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藤の花の匂う頃  作者: 貫雪(つらゆき)
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落すべき命

「小雪!」


 正成の顔色が変わるのを見て、男が締め上げた手を緩める。小雪はむせかえり、苦しげに息をしていた。


「いくら大将の妻に近づくために利用した女とは言え長い仲。情をかわし続けた女であろう。目の前で殺されては気分が悪いのではないか? この女はお前に利用されたにもかかわらず冷たくあしらわれて絶望し、我々の元から逃げ出して山中で首をくくって死ぬのだ。お前のために自分の主人を裏切った程の女を、そんな目には会わせたくはないだろう? 大人しく我々の方についた方が利口だぞ」


 男は顔色すら変えることなく紐を手にしたまま小雪の背後でそう言った。正成は歯ぎしりをする。


「正成様。こんな戯言に耳を傾けてはいけません」


 小雪は枯れた声でそう言った。


「戯言ではないぞ。世が変われば院様に逆らい続けた大納言、中納言、大将も失脚する。大将はどこかの地方に流されるか、さもなくば世を捨てることになる。まだ若い妻を巻き込まないためにお前の妻にすればよいのだ。お前の長年の願いが叶うではないか」


「いいえ、戯言よ。そんな事をしたらお方様はご不幸になる。あなたの今の思いは本当の御愛情じゃない。手に入れられない方への未練と、殿への嫉妬があなたの心を蝕んでしまっているの。ご自分の恋情のために私に情けをかけたり、お方様の寝所に忍び込もうとなさったり。きっと、本当にお方様にお会いになったら、あなたはご自分を抑える事が出来なかったでしょう。幼い子が母を求めるように、お方様のお苦しみなど忘れてしまわれたに違いないわ。もしそうなっていたら私はお方様を傷つけ、あなたの人生を狂わせてしまっていたの。正成様、私は間違っていました。私、あなたを愛おしいと思っていたけど、それも本物じゃ無かった。あなたを慕う事よりあなたに溺れる事に酔っていただけなの。ここで私が命を落すのは、私自身の罪なのよ。あなたはこれ以上、罪を重ねないで」


 首を絞められたあとで苦しいはずの息を、懸命に抑えながら小雪は訴えて来る。ようやく目が覚めた正成に小雪の言葉は重かった。


「だめだ、私のためにお前を死なせるわけにはいかない」


 正成はそう言った。


「そうだろう。おとなしく我々の言う事を聞くんだ。お前はあの邸の内部も、御所の事も良く知っているからな。間違いなく院様のお役に立つはずだ」


 役人がそう言うと場の空気が緩んだ。その隙に正成は小雪の傍にいた男に突進した。男は転がるようにひっくりかえり、車は大きく揺れて傾いた。


 今度は小雪の身体を無理やり車から押し出してやる。自らも車から飛び降りると、


「逃げるぞ、小雪」


 そう言って小雪が立ちあがるのを助ける。身体を縄で縛られているので立ち上がりにくい。どうにか起き上がって走りだしたが、すぐに役人たちが追ってきた。


「いかん。このままでは追いつかれる。小雪、逃げのびてこの事を邸の者に伝えるんだ。役人以外の誰でもいいから」


 正成はそう言うと踵を返して役人たちの方へと向かって行く。


 そのまま役人の一人に体当たりすると、不意をつかれて体制を崩した男のアゴに、自分の頭で頭突きをくらわす。だが、その後ろからもう一人が太刀を抜いて構えていた。


「正成様!」


 小雪が悲鳴のように叫んだが、男は正成に刀を振り下ろした。正成も避けようとしたのだが、太刀の刃は正成の肩から腕に向かって斬りつけ、縄が切れるとともにおびただしい血が流れ出る。


 だが正成は深手を負いながらも相手の手元をたたきつけ、太刀を奪い取った。そのまま返す手で相手を斬りつける。男も胸元に傷を追い、脅えた目でその場から逃げだした。頭突きを受けた男も慌ててその後を追う。


 だが、男達が去ると正成は太刀を投げ出し、その場に倒れ伏してしまった。


「正成様、しっかり」


 小雪が正成の元に駆けつけるが、


「何をしている。早く邸に伝えるんだ。東宮様が危ない」


「でも、正成様。血が……」


「頼む。罪のために命を落すべきは私の方だ。私は自分の欲望のために信頼して下さった方々をことごとく裏切ってしまった。帝、大将様、初花の上……そしてお前もだ。せめて自分の誇りだけは守りたい。どうか東宮様の命だけは守ってやってくれ。早く、この事を知らせに行ってくれ」


「すぐ、知らせるわ。だから正成様、死なないで。必ずすぐに人を呼んで来るから」


 そう言うと、小雪は投げ捨てられた太刀の刃で自分の縄を斬ると、帯紐をとき正成の傷口に巻いて縛りつけた。


「決して死んではいけないわ。待っていてください」


 そう言って小雪が走りだすと、行く手に馬の集団が見える。一瞬、避けなければと思ったが、良く見るとそれは見知った邸の侍たちの面々だった。


 良かった! 今なら正成様を助けられるかもしれない。


 小雪は道の真ん中に飛び出し、両手を広げた。先頭にいた康行が慌てて馬を止める。


「どう、どうっ。何だ、道の真ん中に飛び出して危ないじゃないか。危うく馬に蹴り倒されるところだぞ。……おや、あんたは」


「お願い! 正成様を助けて下さい! 御命が危ないんです。そして東宮様も狙われているんです!」


 小雪は涙ながらに康行に懇願した。


「正成の命が危ない? どういう事だ」


 康行と数人の侍が馬から降りて聞くと、


「嵯峨野の院様の息のかかった役人から私を逃がそうとして、斬られてしまったんです。役人は逃げましたが正成様が深手を負ってしまって。とにかくこっちに来て下さい」


 小雪の指さす所に男が横たわっているのが見える。近づくと正成が息も荒く朦朧としていた。


「かなりの深手だ。だが、しっかりと止血はされている。今すぐ邸に運べば助かるかもしれない。俺が馬で運ぼう」


 侍の一人がそう言って正成を背負った。


「お願いです。私もどなたかの馬でお邸に運んでいただけませんか? 東宮様の身が危ないのです」


「東宮様が?」


「後宮の誰かに狙われています。でも、私やあなた方では御所に訴えてもきっと聞き入れてはもらえません。お邸にいらっしゃる更衣様からお伝えいただければ、きっと……」


 すると正成を背負った侍の隣にいる侍が馬を下りた。


「分かった。あんたは俺の馬に乗れ。康行、お前は急いで花房さんを助けに行くんだ。この二人を邸に届けたら俺達もそっちに向かうから」


「すまない。その二人を頼む」


 そう言うと二人の侍はそれぞれに瀕死の正成と小雪を載せて邸へと馬を走らせた。


「よし、俺達も急ぐぞ」


 康行も馬に乗ると、花房がいるはずの山寺へと急ぎ向かった。





 私はゆっくりと山道を登っていた。轍の跡を見逃さないようにと下ばかり向いて歩いていたので、目の前に山寺の山門に続く石段がある事に目前まで気がつかなかった。


 人の気配を感じたのでようやく顔を上げると、


「そなた、花房殿か?」


 と、若い僧に訊ねられた。信じられないと言った表情だ。


「ええ、こちらは嵯峨野の院がいらっしゃる山寺ですね? 院に御取次下さいます? 私花房が院にお話をしたくてまいりましたと」


 私は胸を張ってそう言った。






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