昔話
若い僧は私を寺の中に入れてくれた。そしてすぐに取り次いでくれるという。間もなく立派な法衣を身にまとった、中納言様よりも少しお歳若なくらいの方が私の前に現れた。
「お前が、花房か」
僧侶の姿をしたその方が訊ねた。
「そうです。あなたが嵯峨野の院様ですか? 主上の兄上でいらっしゃる」
「いかにも、私がそうだ。帝の兄と言うのはよけいだが」
よけいと言われてしまったが、どうしてもそう実感せずにはいられなかった。お顔の形や鼻の作り。口の作りなどさすがは血を分けた御兄弟。実によく似ていらっしゃる。細かく見れば違う所も多いしお二人は御母上が違っていらっしゃるのだが、持っている雰囲気というものが良く似ているのだ。
だが、その眼は違っていた。主上の持つ柔和さはまるで感じられず、険の立った冷たい光を蓄えた様なギラギラした眼を持っていらっしゃる。
そして主上よりもやや御やつれ気味で、それもこの方をとげとげしく見せているようだ。院様は主上がお歳を召して、いかめしくなられたらこんな感じかもしれないと思わせる風貌だった。
「お前を逃がしたという、若い侍者はどうした? 寺の外にでも隠れているのか? ここには私に組する山賊達も忍んでいる。男一人ではどうする事も出来ないぞ」
「康行なら先に逃がしました。そろそろお邸につく頃です。もう彼に手は出せないわ」
実際にはいくら男の足とはいえ、邸についたかどうかはおぼつかないが、康行の安全のためにはそう言っておいた方がいい。私の言葉を信じれば康行に追手がかかる事は無いだろう。
「やはりお前は親しい者のためなら身を張って前に出る性分の様だな。だが侍の方には用は無い。私が用があるのはそなただ。よく、この寺に参られた。歓迎しよう」
院はそうおっしゃりながら敷物の上にお座りになると、ゆったりと脇息に寄りかかってくつろがれながら私を見た。
「少し、私の昔話に付き合っていただこう。私を大切にしてくれた者達の話を」
「お呼びとお聞きしましたが、いかがなされましたか? 主上」
御所の清涼殿で、かなり年を重ねた白髪交じりの古参の女房が、主上の前に参上していた。
「ああ、右衛門の命婦。いや、大した用ではないのだ。少し琵琶の音が聞きたくなって」
「陣の座で何か気の張る事でもございましたか? 私のつたない音色でよろしければお耳をお慰めさせていただきますわ」
命婦はそう言うと女官に渡された琵琶を手にとって、慣れた手つきで琵琶を奏ではじめる。
この右衛門の命婦は亡くなられた先々代の中宮に付き添って御所に上がってからというもの、その後、前の帝についで今帝でいらっしゃる主上の御世話も見てきた、後宮の中でもかなりの古株の女房だ。
祝いの席などでは晴れやかな歌を詠み、言葉尻も優しく落ち着きのある声なので物語を読ませると、誰もが安心して聞き入ってしまう。そして琵琶の名手でもあった。
主上も何かにつけては心を落ち着かせるために、彼女の琵琶の音を所望している。
「命婦は随分長く後宮にいるようだね。私の兄上もずいぶん世話になったらしいから」
「でも、嵯峨野の院様と主上では、まるで器が違いますわ。主上は何事にも鷹揚でいらっしゃるから」
命婦は琵琶を引く手を休めることなく答える。
「私が子供の頃から命婦はそう言ってくれていたね。いつでも兄上より私を褒めてくれた。おかげで私は自分よりずっと年上の兄上に引け目を感じることなく育つ事が出来た」
「わざとそう言っていた訳ではございませんわ。本当に主上は落ち着いたお心をお持ちの御子様でしたから。院様がお子様の時は気が休まる暇がございませんでしたもの」
「子供の時は命婦が私にとって一番の味方だった。きっと母上以上だ」
「そのような事は御座いません。母が子を想う心は、何にも勝るものでございます」
「……命婦は、自分の子を亡くしていたね。私が生まれるより前に」
