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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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人の心

「命婦は私から離れる際に、私に一匹の子猫をくれた。後宮には犬も猫もいるが犬は殿上する事が出来ないため、庭先を駆け回るばかりで私の手に触れる機会は少ない。猫にはきちんと位を与え、乳母をつけて面倒を見てもらう事が出来る。おかげで私は随分慰められていたのだが、この乳母が中宮に言いくるめられてその猫を中宮の元に連れ去ってしまった。彼女は否定したがこの乳母意外に猫を連れ去る者など考えられないのだ」


 慕わしい物は全て、今の大后様に奪われた。それは小さな生き物にまで及んだのか。


「その猫はその後どうなったと思う?」


 院が皮肉な笑いをお顔ににじませてお聞きになる。


「もしや……」


「そう、その猫は打ち殺されてしまった。役人が外猫と見間違えたという事になっているがそのような事は信じられない。猫は中宮に懐かなかった。赤子だった東宮にはもっと懐く事は無い。いつも私の元に戻ろうとする猫を、中宮は疎まれたに違いない。まるで私を疎むように」


「院様と猫は違います」


「いや、中宮にとっては同じだっただろう。中宮は本当なら私を手にかけたいくらい憎んでいらした。花房は私の顔を見て弟を想い浮かべたであろう? 皮肉な事に私は弟によく似ている。中宮にとっては憎い私の母から生まれたにもかかわらず、私は父上や弟によく似てしまった。それは中宮の憎しみをより強めるものだったに違いない。その猫は私の身代わりに殺されたのだ」


 憎しみの対象が我が子に似ている。それはどんな心境なのだろう?


「私は自分が帝の地位に立った時、真っ先にその乳母を処分した。位を取り上げ、御所から追い出した。私は激しく非難を受けた。だが、彼女は位を失っただけではないか。私の小さな猫はいたぶられながら殺されてしまったのだ。人にとっては命というのは位に比べてよほど軽い物らしい。私が狂っていると言うなら、あの御所の中の人間は全て狂っているのではないか?」


「位はただの権威ではないわ。それで一族を養い、自分の役目を担っているんです」


「小さな生き物を打ち殺す役目をか? 命とははかないものよ」


 院様は笑っておられた。ぞっとするような笑顔だ。


「私は非難した者達も次々処分した。おかげで私の周りの者は皆が私を恐れはじめた。私の中宮になった女人さえそうだった。私には誰ひとり味方はいなかった。ただ、一人の女人を除いて」


「お亡くなりになった、女御様ですね?」


「そうだ。彼女だけは私の孤独を理解してくれた。私の感情がどれほど高ぶろうともそのすべてを受け入れてくれた。まるで、亡くなった乳母が生まれ変わったような方だった」


「若くにお亡くなりになったのは、お気の毒でした」


 私の言葉を受けて、院の顔色が変わられた。


「気の毒? ああ、気の毒だ。お前の祖父に余計な事を言われて、ついには病に冒されて。彼女を失った時、私はどれほど絶望したか」


「それは誤解です。誤解なんです。私は祖父の本当の心を伝えたくてここに来たのです。祖父は本当に院様を心から心配していたのです」


 私は声を強くして言う。ここを分かって頂くために私はここにいるのだ。





「皆、下がってくれ。命婦と二人だけで話がしたい」


 主上はそう言って女官や女房達を下がらせた。命婦は嗚咽をこらえてうつむいている。


「命婦。私はいつもあなたに自信を与えてもらっていた。その事には今でも感謝している。そして、感謝しているからこそあなたを救いたい。あなたの心を苦しめる闇から、あなたを解き放ちたいのだ」


 命婦は首を振った。


「人の闇というものは、その人が自ら作り上げるもの。他人が手を出せるものではありません。己が作った闇は、己が消し去るよりほかないのです」


「やはりあなたには、苦しめられている闇があるのですね? もうずっと、長いこと」


 主上は悲しげにお聞きになった。


「いつからお気づきになっておられたのですか?」


 命婦はこぼれた涙をぬぐいながら聞いた。


「いつともなく……。あなたが私を兄上と比べる時、あなたはどこか苦しげでしたから。いつもならば厳しい中にもお優しく、心細やかに接して下さるあなたが兄上と比べる時に限って心落ち着かぬような様子をお見せになっていました。そういう事は表面を取り繕っても分かるもの。本当は兄上の事を大切に思っておられるのではないかと」


