帝は院様を許し続けていらっしゃったから。女御様を失った後初めて甘えさせて下さる方を見つけて、すっかり御頼りになってしまわれたの。その帝に突き放されて御動揺のあまり、帝の気を引こうと脅迫の文を送られたの。そして今は、ここまでノコノコやってきた私に当たられているんだわ」
「生意気を申すな。……やめよ。その音を止めるのだ」
「止めません。私達の闘いの音を止める事は出来ません。この音こそが私の闘う心。そして、院様の御本心にございます」
私はより熱を込めて琴を弾いていた。その時、
バン!
院様が琴を蹴り飛ばされた。そして私の襟元をつかみ、私を無理やり立たせる。
「人を呼んで、その大事な指を斬りおとされたいのか……?」
院様が私を睨む。
「院様にそれはお出来になれません。院様は今の音でお気づきになられたはずですから。ご自分の御本心に」
私も院様を睨み返した。