「ええ、はかない運命を持って生まれた子だったのでしょう。それは悲しい事でございましたが、その分私は乳母でもございませんのに主上という素晴らしい方のお世話をさせていただけました。もったいない事ですわ」
「私の兄上も、だね?」
「主上の方が立派にお育ちになられました。院様はお気の難しさが大人になられても直りませんでしたし、物事に躊躇なさらないところが心配した通りの結果をもたらしてしまいました。主上は落ち着いておられて……」
「そうやって、兄上と比べては私を褒め続けてくれる。命婦、それはあなたの私への真心と思って良いのだろうか?」
「何をおっしゃっているのですか? 私はいつも心より主上の素晴らしさを感じているだけなのですが」
「そして、兄上の素晴らしさもあなたはよく知っていたはずだ。私を兄上と比べるという事は兄上の事をよく知り尽くしているという事だ。あなたは私の兄の事を、私や母上よりも知っている」
「ただ、長くここにいると言うだけの事です」
「そして私達を長く見守ってくれている。あなたが私達に捧げてくれる献身は本物だ。私はそれを疑う事は無い。ただ、その想いは兄上により強く持っておいでなのではありませんか?」
琵琶の音が止まる。右衛門の命婦が、主上を見つめる。
「あなたが兄上のお世話をなさったのは、ご自分の子を亡くした直後だったとか。あなたは兄上に自分の子の面影を重ねていらっしゃるのではありませんか?」
右衛門の手が僅かに震え、琵琶の音は止まったまま表情が固まって行く。
「私は主上を尊敬しています。大后様も」
「それは勿論そうでしょう。そのお心は確かだと思う。だが、それ以上に兄上の事はご心配して下さっている。兄上はそのあなたの一途なお心を利用しているのではありませんか?」
「どうして、そのような事をおっしゃるのですか?」
右衛門の命婦がそう言った途端、その目から大粒の涙が落ちた。
私は山寺で院と向かい合った。院は私と話す機会をようやく得て、何か満足そうだ。
「私は母を亡くした後、乳母と右衛門の命婦に育てられた。二人とも本当に私によくしてくれて、私には母との思い出よりもこの二人との思い出の方が、よほど大切に思えるほどになっていた」
院は物憂げな表情で語り始める。
「乳母はとにかく私を甘やかしてくれた。命婦の方はいつも私の傍にいてあれこれと世話を焼いてくれた。なんでも命婦は子供を失ったばかりで、その想いをすべて私に傾けてくれたようだ。乳母は病気で若いうちに亡くなってしまったが、その時も命婦が私を慰め、支えてくれた」
院は私をねめつけるように視線を険しくした。
「だが、それはほんのひと時の事だった。新しく中宮になった方は、私を煙たがっていた。彼女は自らの手で、国母(帝の母)になる野望を抱いていた。後宮に上がった時から中宮の座を狙っていたが私の母にその座を奪われ、私と母を恨んでいたらしい。そんな中宮が私によい感情を持つ事は無かったが、それなら私を放っておいて欲しかった。しかし彼女は私を監視し、何をするにも口を出し、そして私を否定し続けた」
その辺の話は私も知っている。都でも噂になり、今では故郷の者でさえ知っているだろう。
「さらに中宮は私から命婦を奪った。彼女を自分付きの女房とし、東宮が生まれるとその世話を彼女にさせた。もし、彼女がもっと若ければどうにかして彼女を乳母にしようとした事だろう。中宮は命婦の夫にまで口を出し、彼女を無理やり自分に従わせたのだから」
母親を亡くし、乳母を亡くし、新たな母に疎まれる。子供の頃の院が世間の同情を買ったのは当然だろう。だが、実際には身近な母同然の人さえも奪われていた。院の受けた喪失感は想像以上に深いものだったに違いない。
「だが、私が奪われたのは命婦だけではない。私は自分が慕わしく思った相手は全て、あの母子に奪われ続けたのだ」
院の目が怪しく光る。それは遠い過去の怒りというより、今はっきりと感じている感情が表している表情にさえ思えた。