「さすがは国の帝になられる方ですわ。私の様なつまらぬ女にまでお心を砕いて下さる。主上は本当に、良い帝になられました。私は鼻が高うございます」


 命婦はそう言うと「コホン」と小さくせき込んだ。


「失礼いたします」


 そう言って懐から小さな紙包みを手に取った。それを何気なさげに口元に運ぼうとする。


「やめよ!」


 突然、主上の横に据えられていた几帳の陰から、大将が飛び出した。命婦の手をつかもうとその手を伸ばす。命婦は大将を避けながら包みの中身を開く。そして……





「花房。そなた、年はいくつだ?」


「十六です」


「では、女御が生きていた頃はお前は生まれていないな。生まれていたとしてもほんの赤子だ。なぜお前に真実が分かるというのだ」


「私が生まれているからでございます。院様は、私の生まれた事情をどのように聞いていらっしゃいますか?」


「そなたの母が邸からさらわれ、後に懐妊して邸に戻されたと。そなたはその時の子であろう? 女御の私への思いやりを政務の妨げと切って捨てた大臣の事。自分の娘がそのような体裁の悪い事になったのだ。そなたを都に置いておけず、憎いはずの父親の故郷に遠ざけたのも頷ける」


「それは違います。私は祖父に遠ざけられたのではありません。むしろ祖父に守られたのです。院様は世間のうわさに惑わされていらっしゃいます。私は祖父に助けられて、この世に生まれたのでございます」


「そなたは、あの大臣に助けられたというのか?」


「私ばかりではありません。私の父と母も助けられました。その証拠に私の父は祖父から受取った中納言様の書いた文を持っております。中納言様が祈祷の僧に院様を騙し賺せとそそのかされた文です。院様は中納言様に騙されたのです」


「それは分かっている。私はあの者によって位を譲る事になった。だが、今更私には帝の位など未練はない。いや、もともと帝になどなりたくてなった訳ではないのだ。生まれ持った宿命にあらがう事が出来なかっただけだ」


「誰にでも宿命というものはございます。院様だけではありません。私の父と母が結ばれたのもおそらくは宿命。私が生まれて来たのも宿命だったのでしょう。ただ、それは祖父が身分の違う父と母を守った結果でした。祖父はそういう方だったのです」


 院様は不思議そうな顔をした。


「お前は会ったことのない祖父を、なぜそのように信じられる。なぜ自分が生まれる前に起こった事を信じ、このような所に来てまで祖父の汚名を晴らそうとするのだ?」


「祖父のためでは御座いません。院様のためです。院様が人を信じられなくなったのが私の祖父への誤解のせいならば、どうしても誤解を解かなければなければなりません。そうしなければ院様は人を信じる心を取り戻す事が出来ないのではありませんか?」


 院はニヤリとされる。


「人を信じる? そのような心、私には……」


「ございますわ。亡くなった女御様へのお心は、決して失ってはおられないでしょう?」


「女御が生きていた頃までなら持っていたかもしれない。しかし今ではそのような心は忘れてしまっている。いや、そういう心さえも現世の人々に奪われてしまったのかもしれない。私は人の心をも奪われてしまったのだよ」


「心の自由は誰にも奪う事は出来ません。ご自分次第のはずです」


「ではそれでよい。私は自ら人の心を手放したのだ。幼い東宮の命を奪うほどに」


「東宮様の……まさか」


 私は息を飲んだ。すると、


「失礼します。御所にいる者から知らせが届きました」


 さっき私を案内した、若い僧が院様に声をかけた。


「うむ、首尾よくいったのか?」


「失敗でございます。右衛門の命婦は主上に見破られ、東宮に盛る毒を自ら煽って言切れたそうでございます」


 僧は、淡々と知らせを伝えていた。






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