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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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守の無き宿

「院様は、ご自分の母のように慕っておられた方を、東宮様の御命を奪う道具として利用なさったのですか?」


 私は背にいやな汗をかきながら聞いた。


「その通りだ。命婦は私への罪悪感から逃れることは出来なかったのだ。私の恨みは彼女の苦悩。彼女が帝の元にいる限り、私の恨みは消える事は無かったのだ。だが彼女は私のために結局はこうして命を落としてくれた。今こそ命婦は私の元に帰って来てくれたのだ」


 院様は視線を落としながらも満足げにそうおっしゃった。


「なんて、非道な事を」


「非道? 小さな命を奪い、私を孤独に追い詰め、陣の座のみならず後宮までも根回しによって私や私の母に関わる者を不幸にする事は非道ではないというのか? 帝という地位は決して幸福な立場ではない。私は人の心を失い、帝はこうして裏切られる。これも帝の宿命であろう」


 院様は意地の悪そうなお顔で私を見る。


「教えてやろうか? 大后はあの中納言を手なづけている大納言の事を快くは思っていない。大納言の権力のために仕方なく認めているだけだ。帝の中宮はその大納言の娘。大后と大納言の関係次第では東宮も政略に巻き込まれるだろう。裏切られたり人の心を失うくらいなら、物心つかぬうちに命を終えるのも不幸ではない」


「でも、実際に亡くなられたのは命婦様ではないですか! それに帝や東宮様がお幸せかどうかなんて、院様には決められないわ。そんなの帝や東宮様次第よ!」


「そなたには内裏だいりという場所が分かってはおらぬのだ。あそこは人の心を狂わせる。人が人で無くなる場所なのだ。私は私の母や乳母、私の愛妾が本当に病魔によって亡くなったのかも疑っている。私が恨んでいるのは過去ではない。今もそのようなことがまかり通る内裏のありようを恨んでいるのだ。地位と憎しみが渦巻く内裏は虚実が常に入り混じる場所。誰も幸せにはなれぬ場所なのだ」


「ご自分がそうだったからって、他の方の命を奪っていい理屈にはならないわ。その方の命と心はその方の物。誰にも勝手に奪う権利なんてないはずよ」


「たしかに権利など無い。だが私は、非道には非道で答えてやっただけだ。私は非道によって奪われた者達によって生かされている。花房、そなたの命もそうだ」


「私が? なぜ」


「そなたが生まれた真実はともかく、そなたの祖父母と母は心ない都人の噂によって、心労の末に奪われたようなものだろう。そなたも非道に奪われた命に生かされている。その上都人はお前によい噂をしない。下司の子が貴人の女房になっている事を足げざまに罵るばかりだ。ある意味恐れを抱く私への噂よりもたちが悪い。そなたはそのような都の人間が憎くは無いのか?」


 私は院様の目をしっかりと見た。


「私は、郷里で人を信じる事を教えられて育ちました。都に出てからも信じあう心を何よりの頼りに生きてきました。私は郷里で育つ事が出来て幸せです。誰が何と言おうと身分は低くとも父の娘として生まれる事が出来て幸せなのです」


「成程。田舎育ちとは気楽なものだ。だが悔しくは無いのか? そなたは琴の名手と聞く。父の血がいやしくなければそなたの才は誰もがもっと称賛したであろうに。世の人々や貴人として才を認められる者達を妬ましいとか、恨もうとは思わぬのか?」


「思いません。それよりも父や育ての母や様々な方から受けた愛情の方が私には大切ですから」


「それは、果して本心であろうかのう?」


 院は疑わしげに私を覗き見た。どこか、おからかいになっていらっしゃるようにも見える。


「……こちらの御寺には、琴はございますか?」


「琴か? ありきたりな和琴なら一応あるが」


「それで結構でございます。私の本心を知りたいのなら、私の琴をお聞きください。私は琴弾き。言葉よりも琴の音にその心は表れますから」


「よかろう。今、用意させよう」


 そう言って院様は奥から人を呼び、琴を持ってくるように告げた。





「どうです、正成の具合は」


 初花の上は正成の容体を見てきたやすらぎに問いかけた。


「ええ、どうやら助かりそうです。典薬も、もう大丈夫だろうと申しておりますし」


「良かったわ。正成と小雪は院とは関係が無かったようだし。二人とも悪い人間ではないのだから」


「本当にようございました。けれどもこれでは役人たちは本当にどこまで信用して良いのか不安です。侍たちを全て康行と行かせてしまって良かったのでしょうか?」


 やすらぎは不安そうに聞いた。侍たちを行かせてしまったので邸の内は役人以外は僅かな使用人と女子供ばかり。もし、多数の役人に裏切られたらどうする事も出来ない。母親である乳母がやすらぎをたしなめる目つきをしたが、その顔はやはり不安を隠しきれないものだった。なにしろ今、邸には更衣様もおられるのだから。


「大丈夫。私にはあなた達が、更衣様にも女房達がいますもの。役人たちよりも頼りにしているわ」


 上はいつものようにほほ笑んだ。そこに女房が何か文を持ってきた。


「失礼します。堀河の姫君様からお文と、警護の者たちが参っております」


「堀河から、人が?」


 驚きながらも文を開けると、



「ほりふかき わがやどなれば こころなき ひとこえがたき もり(守)もいらずに」



 私の住む堀河の堀は深いので、心無い者も越えるのが難しく警護も要りません。という歌と、


「出過ぎた真似とうっとおしくお思いにならないで下さい。父は蔵人頭。警護の者は用意できますが、私にそれほどの守りは必要ございませんから」


 という言葉が添えられていた。


「まあ、これは姫君の御真筆。ご自分の事も顧みず、私たちを心配して下さったんだわ」


 初花の上は早速警備の者を配置されるように言うと、



「もりのなき やどにさきたる そのはなは こころなくとも やすくたおれず(手折れず)」



 守りのないあなたの宿でも、美しい花のように気高い心を持つあなたを、心無き者も簡単に手出しする事など出来ないでしょう。という返歌に、


「ご配慮、ありがとうございます。感謝いたしますわ」


 と、感謝の言葉を添え、使者に持たせた。


「こう、人の目が多くなれば、もしも院の息がかかった者がいたとしても、簡単には事を起こせないはずです。これで更衣様も御安心なことでしょう。よろしゅうございましたね」


 乳母もホッとした表情を見せる。やすらぎも安堵した。


「これは殿にも少しだけお目こぼししなければいけませんね。私のつたない歌を、お二人に笑われなければよいのですけど」


 上はいつもの調子でほんのりと笑って見せた。




 大将に突き倒された右衛門の命婦の身は、床に強く放り出されていた。それを大将が抱え起こす。命婦はぐったりとしていた。


「どう、なったのだ?」


 主上が恐る恐る聞く。


「大丈夫です。毒を飲んではいません。気を失っているだけです」


 そう言いながらも大将は命婦の懐を探る。


「何をしているのだ?」


「ああ、やはりあった。もう一包み、薬を隠し持っておりました。おそらくこれは毒ではありますまい。命婦は初めから東宮に毒を盛る気はなかったのでしょう。失敗したふりをして、自分だけが毒を煽って死ぬ覚悟だったと思われます」


「罪を、一人かぶって死ぬ気だったのだろうか?」


「おそらくそうでしょう。ここでは命婦は毒を煽って亡くなった事にしておきましょう。でなければ命婦の命が危ない。あとで命婦に繋がりのある人間を白状させましょう」


 そう言って大将は命婦をそっと横たえると、ため息をついた。


「私も早く花房の元に行かねば」





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